いま「むの字屋」の土蔵の中にいます


あけてはいけない筥(はこ)■緋筥■
 この箱をあけてはいけない。庵主の意見がつまっているからである。意見というのは人と違う考え方だから意見なのであって、右に同じというのは意見ではない翼賛である。場合によっては右に同じという発言はおべっかになってしまうのである。
 人に意見を聞く時は自分の考えが否定されることの覚悟がなくてはならない。自分が可愛かったら人の意見など聞いてはならないのだ。
 あたりまえの話だが多くの企画は大勢で決めればかえって悪くなるのが通弊である。映画を作るときにいろいろな人の意見をいれると当たり障りのないつまらない映画になることが多いとシナリオライターが嘆いていたのを読んだことがある。
 それをやらなければならないことなら、そのことに気づいた人が責任をもってやるのがいい。その周辺にいる人はしょせんその事に関しては責任をとる度量のない連中でしかないのだから、そんな人たちの意見をきいても話が進まないって。

★庵主がこいつだけは許せないと思う奴★00/00/00
 庵主がこいつだけは許せないと思う奴が3人いる。
 まず、畳の大きさを団地サイズとして勝手に小さくした奴。
 おそらく役人の浅知恵なのだろうが犯罪的行為である。
 UNITED NATIONSを国際連合と訳した奴。多分占領時のアメリカ軍の関係者だろう。
 戦勝国戦争組合とでも訳しておけばいいところである。後日なんとか大臣だったかが、国連を田舎組合と言ったら非難の声があがったことがある。ほんとうはその大臣の見方が正しいのである。米国に媚を売るマスコミはそれを叩くことで馬脚を表してしまった。
 それと数年前の米不足のときに日本の米とタイ米を混ぜて米と称して売った奴。
 醤油とソースが似ているからといって、それを混ぜて醤油として売ることが許せるだろうか。それは文化に対する破壊活動である。
 この3番目の奴は特に許せない。
★これはいけない★00/00/00
 普通サイズのテレビ放送を上下圧縮して(左右を引き延ばしてかな)画面いっぱいに変形してはばからないワイドサイズのテレビがいけない。
 出演者がみんな太ってみえる。この手のテレビを売る方も売る方だが、それを平気でかけている大衆食堂も困ってものである。そんなみにくい画面をさらしている無神経さが、である。
 庵主の住まいにはテレビがないので、たまに飯を食いにいった食堂でこの手のテレビをみると神経が逆撫でされるような深いな気分になる。要するに美的でないのである。
 スタンダードサイズの映画をアナモフィックレンズ(フィルムのコマを横長にひきのばして映写するためのレンズ)をつけて映写した映画を金出して見る人がいるだろうか。そんな上映をしたら欠陥商品ではないか。同様にその手のテレビは欠陥商品なのである。金返せ、とけっとばしていい代物なのだ。
 ただ、食堂のテレビは壁の高いところに取り付けてあるから足が短い庵主にはけっとばそうにも足が届かないのである。

★これもいけない★00/00/00
 文庫の漫画本は邪道である。
 物にはそれを扱うに適切な大きさというのがある。漫画の本ならB5判が一番味わいのある大きさではないのか。その半分の大きさの漫画本も庵主は認める。しかし、文庫本まで縮小した漫画本は許せない。
 たとえば、現行サイズにくらべて縮尺80%にして作れば値段が安くなるからといってそのような自動車を売り出そうというバカはいない。それは自動車の用を無視した非実用的な商品だからである。
 漫画の文庫本はそれと同じ間違いを犯しているのである。縮尺80%の自動車をこれが自動車だといって売りつけたら詐欺である。マンガの文庫本もそれと同じ犯罪である。
 漫画の文庫本はミニチュアの一升瓶に入った酒を呑むようなもので、それでは本物の味わいはわからないのである。出版はたしか建前としては文化を売っているはずで、高い志をもっているはずの出版社が似てはいるけれど本物ではない文化を商ってはいけない。いや、イミテーション商品も文化にはちがいないか。
 活字の本の文庫本はそれはそれなりに用をそなえているから問題はないが、その例と似ているからといって漫画本は活字本ではないのである。漫画の実用的な大きさというものがある。それを無視して異常に小さくしたものを漫画といえるのだろうか。それは著作人格権の侵害行為そのものではないか。それを許す漫画家の頭の中もマンガだが、日頃著作権を標榜する一流出版社でさえそれを堂々やっているのだから怒りをとおりこしてただ呆れるばかりである。お前らのいう著作権というのはその程度の認識なのかい。
 日本の出版社の教養とはまさにこの程度なのである。恥を知れ、恥を。
 なあに、庵主も年をとって小さい文字が読みにくくなっただけなのである。

★「北の錦」を呑んで終戦記念日を寿ぐ★13/8/15
  終戦記念日である。戦争に負けたのだから敗戦記念日というのが正しいという人もいる。日本人は占領軍を進駐軍といい、戦車を特車といい、本質を隠蔽する美しい言葉をつかって人民を欺瞞すると憤る。あんたもその日本人の一人でしょうに、と庵主は思っていても口にはしない。本当のことをいうと人を傷つけることがあるから婉曲な言葉づかいをするのが日本人のやさしいところなのである。
  それに人民という言葉は中国語でしょう。日本では人民(食われる人)などという人を人と思わない言葉は使わない。自分は人民であると思っている日本人って見たことありますか。一方、日本人はというと庶民という超差別用語を使って平然としているのである。「庶」の字義を辞書で調べてみてほしい。庶民ということばを○○の不自由な人という言い換え言葉にするとしたら○○にはどんな言葉をいれるのだろう。
  8月15日は終戦記念日でいい。戦闘が終わった日なのだから。戦争に負けたのは降伏文書に署名した9月2日である。その日が敗戦記念日なのである。ミズリー号の艦上にはぼろぼろになったその旗がさりげなく掲げられていたという。あれは宗教戦争だったのだ。それにしても相手方は戦争が好きなご宗派であること。宗旨が戦争を煽っているのだから困ったものである。
 占領軍(=戦争大好きのアメリカ軍のことである)が「敗戦」という言葉を「終戦」と言い換えれと強制したという。敗戦という言葉を残すと今度やるときはアメリカに借りを返させていただくという思いが残るからだという。終戦なら日本人が勝手に負けたように思えるのである。「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と言い換えさせたり、アメリカ占領軍 の芸は細かい。日本はアメリカを侵略することなど全然考えていないのに、日本に戦争をけしかけてきたのは、侵略戦争に甘い利益を感じている米国指導層だということは少しは字の読める人なら日米ともみんな知っていることなのに、この前の戦争はどういうわけか日本が悪いことになっているのだから、アメリカのマインドコントロール(洗脳技術)には感心させられる。もっともその被害がより大きいのが現にアメリカに住んでいるアメリカ人だというのだから米国人には同情を申し上げるしかない。アメリカ人にはアメリカという社会の不正が見えないようにされているのだと聞く。
  新聞の終戦記事はまさに夏ボケ状態で読む価値もない。というより程度が低すぎる。猿でもかける新聞記事である。講読料を取るのなら読者に迎合する記事ではなく少しは頭を使いたくなる記事を書いてほしいものだ。もっとも新聞記者も歳をとると管理職にまわされて、現場ではお坊っちゃま、お嬢ちゃまが記事を書いているというから、庵主もガキから説教されたところで痛くも痒くもない歳になったということなのだろう。
  今日本では本物の酒は呑めるようになったが、本物の新聞は読むことができない。この一片の事実を見ただけでもアメリカの占領政策の強烈さを実感する。日本人には物は言わせないという強い意志を感じるのである。おみごと、としか言いようがない。いわない新聞も無様ではあるが。それを知っててなにもせずに酒ばっかりくらっている庵主が一番悪いのである。酒は現実を逃避させる麻薬的なものがあると実感する。
  さてはともかく終戦記念日を寿いで酒を呑もう。酒を呑む理由はいくらでもつけられる。さきに「北の錦」から買ってきた長期貯蔵酒「シャテーニュ」を開ける。 甘い。加えて米くさい。ただしまずくはない。米・米麹・醸造アルコール・糖類とあるから三増酒か。あるいは砂糖をいれて味をととのえたものか。話に聞く敗戦当時の酒を思いおこさせる酒であった。日本酒はいまだ戦中をひきずっているのである。

★アメリカのテロ事件★13/9/13
 なんかおかしいと思いませんか。過日アメリカはニューヨークとワシントンで起こった航空機による破壊事件に対するアメリカ大統領の談話がである。
 ブッシュ大統領は「これはテロを越えた戦争行為だ」と言っているが、よく考えてみたら、この手のことは合衆国政府がいつも他国に対して常習的にやっていることなのである。
 善良な市民が住んでいる町に、宣戦布告をすることなく爆弾をばらまいてくるということは大統領が国民の人気とりのためにしょっちゅうやっていることではないのか。アメリカの国民もそれを支持しているのである。アメリカのやっていることは正しいと。
 もちろんその前段階として、相手がやむにやまれず行動を起こさざるを得ないという状況に追い詰めておいて先に相手が行動を起こすようにもっていく。ご丁寧にも相手が悪いという前提をきちんと整えておく手間を惜しまないのである。いやその手順を楽しんでいるようにさえみえる。
 知らない人は相手が行動を起こしたときが事の始まりだと思うものだから正邪が逆に見えるのである。じつは相手がそのような行動を起こすようにレールを敷いたのはアメリカ政府筋の方なのである。政府とはいっていない。政府筋といっているのである。芝居がうまいのである。
 自分がやっていることを他人がやればテロと呼んで絶対許せないというのなら、一番許せないのは最初にそれをはじめたお宅のほうではないのですか、と庵主は思ってしまう。
 それにしてもおおげさなのである。事件の起こり方が。だから庵主は邪推をしてしまう。 ひょっとしてアメリカ筋のシナリオじゃないのか、と。アメリカ人とはいっていない。アメリカ政府を動かせる人たちのことをいっているのである。戦争が大好きなアメリカ人のことである。戦争になると儲かる人たちのことである。
 五十五年ほど前になるだろうか、パールハーバーで、自国の軍隊を見殺しにして、日本人を使ってはなばなしく戦争を始めたのと同じ発想じゃないのかと、歴史に学んでしまうのである。
 オクラハマシティーの連邦ビルの爆破事件といい、だれが何のためにやったのかがわからないというどうにも腑に落ちない事件が多すぎるのである。いたずらにアメリカ人が死んでいくシーンを見ると、庵主はついパールハーバーで日本軍が近づいていることを合衆国の首脳から知らされずに殺されていったアメリカの兵隊さんの無念に思いがいってしまうのである。
 「敵は隠れてはいるが、いつまでも隠れおおせることはできない」と。これまでのアメリカ政府のやり方をみていると、庵主は逆の意味でその言葉を受け取ってしまう。そうか、いよいよ、近々正体を現すというのか。
 ようするに多民族国家というのは大変だということなのである。やっぱり不自然なのである。だから国をまとめるためにはときどき挙国一致のためのイベントが必要なのである。
 そんな緊張感を強いられる国はいやだと庵主はつくづく思う。日本のようにたてまえとして単一民族という国は、その社会風土になずまない人はガイジンとよんで区別して敬遠することで、日本人どおしではあまり気を使わないですむから庵主は住みやすいと思う。
 どこへ行っても、コンビニエンスストアとマクドナルドとコカコーラなんていう世界は気色が悪いではないか。その均一的な不気味さに辟易するのである。ソ連とか中国ではマクドナルドが開店すると人々は歓喜してそれを食いに行くという。共産主義に冒された国々ではその程度の粗末な食生活しかしていないのではないかと思うのは庵主の浅はかさな理解なのか。存外、西側の貧乏人がよく食する下手物を目にしてみたいという知的好奇心が旺盛なのもしれない。しかし低水準での平均化が共産主義の実態なのである。そんなの食事じゃないよ。エサだよ。人間の自尊心をじわじわとそこなっていく商品群なのである。
 さらに強い者が勝つ社会が健全な社会だとか、自分の預金は自分で守れとか、社会を分断して人を不幸な方向に導く考え方をグローバルスタンダードだといって押しつけられたら怒り出す人がいるのは当たり前である。人間はおたがいに支え合うために社会を築いたきたというのにそれを破壊する考え方が肯じられるわけがないではないか。アメリカ主義のほうが間違っているのである。
 それにしても運の悪い人というのはこんな見せ物事件で死んでしまうのである。「タワーリングインフェルノ」(地獄の摩天楼)という火事映画があったが、梯子車の梯子が届かない高いビルには入らない、階段で行けない雑居ビルの店には入らないという笑い話が身の安全を守るための基本なのである。だれもそんなこと守りやしないが。
 不幸な死に方をした人にはただ合掌するのみである。
 キチガイとテロリストはなくなることはないから、天から授かった運の善し悪ししか身を守る手だてがないというのが確かなところかもしれない。

★アメリカで起こったことに関する感想★13/9/15
 ニューヨークとワシントンでアメリカの威信をいたく傷つける事件が起こった。
 すぐ復讐だという。アメリカも国のふるまいはガキそのものだと思う。大統領が就任するときには、右のほっぺを叩かれたら左のほっぺを出しなさいと書かれている聖書に誓うと聞いているが、いざとなったらまったく役にたたない宗教らしい。戦争になれば兵器屋さんが儲かるからという事情が見え見えだからブッシュ大統領もパウエル国務長官もセリフがうわずっているから見ていておかしい。説得力が全然感じられないのである。
 ワシントン政府は同時テロ事件と呼び、つぎにこれは戦争だと言い換えた。鮮やかである。テロなら合法的に犯人をつかまえて裁判にかければいい。ところが戦争となったらこれは商売になるなと庵主は見る。
 犯人は「オサマ・ビンラーディン」だということにしてワシントン政府は戦争準備を進めている。戦争準備が先にあったとは言わないが、手際のいいことである。
 その、アメリカがテロリストと呼ぶ男は、聞くところによるとアフガン戦争のときにソ連を敵にしていたということからアメリカが武器援助や軍事訓練などの支援をしていた男だという。CIAの仕事なのだろう。飼い犬に手をかまれたというところか。
 もっともアメリカ政府はこういうときのために、だれでも納得できる「犯人」である「オサマ・ビンラーディン」をあらかじめ用意しておいたというのなら、その深慮遠謀を手の込んだことでと白人の罠好きに感心するのである。
 今回の事件は、起こる前から事件が起こるというがわかっていたという。事件が起こってから犯行の関係者がすぐ捕まえることがでるきのなら、なんでCIAは事前に防げなかったのかと疑問がわいてくる。ちゃんと盗聴をして何が行われようとしているのかはみんなわかっているはずなのになぜ事前に事件を防止しなかったのだろう。大統領が戦争屋のブッシュだからなのだろうというのが庵主の邪推である。
 あのキッシンジャー氏が「これはパールハーバーだ」といってはからずも馬脚を現してくれたので、庵主の邪推は当たらずともいえず遠からずだろうと思う。
 その時アメリカにいた石原慎太郎都知事は「この事件をパールハーバーの再来だというのは適切ではない。これはヒロシマ・ナガサキの原爆投下に匹敵する(無防備な市民に対する卑劣な)事件である」と指摘している。その指摘も表面的な事件の情況をとらえるなら一理はあるがしかし。
 パールハーバーというのは、アメリカでの建前の解釈では神聖無比のアメリカ本土をやり方の汚い日本軍が奇襲した戦争であるということになっている。
 ところが、物の本を読んだことのある人のパールハーバーというのはそういう解釈ではない。
 当時のアメリカ国民はヨーロッバで悲惨な戦争が始まっているというのにそんな危ないことに参戦はしたくないとかたくなに戦争を拒んでいた。参戦しなくても武器は売れる、物は売れるで、参戦してなにもの血を流さなくてもアメリカは儲かるからである。しかしそれでは困るのがドイツに攻め込まれているイギリスだった。チャーチルである。なんとかアメリカをヨーロッパの戦争に巻き込んで、援軍としてイギリスの栄光を保とうとしたのである。アメリガ分家とするなイギリスは本家である。その本家のチャーチルから参戦してイギリスを助けてくれと頼み込まれたルーズベルトは首を縦に振ったのである。
 ここで注意しなければならないのは、チャーチルはイギリス、ルーズベルトはアメリカで別の国の人という錯覚である。この二人は、庵主が大好きな国際陰謀史観でいうと同じ穴のむじなであるということである。イギリス人だから英国のため、あめりか人だから米国のためを思って行動している人たちではないということである。
 東南アジアでは、その国民の上前をはねているのが華僑とよばれている支那人である。だからたとえぱインドネシアで暴動が起これば最初に襲撃されるのは華僑の店である。「日頃インドネシア人を沽券にしやがって」という憤懣やるかたない思いがそこに向かって暴発するのである。
 日本で、たとえば政府首脳が、もろアメリカ人で、日本人に不利益なことばかり勝手気ままにやっていたら、アメリカ人に対する不満は募りに募って何かあったときには、世の中が悪いのはアメリカ人のせいだとなることは必定である。恨みがアメリカ人に向かうことは避けられない。その不満を金で抑えるのである。マスコミを使って散らすのである。力で押さえつけるのである。
 イギリスもアメリカもその住民は華僑の元の住民と同じ状態におかれているという認識がないとなぜ、チャーチルとルーズベルトが仲良しなのかはわからない。原住民の利益よりも、彼らの利益が優先するのである。それでアメリカ政府筋(政府筋が、ですよ)はアメリカを何とか参戦させようと企図して、日本を追い込んで真珠湾を攻撃させたのである。日本軍が先に行動を起こしたように見える。しかもその時の大統領は冷酷である。真珠湾にいた自国の兵隊には日本軍が攻撃しに向かっていることを伝えることを許さず殺されるのを待ったという。
 非がこちらにあっても自国民が殺されたら敵愾心がわいてくるものである。人は血を見ると逆上するのだろう。いや興奮するといったほうがいい。日本がアメリカ本土を襲撃した、ということで当時のアメリカ国民は敵愾心に燃えて立ち上がったのである。そして今回も同じように行動するのだろう。
 キッシンジャーの発言はこちらの解釈を踏まえていると察して庵主は了解するのである。白人は汚いことをするがどういうわけか事前にそれを示唆するという律儀なところがある。わかる人には、あれがそうだったのかとあとから理解するのである。日本でも背中からばっさり切り付けるのは卑怯の極みとして嫌うのと同じ気持ちが白人にもあるものらしい。
 当時の大統領はルーズベルト。庵主は知らない。今は大根役者ならぬ大根大統領であるブッシュさん。芝居が下手くそなのでみえみえなのである。
 アメリカ映画はビルを壊したり、人を平気で殺す映画を世界中に大量輸出しているのである。人をあおっておいて、テロだ、テロだと声高に叫ぶのもはしたない行為に見えないだろうか。その手の映画に影響を受ける人が出てきても不思議ではない。そんなものを金取ってばらまくなとご注意申し上げたくなる。
 宗教というのは困ったところがある。今度の事件は宗教戦争だろう。宗教は平気で人を殺すのである。人を殺すことの心の抵抗感をやすらかに取り除いてくれるのが宗教なのである。
 両者とも自分が正しいのだから、調停のしようがない。どっちもつぶれるまで放っておけというが実務的な処理である。
 やくざの両組織が相争っているときの解決方法である。ただまわりの人に迷惑が及ぶ時にはそれを防がなくてはならないからそうもいかないというのが実態なのである。
 昔、戦争は国と国がやるものだった。だから国の威信もあってそれなりのルールというものが適用できた。しかし今は個人で国に対して戦争を行うことができるようなったのである。便利な世の中になったものだといって感心するか、ちょうど映画が今は個人でもビデオで簡単に作れるようになったことで表現が広がったというよりくだらなものが蔓延してかえって悪くなったと感じるかは判断の別れるところだろう。現実は個人でも戦争ができるようになったのである。小型の核兵器が作られるようになったらいくらでも政府を恐喝できるのである。なんといっても金さえ出せば兵器はいくらでも売ってくれるのだから物騒な時代になってきたのである。
 この手の事件が起こるたびにもっと本当の事を伝えてくれる新聞が読みたいと庵主はつくづく思うのである。この事件に対する新聞記事には知性が感じられないからである。殺された人の関係者には申し訳ないが、感情的に書かれた記事を読んでいてもつまらない、アホでも書ける新聞記事としか思えない。この手の記事なら現場を見なくても書けるのである。ね、知性など感じられない新聞記事でしょう。今回の新聞の見出しの大きさを見れば、これは新聞ではなくて、アジビラだということが見えてくるから読むのが恥ずかしくなってくるのである。
 事件が起こって翌日の新聞にその原因なりその事情が明確になるわけがないはずなのに、すぐ納得できる原因が報道されとるとしたらそれはそそっかしいというものである。
 事件が起きた時に、犯行声明があったわけでもないのに犯人は誰それだと断定するのもちょっと軽率なのではありませんか。現行犯ならともかく。そういえば現行犯に○○容疑者はないだろう。ずばり犯人なのだから容疑者なんてつけなくてもいい。それ以前に容疑者なら甲容疑者とか乙容疑者として氏名を出すのすおかしいではないか。新聞のいいかげんさがこれでよくわかる。新聞が売れればいいという体質は変わることがないのである。だからおもしろいのだか。
 たまたま読んだ他のHPに、もしこの事件をあらかじめ知っていた連中がこれで株価が下がることを知っていてそれで相当の利益を得たとしたらそいつらは許せない、と書いてあった。そういう儲け方もあるのか、と感心したものである。庵主はそこまでは気がつかなかった。人の考えにふれることは認識の幅を広くするのである。
 よく考えてみれば、確たる裏付けもとらずにこのように書き流される文章がいっぱいあるホームページの信憑性にはまゆげをなめて読む必要があると思うのである。記事の責任をとる人がいないというのが恐ろしい、だからおもしろいのである。信じる人はだまされる。だまされる快感もまたけっこうなのであるが。
日露戦争のとき、戦捷を期して総攻撃は大安の日が選ばれたという。人間はなぜか縁起を担ぐものなのである。その伝でいくと今度のアメリカの爆撃開始は9月の18日、日本時間なら19日ということになる。連中もまたそれにこだわるのである。
自分の命に危険がない事件はおもしろいというのが庵主の偽らざる感想である。結論である。

★男の身の振り方★13/10/7
 黒澤明監督が亡くなった時の庵主の感想は「死んでくれてよかった」という思いであった。
 もちろん死ぬことを望んでいたわけではない。
 晩年の黒澤映画の無残を、もうそれ以上見つづけるのに忍びなかったからである。
 庵主にとって黒澤明の映画は「赤ひげ」で終わっている。はじめてカラーで撮った「どですかでん」以降の映画にはそれまでの黒澤映画がもっていたワクワクするものがなくなっていた。
 「影武者」のとき、当初酒宴のいや主演の勝新太郎を降ろして「ぼくはこの映画を活劇にはしたくなかった」と語っていたが、庵主はそれに対して、まさに勝抜きで映画を作るわけだから勝劇にはならないよな、とため口をきいていたものである。
 「影武者」は映画ではない。時間と空間とセリフが作り上げる虚構を楽しむ映画ではなかった。フィルムで撮った絵画である。それに感応した人がその映画の色彩感覚のすばらしさを数ページにわたって書いていたのを読んだことがある。庵主は緻密なセリフの黒澤「映画」が見たかったのである。
 「まあだだよ」(「猛威遺戒」ならぬ「もういいかい」だったか)という晩期の映画にいたっては、これはホームムービー(庵主がカタカナ語を使う時は、それを馬鹿にしているか、そのことに閉口しているか、そんなふらふらした言葉でなくてちゃんと堅気の言葉を使えと皮肉っているか、その言葉をよく理解していないときである。この場合は最初の例)だと思ったものである。試写会の券を頂戴して錚々たる観客の中で見たので「金、返せ」とまでは叫ばなかったが、当時、家庭用ビデオカメラ(これは第二の例)がはやりだして、そのご家族だけがわかる自分たちの生活風景を撮ったビデオテーブを延々と見せつけられた時と同じ思いでその画面をながめていたものである。役者だけが楽しんでいる映画を金取ってみせるな言いたくなるひどい写真であった。
 黒澤明は映画の入場料金が大人1800円だということを知っているのだろうか。もしそれを知っていたら高い入場料に見合わないこのような映画(内輪の人だけが楽しめる映画のこと)は恥ずかしくて人前に出せなかったろうと思う。しかし現に人前で試写会が行われたのである。
 映画のスタッフ(これは第三の例)が、黒澤明と仕事をすることが楽しくてしかたがないのである。 だから映画の水準が落ち込んでいることを指摘する人(製作者)がいないまま、フィルムだけは順調に撮影されてしまったのである。空フィルムで撮影ごっこを楽しんでいればよかったものを、本当に撮影して編集してしまったものだからついでに上映しないわけに行かなくなったという代物である。
 その試写会はいうなれぱ関係者だけに楽しんでもらうための発表会だったのだ。子供のお稽古の発表会だったのである。うっかりその発表会にまぎれこんでしまったのが身の不幸。そのことに気づいて怒る気は失せてしまったのである。
 黒澤明という名声の前に晩年の無残な映画づくりをやめさせられる人は、ただご本人だけしかいないのだ。死をもって断念してくれたことに、庵主はホッとしたのである。「赤ひげ」でやめておけば伝説の映画監督だったろうに、惜しい。
 長島監督が再び巨人の監督をクビになった。長島といえば栄光の背番号3である。野球選手としては天才だったと言ってもだれも異存はないだろう。少年時代の庵主も長島に燃えたのである。長島と時代を共にした人ならその感興はだれもが共有していいるスーパースター(これは、テレビ・ラジオと同じでほかに言葉がないカタカナ語でけっして皮肉ではないので念のため)だったのである。
 身の処し方を間違えたのである。巨人の監督として読売新聞のピエロ(広告塔の意)となって踊ったのが悲惨のはじまりだった。
 選手でいるかぎりは自分の見せ場をしっかりやっていればよかったものを、監督となると巨人軍の毀誉褒貶を一身に浴びることになることを知らずに監督に就任してしまったのである。
 王、長島は現役時代は何をやっても悪口を書かれなかったスターである。そういう約束ごとになっていたのである。しかし監督になったらそうはいかない。筆は一人の人物をよくもわるくも書けるのである。しかも新聞は発行部数が多くなるほど読者におもねる記事を書くのである。
 庵主がただ一回だけ見たことのある長島監督の試合は神宮でのヤクルト戦だった。攻撃野球を標榜していた長島監督だったがその試合はひどかった。延長戦となった試合で、時間切れ引き分けをねらって巨人は不要な選手交代を行なって時間かせぎに出たのである。
 もちろん年間130試合をこなさなければならないから、ときには捨て試合があってもいいのだろうが、こっちは高い入場料を払って見に行った試合がたまたまとはいえ時間切れをねらって攻撃の意志を放棄した気のはいっていない手抜き試合だったらその商売に対する不信が芽生えるというものである。以来庵主は興行野球(プロ野球のこと)を見る気がしなくなった。
 長島監督は一度、巨人をクビになっているのである。それなのに再びの招聘にあってはおめおめと巨人にすすりよっていくという身の振り方がいじましい。見ていて恥ずかしくなる。
 背番号3は永久欠番だったはずである。だから監督のときは別の背番号を付けていたはずだ。もう現役の長島ではないという明確な決意表明として、長島監督が何をやっても庵主の中のスーパースター長島茂雄のイメージ(心象)にはいささかの汚れもなく燦然と輝いていたのである。
 ところがその禁を破って、巨人の背番号3は俺の番号だとばかりに監督末期には再び3を付けたのには驚いてしまった。老顔となったいまでもその笑顔を見ることで元気づけられるという人が少なくない超人気者の長島である。黒澤明と同じようによいしょする人はいっぱいいるが、それをとどめることのできる人はいなかったのである。
 多くの人が感動を覚えた現役引退のシーン(場面とは書かない。いまとなってはあれはただのシーンだったのだから。これは色あせてそうなってしまった第一の例)も庵主にとってはもう霞のかなたの出来事である。
 あのまま引退していれぱ栄光の背番号3だったのに、庵主の子供のころの思いを無残にも打ち砕いてくれた悲しいヒーロー(これはもちろん第一の例)なのである。惜しい。