むの字屋で今夜も美酒を一献


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★カベルネ・ソーヴィニヨン対シラーズ★21/1/21のお酒
 赤ワインに出会う。
 庵主が初めてうまいと感じた赤ワインということである。

 白ワインは、リースリングでそれに出会ったのである。
 以来、リースリングと聞くとそれを飲んだときの記憶が甘美な思い出となって浮かんでくるようになった。
 そうか、うまいお酒は恋に似ているのか。
 庵主はお酒が好きなのではなく、うまいお酒に恋をしているのである。甘美な記憶に遊ぶのが好きだということなのである。だから、お酒に関しては饒舌(じょうぜつ)なのである。

 庵主の好みは甘い酒である(それが好みの女性のタイプだというわけである)。
 そして、酒のうまさはその酸味にあると思っている。
 酒の甘さは、酸味が引き立てるのである。
 酸味にうまさが感じられない酒は飲んでいても、なにか物足りないのである。酒のうまさを味わっているという贅沢感に欠けるのである。酒を飲んでいるという満足感が残らないのである。アルコールを飲んで酔っぱらっているだけで、酔いがさめたら虚しいのである。せっかくの酒が甘美な記憶として心に残らないからである。
 酸味に心ひかれるうまさがない酒は化粧をしていない女といった風である。
 アルコール自体はうまいものではないから、それを飾る酸味がないと酒に色気がないということである。
 
 うまいお酒というのは綺麗なお酒なのである。
 美といえば、目に見えるものをいうが、舌に感じる美もある。お酒である。世の美術品は、目を通して心に感じる快感をいうが、お酒は舌を通じて直接心に感じる快感なのである。
 絵のよしあしはどこで判断するか。
 本物の絵には見る人の心を動かす力があるということである。
 心にしみてくる気合がこもっているということである。
 だから、心が疲れているときに絵を見たら、どうでもいい絵はさあっと流れていくのに、本物の絵を見るとそこに釘付けになるのである。
 あきらかに、絵に力があることがわかる。
 元気なときにはきれいに見えた絵でも、力がない見掛けだけの絵は、心が弱っているときにはただの絵の具にしかみえないのである。
 しかし、本物の絵は見る人の心をとらえるのである。
 そして、心がいやされるのである。

 本当にいい絵というのは見飽きない絵だという説もある。
 たしかに、ホテルなどに宿を取ったときに、その部屋の壁に見ただけでもガックリくるような絵が掛かっていると、安らぎの空間が一気に色あせて見えることがある。
 絵が目障りなのである。
 絵があることによってかえって落ち着かないのである。

 お酒もそうである。
 最初からうまいと感じるお酒は案外つづけて呑めないことがある。
 一杯目はうまいのである。しかし、それをもう一杯呑めといわれたらそれには及ばないというお酒である。
 庵主の場合は、お酒の量を呑まないので、最初の一杯からインパクト(強烈な印象。あえて訳せば煽情的)があるお酒を好むから、そういうお酒でもいいのだが、たくさんお酒を呑みたいという呑み手にはそういうお酒はうるさいお酒であるはずだ。
 そして、そういう人が呑みつづけるお酒というのは、うまい酒というよりも飽きない酒なのである。長く親しめるのは、ハッと息を呑むような美人ではなく、きさくな女の子だということである。疲れる酒でなくて、だんだん味が出てくる酒だということである。 
 日常呑むお酒はそういうお酒で、ブルーライン(満足線)を越えているお酒で、しかも値段が安いお酒である。
 ブルーラインという基準がないと、アルコールが入っている安い酒を造ればいいのだろうということで、とんでもないお酒が造られることになる。
 お酒以前の、米を原料の一部にしたアルコール飲料と呼んだほうがいい酒である。
 そういう酒は、味わって呑むまでもない、簡便なお酒なのだということにしておこう。

 ワインの呑みやすさは、日本酒と違って、明確なその酸味にあると庵主は思っている。
 酸味はアルコールを呑みやすくするオブラートなのである。だからワインはすいすい飲めてしまうから飲みすぎてしまうのである。
 度数は日本酒に近いものがあるから、翌日残るということになる。
 どんな酒も呑みすぎれば体にはきつい。
 ワインを飲むと翌日体がだるいという人は飲み過ぎなのではないかと庵主は思っている。日本酒でも気のせいによるものなのか、純米酒を呑んだらそんなことはないのに、アル添酒を呑んだら翌日残ったという人が多いから、必ずしも呑み過ぎによるものではないのかもしれないが、しかし、アル添酒は純米酒に比べて安いということから懐の安心感から呑み過ぎたせいなのではないかという疑念もぬぐえないのである。
 
 なにげなく呑んだら、純米酒もアル添酒もさほどその違いが分からないものである。
 庵主は自信を持って言える。
 庵主には、純米酒とアル添酒の区別はつきません、と。
 庵主が能書きを垂れるときは、事前にそのお酒のラベルを見ておいて、さすがに純米酒は味がしっかりしていますねとか、アル添は味が軽快に仕上がるんですよねとか言っているだけなのである。
 他人の言葉を信じる方がおかしいのである。
 お酒の味などは、まずは自分の舌で判断すればいいのだから。
 そのお酒が自分にとってうまいと思えればそれがうまいお酒なのである。
 そのうまいお酒を自分の言葉で語ればいいのである。
 その味の支持者が増えればそういうお酒が多く造られるようになるからである。
 そうなれば、どこでも自分がうまいと思うお酒が呑めるようになるというわけである。だから、自分にとってうまいと感じるお酒に出会ったら大いに吹聴したほうがいいのである。  
  庵主はそういう言葉に耳を欹(そばだ)てていて早速それを呑みにいくのである。
 その言葉は有用である。それがまた庵主の好みにあったら、庵主の世界が広がるからありがたい。
 お酒を語るということは、呑み手を幸せにするということなのである。
 
 イエローテイルの「カベルネ・ソーヴィニヨン」である。
 これがうまい。庵主がそれを飲んで一目惚れした赤ワインである。カベルネ・ソーヴィニヨンだから赤に決まっているか。
 まさに出会いは一目惚れだったのである。
 それが後日、近所のコンビニスストアのam/pmに並んでいたのですぐ買い求めた。750MLで980円という適価である。
 それとPomme Rouge(庵がある曙橋にあるパン屋の名前)の食パンとの組み合わせが最高なのである。
 質素の極みであるが、簡素の妙である。究極の美といってもいい悦楽なのである。
 要するにその組み合わせだけでうまいのである。

 イエローテイルには「カベルネ・ソーヴィニヨン」と似たような「シラーズ」という赤ワインがある。
 その違いは、というと庵主にはわからないのである。
 呑み比べると微妙に「カベルネ・ソーヴィニヨン」の方が「シラーズ」より軽いような気がする。「カベルネ・ソーヴィニヨン」の方がちょっと華やかな気がするのだが、瓶の中身を入れ替えたとき同じように感じるかどうかはわからないほどの違いである。
 で、どっちがいいかというと、「カベルネ・ソーヴィニヨン」の方がいいのである。なんといっても、それは近くのコンビニで売っていて980円、「シラーズ」はちょっと遠いところにあるスーバーで988円だからである。



★人はバンのみに生きるに非ず★21/1/14のお酒
 庵主(あんしゅ)の庵(いおり)がある曙橋には過ぎたるものが二つある。
 うまい生ビールが飲めるお店である。
 なぜか、そのお店の生ビールは明かにうまいのである。
 また飲みたいという誘惑にかられる味なのである。
 蔵付き酵母というのがあるが、案外、それに似たそのお店だけの固有のうまさの秘密があるのかもしれない。

 曙橋には、うまいラーメン屋とそば屋がある。
 曙橋には、銘菓の和菓子屋とチョコレートで名を馳せる洋菓子屋がある。
 そして、うまいパンを焼くパン屋がある。
 そのパン屋がPomme Rougeである。

 この店名が庵主には読めないのである、かつ意味が分からない。
 ポーム・ルージュと読むのか、ポメ・ルージュなのか。
 いずれにしても、ここでは一軒だけのパン屋だから、とりあえず、庵主は宮崎駿の映画になぞらえてポニョパン屋と読んでいる。得体の知れないという意味である。

 もっと分かりやすい店名を付けろと言いたいところだが、その食パンが異常にうまいので、そのうまさの前には文句をいうことも忘れてしまうほどである。
 香りが豊か、味がゆたかな食パンである。
 大手のパン会社が作る食パンが、大手酒造会社の造る酒だとすれば、ポニョパン屋の食パンはうまいという味わいにひたることができる中小蔵元が醸すお酒である。
 二つは世界が違うとしかいいようがない。
 酒を呑むというより、そのうまさを味わうという喜びが本物のお酒のうまさである。食パンを食うというみじめさよりも、そのうまさが味わえる幸せを感じるのがポニョパン屋の食パンである。
 パンだけを食べてもうまいのである。
 そこに仏蘭西はマイユ社製のディジョネーズ(マヨネーズに酸味と辛味を加えた塗り物。これがいける)を付けて食べるとめちゃくちゃうまいのである。小岩井の塗るチーズを塗って食べてもうまいかもしれない。

 しかし、それだけではちょっと寂しいというときに、庵主は赤ワインと出会ったのである。
 豪州はイエローテイルの「カベルネ・ソーヴィニヨン」である。
 人はパンのみに生きるに非ずである。うまい赤ワインがあるとパンがいっそうおいしくなるということである。世界が広がるということである。
 いや、ワインなしにパンを食ってもつまらないということである。
 食事は偏ってはいけないと、その言葉を受け取ってしまうから庵主は宗教とそりが合わないのである。

 ものみの塔の宣伝雑誌を長年ただで頂戴しているが、それを読む度に、来る、来ると言いながらもいつまでたってもやって来ない終末論だけで、よくあきることなく商売を続けていられるものだと感心し、この雑誌を作る費用は信仰の篤いかつ貧乏な信者からから巻き上げた金なのかと思うと心中に忸怩だる思いを抱(いだ)きながら読んでいるものだから、ありがたいその内容が身につかないのである。
 あるいは、女には縁がない庵主に、創価学会の美人信者達(複数ですよ)から、タダでその名誉会長の麗しさを讃える「聖教新聞」を読ませてもらえるという光栄に浴するも地球にやさしくを真に受ける庵主には新聞に使う紙が勿体ないという思いが先に立つものだからその活字が頭にはいってこないのである。
 
 その点、うまいお酒は理屈ではないから、すっと庵主の心をとらえるのである。
 まっとうというのはこれをいうのかと納得するのである。
 その感覚があるものだから、商売宗教に至福を感じることがないので、それらの勧誘にもかからわず、心が動かないということなのである。
 もっとうまい世界を知っているよという思いからである。

 そういう人達に庵主が掛けられる言葉はこうである。
 もっとうまいお酒を呑んだほうがいいんじゃない。

 しかし、そのうまいお酒がどこにあるか、多くの人には教えてくれる人がいないということである。

 宗教は人の欠点をなじることで人を不安に陥れこれを信じれば救われるという論法である。自虐思想なのである。折角授かった命を粗末に扱う考え方である。
 一方うまいお酒を呑むということは、世の中にはこういううまいものがあるのだから、いまより高い次元を、もっと美しいものを目指そうよという上昇志向なのである。自分の命を磨く考え方なのである。方向が逆なのである。

 宗教とお酒の共通点は、いずれもその本質は毒だということであるが、お酒を愛でる人は、また宗教に額ずく人は、それを口にすることはないということである。
 庵主はハッキリ言うのである、お酒は毒ですよ、と。