「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成16年12月の日々一献

★飛び込みのお酒★16/12/29のお酒
 もう今年はお酒を呑むのは終わったつもりだったが、誘惑が待っていた。
 「國香」(こっこう)の新酒を呑む会を暮れの28日にやるという。
 今年の新酒を呑むのである。しかも「國香」である。

 「國香」がことさらうまいお酒かというと、庵主はそうは思わないのだが、庵主の好きな静岡のお酒であり、その酒造りが気になるのである。今年はどんなお酒を造っているのかと気になるのである。
 小さい蔵である。大手の蔵なら、杜氏の名前やこれまでの造りを知っていれば呑むまでもなくおおよその予想はできるが、小さい蔵はそのぶれが大きいから、心配になるのである。去年の味がかならずしも今年の味と同じというわけではないからである。
 また造り手も過去にこだわることなく自由にお酒を造ることがあるから、もしかしたら今年の酒は化けているかもしれないと気がかりなのである。いや、楽しみなのである。
 だから、つい早く呑んでみたくなる。小さいころ、雑誌の発売日が待ちどおしくてたまらなかったことをおぼえているが、それと同じ気持ちなのである。そういうお酒なのである。「國香」は。
 で、その「國香」なのだが、庵主はその味を知らないのである。呑んだことがないわけではないが、庵主の心の中に「國香」はこういう味の酒だというイメージができあがっていない酒なのである。
 「國香」を呑む場面を思い浮かべることができないということである。知っている酒なら、こういう時に呑むならこれしかないというイメージができあがっているのだが、「國香」にはそれがないというわけである。

 今回はじっくり「國香」を味わってみた。16BYの新酒が4本、2年前の酒が1本、さらに6年ものが1本と味わうのに不足はない。
 軽い。軽いのである。特純、純吟、大吟醸、米大吟と呑んでいっても味に厚みがないのである。これをスカスカの味といってはちょっと違う。スリムな味わいのお酒といおう。
 スカスカとしかいいようのない味の酒がある。味わい淡白、印象に残る甘みなく、しかも酒自体に力がないから庵主にとっては次を呑みたいという気が起こらない酒である。まろやかな酒質でまったりした重みがあって甘く感じるお酒が好きな庵主は、そういう酒を呑むと味がないと思ってしまう。
 「國香」の味わいもまた、それに近いのだが、ちょっと違うのである。

 スリムではあってもプロポーションがいいのである。スカスカの酒が貧弱な印象しかないのに比べて「國香」のスリムな味わいには何かがありそうな魅力が感じられるのである。次はひょっとして庵主の口に合うかなと期待させるものがある。
 2年物の「雅のしずく」で、やっと味に厚みを感じた。それでもなおスマートな酒である。もっとぽっちゃりしたお酒が庵主は好き。そんな「國香」を新酒で呑むのは早すぎたのである。
 6年寝かせた「國香」もまた、黙って出てきたら新酒といわれてもわからない贅肉のついていない酒だった。
 いくつになってもスタイルのいい由美かおるみたいなお酒だったのである、「國香」は。ね、そういわれると、ちょっとひかれるでしょう。チャーミングなお酒なのである。

 庵主が新春に呑むお酒は栃木の「開華」の「大晦日しぼり」に決まっている。
 美貌の蔵元夫人に会ったときに、親しく「呑んで」と声をかけられて(正確には注文書を無差別に手渡されて)、そのときの色香につい惑わされてしまったのである。色香に惑わされたといっても「開華」の本醸造の色香にである。
 その味わいに一目ぼれしてしまったのである。そのお酒がすでに完売だったことは以前に書いた
 「大晦日しぼり」はその「開華」のお酒である。新年に呑むお酒はこれだと即決したことはいうまでもない。お正月は色っぽいお酒がいい。
 庵主はいま、早く来い来いお正月の気分なのである。

●元旦の更新はありません。お正月を過ごす地から「掲示板」に書き込むことにします。どうぞ、よいお年をお迎えください。


★「松」がないって?★16/12/22のお酒
 前回タイトルは、「亀」といい、「松」といい、だったが「松」の話が全然出てこなかった。
 「亀」といえば、文字どおり「亀」である。静岡の「初亀」が醸している値段の高いお酒である。純米大吟醸で、ちなみに一升瓶で12390円とカタログにはある。カタログにあるからすぐ買えるかというとそうはいかない。第一、どこで売っているかが分からない。百貨店にはないのである。本数が少ないからまず買えない。手に入ったら幸せである。値段は高いが、買って損したという思いとは無縁のお酒である。わかる人だけが呑めばいいお酒である。
 「酒は嗜好品であり、嗜好品に頂点はありません。無い頂点をより高く設定し、努力の作品を育て創造します。」とカタログには書いてある。この酒はもう商品ではないのだ。すでに芸術品の域にはいっている。一品ものなのである。造り手の精神性の表現なのである。それがたまたまお酒だったということなのである。
 日本人の民族性というのか、国民性というのか、特有の性向というべきなのか、日本人の物造りのこだわりを、庵主はその酒に見るのである。
 「亀」を一口、口にふくむ。あー、うまい。心が落ち着く。美酒はまた鎮静剤でもある。いい酒は心にはたらきかけるのである。だから庵主は常々いっている。そこいらの健康ドリンクを買って飲むよりもうまい日本酒を呑んだ方がずっと体にいいと。

 で、「松」である。「松」が「松の司」だと知ったのはいつのころだったか。庵主もまた「松」の人なのである。「松の司」にぞっこんほれこんだ呑み手が、まるで孫を語る爺婆(じじばば)のように「松」は、「松」はとうれしそうに語るのである。
 そのお酒を語るだけでほんとうにそんなうれしくなる酒があるのかと半信半疑だったが、「松の司」を口にしたらいつの間にか庵主もその仲間になっていた。
 しばらく呑まないことが続くとまた呑みたくなるのである、「松」が。そういうお酒なのである。不意に「松」に出くわすと、ついうれしくなるのである。酒呑みの心をつかむそういうお酒があるということである。

 「亀」ときて、「松」ときたら、つぎには「鶴」があれば、こんなおめでたいことはないが、庵主には今「鶴」がないのである。
 「鶴齢」でも持ってこようかと思うが、前の二つと並べるにはちょっとその気風が違うのである。
 格が違うとか、次元が違うというのではなく、それは気風の違いなのである。
 お酒の気風というのは呑み手の間で暗黙のうちに次第に醸し出されていくものなのだろう。庵主もまた内心ではその空気をはかってお酒の評価を決めているのだろうと思う。
 評判を聞く。呑んでみる。その評価が当を得ていると思ったらそのお酒の評価は一つの言葉を得るのである。声価を得るのである。
 結構別々にお酒を呑んでいるにも関わらず、それらの感想は意外と伝わってくるものなのである。そして庵主の内心の評価とそれが合致したときに、そのお酒は一定の評価を獲得してそのイメージが確立するというわけである。
 人と同様に、お酒の風格も養おうとしてもいかんともしがたい天性なのである。いい物を目にすることは喜びなのである。ましてお酒はそれを口にできるというのだから、いいお酒に出会ったときの喜びはこのうえないのだ。
 「鶴」という酒銘がついた呑み手の心をたぶらかす、そんなうれしいお酒の出現を庵主はゆっくりと待っているのである。


★「亀」といい、「松」といい★16/12/15のお酒
 「亀」(かめ)を呑んでいる。静岡の「初亀」が醸している高貴なお酒である。由緒のあるお酒である。庵主にとっては今年の呑み納めのお酒である。
 静かに呑んでいる。うまいとか、まずいとかいうお酒ではないからである。
 この酒のうまさを語る言葉を庵主はもっていない。へたに褒めると底が知れる。もしこの酒をまずいと言ったらそれが逆説であったとしても嗤われるだけだから、いずれにしても言葉がないのである。

 「これはうまい」と一口呑んで感嘆するお酒ではない。ごく普通の酒である。いや、ごく普通の酒に思えるようなすごい酒なのである。
 気取りがないからである。押しつけてくるようなことのない味わいなので安心して呑めるからである。また、「どうだこの酒はうまいだろう」という気張ったところがないのである。だから、静かに呑めるのである。心やすらかに呑めるのである。
 そもそもまずい酒ではないかと気づかう心配が端(はな)からないお酒だから、どこまで自分がその味を味わえるかで己を試してみるのである。
 試してみるとはいっても勝った負けたの試合ではない。この一年間で自分がどれだけ年をとったかを見るのである。

 お酒の味が、というより、お酒の味わい方が少しは分かるようになったものだと、いま「亀」をじっくりと味わいながら庵主はまんざらでもない。いいお酒を呑んでいると酒もすばらしいが、その世界にひたることができる身のしあわせに手を合わせたくなるのである。
 庵主が一年に一度、その年の末に「亀」を呑むときには、いつもお酒の上手な美女たちがいて、いちだんとお酒がおいしいのである。すなわちみんなで「亀」を呑んでいるからいっそう楽しいのである。
 今年もまたおいしいお酒を呑ませてもらった。いつもなら一杯しか呑まないお酒を、「亀」だけはもう一杯いただいたのである。


★まずいお酒の正体がわかった★16/12/8のお酒
 「大関」のお葬式酒は炭素臭がしたのである。それは生気を抜いた酒だったのである。

 「これは呑めないお酒ですよ」と念を押されて買ってきた12本のお酒というのは福井県の南部酒造(「花垣」)が作った「きき酒セット」である。
 12種類のにおいのサンプルがはいっているきき酒用の勉強セットである。

 匂いだけは言葉で説明されてもわからない。じっさいに嗅いでみないと絶対にわからない。そして匂いの勉強をする場はほとんどないのである。
 老ね香(ひねか)とか炭素臭(たんそしゅう)といっても、じっさいにはどういうにおいなのだかわかるわけがない。それがこのセットでわかるのである。
 本来は、そういうお酒の実物を呑みながらこれはこういう匂いだと教えてくれる人がいるといいのだが、吟醸香の実例はともかく、マイナスイメージである紙臭とか生老ね香などがついたお酒を庵主が呑みにいっている酒亭にはあるわけがないから、そこではいいお酒の勉強はできるが、そうではないお酒の勉強にはちっとも役立たないのである。
 だから、「南青山291」でこのセットを見つけたときは我が意を得たりという気持ちでためらわず買い求めた。

 セットの内容は次の12種類の匂いである。
 匂いと書いたが、ニオイはいいにおいの場合は匂い、悪いにおいの場合は臭いと書くのが普通である。いいにおいか、わるいにおいかの区別は微妙な場合もある。
 例えば老ね香はマイナスイメージのにおいであるが、それが好ましい場合は熟成香という。芋焼酎のにおいだって、庵主はすでにそれを好ましく思うようになったが、初めてそれを口にしたときはとんでもないひどい臭いだったのである。

 さて、その12種類とは、
 吟醸香@
 吟醸香A
 老ね香
 ツワリ香
 酸臭
 酢酸エチル臭
 木香用臭
 生老ね香
 炭素臭
 木香
 紙臭
 ゴム臭
である。
 それらの香りを少し強調して本醸造酒につけたものが300ミリリットル瓶にはいっている。

 ゴム臭というのがあって、酒になぜゴムの臭いがつくのだろうかと説明書をよんでみたら「パッキン等ゴム製の用具から移行。酒に温度が掛かっている場合に出易い」とあった。
 製品には製造工程の思わぬところから故障が生じるというのはお酒も例外ではないのだ。日常生活でも、なんら危険とは思えないもので怪我をすることがあるが、予想外の出来事はどこにでもあるということである。
 とはいってもその製品を使っていて血がでるようなことがあれば欠陥商品である。お酒に異臭がついていたら欠陥商品である。そういうお酒は代金を払い戻したり、取り替えくれるのだろうか。もっともその知識がないと金返せということもできない。このセットで学習すると日本酒業界がほおっかむりしていた欠陥酒をきちんと指摘できるようになるということである。

 出荷して半年ぐらいたっても売れ残っているお酒を回収している蔵元があるということを漫画で読んだことがあるが、回収した酒は、もう一度精製して格下の酒として売るのだろうか。熟成料理酒とか、割り切って入浴用清酒として売るしかないのではないか。

 庵主の場合、呑み切れずに残っていたお酒で生気がなくなっているものはお風呂にいれて使っている。お酒の香りがたちこめる家庭風呂はじつに贅沢な気分である。白骨温泉の白濁入浴剤入りの湯には負けないぐらいのいい気分にひたることができる。飲物や食べ物を粗末にするということは庵主が受けた躾けではやってはいけないことであり、お酒を風呂にいれるということはその禁忌にふれることだから背徳的な悦楽をもともなうのである。ただお酒を風呂に入れるなんて勿体ないと思いながらも捨てるには忍びないので最後の奉公をしてもらっているのである。

 最初に嗅いだのは「炭素臭」である。どことなく陰気くさい臭いがする。かといって忌諱するほどのにおいではない。このにおいはどこかで呑んだことがあると思った。
 先だって葬式のときに貰ってきた「大関」ホワイトトップのにおいを嗅いでみた。それだった。
 普通酒などでよく出くわすこのニオイはなんと炭のにおいだったのである。笑ってしまった。お酒のにおいだと思っていたにおいが実は活性炭の粉末を通したときに残った炭のにおいだったのである。なんだかうまくないお酒だと思っていた原因がわかった。

 無果汁のジュースが売られている。それでいてオレンジやグレープの匂いがちゃんとする商品である。果汁がはいっていないのだから、ジュースとは表示できないのだろう。なんとかオレンジとかグレープ風味と書かれている。
 炭臭いお酒というのはなんとなくその手の物を呑まされているような気がするから哀しい。呑み手を寂しくさせるお酒なのである。なぜかというと、炭はお酒の生気まで奪い取ってしまうから、ひからびたほうれん草を食べるようなものなのである。萎えた葉っぱならすぐわかるが、お酒は生気がなくなっていてもそれなりに飲めるからそれに気がつかなかったのである。
 これまでの量産日本酒は、管理がいいかげんでもそれなりに飲めるお酒を造り続けてきたということなのである。
 庵主がいつも呑んでいるお酒がなぜあんなにうまいのかという理由がいまわかった。「炭素臭」を嗅いでみてわかったのである。

 もっとも、いまにおいを嗅いだお酒は葬式でもらってきたお酒である。きっとわざと生気を抜いて造ったお酒なのだろう。死を悼むお酒である。弔問者の気分がしめやかになるようにと配慮されたお酒なのだ。ただ残念なことは、力のないお酒を飲んでしめっぽい気分になるだけならいいが、さらに日本酒に幻滅してしまうという副作用がある酒だということである。

 炭は気を整えるから元気の素だと聞くが、その効用はまたお酒の元気成分をすっかり取り除いてしまうという悪さもするのである。
 庵主が飲めないお酒というのは、普通酒といい、印象の残らない純米酒といい、それらは生気が抜けているお酒だったのである。もうはっきりいってもいいだろう。そういう酒はまずい酒なのである。庵主はうまいお酒しか呑めない。
 この12本セットは勉強になる。いままで見えなかったことが見えてくるのである。


★福井のお酒★16/12/1のお酒
 福井の酒といえば、庵主が初めて福井の酒として意識して呑んだのは「黒龍」だったろうか。「一本義」は酒銘を知ってからもなかなか呑む機会がなかったことを覚えている。
 「花垣」を知って、「福千歳」を知って、「雲乃井」を知るのはそのずっとあとのことである。
 庵主はいろいろなお酒を呑んでいるつもりだが、しかし各県のお酒を5銘柄ずつ上げてみよといわれたらすぐには出てこない。意外と少ない蔵のお酒を呑んで満足しているものなのである。
 まずい酒なら、もっとうまい酒があるはずだと思って他の酒をさがすのだろうが、いい酒を呑んだらそれで十分満足だから、あえて他の酒を漁る必要がないということである。

 女たらしというのは、満足できるいい女に出会わなかったばっかりに、他にもっといい女がいるはずだと思って女を転々とする不幸な男のことだという説もある。
 庵主は、さいわいお酒たらしにはならずにすんでいる。そもそもお酒は普通に造ればまずいものができるはずがないのである。安く、かっこよく、大量に造ろうとするからどうしても無理がかかる。その無理を無理やり呑まされるからうまくもなんともないのである。けっしてマズイわけではないが、そのまずくもないということが、甘くもなければしょっぱくもない病院食みたいで呑んでも欲求不満が残るのである。もっとうまい酒が呑みたいと。
 女たらしのようにはならずにすんだとはいうものの、まだ呑んだことがないお酒があるとつい目が移ってしまう。この辺は男一般の心情ということでご勘弁ねがいたい。

 やっと、まだ呑んだことがなかった福井のお酒に戻ってきた。
 まず、「白駒」。「しろこま」でなく、「はくこま」と読む。庵主は最初は「はくこま」と読んだからお手つき1である。ビールのようなラベルの上半分に「HAKUKOMA」と書いてあったからそれを「はくこま」と読むのだということがわかった。
 だからいつも言っているのである。酒銘にはちゃんとフリガナをふっておくべきだと。
 まず「獺祭」は、ほとんどの人が読めないだろう。「常山」も「じょうざん」なのか「つねやま」なのかわからない。「亀泉」を庵主は「きせん」と読んだことは前に書いたことがある。
 酒瓶が目の前にあれば、酒銘が読めなくてもそれを下さいといえば通じるが、店内に貼ってある酒銘の札が読めなかったらそのお酒を注文できないではないか。
 もっともそういう時は素直に聞けばいいのである。あのお酒の名前はなんと読むのですか、と。
 気にする人は、「初亀」を「はつがめ」と読むか「はつかめ」と読むかをこだわるのである。「三千櫻」を「みちさくら」と読もうが、「みちざくら」と読もうがどっでもいいと庵主は思うが、それは「うらがすみ」だったか「うらかすみ」だったかをすぐ忘れてしまう庵主の都合である。
 思い入れのあるお酒は、「か」と読むか、「が」と読むかでかそのお酒にいだいている気持ちが違ってくるからなのだろう。そういうお酒は呑み手に惚れられたお酒なのである。幸せなお酒である。

 で、「白駒」に戻って、その純米酒はオーソドックスな味だった。庵主が外来語を使うときはイヤミだと思ってもらっていい。
 オーソドックスな純米酒の味というのは、昔からあったこってりした味である。いまの純米酒がライト感覚の味わいで、クセのあるにおいを除去してスマートな味わいになっているのに比べると味が深い。そして庵主は好まないのである。ただ、食べ物によってはこの味が必要なのかもしれない。庵主は日頃は粗食、おっと質素な食い物しか食っていないので、その味を求める機会がないのである。
 「白駒」も吟醸、大吟醸になると、さすがにそのこってりした味はなくなってきれいである。

 つぎのお酒は「舞美人」(まいびじん)。「蔵出し三年」「蔵出し五年」「蔵出し七年」という熟成酒を持ってきた。この世界、すなわち熟成酒の世界は発想を変えて飲まなくてはならない。
 それで庵主は、日本酒のときは呑むと書くが、熟成酒は飲むと書き分けているのである。
 「蔵出し七年」を試飲していたご婦人が、まるでワインみたい、と言っていた。いいワインの味わいに匹敵する味なのかもしれない。日本酒だけを呑んでいる庵主にとってはこれらの熟成酒はただの下手物であるが、ひろくいい酒を飲んでいる人には別の味わいを感じているのかもしれない。
 だから、酒は好き嫌いなくなんでも飲むという姿勢が大切なのである。日本酒というせまい世界だけを見ていたのでは、そのお酒の位置がわからないというわけである。

 「舞美人」の熟成酒はそのパッケージ(瓶)が凝っていた。「蔵出し三年」は青色ラベルで、四合瓶の下のほうがほんのり青い色がついている。最初ラベルの青色が瓶の中に反射して青く見えるのかと思ったが、よく見ると瓶自体に色がついているのである。「蔵出し五年」はそれが緑色で、「蔵出し七年」はそれが赤色をしている。
 人物の中身がないときはその人が着ているものを褒めるしかないというのではないので誤解のないよう。
 庵主は熟成酒は好きではないが、三年、五年、七年といずれもきれいなお酒だと思った。酒の力はしっかりしている。庵主の中に熟成酒のよしあしを判断する基準がないだけのことである。
 
 「越前岬」(えちぜんみさき)はきれいなお酒を造っている。大吟醸を呑ませてもらう。大吟醸のお手本みたいな素直なお酒である。ていねいな酒造りをしているのがわかる。それ以上の印象がない。

 「百貴船」。「ひゃっきせん」と読んだら外れだった。お手つきの2である。「ももきぶね」と読む。
 地元密着型の蔵元でほとんどが地元で呑まれているという。
 庵主は地元だけでやっていける蔵ならそれでいいと思ってる。それを呑みたかったら地元を訪ねて呑めばいいのである。中途半端なお酒を東京に持ってきても、錚々たるお酒が並んでいる東京の酒亭では相手にされないだろう。なにも無理して高い酒を造って売れ残るという苦労をしなくてもいいと思うのだが。ただ地元だけではますます売上が縮小するという傾向があってそれが東京に出すお酒造りに走らすのだろう。生き残りをかけたお酒なのである。
 「百貴船」は東京にまで酒を出すつもりがないけど、時々こういう機会に持ってきて都会の人にも呑んでもらうのだという。

 最初に「百貴船」の純米酒を呑んだら、なんとすうーっと入ってしまったのである。試飲といっても庵主は少量とはいえ、呑んだお酒を吐き出さないからけっこう酔いが回っていたのだが、その純米酒は体が気持ちよく受け入れたのである。よくみたらアルコール度数が14.8度とちょっと低い。なるほど度数の高い酒がかならずしもうまいというわけではないということを体験する。味はライトな純米酒である。だから呑めるのだが。
 3年寝かせたという純米吟醸は、ぬる燗で映えるような気がしたがいま一つ買って呑もうという踏ん切りがつかなかった。酔いが回って体がそろそろお酒の限界になっていたのだろう。もう満腹だというときに、これはうまいからもっと食えと言われても体が受け付けないのと同じである。

 といいながら、そのあとに買った1本が「雲乃井」の純米のにごり酒「越路」(こしじ)である。
 あいかわらず甘い酒が好きなのである。とはいえ、これはひさしぶりに出会ったうまいにごり酒である。アルコール度数は18〜19度と高いのだが、そのアルコールを感じさせないこわい酒である。絶対に呑みすぎる。そして気がついたときには十二分に酔いが回っているのである。
 むかしのにごり酒は糖類がはいったものが多かったが、純米で出したこの甘さがうまい。うまい酒はやっぱりうまいのである。
 「明星」は「雲乃井」の大吟醸のための酒銘だという。期待どおりの酒である。
 「福千歳」(ふくちとせ)についても期待どおりのお酒だったのでここでまた書くことはない。
 期待どおりのお酒を呑ませてくれる蔵元はいいお酒を造り続けているということだから。