むの字屋で今夜も美酒を一献


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★今年上半期に呑んだお酒でうまかったもの2本★20/7/2のお酒
 「むの字屋」は毎週水曜日が定期更新日になっている。
 しかし、1月17日以来ずっと更新が滞っていたのは、その間、原稿を書いている時間の余裕がなかったためである。
 ただし、母屋の「むの字屋」から訪問できるブログの方は、ほぼ毎日更新しているから、庵主が生きていることはそこで確認できるのである。
 今日、久しぶりに更新するのは、今年もちょうど半分を過ぎて、この半年間に呑んだうまいお酒に感謝の気持ちを述べるためである。

 「むの字屋」では、まっとうなお酒はうまいとは書いているが、しかし、まっとうなお酒ならどれもが一様にうまいのかというとそういうわけではない。
 というのは、まっとうなお酒がうまいのではなくて、実はその関係は逆で、うまいと感じたお酒のラベルを見たらまっとうなお酒だったということ多いというのが本当のところだからである。
 まっとうなお酒でもいまいち味が乗らずに、うまいというには今一歩距離が足りないというお酒も少なくない。
 庵主がいうお酒のうまさとは甘さである。
 甘いといっても、砂糖や人工甘味料の甘さのような直接的な甘さではなく、口にふくんだときにほのかに感じられる繊細な甘さのことである。舌で感じる甘さというよりも、心で感じる甘さのことである。
 その甘さの度が過ぎることをエグイという。
 過ぎたるは猶及ばざるがごとし、である。
 べた甘(あま)が好きならばアイスクリームでもなめていればいいのである。それはうまさもまずさも全てを覆い尽くしてしまう甘さである。
 うまいお酒の甘さというのは呑み手の心をくすぐる甘さなのである。
 砂糖の甘さはドンと体を突いてくる甘さだから子供でもわかる甘さである。
 砂糖の甘さは体で味わう甘さであり、一方、お酒の甘さは心にしみいる微妙な甘さである。
 微妙だから、丁寧に造ったお酒であっても、うまいと感じる一線を微妙に超えていない場合があって、心置きなくうまいと納得しながら口に運べるお酒はそう多くはないのである。
 うまいとか、まずいとか、味をたしかめながら呑まなければならないお酒は未熟な酒なのである。
 本当にうまいお酒というのは、うまいのは当たり前だから、うまいとかまずいとかといったお酒の入口で感じ入るものではなく、もっと奥の間でしみじみとその味わいにひたることができるお酒である。心をかわせるお酒である。
 口先で味わって終わるお酒ではなく、そこからいろいろな思いが広がるお酒がうまいのである。うまい、という言葉が味覚の表現を超えて、心の悦楽を表す次元に踏み込んでいるお酒が、本当にうまいお酒なのである。
 そういうお酒がちゃんとあるのである、今の日本酒には。だから凄いのである。
 人馬一体という言葉があるが、そういううまいお酒を味わっているときは人酒一体という境地を楽しめるのである。そのお酒と出会えた幸福感につつまれるのである。
 ちょうど似合いの男と女が出会ったときと同じ幸福感が味わえるのである。
 
 「僕が君とはじめて出会ったころは、君はたべてしまいたいほど可愛かった。今思えば、そのとき食べてしまっておけばよかった」という笑い話があるが、幸福な巡り合わせも時とともに後悔に転化するのが人の常らしい。
 しかしである、お酒に関しては、出会ったときに呑んでしまうのだから後悔の種にはならないのである。かえって、甘美な記憶だけが長く心に残るのである。
 競馬で大穴を当てた幸福は、そのお金を使い切ってしまえば、過去の栄光である。今はなくなってしまった財産である。しかし、過去に味わったお酒のうまさは、すなわちその幸福感は今に残る財産である。心に残る財産だからこれは至宝である。
 しかも博打の大穴はほとんど再現不可能だが、お酒のうまさは再現可能なのだから、いやさらにうまいお酒が待っているのだから、その幸せは永遠なのである。これからもなくならない宝物なのである。
 
 宝物というと金銀珊瑚というのが、庵主が子供のころの宝物のイメージだった。
 いまでは、そんなものを見てもまばゆさを感じることはない。色の綺麗な石ころ以上のときめきはない。
 庵主の中においては宝物の意味が変わってしまったからである。
 戦後からここに至るまでの日本人の幸せは持ち物が増えることだった。
 家庭に、テレビが来て、洗濯機が入り、お金持ちは自動車が自分のものになった。電気掃除機が、電気冷蔵庫が、電子レンジが手に入ることが幸せだったのである。
 しかし、持ち物は増えてもある時点からそれが幸せ感と比例しなくなったのである。
 身の回りに物はあふれているのに、ちっとも幸せに感じないということである。
 財産というのは、土地・家屋・家財道具・預貯金・有価証券をいうのだが、それらはあるにこしたことはないが、あるからといって必ずしも幸せだというものではないということを、物を持ってみて初めて実感したのである。

 本当の財産というのは自分の心の中に持っているものだということに気付いたのである。
 お金はいくらため込んでもあの世にまでは持っていけない、というのは、金持ちに対するやっかみだと庵主は思っていたが、先達の透徹した人間観だったのである。諦念といったほうがいいか。
 物では人間は幸せになれないということである。
 共産主義の主張は唯物論だという。立脚点が異常(チンケ)だから、若い人たちの気を引くのだろう。わかりやすいからである。
 庵主が協賛主義に、おっと共産主義に違和感を感じる理由はそこにあるのだと今気付いたところである。
 うまいお酒は庵主のそういう気持ちにかなう宝物なのである。財産なのである。なんといっても、呑んでしまえばあとにはなにも形が残らないというところが潔い財産である。

 この上半期にもまた2本の財産を増やしたのである。
 こんなに幸せでいいのだろうか、とかえって不安になるほどである。
 もっとも、人間の幸せの総量はだれもが同じで、庵主の場合は他の不幸な部分をお酒のうまさが補って余りあるからそう感じるのかもしれないが、人間、一つでも幸せと感じるものがあれば、その勢いでけっこう生き続けることができるのである。
 絶望というのは、その幸せ感の欠乏をいうのだろう。
 というのは、絶望しても、しなくても、人間はいずれ死ぬことはたしかなのだから、遠い将来においては、だれもが望みはないのである。
 なにも今すぐ望みを断たなくても、そのうち必ず望みは断たれるのだから、急ぐことはなさそうなものだが、運の悪い人はせっかちな絶望感に襲われるのだろう。いや、これも逆か。そういう絶望感から逃れない人のことを運が悪い人というのだろう。
 
 庵主の場合は、なぜか、さいわいにも、お酒との縁があって、しかもうまいお酒との出会いに恵まれていて、幸せ感には不自由をしていないので、こうして呑気にお酒の話を書き続けているのである。
 呑気の呑と呑ん兵衛の呑が同じ文字だというのもなにやらうまくできていて、漢字の諧謔をそこに見る思いがする。
 もし、今これを読んでいておもしろいと感じている人がいるとしたら、庵主と同じ幸せ感を一(いつ)にしている幸せ者だということである。ご同慶の至りである。
 不幸な人は、他人の幸せを聞くと嫉妬して反感を抱(いだ)くものだからである。
 身に賜(たまわ)った幸せはありがたく甘受させてもらうことにしよう。

 甘受の1本目は、「相模灘」の本醸造である。美山錦だと思う。
 そのお酒が、庵主がこの半年間に呑んだお酒の白眉である。
 その美しさに、美女に溺れるという言葉になぞらえれば、庵主はそのお酒にすっかり溺れてしまったのである。
 ああ、女に溺れるという心境はこれにちがいないという、ちょっと悦楽をおぼえる経験だったのである。そのうまさに心を奪われてしまったからである。庵主の心にかなうお酒だった。

 普通の本醸造酒は、最初の一口がうまいと感じても、杯を重ねるとアルコールのニオイが感じられるようになって、それから先は庵主は呑めなくなってしまう。
 もっとも、庵主は量が呑めないので、最初の一杯がうまければそれで十分なのだが、この本醸造酒は本当にうまいのかと思ってついもう一度呑んでみると、多くの本醸造酒は正体がばれてしまうのである。
 お酒をアルコールで薄めるという酒造りは、造りの軽便化が目的なのだろうが、けっして自慢できる造りなのではないのではないか、と庵主は思っている。
 アルコールなんか混ぜてお酒を造って楽しいのだろうかという疑問が拭えないのである。それでは何でも香料を加えて味の不足を補ってしまう心の栄養とはならない加工食品と変わらないではないか。
 それでいいのなら、庵主は飲用アルコールに日本酒香料を混ぜてそれらしいものを造る方を選ぶ。その方がニセモノを造る楽しみが大きいからである。

 日本銀行券(紙幣)とソックリな印刷物が自分で造れるとしたら、その結果はしょせんニセモノなのでやっていることは馬鹿馬鹿しいが、それを造るまでの間はけっこう楽しめるのと同じである。究極の物真似はけっこう優越感をくすぐってくれるからである。学ぶというのは真似ることだともいうから、学ぶことは楽しいのである。
 人間型のロボットを造るのが科学者の夢だという話があるが、よく考えてみたら、その結果はかりにそれが造れたとしてもばかばかしいと庵主は思ってしまう。造る過程は面白いのだろうが、その結果はしょせんイミテーションであって虚しさを拡大するだけだからである。
 そんなロボットを作るより、一人の人間をまっとうな人間を育てることの方がずっと面白いのではないか。

 庵主はアルコールを混ぜて造る日本酒を否定するものではないが、しかし、まっとうに造られた純米酒のうまさを味わったときには、アル添酒なんかどうでもよくなるのである。
 よしあしというより、その味わいの深さというか、満足感というか、体が納得してしまううまさに感心してしまうのである。
 純米酒を本物、アル添酒をマガイモノというのもなんだが、できのいい純米酒はうまいとかまずいとかいう次元を超越していて、そんなことを気にすることなく気持ちよく呑めるのである。
 呑めるというよりは、体が喜んで吸い込んでしまうのである。
 庵主は酒が呑めないのに、そういうお酒は喉につかえることなくすっと体の中に入ってしまうのである。
 呑む酒ではなく、体がなじんでしまうお酒である。

 だからといって、純米酒がどれもそのような酒かというとそうはいかない。 
 逆に本醸造酒(アルコール添加酒の美名)がニセモノでだめかというと、そうもいえないのである。
 下手な純米酒よりうまい本醸造酒はいくらでもある。
 そのひとつが今年出会った「相模灘」の本醸造酒だった。

 最初に出会ったときに予想以上のうまさにすっかり心を奪われてしまった。
 これは呑める。しかし、本醸造酒の経験則で、2杯目にはアルコールが鼻につくというのがあるから、日を変えて2杯目を注文したのである。
 2度目も最初に感じたうまさとたがわぬ味だった。
 アルコールが実にきれいにお酒に馴染んでいるのである。
 庵主は自慢ではないが、アル添酒と純米酒の違いがわからない。
 ならばなぜ本醸造酒の2杯目はアルコールくさいと言えるのか。
 アルコール臭いから本醸造だと断じたわけではないのである。
 逆で、これは最初のうまさが感じられないというお酒のラベルを見たらアル添酒だったということなのである。そういうお酒はうまいという印象よりもアルコールの印象の方がより強く残るということである。

 「相模灘」の本醸造はそのアルコール感がない文句なしにきれいなお酒である。
 庵主がいううまさをしっかり湛えているお酒である。
 3度そのお店を訪ねて、三たびそれを所望したが、その味わいの印象は少しも変わることなくただただうまさの中に身を沈めていくようなここちよい気持ちで呑んでいたものである。そのうまさを楽しむというよりこういう庵主の好みにぴったり合っているお酒が呑めることの幸せにひたっていたのである。
 普段はお酒を買うことがないのだが、このお酒が欲しくなってしまったほどである。

 上半期に、そのうまさを堪能したもう1本は、実は大手蔵元のお酒である。
 秋田の「太平山」のお酒だから、大手といってもかまわないだろう。
 庵主の場合、その酒銘を見ただけで呑むのは後回しにする蔵であるが、その「津月」(つづき)はうまかった。
 いや、うまいを超えている。庵主の体がすっかりそのお酒に馴染んでしまったのである。すり寄ってしまった、と言った方がいいかもしれない。
 いくらでも呑めるお酒なのである。庵主の体がもういいと言わないから困ってしまう。「太平山」を呑んだというよりも猿田修杜氏のお酒に出会えた僥倖(ぎょうこう)に感謝したくなるお酒だった。
 日本酒には底知れないうまさがあるということである。