いま「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成18年5月後半の日々一献

★平成17酒造年度全国新酒鑑評会開催要領★18/5/31のお酒
 「本酒造年度生産清酒を全国的に調査研究することにより、製造技術と酒質の現状及び動向を明らかにし、もって清酒の品質及び酒造技術の向上に資するとともに、国民の清酒に対する認識を高めることを目的とします。」(以上引用)

 その目的の割にはちっともその成果が現れていないように思うのは庵主の誤解なのだろうか。
 全国的に調査研究するのが目的なら、どうして出品制にするのだろうか。それでは腕に自信がある蔵元だけが出品してくるから偏るのではないか。
 全国的に調査するというのなら偏らないように無作為抽出で提出させればいいのではないか。
 そうすれぱ、ほとんどの酒がわざわざ呑むまでもない酒だということがわかるはずである。現在の鑑評会に集まってくるようないいお酒はなかなか手にはいらない酒だということはすぐ分かるはずである。
 鑑評会に出てくるような酒は偏っている酒なのである。

 国民の清酒に対する認識はちっとも高まっていないのである。その認識はアル添酒を「本醸造」といってもだれもあやしまないほどなのだから造り手(国税庁)にとって都合のいい認識の次元にとどまっているとみていいだろう。
 呑み手が呑むことのできないお酒のコンクールなどは所詮せまい業界内だけのお祭りだということである。
 呑み手にとっては、いま目の前にある酒だけがお酒なのだから、せっかくのすぐれた技術があるというのならその御利益が呑み手にも分かるようにしてほしいものである。
 そして清酒に対する認識というのを高めさせてほしいものである。
 庵主の清酒に対する認識などは、「国のお金を使って鑑評会をやって、そこで自分たちだけがうまいお酒を呑んでいるのだからうらやましいな」と思うほどに極めて低いのである。



★現代日本酒(下)★18/5/24のお酒
 承前
 呑み手にとって戦後の日本酒のテーマは三増酒の呪縛からいかにして脱却するかということだった。
 戦中戦後の米不足を乗り切るために背に腹はかえられないという状況下で行なわれたアル添酒造りはさらに三増酒というよくいえば驚異的な酒造りに結実して、代用食にすぎない酒が、あたかもいっぱしの日本酒であるかのように世に憚かることなく跋扈していたというのがつい三十年まえぐらいまでの日本酒の実態だった。

 庵主が好きな陰謀史観的にいうならば、それはアメリカによる占領政策からの脱却である。すなわち独立の気概だったのである。日本人としての自尊心の回復だったのである。
 日本を米国の余剰農産物の廃棄場として位置付け、自国では家畜の餌でしかない劣悪な食糧を日本人に食わせて、食生活から人間性を養う精神性を取り除くことで日本人の劣化を図ろうとする目論見に対する断固拒否の明確な決意表明だったのである。
 劣等人種と思っている黄色人種が二度と白人のやることに対して歯向かってこないようにという深慮遠謀が日常の食い物の質を劣化させてひいてはその精神的独立心まで奪い取るということの目的である。
 そのような占領政策に対する反対の意思表示が「まずい酒は呑みたくない」というキャッチフレーズだったというわけである。「戦前のようなまともな日本酒を呑ませろ」という主張だった。
 それは人間としての真っ当な叫びだったのである。
 こんな酒でも造れば売れるのだからそれでいいのだと、米国の占領政策にしっぽをふっていた酒造業者は三増酒を良心の呵責もなく造りつづけていたというわけである。
 本当は純米酒を造る技術が途絶えていたために、まともな酒を造れといっても造れなかったということなのだが。
 日本人の物造りの中で今日でも唯一、昔の「メイド イン ジャパン」(安かろう、悪かろう)が残っているが日本酒の世界なのである。
 だから心ある日本人が、もっとうまい酒を呑ませろといい、真っ当な酒を造れというのは、日本人としての矜持をかけた発言だからいまやその発言は向かうところ敵なしの新撰組みたいなものなのである。
 というのは冗談で話をもとに戻すことにする。

 アル添の日本酒というのは所詮代用食である。米と米麹で醸したお酒が正統な日本酒である。日本酒のうまさというのは米の甘みのうまさなのである。麹の香りの甘さなのである。その本質から外れているものを紛い物という。それらをまた偽物というのは他の商品と同じである。偽物だから使えないということはないが、その精神性が低いから使っていること自体が恥ずかしくなるということなのである。
 日本酒の本来の味わいを求めるのではなく、手っとり早く酔っぱらえる綺麗なアルコールの方が自分の体調にはいいという人は焼酎なり日本酒にアルコールを混ぜた酒を呑めばいいのである。しかし、その手の酒は庵主の体にとってはうまい日本酒ではないということなのである。そういう酒は庵主が呑めるお酒とは別の範疇の酒だということである。
 そういう酒を日本酒と同列に並べるからうまいとかまずいとかということになってしまう。じつはまずいという言葉をその比較に使うのは間違っているのである。

 今回の酒税法の改正で三増酒が日本酒という縛りから解放されたことは慶賀にたえない。
 今回独立した酒を「モダン日本酒」と庵主は呼ぶのである。「第三の日本酒」などとは呼ばせないのである。
 「モダン日本酒」といっても「現代日本酒」といっても同じ意味じゃないかということになるが、今の時点ではそれは気にしていないということである。「モダン日本酒」というのはアルコールを楽しむお酒のことをいう。
 他のモダンと呼ばれる商品なりデザインなり建築物が見掛けはきれいだれど中身の薄っぺらさは昔の物造りの重厚さに比べると足元にもおよばないという意味でモダンなのである。モダンというのは軽薄短小という時代の要請に応えた嗜好なのである。

 戦後に生れた人は、すでにお酒は三増酒というのが当たり前という状態だったから、それが日本酒だと思っている世代である。初めて出会ったその味わいがその人にとっての日本酒の味なのである。だからその味が日本酒のうまさはそんなものだという基準になっているのである。
 日本酒のうまさは本当にその程度なのか。
 庵主が若いころに口にした日本酒はたいしてうまいとは思えないものだった。酒が呑めないのだからうまいもまずいもないのだが、お酒という言葉にはそれはきっとうまいものにちがいないという夢につつまれているのである。
 だから、そのころ庵主の回りにあった酒とは違うもっとうまいお酒があるのではないか。この程度の味が酒だと思わされているのは騙されているのではないか、と思っていたときに庵主は一冊の本に出会ったのである。

 今(昭和五十年代)の酒はアルコールで水増しした三増酒ばかりだから戦前の米だけで造っていた日本酒のうまさに比べると貧弱な味わいの酒に堕してしまっている。
 日本酒がまずくなったのは戦争のせいである。今や戦後は終わったのだから、日本酒は戦前の酒造りのように米と米麹だけで造る本来の日本酒に戻
らなくてはならない、と主張する啓蒙書を読んで庵主は日本酒を始めたから、三増酒はいつまでも悪役でなくてはならないのである。

 三増酒は悪役であるというのは冗談として、実際にいろいろなお酒を呑んでみると、やはりアルコールを入れすぎたお酒に日本酒のうまさを求めるのは無理があるということがわかる。
 それはお酒を楽しむというよりも、アルコールを楽しむための安い酒としてまともなお酒とは同列に論じないほうがいいということにやっと気づいたということである。
 庵主がいう現代日本酒とはアル添を前提にして造る酒造りではなくて、従来の米と米麹でうまさを醸しだしたお酒のことをいう。
 そして、その味わいは洗練されたものでなくてはならない。老ね香みたいなニオイがついている酒がうまいと感じるという感性は別室で楽しんでもらいたいのである。
 なお、庵主は量を呑まないので、多少高いお酒でもかまわないということが前提条件にあるということを書き添えておく。

 現代日本酒の意味は、うまさを追求した造りをしているお酒ということである。精米機の性能がよくなったことでもたらされたお酒だから現代酒なのである。
 そして、日本の水と米とで醸しだされたお酒だから日本酒なのである。すなわち風土に根ざした酒であるということである。
 そして造り手が日本人の繊細な物造りの感性に則って丁寧な仕事をしている酒のことである。
 呑んだときに日本人に生れてきたことの喜びを感じる日本人の体になじむお酒のことである。
 日本人の心と体によくしみこんでくるうまいお酒のことを現代日本酒という。

 だからしっかり味わいを楽しむことができるのである。ほんとうにうまいお酒は、その酒を呑んだ状況を抜きにして心にしみてくるものだということである。
 すなわち、一人でも呑めるお酒だということである。人を集めて呑むのが面倒くさい時にでもちょっとだけ幸せにひたれるお酒であるということである。
 まずい酒というのは、そうして造られたお酒なのにもかかわらずうまくなかったという失敗作を讃える言葉なのである。
 よくやった、でも今度はもっとうまいお酒を造ってね、という励ましの言葉なのである。だからあだやおろそかでは使えない言葉なのである。                         (了)



★現代日本酒(中)★18/5/17のお酒
 承前
 三増酒というお酒がある。酒税法上は2006年5月1日の新酒税法の施行までは日本酒(法律上は清酒)とされていたお酒である。
 現在はアルコールを添加した酒ということでリキュールに分類されているが、そういう酒も、そういう酒というのは、本質が異なる酒もということであるが、同じ日本酒とされていたのである。
 法文上は日本酒を清酒と呼んでいるのは、そういうお酒も酒税法上日本酒とするためである。それを日本酒というと詐欺表示になってしまうからである。
 最近のハイブリッドーカーは電池で走る。電動自転車も電池で走るから、電動自転車からも自動車並の税金を取ろうという目的で、法律上はそれを自動車という言葉でくくれないから、自動車という言葉の替わりに「電動車」などと呼ぶようなものである。
 対象の範囲を広げて税金を取りやすくするためである。

 酒税法の日本酒(清酒)の定義は、食い物としてのお酒の定義ではないということである。
 それなのに庵主は、お酒の定義は酒税法にあると長い間勘違いしていたのである。あれは酒税法であって、酒造法ではないということをである。
 もっといえば、食い物であるお酒がなぜ農水省とか厚労省の管轄でないのかという疑問を感じるだけの知性があるならば、お酒が大蔵省(現財務省)の食い物にされてるいるいうことが分かるはずである。お酒だから飲み物にされているというべきか。
 すなわち、お酒の呑み手が求めるものと大蔵省がお酒に求めるものとは目的が違うということである。
 呑み手はお酒にうまさを、一方大蔵省はそれに税金を求めているということである。
 だからうまいお酒は呑み手が決めなくてはならないということなのである。

 酔って、じゃない、よって庵主がそのうまいお酒を決めようじゃないかという一つの提案がこの「むの字屋」なのである。
 よくある反応は、庵主がまずい酒だというと、まずい酒というのはないという意見である。
 そういうご意見をお酒に対する愛情にあふれた考え方だと皮肉っていうのは庵主の性格の悪さによるが、本当はそれじゃ困るということなのである。
 それを、はいその通りですと同意してしまうと、庵主が呑みたいうまいお酒が少なくなる心配があるからである。
 いま世にあるお酒はそれを誰かがうまいと思っているお酒である。誰もが不味いと思って買わないお酒なら造っても売れないわけだからそんな酒を造る人がいないからである。ただし計画生産している国の酒は別にしてである。
 例えば、庵主は、三増酒(一部を除く)や、アルコールくさい普通酒や、昔からの古い味わいを引きずっている純米造りの酒や、精米歩合だけは規定通りだがちっとも中身がない大吟醸、などをはっきりまずいということにしている。
 いや、それは酒の肴にして呑むにはいいお酒なのである。けっして貶しているわけではない。ただそれだけを呑んだのではかえって酒量が増えるから庵主には手ごわい酒だということである。だって、ぜったい口直しにまともなお酒を呑みたくなるから。
 ただでも酒量が少ない庵主にとっては苦痛の種になってしまうからである。
 ね、いやなお酒でしょう。
 だから庵主はそういうお酒を敬遠しているのである。はっきりいって避けているのである。一言でいうと、呑めないからである。