いま「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成18年6月の日々一献


★「冤罪の構図」★18/6/28のお酒
 探していた本がやっと手に入った。
 水沢渓著「冤罪の構図」(健友館2003年刊・1890円税込)である。
 絶版になっているようで書店では見つからなかったが、今はネットのおかげで簡単に手に入れることができた。ネットで調べたら古書店が在庫を持っていてそれを買うことができたのである。
 売値は800円だった。郵送料込みで1100円である。帯もついている美本が注文のメールを入れた翌日に送られてきた。早い。
 渋谷区の中央図書館に本があることを知って三度訪ねたが、いつも貸し出し中で読むことができなかった。そこに行くのに電車賃が往復520円かかるから、最初から古書店で買った方が安かったということである。

 庵主はお酒は出会いだと思っているからわざわざ追いかけてまで呑むことはしない。出会ったときに口にするだけである。だから呑みたいと思っているお酒があってもネットで探してまで買うことはない。もっともその流儀を通せるのは全国のうまいお酒が集まってくる東京に住んでいるからである。だまっていたら間違ってもいいお酒がやってくることがない地方住まいの方にはいいお酒を手に入れることができるネット販売というのは重宝なのだと思う。

 そういえば昔の映画もそうだったのである。見たい映画があるからといって、そのフィルムを買ってきて自分で映写して見るという人はまずいなかった。
 映画は映画館で出会ったときにだけ見ることができるものだったのである。
 今は盤を借りて来ていつでも見ることができるようなったが、そういう状況はお酒同様庵主には興味がないのである。
 一方、本というのは読まなければならないものだから妥協することなく探し求めるのである。

 日本酒が堕落したのは、税収のために国が品質を無視したお酒を税法上「日本酒」であると決めつけてその製造を酒造免許の所有者に強制したことにあるようである。と真犯人をあえて名指ししないで書いているのは武士の情である。名前を出したところでその性根は直らないだろうということが分かっているからでもあるのだが。

 国際陰謀論が大好きな庵主は、それは米軍の占領政策の一環として行なわれた日本人劣化政策なのではないかと邪推している。
 アルコールを大量に混ぜた日本酒なるものは戦争が終わってから始まったものだからである。なにか裏があると思うのは庵主の直感である。それを三増酒(さんぞうしゅ) という。食にこだわるはずの日本人を、日本酒の味わいの違いもわからないような人間にするためだったのだろう。米の文化に対する畏怖心が餌の文化である粉食への転換を迫ったものだろう。
 どれを呑んでもまずい酒なら選びようがないからである。美意識を働かせる必要がなくなるからそういう能力がどんどん劣化していく。

 民族の誇りとはなにかというと、その美意識をいうからである。美意識の独自性が文化なのである。
 外国人が見たらただの醜いデブを力士と見てそこに美しさを感じるのは日本人の文化による。そういう独自の美意識を破壊しようというのが三増酒の目的なのである。
 常識的に考えても、あんなものをまともな日本人が造るわけがないからである。それを強制した勢力に日本人は従順だったということなのである。
 お上に従順というのもまた日本人の美徳だからである。
 庵主はそういう柵(しがらみ)がないただの酒呑みなので、まずい酒はまずい、うまい酒はうまいとはっきりいうことができるから、時には従順な酒造業界の姿勢と意見が合うないことがあるということなのである。一言でいえば、もっとうまいお酒を造れということである。そしてその欲望には上限がないということである。

 三増酒にもうまい酒があるといった人がいたが、庵主は今は日本酒の話をしているのだとその人を叱ったことがある。
 たしかにへたな純米酒などよりはずっとうまいと感じる三増酒はあることはわかっているが、そういうお遊びは別の部屋でやってくれというわけである。合成酒という部屋で、である。紛い物(まがいもの)の部屋で、でもいい。
 なお、庵主はその紛い物も好きなのである。そういう物を造るといういたずら心が好きだから。だからといってそれがいいかどうかはまた別の問題である。
 
 お上のいうことに素直に従わなかった人たちには国税庁が意地悪してそういうことができないようにした事件があったというのが「冤罪の構図」で語られていることである。今でもやっているのかもしれないが。
 版元はノンフィクション小説と謳っているから実際にあったことをもとにして書かれたものなのだろう。
 権力を持った人がそれを振りかざしたくなるのは人の常だからよくあることだとしても、著者が指摘している次の部分は、うまいお酒を呑みたいと思う人なら納得ができることだろう。

 以下同書から引用する。
 「酒は文化です。民族にとって、その民族が生み育ててきた酒は、その民族の食生活の頂点に位置する文化財だと僕は思っている。すぐれた民族は、その民族が生み育てて来た酒については深い知識を持っているといってもいい。
 ところが、日本では明治以降、酒は製造免許を国から与えられた酒造家だけが造り、ものすごい高い酒税を上乗せして売るものになってしまったんだ。日本では酒を家庭で自家醸造することができない。自分で酒を造れば密造という犯罪にされてしまう。
 だから日本人は酒造りについての原体験、自己体験が皆無だ。酒造りの知識も、酒の内容について吟味する能力も奪われてしまっているんだ。
 (中略)
 今の日本酒は、米不足が起きた戦中以来、蒸米・米麹・水によってできる酒のもろみ(酒母)を圧搾して酒粕と酒液に分ける直前に、水で薄めたアルコールやブドウ糖・水飴・酸味料・化学調味料(味の素など)などを添加して、三倍に水増して作(ママ)っている。
 これは、税金を多く取り立てるために考え出されたもので、食文化の自殺行為だと思う。」
 以上引用である。

 しかし国がいくらまずい酒造りを強制しても、酒は物造りである。造り手がそんな水準に満足しているわけがない。
 庵主はいま国が造れと強要する低水準のお酒には満足できない造り手が造った真っ当なお酒をありがたく口にしているのである。



★究極の静岡吟醸を愛でる会★18/6/21のお酒
 庵主はもう試飲会などのようなお酒がずらっと並んでいる会には呑むためには参加しないことにした。
 まず酒量がないから、呑めないので会費の元がとれない。意志が弱いからおいしそうなお酒が並んでいるとつい口にしてしまう。それで呑みすぎてしまうのである。
 必要以上にお酒を呑むのは勿体ないと思ってしまう。手慣れた人は呑まずに吐いてしまうが、そういうことは専門家に任せておけばいいのである。素人がみっともない真似をすることはない。
 そういう呑み方はうまいお酒を探してくることが使命の呑ませ手に押しつけておけばいいのである。呑み手は選ばれたうまいお酒があるお店で自分の適量を味わえばいいのである。
 呑み手がやっていいことは品のいい呑み方を心がけるということである。一気飲みとか、馬鹿飲みとかいったことはしないようにするということである。隣で呑んでいる知らない人に勝手に話しかけないということである。
 まずい酒が出てきたとしても従容として盃を口に運ぶということである。莞爾として呑めればなおいい。

 行かないことにした試飲会ではあるが、ただ一つだけつい誘惑に負けてしまうのが、究極の静岡吟醸を愛でる会である。
 静岡のお酒が庵主の贔屓だからである。なぜ贔屓かというと、うまいからである。
 その静岡の22銘柄の鑑評会金賞酒・入賞酒をはじめとする吟醸酒が勢ぞろいするのがこの会である。贔屓のお酒に囲まれているというその雰囲気の中に身を置くのがきもちいいのである。

 うまいお酒の、その中でもきれいどころが呑める会である。贅沢な気分にひたれるのがいい。そういうお酒といっしょにいるだけでも気持ちがよくなる。
 鑑評会のお酒である、はっきりいってわざわざ呑むまでもないのである。だからいい。ちょっと味わうだけですむから庵主の酒量でもかまわないからである。
 お酒は呑んでいてうまいうちは極楽だが、呑み過ぎて気分が悪くなったら地獄である。庵主は 地獄は見たくない質(たち)だから、いいお酒をちょっとだけ味わえばそれだけで十分楽しめる会なので静岡のお酒に会いにいったのである。そう呑みに行ったのではなく、今回は会いにいったのである。

 乾杯ということで、たまたま近くのテーブルにあったお酒をグラスに注いだが、それが「志太泉」の吟醸酒だった。これがうまかった。うまいのは当たり前のお酒だから、品のよさが感じられて心地よかった、と書き直しておこう。
 最初からいいお酒を呑んだという満足感と充実感がしっかり残るお酒だったからあとはもう呑むまでもないという好スタートをきったのである。
 55種類のお酒が出ていたが、庵主が口にしたのはそのうちの21種類である。グラスにほんの少しの量しか味見しなかったから、しめて1合強というところである。
 きれいに酔えたのである。さすがに静岡のお酒は酔いがきれいに回るとは思ったが、なあに、大した量を呑んでいなかったからである。
 適量が呑めればいいが、そうはいかないからお酒は手ごわいのである。庵主は今日はお酒に勝ったのである。
 莞爾としながら呑めたのだから。



★吟醸バー蔵70★18/6/14のお酒
 なんと全国70蔵の吟醸酒が1杯(50MLぐらいか)300円で呑めるという期間限定の「吟醸バー蔵70」が東京駅にある。
 ◎場所 JR東京駅八重洲北口構内1階「キッチンストリート」内
 ◎営業日 5月16日(火)〜8月5日(土)までの火曜日から土曜日
 ◎定休日 日曜日・月曜日
 ◎営業時間 午後5時〜9時(ラストオーダー8時半)
 ◎毎週金曜日と土曜日には各蔵元さんがカウンターに立たれます。

 吟醸バー蔵70で常時呑める銘柄は、例えば
「大吟醸 一夜雫 原酒」(北海道・高砂酒造)であり、
「田酒 純米大吟醸」(青森・西田酒造店)であり、
「岩の井 山廃純米大吟醸」(千葉・岩瀬酒造)であり、
「開運 大吟醸」(静岡・土井酒造場)であり、
「大吟醸 米のささやきYK−35」(兵庫・本田商店)であり、
「赤磐雄町 純米大吟醸」(岡山・利守酒造)であり、
「酒槽しぼり 純米大吟醸」(高知・司牡丹酒造)であり、
「香露 大吟醸」(熊本・熊本県酒造研究所)である。

 大吟醸の四合瓶が70種類もずらっと冷蔵庫の中に並んでいるのは壮観である。それが1杯300円で呑めるというのだからいろいろなお酒を味わうには格好の場なのである。勉強になる。
 映画の学校は映画館であるというから、その伝で言えば酒場はお酒の学校なのである。だから庵主は勉強のために酒場に通うのである。生涯学習の手本である。
 お酒の管轄を大蔵省(現財務省)から文部省(現文部科学省)に移したほうがいいかもしれない。

 金曜日と土曜日には各蔵元さんが順番に吟醸バーに立たれて、自蔵の鑑評会相当酒や純米吟醸や古酒などを持って来て呑ませてくれる。このお酒も見逃せない。蔵元さんとお話しすることもできるいい機会である。
 と、まるで宣伝みたいになったが、庵主もよく勉強に行ってるところなのでよろしかったらぜひ利用していただきたい。

 お店のしきたりはこうである。
 お店に入ったら100円券が11枚綴られたチケットを買って、あとはカウンターにチケットを持って行って希望のお酒を注文するという方式である。キャッシュオンデリバリーである。
 酒肴は1皿500円、水はペットボトルで100円。
 お酒のリストはカウンターにあるからそれを見て選ぶといい。
 もし赤い上着を着て勉強中の庵主を見かけたら遠慮なく声をかけてください。


★食い物の消費期限とは何か★18/6/7のお酒
 現在の食品には、製造年月日ではなく、消費期限、もしくは賞味期限という日付が印字されている。
 よくいえば親切表示である。この期間内で口にする分には問題ありませんよというお墨付きだからである。
 中には、消費期限が昨日で切れているからもうたべられないといって捨ててしまう人が出てくる始末である。食い物をなんだと思っているのだといいたくなるが、若い人は小さいときから消費期限を見てたべましょうということを教えられているからそれが習慣になっているのである。

 消費期限の表示というのは、はっきりいって食い物文化の劣化と庵主は見ている。
 消費期限表示というのは食い物の地位を餌の次元に堕落させるものである。食べ物を餌というのは言い過ぎであるが、餌とは食い物から情緒を取り去ることである。それは人間の尊厳を愚弄する軽薄な考え方なのである。人間に尊厳があると仮定しての話だが。
 しかし、大勢にはいかんともしがたく、庵主もそういう表示がなされた食品を口にせざるをえない。

 消費期限の表示は、外国から食い物を輸入することになってからのことである。国内で食い物が作られていたときには表示は製造年月日だった。それで全然問題なかったからである。
 食えるか食えないかは、自分の経験と判断するものだという当たり前のことが行なわれていたからである。

 しかし、製造年月日の表示では、日本に食い物を輸出している会社にとっては、国産の食い物と競争するときに不利になるということなのである。
 同じ食い物なら、国内で作られたもののほうが新鮮だからである。
 菠薐草(ほうれんそう)を作ったときに、国産なら製造年月日は06.06.01としたとき、中国からもってくるそれは正直に印字したら06.05.30とか06.05.31ということになる。
 売場にその二つが並んだら、当然国産の食い物を選ぶだろう。つまり、輸入品は製造年月日表示ではそれだけで不利になるということなのである。だから製造年月日を隠して、消費期限などという表示にしたのは外国からの圧力である。
 食い物は骨董品ではないのだから、時代がかかったものに価値はないから、だれも古いほうのものを買わないからである。時代がかかるというのは骨董用語で、作られてから歳月を経たものという意味である。ようするに古物のことである。
 幾星霜をへて趣が加わったものという意味であるが、食い物にはそれはない。
 古いものは食ってはいけないものだからである。お酒は数少ないその例外である。
 食い物というのは、その命を「いただきます」なのであって、命が枯れてしまった食い物を売ったとしたら、それははっきりいって詐欺商品なのである。
 
 ところが、食い物の表示を製造年月日から消費期限に変更すると、古いか新しいかがわからなくなるということである。
 それで誰が徳をするのか。古い物を売ろうという業者である。だれが損をするのか。知らずに古いものを食わされる食い手である。
 新しい食い物と古い食い物があるときに、古い物を食いたいと思いますか。多くの人はそうは思わないはずである。なぜなら古い食い物は自分の体にとってよくないものだから直感的に新しい食い物を選ぶようになっているからである。

 食い物は所詮餌だと割り切って考えられる人ならいいのだろうが、庵主はうまい物を食いたいと考えるたちだから消費期限表示は不愉快なのである。
 ところが、お酒にはその不愉快な消費期限が表示されていないのである。
 お酒は腐らないからだそうだ。劣化することはあっても呑めなくなることはないから自分の舌で確認して呑むがよいというわけである。つまり大人の判断に任せるというものである。酒は子供は飲んじゃいけないのだからそれでいいのである。
 ということは多くの食い物は子供向けの表示だということである。

 お酒は大人の飲み物だから消費期限なんか書いていない。製造年月日だけである。
 しかし、その製造年月日が不十分なのである。
 醸造年月日も表示してほしいのである。

 というのは、お酒の製造年月日はお酒を瓶詰した日付を表示しているからである。
 タンクで2年寝かせたお酒を今日瓶詰したら製造年月日を06.06.07としていいのである。
 実際は2年前に造られた酒なのにもかかわらずである。実際に造られたのは04.03.15だったかもしれないが、瓶詰された商品の印字は製造年月日が06.06.07になってしまう。
 今年のお酒と区別がつかないということなのである。それが困る。それは不親切表示なのである。
 他の多くの食い物と違って今年造られたお酒が2年前のお酒よりうまいという世界ではないから、商品を選択するときに困るということである。
 庵主は低温で1〜2年ぐらい熟成させたお酒の方が好きである。現在の製造年月日表示ではそれがわからないのである。

 賞味期限というのもあるが、これは消費期限とちょっと違う。食い物がおいしく食べられる期間という意味である。賞味期限を越えても食べられないことはないが、賞味期限以内ならよりおいしく食べられますということである。
 消費期限は安全を見越して、実際に食えなくなる期間の7掛けぐらいで表示されているから、消費期限を2〜3日過ぎたぐらいなら全然問題ないのである。

 お酒は消費期限はないから、呑み手が呑み頃を決めるのである。
 それは判断力がある大人の呑み物だからである。



★「かすり」のお酒★18/6/1のお酒
 「かすり」は東急目黒線の不動前にある居酒屋である。
 そのお酒がすごい。うまいのである。どんなお酒があるのかというと酒祭りがない。
 呑むお酒は客が決めるのでなくて、親方が決めるからである。
 そのときにいちばん味が乗っているうまいお酒が出てくる。
 だから、いちいちどんなお酒が好きですかと聞かれることがないから楽なのである。
 かりに酒祭りがあっても、その酒の状態が呑み頃なのかどうかはお店しか分からないのだから、庵主にとってはあってもなくても同じなのである。
 その点、「かすり」は親方がお酒を選んで出してくれるから客は殿様気分である。よきに計らえ、ですむからである。

 そして、出てくるお酒が文句なしにうまいのである。無条件でおいしいのである。
 酒瓶を見ると、きれいにラベルが剥がされている。
 庵主も詮索はしないから、それがただラベルを剥がしただけのものなのか、自分で調合した酒なのかは知る由もない。そのお酒が間違いなくうまいということは確かなのである。

 2杯の古酒を呑んできた。
 庵主は古酒が苦手である。なぜかというと紹興酒のようなにおいが駄目なのである。
 ところが、「かすり」の古酒は、古酒なのにうまいのである。庵主にも呑めるのである。
 1杯目のお酒は2〜3年熟成と思われる酒だった。
 お酒に鼻を近づけるとうっすら古酒のにかいがある。色もうっすらと飴色をしている。
 ところが、呑んでみるとそれがうまいのである。その充実感はまさに「甘露」という言葉を思わせるものだった。
 酸味がしっかりしていてそれが甘い。酸味が甘いというのも形容矛盾みたいだが、お汁粉にちょっといれた塩が甘いという感じでとってほしい。
 庵主はうまいお酒は酸味のうまさだと思っているが、最初のお酒はまさにそれだった。酸味が甘味につうじているうまさなのである。ようするに味のバランスがいいということである。
 酒肉(こんな言葉はなかったか−−お酒は官能の悦楽じゃ、という庵主の思い)は熟成でまろやかな感じになっている。ぽっちゃりした味わいのお酒だということである。

 お酒はまた麹の甘味である。というもの庵主は甘いお酒が好きだからそういうお酒でないとうまいと感じないからである。
 庵主の好きな甘さは品のある甘さである。砂糖のような直截な甘さではなくて舌にほのかに感じるやわらかい甘さのことである。味噌汁の出汁のように、じっくりあじわっているとその裏にしっかり感じられるあのうまさである。
 日本酒のうまさはその甘さにあるということである。そのうまさが駄目で辛口の酒がいいというのならはじめから焼酎を呑んだほうがいいのではないかと思うのだが、辛口が好きな人の感性はどういうものなだろうか。小泉総理ではないが、酒の好みもいろいろなのである。
 日本酒というのは甘い酒なのである。それが好みでないというなら無理して日本酒を呑むことはないと思うのだが。
 砂糖をなめてもっとしょっぱいものはないのかといっているように庵主には見えるのだが、それなら甘口の塩をなめた方がいいのじゃないかと庵主は思うのである。
 普通酒というのは、日本酒の甘さをアルコールで薄めたお酒だということで、それはそれでいいお酒なのかもしれない。

 「かすり」の古酒は酸味といい甘味といい熟れた酒質といいトータルでうまいのである。
 庵主はこの1杯ですっかり満足してしまった。もうそれ以上呑む必要はなかったのだが、つい2杯目を頼んでしまったのである。
 2杯目も、1杯目のお酒とは個性の違う古酒だった。明確な性格の違いを味わったのである。
 平成5年の酒だという。13年を経てなおすっきりしている味で、いらない枝を払って幹だけを残したという感じのただ一直線の味を印象付けてくれる古酒だった。
 味は枯れてはいるが、崩れてはいないのである。背が立っている古酒なのである。老いて矍鑠といったところである。
 こういう古酒なら庵主も呑めるのである。
 庵主は以前「かすり」で古酒を呑んで古酒のうまさに開眼したのである。

 「かすり」ではなにも聞かれないと書いたが、ただ一つ聞かれることは、お酒の値段に三つか四つのランクがあって、どれになさいますかということである。
 庵主は一番安いお酒を頼むことはいうまでもない。
 そのお酒が十分に、いや十二分にうまいのである。
 たぶん、と庵主は思う。「かすり」は都内で一番うまいお酒が飲める居酒屋だと思っている。ここのお酒は一度は味わってみる価値がある。
 いや、やめておいたほうがいいか。他の店で呑むお酒に不満が残るようになるからである。