「むの字屋」で軽く一杯


★徳俵一枚のうまさ★15/12/5のお酒
 燗酒である。
 古い映画を見た後に、映画の余韻を楽しむために近くの居酒屋に入った。
 職人技といっていい丁寧につくられたプログラムピクチァー(週替わり映画)の手抜きのない緻密な味わいにうっとりさせられて、その気分をあたためるのはいい酒しかないと思ったのである。
 出てきたのは山形の「東の麓」(あずまのふもと)である。特別純米酒(山田錦50%磨き)の三年熟成酒だった。
 3年ものだから、かすかにひね香を感じるものの、いやこの場合は同じ香りでも熟成香といったほうがいいのか、その熟成香が、庵主がまずいと感じる一歩手前のところでとどまっているという微妙な味わいなのである。それがまた甘さを感じさせるというのがおもしろい。
 燗をつけると、その熟成香がいい趣(おもむき)なのである。一歩間違うとまずいと感じるその手前で絶妙な味わいを体験させてくれるお酒である。
 相撲でいう、徳俵一枚でかろうじてうまさをたもっている酒なのである。
 燗で酒を呑むたのしさにひたったのである。
 味わい深い映画と味わえるお酒とで、その夜はいつになくいい気分になれたのである。


★お正月号★15/12/7のお酒
 書店に気の早い正月号が並ぶ時分になった。たしか、1月号の表示ができるのは業界のしきたりで前々月の25日以降の発売の雑誌についてだと思った。だからその気になれば11月25日に発売される号を1月号と称することができる。
 12月に発売された商品が1月号だというのだから、食品なら不正表示だろう。実際の製造年月日が、表示されているものより古いのだから。古いものを新しいもののように錯覚させようという姑息な小業(こわざ)である。定期刊行物なのだから、今日の新聞に明日の日付や明後日の日付がついていたとしたらなにかと不便であるし、まぎらわしいことこの上ないだろう。
 そういう表示が業界の慣行であるとすることは、アル添酒なのにあたかも純米酒であるかのような印象を与える「本醸造」という表示を当たり前のことだとしている日本酒業界と同じで体質である。業界のしきたりなど知るよしもない一般の人が勘違いするような表示は不正表示といっていいだろう。その精神がいかがわしいのである。
 さて、花のお正月号には日本酒の特集記事がつきものである。いま庵主の手元にあるのは「男の隠れ家」の2004年正月号である。あります、あります、日本酒の記事が。「隠れ家個室で銘酒に酔う」である。これで来年もまたうまいお酒が呑めそうである。


★大吟醸風呂★15/12/8のお酒
  庵主の暮れのお酒は、今年は13日の土曜日が呑み納めである。
 毎年、「初亀」を呑んでその年の呑み納めとすることが慣例になってしまった。静岡県岡部町の「初亀」(はつかめ)は、庵主が生まれてはじめて呑んだ吟醸酒が「初亀」だったという機縁のお酒である。
 今年もうまいお酒を呑ませてもらったとしみじみと感じるのである。その思いがじんわりとからだにしみわたる。今年もまもなくその思いを味わうことができる。
 「こんなうまいお酒を呑めるのだから、生きていてよかった」とありがたく思うのである。いい酒はからだに元気をみなぎらせてくれる。
 そして庵主の12月は手元にあるお酒を処分する月でもある。見ると、四合瓶に少しずつ残っている酒瓶がいくつもある。庵主はお酒が呑めない質(たち)なのである。だから気になって買ってきた四合瓶も一人では呑みきれないものだからどうしても残ってしまう。いただき物のお酒もある。もらったまま忘れてしまっている手つかずのお酒が出てくることもある。
 居酒屋では出てこないような、うまいとまずいの狭間にあるお酒で、なんとなく気になるお酒は買ってきて呑むしかない。それが残ってしまうのである。そういうお酒があるときは極力みんなで呑む機会がある時に合わせて買い求めるのだが、そうでなかったお酒がどうしても残ってしまう。
 そうなったお酒はもう呑むことがないだろう。だから庵主はお風呂にいれるのである。お風呂で気持ちよく味わうのである。一口だけ呑んでそのまま取っておいた大吟醸があった。いい酒だったがさすがに気が抜けていたのとすこしヒネ香を感じたので、その命がおわったものと判断してお風呂にしちゃった。そんなわけで12月は毎日贅沢なお風呂につかっているのである。


★こわいもの見たさ★15/12/10のお酒
 読みはじめるとおもしろくてのめりこむほどにワクワクする文章なのに、そこにアクセスするのがおそろしいホームページがある。
 松岡正剛氏の「千冊一夜」である。世の中には凄い知性がいるという、我が身を振り返っての絶望感からである。庵主は絶対こうはなれない、と。身がすくむのである。自分を見えてくるのがこわいのである。
 と、同時にその知性と同時代に生きていることにゾクゾクとするほどの喜びを感じているのである。
 物が見える人にはちゃんと見えているのだという羨望と畏敬の気持ちである。この気持ちには嫉妬はない。こういう人と一緒に日本人をやっていると思うだけでもうれしい。
 それは、うまい日本酒を呑みながら、こういううまい酒を造れる人と同じ日本人をやっていられることの喜びに同じである。同じ味わいを知っているぞという同志感である。
 「土門はこうも書いていた、『気力は眼に出る。生活は顔色に出る。年齢は肩に出る。教養は声に出る』。土門はいつまでも、この声を撮ろうとしてきたのである。それも仏像の声さえも――。」(同ホームページから)。
 これを読んでいて、庵主は「顔色」が読めないのである。かおいろか、ガンショクか。め、かた、こえ、とあるから、かおいろ、でいいのかもしれないが、その様をさして眼とし、肩とし、声としているのだから、がんしょくと読んだほうがいいのかもしれないとも思う。五十数年日本人をやっていて日本語が読めないのだから、冒頭の逡巡もむべなるかなである。自分で自分をなぐさめるほかはない。
 庵主は趣味で人物の写真を撮っている。それなりに撮れている自分の写真を見ながら何かが足りないと感じていたが、その欠けているものがこの一文でわかった。声が写っていなかったのである。
 セイゴー氏の文章に救われた。
 声についていえば、庵主はその声の張りでその人の健康をみているのである。
 そして、お酒の声をききながら味わうこともおぼえなくてはと思いいたるのである。松岡正剛氏は多くの示唆をちりばめた文章を物するのである。


★「これはとっておいた四年目の冬樹」★15/12/19のお酒
 緑色の一升瓶に貼られているのは白い紙にモノクロコピーで酒銘が書かれたラベルである。モノクロコピーだから酒銘は黒い文字である。「これはとっておいた四年目の冬樹」とある。多分、日本酒ではいちばん長い酒銘だろう。15文字。平成十一年醸造とある。瓶詰は15年11月である。
 裏ラベルにもこまかいデーターは書かれていない。4年前の冬樹のラベルにそれは同じというわけだ。米は地元のキヨニシキ、飯米である。純米吟醸である。無調整の単一原酒である。アルコール度数は18〜19度だと思った。いつも同じ条件で造っている酒だから、いつもラベルを読みこんでいる常連にはあえてデーターを書くこともないのである。
 生酒のシールが貼られていなかったから火入れなのだろうか。しかし呑んだ感じでは炭酸のまろやかさがかすかに舌に感じられた。生酒のような味わいなのだ。
 庵主の舌では区別がつかない。4年たったとは思えないほど生きがいいのである。お酒は保管だなとつくづく思う。四合瓶で買ってきた「冬樹」を日に当てないで常温で置いておいてときの味に比べると味がやわらかい。人間歳をとると丸くなるように、「冬樹」も4年間でお酒が丸くなったのかもしれない。
 そのかわり渋みがしっかり感じられる。この渋みを庵主はうまいととるようになった。最初に冷えた状態で出てきたときには感じないが、しばらくして酒温が上がってくるとそれまで隠れていたその渋みが感じられるようになる。若い酒とはまた違った味わいにひたるのである。
 「冬樹」は庵主の一番好きなお酒である。


★「琵琶の長寿」大吟醸★15/12/20のお酒
 「琵琶の長寿」も大吟醸はうまかった。ほんのり炭酸が感じられるさわやかな味わいがいい。あまい。だから庵主の好みである。値段のことを考えなければこれは庵主好みのいい酒である。庵主の場合は小さなグラスで一杯しか呑まないから値段は多少高くてもかまわないのだが、沢山お酒を呑まないと酔わないという不経済な体質の人には、このお酒はきっと厳しい値段のお酒なのだろうと思う。
 べつに「琵琶の長寿」は大吟醸だけがうまいといっているのではない。
 庵主がこれまで呑んだ「琵琶の長寿」がなぜかどれも波長が合わなかったということなのである。呑んで、うまいと感じることがなかったのである。うまいと思わないにしてもこれはいい酒だと感じさせるほどのお酒と出会わなかったということなのである。それがお酒を呑んでやっと納得できる味に出会ったということである。
 案外、このお酒は「琵琶の長寿」では変則だったりして。
 いやいや、これまで庵主が呑んだのはデパートで買った瓶だったので、やっぱりお酒はうまい酒を知っている居酒屋で呑むべしということなのかもしれない。


★ゴチになっちゃた★15/12/22のお酒
 落語を聞いた後に立ち寄ったバーボンを飲ませるスタンディングバーで、庵主が頼んだのは「オールドクロウ」である。クロウは烏である。カラスが都鳥といわれている東京で飲むにふさわしい銘柄である。
 庵主にはお酒を薄めて飲む気風はないので、まず追い水(チェイサー)が出てきたことを確かめた上で、ストレートのバーボンに口をつける。
 かおり、あまい。すき。味、まろやか。のめる。
 久しぶりのバーボンウイスキーである。じっくり飲んでいたら、隣の客から声がかかった。
   齢、庵主に近め。すなわち若くない。月光仮面で育った世代である。だから話が合う。常連らしい。一方、庵主はこの店に立ち寄るのは年に1度あるかどうかである。
 「飲みねぇ、飲みねぇ、俺の好きなボトルキープのバーボンも味わってみて」ということで、見ず知らずの人から「オールドダッド」を2杯もゴチになってしまった。
 たい平の「芝浜」を紀伊国屋ホールで聞いた後の、帰り道の途中にあるバーボンを飲ませるスタンディングバーでの出来事である。


★お酒を一杯、いや二杯★15/12/27のお酒
 山口の「貴」(たか)の「吟醸50 長州山田錦」である。
 香りよし。庵主がいう「香りよし」とは、当今日本酒で流行っている香りを出す酵母によって造りだした匂いプンプンのような酒のことではない。花酵母から造りだした香りにいたっては、庵主にはあざといとしか思えないくどさを感じるほどである。日本酒に過度の香りはいらないと思う。すぐあきるからである。
 庵主がいう香りのいいお酒とは、控えめな匂いであって、かつ華のある匂いを含んでいるお酒のことである。酒に限らず、香水でも、香りには節度がなくてはいけないということである。
 なにごとでも、過ぎると品が悪くなる。酔っぱらいが顰蹙を買うのは、酔いが過ぎたからである。
 「貴」はいい酒である。品がいい。酒を呑む楽しみをしっぽり味わうことができるお酒である。
 島根の「扶桑鶴」(ふそうづる)の「凌雲」(りょううん)は純米吟醸である。味にふくらみがないと思ったら米は佐香錦(さかにしき)だった。庵主好みのまったりした厚みはないけれど、すっきり呑める酒である。悪くはない。ただ、「貴」と呑む順番を間違えたのである。


★タリホー★15/12/28のお酒
 「タリホー」というのはアメリカ製のトランプの商品名である。トランプでは「バイスクル」が有名である。ジョーカーのカードに王様が自転車に乗っている絵が描かれているトランプといえばだれもが一度は見たことがあるだろう。裏模様はライダーバックといって、自転車に乗った天使が上下に配置された図柄である。
 東急ハンズで見たら、「バイスクル」は600円、「タリホー」は550円だった。手品に使うトランプは「バイスクル」で揃えるとなにかと都合がいいのだが、安いという理由で庵主は生まれて初めて「タリホー」を買った。
 アメリカの手品界でプロフェッサーと呼ばれていた故ダイ・バーノンが使っていたトランプなのでちょっとかっこいいということもある。
 日本がなくなっても、アメリカはちっとも困らないが、逆に日本はアメリカなしでは生きていけないという。ちょうど韓国と日本の関係に似ている。
 少なくとも日本でアメリカがなくなったら困ることが一つだけある。USプレイイングカード社が作るところの紙製のトランプが、正しくはプレイイングカードが手に入らなくなることである。「タリホー」のような腰のあるしっかりしたカードが日本では作れないのである。似て非なるものはある。一度パーム(手のひらにカードを隠しもつこと)したら、カードに弾力がないから隠し持ってよじれた状態からなかなか元のまっすぐなカードに戻らない紙製のトランプがである。
 プレイイングカードを純米酒だとしたら、日本製のトランプはアル添酒であるといえば、その違いがわかってもらえるだろうか。
 その使い心地には、プレイイングカードには弾むようなきれのよさが感じられるが、トランプの紙にはそのような生気が感じられないという違いがある。
 それもまた、純米酒とアル添酒の違いに似ているのである。まっとうなものとそれに似たものとの違いはどの商品でも同じもののようである。
 そう、そう、いいものは、使っていて気持ちがいいのである。


★曙橋に立ち飲み屋ができた★15/12/29のお酒
 曙橋に立ち飲み屋ができた。駅から1分というところにある。駅で降りると、午後5時からお酒が待っている。もっとも曙橋は瀟洒な街だから、スタンディングバーと呼ぶ。
 会社員とか、近くにある市ケ谷駐屯地の自衛隊員とか、東京女子医大の職員などが客層なのだろう。曙橋は職人の街ではないので、店内にはそういう粋はない。
 酒祭りを見る。
 ちゃんと酒銘の読み方が書かれている。酒銘にふりがながついていないと、岐阜の「色」は、「いろ」と読むのか、「しき」と読むのかが判らない。これは「しき」である。庵主は初めて見た酒なので読めなかった。
 酒の揃えもいい。すっきりしているのがいい。「一ノ蔵」と「真澄」がはいっているのがいい。あえて呑む酒がないお店にはいったときに呑む間違いのないお酒である。それさえないお店のときはビールを飲んで帰ってくるだけである。
 「南部美人」は辛口で+8、とある。一方、「国士無双」は本醸造で+5とある。あれっ、よく考えたら、辛口と本醸造は比較できないではないか。
 とはいえ、ちゃんと、一つひとつのお酒にそのお酒のおすすめのポイントが書かれている。庵主の主張にかなった酒祭りである。酒祭りには、ウソでもいいからその酒のセールスポイントを書いてほしいと庵主はつねづね願っているからである。
 これらのお酒はマスターが選んだのですか、と尋ねたら、私はお酒はわかりませんとのこと。酒販店の指導なのだろう。酒を選んだのがいずれにせよ呑ませるお店である。
 燗を頼んだら、すぐつけてくれた。断られたら、二度と利用することはなかったろう。この寒空に、冷蔵庫から出してきた酒を呑まされたのではたまらないではないか。
 庵主は、燗を1本、肴2品で、お勘定は1050円だった。こういうお店があるのだから曙橋はかっこいい街なのである。
 お店の名前は「だん」。年末年始も休まずに店を開けるという。
 なお、このお店の隣が本格的なお酒が揃っている「いけだ」である。宝くじに当たったら、こっちで呑むといい。
 


★ひょんなことから「来福」★15/12/30のお酒
 暮れの銀座に出かけた。すでにお正月飾りは玄関に飾り、おそなえ餅を玉屋(曙橋にある和菓子屋)から、今日、受け取ってきて、これでお正月を迎える準備はすんだかと思っていたら、あっ、新春にたく香がまだだったということに気がついて、銀座まで買いに出たのである。
 ついでに暮れで賑わっている銀座を久しぶりに歩いてみた。ちょっと来ないうちに街並みが少しずつ変わっている。以前はなかったお店がいくつもできている。アップル(コンピューター屋さん)の店が開店していた。カルチェ(誰でも買える高級品を扱っているお店)の店が出ていた。
 裏通りのお店も、いやショップと呼んだほうがいいのか、その手の当世風の店舗もかなり様変わりしている。銀座は生きているのである。
 銀座通りから一本はいった通りにある「凛」にはいった。
 酒は、「二左」(にざ)、すなわち「黒龍」の「二左衛門」があって、「磯自慢」があって、「大信州」があって、「九平次」があってと、呑む酒に不自由はしないお店である。開店してもう一年になるというが、庵主は知らなかった。料理もうまい。
 そのお店で初めて茨城の「来福」を呑んだ。純米の愛山と八反があったので両方をちょっとずつ。
 「愛山」はすっきり、くっきり。「八反」はしっとり、はんなり。年の瀬にうまいお酒を呑ませてもらった。


★「千寿」★15/12/31のお酒
 「千寿」といっても「久保田」の「千寿」ではない。静岡県磐田市出身の「千寿」である。東京ではなかなかめぐり会える酒ではないが、それが暮れの新宿のデパートに並んでいたから、静岡のお酒が好きな庵主はためらわずに買い求めた。これが今年の最後のお酒になりそうである。
 「遠州磐田の酒」初しぼり純米「千寿 白拍子」である。アルコール度数は17度以上18度とやや高めである。
 渋みが残る。ではまずいのかというとそうでもないのである。渋いと感じるまでに呑めてしまうからである。呑めるのだからうまいのかというとそうともいえない。だまっていてもつぎの一杯を注いでいたという酒ではない。が、最初に呑んだときに感じた渋みが気になってほんとうに渋い酒なのかと確かめてみたくなってまた呑んでみたくなるお酒なのである。
 静岡の酒は個性があると庵主は思う。好き嫌いとは別に庵主の興味をひくのである。庵主の心をくすぐるのである。贔屓の引き倒しといわれてもいい。庵主は静岡のお酒が可愛いと思う。庵主はまた一つ静岡の酒を口にしたのである。
 釣りはフナに始まってフナに終わるという。それにならって、背広は青に始まって青に終わるという言い方がある。
 さらに、その言い方を借りるならば、庵主の酒は、静岡のうまいに始まって静岡の満悦に終わるのである。