いま「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成18年5月前半の日々一献


★現代日本酒(上)★18/5/10のお酒
 庵主は「現代日本酒」という考え方に行き着いた。
 現代日本酒とはなにか。
 それは真っ当(まっとう)なお酒ということである。
 
 真っ当とはなにか。
 人間の食い物としてのお酒であるということである。
 人間の食い物とはなにかというと、うまいものであるということである。中にはその栄養分が必要だということでたいしてうまくもないのに口にする食い物もあるが、しかし、食い物の基本はうまいものであるということである。
 口に入れた時に不味いものは一般的には有害であることが多い。腐ったものとか、毒が入っているものなどである。
 人間の食い物は餌ではないのだから、ただ栄養があればいいというものではなく、それはうまいものでなくてはならない。うまいということは精神的な満足感をもたらさせてくれるものであるということである。
 うまくない食い物は人間の食い物ではないということなのである。

 サプリメントを常用している人たちを庵主が馬鹿にしているのは、体の栄養を食い物で摂ることをしない精神的な未熟さを感じるからにほかならない。もっというと、そういう人間にはなりたくないという気持ちからである。
 そういう人間とは、その人の人格ではなく境遇のことである。一般的にサプリメントの愛好家には仕事が忙しすぎてまともに食事をしている時間がないという人が多い。ろくなものを食っていないから精神の満足感が得られないので薬に頼ることになるのである。依存するといったほうがいいか。それは栄養を補給するというよりも実際は心の渇きをいやすためなのである。
 サプリメントを口にしないとやっていられないほど忙しくて、その存在価値を120%発揮しながら活躍している状態を幸福と見るか、余裕のない人生に同情してそれを不幸と見るかは意見の分かれるところであるが、どちらかというとずぼらな方に属する庵主にはそういう運命には恵まれたくないという思いからそういう人間にはなりたくないということなのである。

 真っ当な食い物とは一言でいえばうまいもののことである。
 そして食い物は体にいいものでなくてはならない。
 滋養になるものであるということである。
 滋養には精神的な要素が小さくない。
 それは本物でなくてはならないということである。

 酒に本物と偽物があるのか。
 「越乃寒梅」の瓶に入れた偽越乃寒梅も中身の酒が毒でないのなら酒としては本物ではないか。ただ商標上は偽物だということにすぎない。
 呑めばちゃんと酔っぱらうことができるのである。それなのに、そういう偽酒が許せないというのは気持ちの問題なのである。
 そういうお酒を造るという精神がうまくないのである。酒がまずいのではなくてそんな酒を造るという料簡がうまくないのである。そしてそれを騙されて呑んでいるという気分がよろしくないのである。

 だから中身が偽物であると知らないで呑んでいるときには実に気持ちよく「越乃寒梅」のうまさにひたることができるのである。「越乃寒梅」の名声にひたることができるのである。
 酒は呑むときの気の持ちようでうまくもまずくもなるということである。きわめて精神的な要素が大きい食い物だということである。
 だからこそ、手抜きして造られたお酒はそれに気がついた時にはまずさが極まるのである。
 ということはそういうお酒は精神的によろしくないということである。
 そういう不誠実な造りをしたお酒を庵主が否定する理由である。
 庵主が「感じるところがあって今酒を断(た)っています」という時の感じるところとはそのことをいうのである。



★新しい清酒★18/5/3のお酒
 酒税法がこの(2006年)4月1日に改正されて、5月1日から施行されることになった。
 酒税法の清酒の定義も変わったのである。
 お酒の定義は法律ですいすいと簡単に変えることができるものなのである。
 つまり酒税法におけるお酒の定義はいいかげんなものだということである。
 その伝でいけば、庵主がお酒をうまい日本酒のことだと定義してもかまわないということである。まずい酒はお酒じゃないと主張しても問題ないのである。
 もっとも「むの字屋」はうまいお酒を愛でることを至福としている庵である。真っ当な日本酒を呑もうという主張である。それから外れるお酒には興味がないので酒税法がどう変わろうと関係ないのではあるが。
 ただ酒税法の定義がうまいお酒だと思っている人がいたらそれでは困るので、それは違うよということを書いているのである。

 こんどの清酒の定義はこう変わったと公告されている。
 清酒の定義の改正内容として、「アルコール分が22度以上のものを除外」、「米、米こうじ、水及び清酒かす以外の物品の重量の合計が、米(こうじ米を含みます。)の重量の100分の50を越えるものを除外」、「原料として使用できる物品から、『麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん又はこれらのこうじ』を除外」の3点が書かれている。

 アルコール分が22度をこえるような清酒があるのかと思うが、実はあるのである。しかし焼酎みたいなその手の日本酒などは造られる量は微々たるものでないといって等しいのだからそんな制限なんかなくてもよさそうなものだが、当局は清酒の正統性を主張したかったのか。
 そんなに度数を上げて、焼酎の縄張りを侵すんじゃないというわけである。
 酒の縄張りは俺が決めるという大親分の論理である。
 
 なにをいおうというのか理解できないのが「米、米こうじ、水及び清酒かす以外の物品の重量の合計が、米(こうじ米を含みます。)の重量の100分の50を越えるものを除外」ということであるが、これは要するにアルコールを大量に混ぜて造った三増酒や一部の普通酒は清酒としないことにしたということを「増量用醸造アルコール」という言葉を使わないで表現したものだろう。酒税法は酒造法ではないからこういう書き方になるということてある。
 それは造り手を規制するものであって、うまい酒を追求する法律ではないからである。
 それを呑み手が読んでも、庵主がそうであるように、条文の意味がわからないのである。

 ここで前回の光復節のたとえが出てくるのである。
 日韓併合時の朝鮮人は準日本人として日本人からは二級国民として扱われていたが終戦とともにその掣肘が外されたという事例に似ているということである。
 異なる性質のものを、見た目はなんとなく似ているから同じものと見做すということに無理があったのである。
 だから格上と思わされている者は格下だと思っている者をばかにするし、格下と見られた者はいわれのない劣等感やひがみをいだいてしまうということなのである。
 今回の措置でそういうお酒はやっと不当な扱いから解放されてその正当な名誉を回復したということである。

 「むの字屋」がやっていることは、きちんとその違いを見極めようということなのである。
 そして、庵主がうまいと思うお酒はやっぱり真っ当な造り方をしているお酒であるという経験談を述べているのである。
 いいたいことは、うまいお酒が呑みたいということなのである。

 またまた例え話になるが、昔はマーガリンは人造バターなどと呼ばれていた。それはバターの偽物だというわけである。だから人造バターを食べる人はバターが買えない貧乏人だとか、本物と偽物がわからない愚か者と見られていたものである。
 いまはマーガリンは、バターではなく、その個性が必要とされる一分野となって正々堂々と世渡りしている。
 マーガリンを代用バターだと決めつけていたことが間違っていたのである。
 同様に、大手酒造メーカーの自尊心を守ってやるために、三増酒やアルコールで増量した普通酒をこれまで日本酒と呼んでいたのは親切心が仇となっていたというわけである。

 その、日本酒に造ったときに加える副原料が、原料米の50%を越えたものは除外するというのことは、簡単にいえばその副原料というのは醸造アルコールのことである。水増ししたお酒、アルコールで増量したのだから酒精増ししたお酒といったほうがいいのかもしれないが、その手の酒はもう清酒とは呼ばせないという当局の断固として日本酒の純粋性を守るという強い意思表示なのである。かっこいいではないか。
 もっとも、アルコール業界の利益も守ってあげなければならない当局だけに、その辺は、すっきりと日本酒にアル添なんかするなと啖呵を切れない苦衷を感じるのである。

 世の中、これだけ人がいれば、お酒一つとってもいろいろな立場があり、いろいろな考え方があるということである。それだからこそ面白いのである。
 もし、世の中にうまいお酒しかなくなったとしたら、それこそつまらないことはない。それが、呑んでうまい酒であり、あきらかに品がいいお酒であり、ケチのつけようがないお酒であっても、人はすぐそれに飽きてしまうからである。
 女がみんな美人になったら見ているだけで疲れるのと同じである。人間にはメリハリがないと心が疲れるということなのである。
 だからまずい酒というのは、うまいお酒をいっそう引立てくれるという役目をになっているなくてはならない酒なのである。
 庵主はまずい酒を否定しているのでなく、うまいお酒を知るためにいいお酒との違いを指摘しているのである。まずい酒は、庵主は呑めないので、ただ敬遠しているだけなのである。
 
 お酒をめぐってはいろいろな立場があるが、その点、俺は呑み手だと居直っている庵主などは、うまい酒をもってこいといっていればいいのだらか呑気(のんき)なものなのである。
 でも、庵主はお酒の量が呑めないので、呑む時にはうまいお酒が呑みたいという気持ちだけはわかっていただけるとうれしいということなのである。
 そして、うまいお酒に出会った時にその喜びを書き残しているだけなのである。

 清酒という範疇(はんちゅう)から放り出された、副原料が米の重量の50%を越えるお酒はどこにいくのか。第三の日本酒として漂流するのかというとそうではない。日本酒風リキュールとして、安全、低廉、軽快、そして、きさくに飲める酒として「モダン日本酒」(仮称)としての地位を確保する方向に進むということである。
 それをお酒だというから、真っ当な日本酒と比較されて、不当に低い評価になってしまうのである。
 それが当世風のライトな味覚に合致した、いい醸造アルコールを使って造ったモダン日本酒なのだと説得してくれれば、これは新しい商品分野の誕生である。
 それを幸福節だといったのはそういう意味なのである。造り手の良心にとっても、呑み手が抱いている古い固定観念の打破になるという意味からも双方にとって幸福なことだからである。

 改正のポイントの第三は、これまでそういう清酒があったのかと愕然とする内容である。
 「麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ」と庵主には漢字が書けない原料が羅列されている。こんどからそういうもので造ったお酒は清酒とは呼ばないというわけだが、酒税法上の清酒の定義はかなりいかがわしいということなのである。
 そういうへんなお酒ではなく、「むの字屋」で真っ当なお酒を呑んでいただきたいというのが庵主の思いなのである。



★5月のお酒★18/5/1のお酒
 庵主の花粉症は5月の連休が明けるといつのまにか治ってしまうというのが例年の習いである。
 今年もまた同じような経過をたどることだろう。まもなく今年の花粉症が終わるということである。
 今年は杉花粉の飛散量が少ない年だということで、その予想どおりに症状が穏やかな花粉症だった。
 花粉症で鼻がつまると香りがゆっくり味わえなくなるからこの時期はお酒を呑んでも甲斐がない季節なのである。
 といっても、花見だなんだと呑むときはうまいお酒をちゃんと呑んでいるから、酒呑みになると年から年中お酒とは縁が切れないものらしい。

 5月1日から酒税の取り扱いが改正された。
 これまでの酒税法で指摘されていたのは、日本酒は醸造酒なのに、日本酒に醸造アルコールを混ぜたものをも日本酒と呼ぶのは「いかがなものか」というものである。
 一般的に、蒸留したアルコールを混ぜた酒は混成酒と呼んでいるからである。

 同じ醸造酒であるワインにも強化ワインといって蒸留酒であるブランデーなどを入れたものがあるからそれに準じてもいいのではないかといえないこともないが、日本酒の場合はそれとはちょっと事情が違っているということなのである。
 醸造アルコールを増量剤として使っているからである。
 普通酒とか三増酒などはリキュールといったほうが正しい酒なのである。三増酒は普通酒の一部であるが、その個性からするとどちらかといえば合成清酒に近い酒である。
 そういう酒(“そういう”といっても、貶しているのではなく、区別しているのです)と純米酒を同じ税率にするのはおかしいというというものである。
 それで困ってしまうのが本醸造酒という範疇のお酒である。それは純米酒ではないのに、準純米酒みたいな顔をして売られているお酒である。
 酒の区分でいえば、本醸造酒はリキュールということになる。
 しかし、味わいからいうと、あきらかにアルコールくさい普通酒や三増酒と違って下手な純米酒よりずっとうまい本醸造酒があるから無下にできないということなのである。庵主は造りよりも味がうまい酒を好むから純米酒志向でありながらアル添酒もうまければ全然平気なのである。うまいお酒の本質についてはすでに別のところで書いたとおりである。それがわかるとまずい酒がわかるということである。

 酒税法では日本酒といわず清酒と称しているのは、そういう事情があるから、本来醸造酒であるはずの日本酒にアル添酒まで含めてしまっているためにそれを日本酒と読んだのでは良心がとがめるためだろうと庵主は邪推している。
 清酒と呼んでおけば、外国産の米から造っても、アルコールをどんと混ぜようがとりあえず一つの範囲に収まるからである。
 大蔵省(現財務省)は酒税が取れればいいのだから、うまいお酒を造ることよりも確実に酒税が取れるお酒の方が都合がいいというわけである。
 うまくはないが、そこそこに呑めて、長く放っておいても劣化が少ないお酒でいいのである。そのかわりそういうお酒は残念ながらうまくないのである。

 それをうまいと思って呑む人は少なくないのだからそういうお酒をまずい酒だというのは間違っているという人もいるが、しかし、庵主はすなおにそういうお酒をまずい酒だと呼んでいる。
 なぜかというと、庵主にはその手は酒は呑めないからである。というより呑んでもおもしろくない酒だからである。
 もちろん、それは呑んで呑めないお酒ではないが、酒が呑めない庵主にとっては一口呑んだら次が呑みたいと気が起こらない酒だからである。

 うまいお酒というのは、一杯呑めば十分だと思って呑んでも、もう一杯呑みたくなるお酒である。
 庵主は呑み手だから、造り手仲間や造り手に足を向けて眠れない呑ませ手と違ってまずい酒に義理立てする理由がないので、まずい酒を平気でまずいということができるのである。

 まずい酒を駄目な酒ととってもらっては困る。庵主はまた下手物も大好きだからである。合成清酒なんていう表示を見ると、その造り手はどんなセンスで偽日本酒を造っているのだろうかという好奇心が湧いてくるのである。
 だいたいそういう酒は予想通りまずいから、我慢という文字と忍耐という文字を心に浮かべながら呑むことになるのだが。
 まずい酒とは、少なくとも一人の酒呑み(すなわち庵主のこと)はそれを嫌う酒だということなのである。そんな酒ばかりになったら庵主は困るという意思表示なのである。
 それは呑み手の感想なのである。偽りのない実感なのである。それはまたうまいお酒を造ってくれという庵主の心の叫びなのである。

 今回の改正で三増酒(アルコールの添加量が新酒税法の清酒の規定量を越えている酒。いうなれば、日本酒にアルコールを混ぜた酒ではなく、アルコールに少量の日本酒を混ぜて造った酒)は清酒から独立してリキュールの仲間に移された。晴れてリキュールとなったのである。
 日韓併合で準日本人扱いだった朝鮮人がこれで晴れて一人前の朝鮮人として認められたようなものである。光復節である。お酒だから口腹節か。いや喜ばしいことなので幸福節と書くのがいいか。
 これまでアル添で増量した「日本酒」を醸造酒のなかに取り込んでいたのが擬制だったのである。

 三増酒はこれで明確に日本酒風アルコール飲料となったのである。ビール風アルコール飲料を「第三のビール」と通称するビールの伝でいえば、「第二の日本酒」である。いや、その上に本醸造酒があるから、「第三の日本酒」か。
 戦後、光復節を迎えた一部の朝鮮人の振る舞いを第三国人と呼んでいたことがあるが、なんとなく先の歴史に似ているので、このたとえはあまりにもわかりやすくてヤバいかなと今感じていることである。

 「第三のビール」には「ビール風味飲料」という呼び方もあるから日本酒のそれは「日本酒風味飲料」と括るのが正しい酒税用語なのではないだろうか。
 法律用語というのは馬券を勝馬投票券と呼ぶように正確でかつ格調が高いものでなくてはならないからである。それを「第三の日本酒」などと呼んだのでは、なにかそこにはっきりいうのは憚られるものがあるのではないかと邪推されかねないからである。三という数字には三流劇画とか三流大学とか古くは「ロボット三等兵」などのようにいかがわしいという意味があるからである。

 「第三の日本酒」を庵主はためらわず下手物というのは、「第三のビール」と同じ理由による。
 それはうまい酒を味わってもらおうという気持ちがさらさらない酒だからである。売れるのだからそれでいいと割り切った考え方にたって造られた実用的な酒だからである。
 庵主の興味の範囲からはみ出ている酒だからである。そういう酒もうまければ全然問題ないのだが、残念なことにやっぱりそれらはうまくないのである。それはそうである。軽自動車に普通車の格を求めるようなものだから無理があるというものである。

 酒税法が変わっても、日本酒は変わらないということである。
 お酒を造るのは酒税法ではなくて、造り手の姿勢だからである。杜氏の意地であり、蔵元の見識だからである。うまいお酒は造り手の矜持が造るのである。