いま「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成18年7月の日々一献


★試飲会★18/7/26のお酒
 横浜の赤レンガ倉庫で7月23日に開催された「第2回日本酒蔵元サミット&ブラウマイスターを楽しむ会 In みなとみらい」に行ってきた。
 ブースを開いて蔵元さんが親しくお酒を試飲させてくれる会のことを庵主は試飲会と呼んでいるのだが、業界用語ではこの手のお酒の試し呑みの会のことをなんと呼んでいるのだろう。
 展示会とか見本市とか日本酒祭とかいうのかもしれない。あるいはどさ回りとか。

 地元横浜の酒販店が音頭をとってやっている試飲会である。主催は横浜日本酒委員会となっている。
 どちらかというと呑み手寄りの委員会だと思われるが、造り手には酒造組合があるのだから、呑み手も東京日本酒委員会とか大阪日本酒委員会といった組織を作って造り手や徴税当局にどんどん注文をつけるという体制があってもいいかもしれない。
 目的は、呑み手の立場から、もっとうまいお酒を造れと造り手を叱咤激励することである。

 会場には52蔵元のブースがあった。開場とともに入場者がどんどん押し寄せてあふれるほどの入場者で会場には熱気がこもっていた。こういう会場だけ見れば日本酒の人気はけっして衰えていないのである。
 とはいっても、試飲会でよく会う人も少なくない。熱心な人がいろいろな会に参加してしているから一見にぎやかに見えるが、あたらしい日本酒ファンが増えないことには底辺が広がらないということである。
 新しいファンは増えているのだろうか。そういう調査は酒造組合中央会あたりがちゃんと調査してることだろう。

 日本酒はだんだん売れなくなっているというが、消費量が減ったことがファンが減っていることにはならない。庵主のようにほとんど量を呑まない呑み手もいるからである。お酒の消費量にほとんど貢献しない呑み手がいるから、消費量が減っていることがそれだけで日本酒離れが進んでいるとはいいきれないのである。
 新しいファンはいいお酒を少しだけ呑んでいるということが考えられるからである。

 そして、新しいファンをとらえる魅力が日本酒にはあるのか。
 魅力はあるのである。こういう会で呑めるお酒ならうまいからである。うまいということと、一つひとつに個性があるからおもしろいのである。
 普通酒のつまらなさは、アルコールを入れすぎているために、どれも似たような味わいになっているから、酔う楽しみはあっても、呑む楽しみがないからではないのか。
 お酒の味わいの違いを判別することができる能力があっても、呑むお酒がどれも似たような味ならその能力を発揮する楽しみがないというものである。
 ところが、うまいお酒は味の違いがわかるから、なんとなく自分の利き酒能力が優れているような気になるので呑んでいると結構楽しいのである。
 そして、いろいろ呑んでみると、日本酒なんかまずいと思っている人でも、自分の舌に合うお酒があることがわかって安心することができるのである。
 日本人なのに、日本酒が呑めないのは片端じゃないかという不安から解消されるからである。
 自分が悪かったのではない、たまたま出会ったお酒が悪かったのだということが分かるからいわれなき劣等感から解放されるというわけである。
 いいお酒というのは、はっきりした個性があるお酒である。そしてうまいお酒とはそういうお酒の中で自分の好みに合うお酒のことである。

 北は青森の「陸奥八仙」から南は福岡の「冨の寿」まで52蔵のお酒を味わえる会は壮観だった。
 もちろん庵主はそんなに呑めないから気になるお酒を少しだけ味わってきた。キリンの「ブラウマイスター」もちょっとだけごちそうになった。このビールなら庵主でも飲めるのである。
 「沢の鶴」とか「菊正宗」とか「月桂冠」が出展していたので、めったに呑めない大手のお酒を味わうことができたのである。



★庵主の苦笑★18/7/19のお酒
 東京駅の1階にあるキッチンストリートという飲食店街に期間限定で70蔵の吟醸酒が楽しめる「吟醸バー蔵70」が開かれている。
 今年は8月5日が最終日である。
 1杯(60MLぐらい)300円で、普段なかなかお目にかかれない吟醸酒が呑めるから庵主は毎週通っている。
 といっても庵主の酒量はそのグラスでせいぜいが2〜3杯だから、週1回通ったのでは全ては呑みきれるものではない。

 だからすでに呑んだことがある銘柄は呑まずに、まだ有名でない蔵元のお酒にいいものがないかと思って呑んでみるが、大方はいまいちだったということが多い。
 そういうときは、口直しにすでに知っているお酒を呑むのだがやっぱりそっちのほうがうまいのである。

 ペットボトルにはいった1本(500ML)100円の水を呑みながら3杯のお酒をやっと呑みきるのである。
 1回に呑むお酒は2〜3種類かというと、じつはもっと種類を呑んでいるである。というのは、きまって顔見知りの人が呑みにきているから、その人が注文したお酒と庵主が頼んだお酒をお互いに味見しながら呑むからである。

 本当はすでに呑んだことがある酒銘も含めて全部のお酒を呑んでみたいのだが、おおよその傾向は上に書いた通りである。
 うまいお酒はすでに有名であることが多いということである。
 呑んだことがあるお酒だといっても、今出ているお酒と以前呑んだ時の酒が同じ味だとはかぎらないから確認しておかなければならないのだが、まともなお酒を造っている蔵はそんなに味が悪くなっていることはないようである。
 昔呑んでうまかったという記憶が残っているお酒を改めて呑んでみたら全然記憶とちがっていたということはよくあることである。
 庵主はへたすると2〜3日前に呑んだお酒の味を覚えていなことがあるから、その記憶力はぜんぜんあてにならないのだが、そのお酒の味は覚えていなくても、呑んだときに感じたお酒の気迫と同じものをいまのお酒に感じることができればいいのである。
 
 吟醸バーでそういう呑み方をしていて苦笑したのは、庵主がうまいと思って呑んでいるお酒はやっぱり甜いということである。
 小さいグラスで1杯、2杯と呑んでいる分には気がつかないが、それが何杯も続くとその甜さが鼻についてくる。
 最初はうまいと思って飲んでいたエールビール(上面醗酵ビール)を飲みつづけると、最後にはラガービール(下面醗酵ビール)が飲みたくなるように、庵主がうまいと思うお酒は呑んでいるうちに飽きてくるお酒だということを知って苦笑したのである。
 もっとも庵主の酒量は飽きるまでには至らないたった1〜2杯だからそれでも全然かまわないのであるが。
 
 今年の吟醸バーでいま庵主がひそかに期待しているのは、最後の週に出てくる「岩の井」である。
 毎週金曜日と土曜日には各蔵元が当番で自分の蔵のいいお酒を持ってくる。「岩の井」は最後の週の当番だということである。
 去年の吟醸バーでその29年物を呑ませてもらったが、その酒質の美しさは群をぬいていた。
 日本酒の世界だけにとどまらず、あらゆるお酒のきれいなものと比べても遜色のない味わいだった。
 今年もそれを持ってきてくれたら、その30年物ということになるから、今から心待ちにしているのである。
 あのうまさをまた味わってみたい。



★「越の華」と「冬樹」★18/7/12のお酒
 いいお酒を呑んでいると、きれいな女の人がそばにいるような、なんともいえな華やかな雰囲気を感じることがある。
 いいお酒といってもいろいろな味わいがある。中には相撲でいえば大横綱のように押しも押されもせぬ気品と貫祿がただよっているいいお酒もあるが、はんなりした味わいのいいお酒もある。
 はんなりした味わいのお酒の一つが新潟の「越の華」(こしのはな)の大吟醸である。

 お酒も、うまいとかまずいとかいうことが最初に浮かんでくるお酒はまだ若いお酒である。
 いいお酒はうまいのは当たり前で、そんなことよりはそのお酒に漂っている気品を感じられるかどうかが試されるのである。
 それは造り手のお酒に対する美意識が表現されているということである。だからかっこよくいえばお酒は芸術品なのである。
 造り手からいえば、美しい物を求めればそれを表現することができる世界だからである。
 
 うまいとかまずいとかは呑み手が勝手に決められることだから呑み手優位の判断であるが、しかしそのお酒の気品を察するというのは、呑み手にそのお酒がわかるのかと問われていることであり、呑み手の教養が試されているということなのである。
 そして、そのお酒とどれだけ共感できるかという感性を要求されているということなのである。

 いいお酒は深い。だから量を呑むまでもない。量を呑まなければわからないお酒もあるが、いいお酒は量を呑んだからといってわかるものでもないからである。
 アルコールの量が呑めない庵主には、したがってそういうお酒しか呑めないというわけなのである。

 一方、そういう優雅な呑み方をすることなくきさくに呑めるお酒でうまい酒というのがある。
 その一つが庵主が贔屓にしている秋田の純米酒「冬樹」の生酒である。火入れしたら物足りなくなるから、あくまでもその生酒がお勧めである。
 地元で取れた飯米で醸したお酒である。
 味の表情がいい。山田錦とか美山錦といった酒造米で造った酒ではないのにうまいのである。造り手の意欲でつくり出した味わいといっていいのかもしれない。
 秋田で造ったお酒をわざわざ東京で呑むこともないのであるが、しかし、東京にはお酒がないのである。おっと、庵主が呑めるお酒がないのである。はっきりいって、ご縁がなくて東京産のお酒でうまいと思う酒に出会ったことがないということである。
 東京の蔵元は商売が控えめなのか、造りが下手くそなのか、生産量が少ないので庵主の口まで回って来ないのかはわからないが、経験的にうまいお酒がないというのが実感である。「喜正」(きしょう)を除いてであるが。

 「冬樹」のうまさは地酒のうまさなのだと思う。
 大手酒造メーカーのお酒が全国どこで呑んでもそこそこにうまいように造られているのと違って、地酒は地元の料理の味わいに合えばいいお酒である。なにも他のお酒と競争して褒めてもらうために造るお酒ではない。
 それがうまいと感じる人が呑めばいいお酒である。その味に庵主は共感しているだけなのだが、その他の多くのお酒と比べてもやっぱりうまいから興味のある方は一度は味わってみてほしいということなのである。

 「冬樹」はこれまで地元産のキヨニシキという飯米を100%使って造っていたが、今年の造り(H17BY=平成17酒造年度=平成17年7月1日から平成18年6月30日まで)から麹米は他の米を使うようにしたという。キヨニシキの生産量が少なくて全量キヨニシキで仕込めなくなったという。
 それでも呑んでみたら「冬樹」なのである。お酒は造り手のセンスなのである。
 いくらいい材料を使っても下手な人が造った料理はまずい。逆にそこそこの材料でもセンスのある人が造ったものはうまい。
 同様にお酒も、造り手のセンスを呑んでいたというわけである。すなわち、米だ、酵母だ、モトの違いだといった要素ではなくて、全体の雰囲気を味わっていたのである。
 だから、いまの蔵元の姿勢と杜氏のセンスが造るお酒が「冬樹」のうまさなのである。そのうまさを、というより、その雰囲気を庵主は気に入って呑んでいたのである。
 そうか、庵主は酒を呑んでいたのではなく、その雰囲気を楽しんでいたのか、とハタと気づいたのである。
 酒の味がうまいとかまずいとかどうでもいいことにとらわれていたということである。
 お酒はその雰囲気がいいお酒が好きだということなのである。
 江戸言葉でいえば、様子がいいということである。様子がいいお酒が好きなのである。


★「泣かないで」で流した涙を「岩の井」で補う★18/7/5のお酒
 「泣かないで」とあるのにすっかり泣かされてしまった。いま池袋の東京芸術劇場中ホールでやっている音楽座ミュージカル「泣かないで」である。
 遠藤周作の「私が・棄てた・女」が原作のミュージカルである。

 時代背景は昭和26年前後だというのに、舞台装置はハーフミラーを、あるときは鏡になり、時には素通しになるガラスを多用した、SF映画のセットのような未来風の、すなわち日常生活の感覚がすっかり削ぎ落とされた、いうなれば根無し草のような落ち着きのない、よくいえばモダンな感覚にあふれたダイナミックな、はっきりいってうるさいという印象をつねに与え続けるデザインで、時代感覚を曖昧にさせるセットによって、ストーリーから時代背景という衣裳を取り除き、いつの時代でも変わらない人間の気持ちの芯を浮かび上がらせるのである。

 15分間の休憩をはさんで2時間45分のミュージカルであるが、前半はその効果的な、と後からわかる舞台装置で進行する話が何を言おうとしているのかよく分からずに見ていたのだが、進行がもたもたしているような感じがぬぐえなかったものの、しかし、後半の中盤にある一つのシーンで庵主は不意に涙に襲われてしまったのである。
 その瞬間のためにそれまでの話はためられていたのだということに気づいたときにはすでに遅かった。
 あふれてくる涙がもうとめられないのである。ポロポロあふれ出る涙がとまらない。ひょっとして涙を出す機能がぶっこわれたのではないかと心配になってくるほどだった。
 庵主は歳のせいで涙腺がゆるくなったものかと思いつつまわりの席にいる若い女の子のようすをうかがったら、みんなハンカチを目にあてて涙ぐんでいるのである。
 歳のせいではない、芝居のせいなのだと知って、同時に若い世代との連帯感を感じながら、庵主は安心してまたこぼれる涙にまかせたのである。

 これだけ泣けるとかえって気持ちがいいのである。
 さわやかな涙を楽しめる。
 中には頑固な人がいて、芝居なんかで絶対泣かないという人もいるようである。
 庵主が泣けた映画を教えてあげても、ちっとも泣けなかったという反応がかえってくるのである。
 その言は、あんな映画で泣けるのは感度が低いからだと、己の知性を誇っているいるように感じるのだが、それは芝居の面白いところを汲み取れないあんたの感性の低さを披瀝しているようなものだと庵主は内心でニヤッとしているのである。
 お酒を呑んでも俺はそんなものでは酔っぱらわないと自慢している人を見たときに、ああもったいないお酒の呑み方をしているなあと思うのと同じである。

 寅さんの映画を見て、あんなもので笑えるかという人がいたら、あんた日本語をもっと勉強した方がいいよと言いたくなるのと同じである。
 寅さんを憮然として見ている人がいたら、そっちの方が見ていておかしいというものである。
 大人になると、正しくいうと歳をとってくると泣けなくなるのである。大人が泣くことはみっともないという常識がこびりつくことによって涙を出す機能はちゃんと残っているのにそれが容易に作動しなくなるのである。
 泣ける芝居は、その機能が正常に作動することを点検するいい機会なのだから、ちゃんと泣いた方がいいのである。あふれる涙の心地よさは非日常的快感なのである。
 その面白さを毛嫌いする人にはうまいお酒を教えてあげても甲斐がないだろう。
 どんな酒でも呑めば酔う。こんな高い酒を呑まないと酔えない奴は馬鹿だと思われても困るのである。
 もっとも、「酒は体で酔うものだ、頭の中で酔っぱうインテリはアホだ」といわれたら庵主は笑って頷くしかない。

 「泣かないで」を見て心地よい涙を流したあとは、めったに足を向けない池袋であるご当地の「蛍月」で流した涙の分の水分を補うことにした。
 お酒は「岩の井」である。「純米大吟醸 山廃生酒」があった。
 例によって五勺でもらう。
 値段は高かったが、香りのよさに高級酒の品格を感じて、ひとくち口に含んでその味わいに大人の風格を感じたのである。もう値段のことはどうでもよくなってしまった。
 いいお酒を呑むことの幸せにひたったのである。
 きょうは「岩の井」が4本ありますと聞いて「岩の井」で通すことにした。1杯目の衝撃の余韻に酔ったからである。

 2杯目は「山田錦の純米吟醸」を呑む。こちらは速醸モトである。
 うまい。うまいといっては身も蓋もないが、真っ当なお酒を呑んでいるという安心感なのである。
 お酒を造るということはアルコールを造ることなのか。ちがうだろう。アルコールはその結果であって、ただアルコールが呑みたいのなら、醸造アルコールを呑んだ方がずっとうまいはずだ。しかしそれでは何かが物足りないからお酒を呑むのである。
 お酒の気迫を呑むのである。それがうまいからである。
 かっこよく言えば、造り手の仕事を味わうということなのである。きれいな刀剣を見たときのあの美しさ、すなわち刀鍛冶の仕事にうっとりするのである。
 お酒もまた杜氏の仕事を味わっているのである。

 ここちよい涙のあとに、心憎いまでにうまいお酒の滴りを口にしたのである。
 「岩の井」の「純米吟醸酒」は精米歩合60%である。60%も磨けば十分にうまいお酒ができることを庵主は「岩の井」で知ったのである。


★今月の読書「さまよえる日本酒」★18/7/1のお酒
 このところ庵主は酒を呑まないでお酒の本ばかり読んでいる。そのせいか庵主が語るお酒はますます観念的になっていくのである。
 酒を呑むのが面倒くさくなってきたのである。呑むといちいち酔っぱらわなければならないというのが面倒くさいのである。庵主の場合は酔うと肩凝りがはじまるからお酒を呑むと身にこたえるのである。
 さて、そういう中で読んだお酒の本は、高瀬斉著「さまよえる日本酒」(BABジャパン出版局2006年刊 1890円税込)である。

 日本の食文化の乱れを見かねた老企業家が日本酒に焦点を当てて、その復興を願って志を同じくする漫画家の高瀬斉氏に執筆を依頼した本である。
 高瀬氏はご存じのようにお酒の漫画を描ける数少ない漫画家の一人である。なお本書は全編活字の本である。

 本書は日本酒の歴史を追いかけたところに特色がある。蘊蓄を語るときにネタ本として使える重宝な一冊である。
 とりわけ三増酒が誕生した経緯が書かれている部分は、今日なおそんな酒が跋扈していることの非をあげつらうための基本的知識して必読である。
 酒を飲むことをガソリンを入れるなどとたとえることがあるが、まさにそのガソリンを、すなわち燃料用のアルコールを酒として呑まされているのである。しかも日本酒の美名のもとにである。国を挙げての詐欺であるといっても過言ではないだろう。国民を馬鹿にするのもいいかげんにしろと思うのが正常な判断である。長く日本酒に馴染んで中途半端な知識を持つと本醸造というウソ表示が当たり前のことのように感じられるようになってくるが、そういう感性の鈍麻を磨き直してくれる日本酒の歴史がこの本には書かれているのである。
 必読というよりも常識として読んでおかなければならない書なのである。

 今日の日本酒はせいぜいが戦後数十年の酒でしかないということが分かる。そして最近数十年の日本酒の、というより日本人の食生活の変化の激しさをあらためて思い知らされるのである。
 日本人はこんなものを食っているのかという恐怖の現実である。自分の想像力を越える恐怖に出会ったものだから庵主はつい笑いだしてしまったのである。
 庵主は若くないからもうどおってことはないが、成長期にある若い人には今の食生活は相当のストレスになっていることだろう。かわいそうなことをしたと庵主は一人うまいお酒を呑みながら思っているのだが、ちょうど庵主の世代の堕落が後生に迷惑をかけているわけで読んでいて忸怩たる思いがする本である。

 酒の話に限ると、刺身に豆腐なら日本酒がうまいが、ピザやフランスパンには日本酒は合わない。そして無理に合わせることもないのである。それらを食べるときはワインを飲んだほうがずっとうまいからである。ワインでも飲まないと食えたものじゃないといったほうが正しいか。
 日本の食が変わって酒も変わったのである。
 明治以降の日本酒は国税庁が好き勝手に決めてきたのである。税金を取ることが主目的である。税収が上がる安い酒を造れというのである。高い酒では貧乏人は、おっと質素な生活を旨とする多くの人々にはお酒が買えなくなるから質は二の次で安い酒を造れというのが国の言い分だった。
 それに対してここ三十年来、呑み手がもっとうまい酒を造れと声をあげるようになったのである。本当はもっと真っ当なお酒を造れと言うべきなのであるが。
 蔵元は国税庁に首根っこを押さえられているから逆らうことができない。お上に逆らおうとするとどうなるかは「冤罪の構図」の項で書いたとおりである。

 呑み手はそういう状況に対して「酒は文化である」というだれも反論できない大義名分を掲げてうまいお酒を造れと主張したのである。日本の文化を守れといったときに、そんなものぶっこわしてもかまわないというのは小泉総理ぐらいだろう。いうなれば米軍基地の外に立っている人の発想である。
 呑み手が正論を囃してうまいお酒を造れといっているのだから、お上の意向には少しははずれるかもしれないが、うまいお酒を造って売れれば税収にも繋がるわけだからこれもお上の利益にかなうことに違いないと酒造家は仕方なくうまいお酒を造り始めたのである。
 日本にはお客様は神様であるという神話があるから、呑み手のいうことを造り手は無下にできないのである。
 
 「さまよえる日本酒」を読んで、今日の日本酒は「さまよえる酒税法」といったほうがふさわしいのではないかといった人がいた。造り手は酒税法に従わなければならないだろうが、呑み手である庵主はそんなものに従う必要はさらさらないので好き勝手なことをいっているのである。
 庵主の酒造権を国が制限している以上、国が責任をもって庵主がうまいと思うお酒を造るのは当然の責務である。
 その責務を国から請け負って特許のもとに酒造りをしている酒造家に庵主の注文をぶつけるのは庵主の基本的人権というものである。
 権利は黙っていたら実効性がうすれていくものである。庵主はうまいお酒を呑むために権利を主張しているのである。しかも酔っぱらって。気の小さい権利の主張者なのである。