いま「むの字屋」の土蔵の中にいます


あけてはいけない筥(はこ)■翠筥■
★新聞が静かな理由★13/11/25
 もう臨時増刊号1冊分のお喜びの記事はできあがっているにちがいない皇太子妃のお子さま誕生に関するニュースはどういうわけか新聞紙上ではつつましく報じられている。だから邪推したくなるのである。
 一時は女の天皇も認めるべきだという議論が新聞にかまびすしく載っていたものだが、その後静かになったということは、とりあえず今度のお子さまは男の子だということがわかって一安心したということのなのだろう。
 まさか、お腹の中の赤ん坊は女の子だけれどもう万事手筈は整えられているから論ずるまでもないということではないだろうと思うが、連中のやることだからどこまでほんとうなのかは同時代に生きていてもわからないのである。
 人が100人いれば、100通りの歴史があると庵主は思っている。
 真珠湾攻撃が宣戦布告前の奇襲攻撃になったのは、現地の外務省の役人がマージャンをやっていて暗号電報の翻訳が遅れたときいているが、その開戦を伝える電文が戦争を始めるかどうかはっきりしない文面だったという話も聞く。
 暇なだれかが、その間の事情を調べて、大方の人にとってその説明が一番都合がいいとなったら、その説が歴史の定説となるのだろう。
 だから、庵主が知っている歴史というのは、本当かどうか知る由もない「定説」なのである。そして庵主が好むのは、その定説をはずしたヒネタ解釈の説なのである。そっちの方がおもしろいからにすぎない。通称、陰謀史観とかいわれて、本屋の棚にはよく次から次にネタがあるものだと感心するほど新刊が出てくるコーナーをもっている一大娯楽分野である。
   学説の方は、大先生の間違っている説を後輩が批判できないから、なかなか前轍のウソが改まらないが、陰謀史観は平気でそれをくつがえしてしまうから読んでいて痛快なのである。後者の筆者の方が筆がたつことが多いということもある。
 庵主が好きなもの。大ボラとはったり。歴史書といっても所詮はその書き手の思い込み小説にすぎない。「講釈師見てきたような嘘をいい」の自由闊達な想像が展開する小説だと思って読めばいい。かならずしも真実が書かれた本ではないということを心して読めばいい。それはせいぜいが自分にとって都合のいい歴史観を作りあげるための参考書にすぎない。
 たとえば、幕末のペリー来航。で、その船がどこの港からやってきたのかは教えてくれないのである。どこから来たかを知るとその意味合いがばれてしまうから教えてくれないのである。
 同時代に生きていても、その時代の歴史が見えるものではないということを庵主はいつも感じているのである。そして新聞の記事を鵜呑みにするとますます本当のことがわからなくなってくるという智恵だけは庵主五十年の齢をかさねて知得したものである。
《ああ残念。12月2日の追記》
 皇太子妃のお子さまは内親王だった。女の子である。
 庵主は師走の買物客でにぎわっている百貨店の店内放送で新宮誕生を知った。庵主の予測はみごとにはずれた。男の子か女の子かは二つに一つ、確率50%の賭けである。それでも当たらないのである、庵主の予言は。だから「あけてはいけない筥」はやっぱりあけてみないほうが賢明のようである。
 予言を確実に当てる方法は、確率50%の場合なら両方に賭けておくということである。
 またいつ発生するかわからない大地震などのときは、毎日、「明日は大きな地震が起こる」といい続けることである。いつかは当たることになる。うちの教祖様は大地震をみごと予言していたという宣伝に使えるのである。
 もう一つは予言書なるものをでっち上げて、その内容に合わせて行動を起こすことである。
 旅行をするときには何か月も先の予約をいれて、その予定どおりに行動するものである。その人の未来は予約した時点ですでに予言されていたことになる。予言というのはその程度の他愛ない娯楽である。
 聖書の大予言という本も出ている。この世に起こることはすべて聖書に予言として書かれているというのである。しかもそれが本当によく当たる。
 ノストラダムス先生の予言がよく当たるのは、事件が起きると解釈者がそれに見合った部分を引っぱり出してきてあとからこじつけるからまちがいなく当たるのである。しかし庵主がその部分の日本語訳を読んでも何をいっているのかちっともわからない詩文なのである。「恐怖の大王が空から落ちてくる」と読んでも何が恐怖の大王かわかるだろうか。読む人によって解釈の異なる詩文を予言と言ってもいいのだろうか。それを予言として理解できる日本人は相当の切れ者にちがいないと感心しているのである。
 もし聖書にちゃんと予言が書かれているというのなら、今度のアメリカのテロ事件が起こることを事前に発表しておいてくれなくては困る。悪い事態を避けるためにあるのが予言ではないのか。戦に負けるという予言があれば負けないように対処するのである。予言が書かれているというのにそのことを公にしないというのではその予言を知っている人は怠慢の極みといえる。消防夫が目の前の火事を見ていながら何もしないというのは不作為の犯罪である。それと同じ罪を犯していることになる。ついでに聖書に書かれている予言でテロ事件の真犯人の名前も明らかにしてほしいものである。
 事件が起こってからそのことを予言していたという発言は子供だましの余興にすぎないことを知っている。そういう娯楽もあるということを人生五十年の庵主はなんども見てきたからである。娯楽だから見せ方さえ変えてくれれば何度でも楽しめることも確かである。そういうのを芸事と呼んでいる。
 宗教屋さんがよく予言をやるのは、昔は宗教というものが総合娯楽だったときの名残だと庵主は思っている。昔からの演芸を今に伝えているということなのである。
 ということを、敬虔なキリスト教原理主義者である友人に語ったら、おまえは物事をなんにも考えていないと叱られてしまったことがある。でもキリスト教というのは平然と何千万人もの人を殺してきた思想なんだから庵主には「過激(=趣味が悪い)ね」としか思えないのである。

★単純な疑問★13/12/1
 いま喧嘩しているアメリカ政府とウサマ・ビンラディンさんというキャラクターは本当に敵同志なのでしょうか。新聞報道をずうーっと読んでいると、なんとなくアメリカ政府のシナリオのために作られたキャラクターのように見えてきませんか。というより、お二人は本当はお友達のような気がしてなりません。だってアメリカ政府の都合のいいように行動する敵ってのは信じられますか。
 この爆撃でCIAの職員が死亡しましたと書かれると、女の事務員でも死んだかのように思えるけれど、CIAのやっていることを考えると、本人の名誉をたたえるためにあえて新聞報道にかけたように思えませんか。ということはその本人というのはかなりきわどいお仕事に従事していたということではないでしょうか。アメリカ政府に忠実なお仕事をです。
 近頃アメリカではやるもの。炭疽菌。これも出所を邪推すれぱアメリカ内部の問題でないかと思われます。だいたいアメリカでバイ菌をおもちゃにしているところと言えばアメリカ軍でしょう。するとおもちゃの出所はそのあたりだと考えるのが妥当だと思いませんか。
 この前の同時テロというのも、事件が起こる前から犯人が決まっていたような印象を受けるのは、新聞発表の仕方が下手くそだからなのでしょうか。
 そういえば、オウムの地下鉄サリン事件も、よく直後にそれがサリンだとわかったものだと感心します。事件が起こる前からサリンと当局にはわかっていたからにほかなりません。だとすると。
 こういうものの考え方を陰謀史観といいます。教科書の歴史よりずっと面白いでしょう。想像力を発揮できるから考えることが楽しいのである。
 ここに書かれていることを、素直に信じないようにしてください。インターネット上の記事の信憑性についてはだれも責任をとらないことになっていますので。

★変態的★14/1/5
 いまどきの電器業界の売りはホームシアターである。
 いま流行りの大型テレビ(というよりディスプレイといったほうがいいのか)で、ちょっと洒落た音のスピーカーをしつらえて、DVDとかビデオテープを再生した映画を自宅で楽しむという趣味のことである。
 庵主はそれを変態的趣味と嗤って見ている。
 一人で映画を見るという行為の異常性はダッチワイフに似ていると思う。異常がいけないといっているわけではありませんので念のため。異常がいけないといったら、野球の天才長島茂雄も、映画の天才黒澤明も、漫画の天才の手塚治虫も、天才だれそれも、みんな異常ゆえにいけないことになる。異常があるから世の中は面白いのである。
 ではなぜホームシアターはダッチワイフなのか。それは映画ごっこであって、映画によく似ているが映画ではないものを映画と思い込んでしなけりゃならない営為の虚しさを感じるからである。
 本物を見なさいよ、と庵主はひそかに思うのである。
 すくなくとも庵主は走査線が走る電気画面で映画もどきをみたくない。映画はフィルムの文化なのである。ホームシアターを標榜するなら、フィルムを映写機で回してスクリーンに映して見るのでなくてはならない。
 以前、庵主がおもしろいといった映画をビデオで見たらつまらなかったよと言われたことがある。
 庵主にとって映画とは劇場でスクリーンで見るものとしか念頭になかったから、ビデオで映画を見る人がいるとは思いもよらなかったのである。
 明るい部屋でせんべいをかじりながら、ときには用をたすために途中でテープを止めてストーリーを見てもしょうがないって。感動が正確に伝わるわけがない。
 「べんけいがなぎなたもって」を、「べんけいがな」でテープをとめて、「ぎなたもって」としたら意味が伝わらないのと同様に、そういう映像の見方を庵主は映画とはいわないである。
 一人で映像を見ている光景を想像するとなんとなく不気味だと思いませんか。テレビを見ているというのならどおってことないことなのに。それが映画とテレビの違いなのである。

★嘘も方便で★14/1/18
 宗教新聞というのはおもしろい。そういう商売があるということがおもしろいのである。
 以下引用です。
 「この信仰をして幸せになるといっても中には、ならない人もいるのではないか」という質問です。
 「断じてそんなことはない」と私は言いました!
 酒を飲めば人は酔う。その人の体質によって一升では酔わなくとも五升飲ませれば、だれでも酔うのが当たり前です。
 ご飯を食べるにしても、五杯も食べさせて、まだ、お腹がいっぱいにならないような人はいません。
 同じように、この信心をして幸せにならないわけは絶対にない。
 ただ、宿業のいかんや信心の厚薄によって時間の長短は違います。病気で同じ薬を飲ませても、人によって早く効く場合と、時間がかかる場合があるようなものです。
 しかし絶対に幸せになるということだけは間違いない! !
 以上、引用終わり。
 信心をしてもなかなか幸せにならなかったら、その人は効能が現れるまでただ時間がかかっているのだと考えればいいのである。気の長いことである。信心すれば、百年、二百年と待っていれば必ず幸せになれるのである。ただ信者の寿命がその時間にたえられないだけなのである。一般的にはそういうのは役に立たないというのであるが、宗教界では気が短いというのだろう。
 あんたは死んでから幸せになれるというのである。
 それまで待てる人っているのだろうか。
 同じことを病人にたとえてみる。
 「この薬を飲むと今の激痛は必ずなおる。中には薬が効いてくるまでに時間がかかる人とそうでない人がいる。いますぐに痛みがやまなくてもそのうちおさまる。痛みを我慢することが信心だ」と。
 ね、これでは役に立たないことがわかるでしょう。痛みが早々におさまらないと、別の医者にかかりますよね。
 威厳をもって断言すれば、前者の方便は真実に聞こえるのである。庵主はその芸を楽しんでやまないのである。
 庵主が思うに、宗教は口先一つの余興である。原価ただの商売である。原価はただであるがそれをただにしない工夫に商品価値がある。時に奇跡を誇ることもあるが、あんなのは超能力といって人々が「わぁー、おもしろい」といいながら実はあほらしいと思っている大道芸なのである。超能力というのは不幸の最たるものなのだ。人並みからはみ出ているということなのだから所詮見せ物としてもてはやされるだけである。庵主はそのことを貶しているのではない。その芸をみごとと感じて楽しんでいるのである。宗教は芸事の淵源である。庵主は芸事を見るのが好きだから、宗教のしぐさを見ることが面白いくてたまらないのである。
 庵主は、つねづね宗教というのはテレビ・映画のなかった時代の総合エンターティンメント(=娯楽)産業でであると思っているのである。だから、ご教義を持ち出されてお前はなにも物を考えていないといわれても、芸人から説教をくらっているような戸惑いを感じるだけなのである。
 我こそは唯一無二の神様であるぞという宗教がいくつもあるのだから、まともに相手にしてられない人たちなのである。唯一無二というのは世の中に一つということなのだ。唯一無二を強調するなら、「自分」という存在こそがそれにふさわしいのではないか。よって自分を一番大切にしなさいというのがまっとうな宗教生活のような気がする。
 神がいるから、神を感じるのではない。自分の中に神を感じる能力があるからこそ神を感じることができるのである。
 ということは、信者になれる人はその一人一人の心の中にすでに神が宿っているということである。わざわざ御布施を払ってまで信者になることはないのである。
 もし神職がいないと信仰ができないというのなら、一人暮らしの人は信仰ができないということになる。人間には信仰をやる能力が備わっているのである。その能力が信心なのである。宗教屋さんはその能力を引き出す商売なのである。
 その信心能力がこわれている人のことを、哀れみと蔑みとまともにつきあってられないという面倒くささから気違いといってなるべくならかかわりあいたくないと思うのである。
 べつの例え話でいえば、人間は医者がいるから病気になるのではない。医者がいないところに住んでいる人もちゃんと病気になることはできるようになっている。
 信仰も、寺社神職がなくてもできるように人間にはその能力が備わっているのである。ことさら神を語る人のうさんくささが見えてくるというものである。
 だれにでも備わっている信心する能力に気づかせずに、さも教祖様がその能力を植えつけたかのようにふるまってお金をかせぐ商売を宗教屋さんという。
 「気をつけよう、やさしい言葉と高い御布施」。
 でも生活費を稼ぐためのいわゆる日常生活がなくて、世間に背を向けて社会生活を絶ってひたすら修行に励む人って、何のために生きているのだろうか。もっとも、他人から庵主の生き方にそのような疑問を投げかけられたら答えられないから、それが愚問であることは重々承知の上である。修行で得られたことは所詮その人だけのものでしかないから、それが世の中のためになるというものではないことはたしかだ。
 やっぱりそうすることが気持ちいいからの行為なのだろう。修行は特定の人にとってはそれが快楽以外のなにものでもないということなのである。
 マラソンのランナーのように走るのがおもしろくてたまらないという人もいるのだから、修行を好む人がいても少しもおかしいことではない。
 いろいろな人がいるほうが世の中はおもしろいという実感からいえば、その才能をいいことに使ってほしいと願うのみである。
 でもよく見かける教祖様は、庵主が目にするぐらいだから、その人はかなり自己顕示欲の強い人なのだろうが、教祖とあがめられる人はつい信者をコントロールできる快感から銭勘定に走ってしまうのがおかしい。きれいなおべべを着た教祖様を見ていると庵主には宝塚夢組のステージ衣装のようにしか見えないのである。いい男の子があんなもの着てうれしいのだろうかと笑いを堪えているのである。
 引用のその二。
 お手軽なご利益を願って、初詣で柏手を打ったり、葬式で坊さんを呼んだり、結婚式で十字架に誓ったり、何でもする。でも、自分の人生をかけて信仰修行に励む気などさらさらない。まことに勝手気ままな、おすがり信仰だ。
 中略
 こんな軽信の国に、新の宗教性が育つわけがない。まして、友のため、社会のため、人類のために一身をなげうって行動する(一部省略)宗教的献身を、正しくとらえきれないのは当然だ。
 引用ここまで。
 そうはいっても、宗教にあまりのめりこむと毒の部分が出てくるから、宗教とのおつきあいはほとほどでいいのではないか。真摯な宗教が己の正義を掲げて何人いや何百万人の人を殺してきたかを、日本人はちゃんと知っているのである。過激はよそうよ。
 例のニューヨークの航空機ビル激突事件も宗教的献身がいきついた一例なのである。
 宗教というのは、理性を自分自身ではなく、教祖様にまかせてしまうという、じつにらくちんな生き方なのである。神の教えは規範というものだ、と神職はいうが、神は自動車に乗っていいとか、テレビを見ていいと言ってるかい。いくら読み込んでも理解のできない預言をはたして意味のある言葉といえるだろうか。読む人によって内容が自由に解釈できる文章というはまともな文章でないということである。その程度の本なのである。
 部分的には正しくても、その根本が間違っているのである。神が宿っているところを誤認識しているのだから、読めば読むほど話の辻褄が合わなくなるのである。知らないことを自由に想像するのだから、紙に書かれた真実というのはそんなものだろう。
 庵主のもとに毎日届けられる宗教新聞は結構楽しい新聞なのである。ただちょっと品がないところがあって、庵主はありがたい部分はとばしてそこしか読まないのであるが。

★ビーフステーキの好きな神様★14/1/18
 聖書の話を漏れ聞くと、そこに出てくる神様はやたらとビーフステーキの好きな神様みたいである。なにかというと人間のやることにケチをつけてすぐに生贄を求めるのだという。そのお行儀の悪い人間を作ったのがその神様だというのだから、その程度の人間しか作れない神様ってかなりいいかげんな神様だと庵主は思ってしまうのである。
 信じる人はだまされる。
 日本にもやたらとメロンが大好きな尊師様がいるが、食い物の好みが偏っている人ってなんとなく考え方もおかしくなってくるのだろうか。

★みずほ銀行★14/4/30
 庵主が口座を開いていた第一勧業銀行がこの4月1日からみずほ銀行となった。
 さっそく口座振込ができないという醜態を見せてくれた。大男、総身に智恵はまわりかね、である。
 庵主の口座も引落が確認できないという迷惑を被った。NTTドコモが当月分の引落が確認できませんと通知して来たのである。4月1日の引落日になっていた。すでに支払ってあるはずのお金の領収書を発行できませんというのである。後日、通帳をみたら所定の日に引き落とされていたのでことなきをえたのである。
 ただし銀行からはこの件についてはその後おわびのおの字も言ってはこない。貧乏口座には挨拶がないというはあらかじめわかっていての口座開設だったからから怒りはしないが、きちんと口座引落ができない銀行では役にたたないと思って引落口座をほかの銀行に変えてしまった。
 みずほのみずは「向こう見ず」のみず。みずほのほの字は「(ベンチがアホだからの)あほぅのほ。みず・ほ銀行。
★UFJ★14/5/30
 笑ってしまった。UFJ銀行である。その銀行名である。うさん臭いという言葉があるが、アルファペットで書かれた社名やカタカナ言葉で書かれた社名を見ると庵主はついその言葉を思い浮かべてしまう。よりによって信用第一の銀行名がそれなのだから、庵主が口座を開いている銀行だったら早速解約してしまうところである。銀行との取引は人それぞれつきあいが違うので解約を勧めているわけではないので為念。
 みずほ銀行については、まさに実態にふさわしい行名であると先に感想を述べた。名が体をあらわしていてお見事である。
 さらに意味のわからない「りそな」とか、あの業界は今とち狂っているとしか思えないのである。「危なくなりそーな」銀行なのかな。
 戦争には負けるものじゃない、と五十数年たってから痛感されるのである。
★おかしな人★14/8/31
 長野県の失職した田中康夫知事はおかしな人である。
 不信任決議が成立してみずから失職を選んだのに、すなわち不信任案を妥当と認めて知事の失職をやむなしと判断したのに、その後の知事選に立候補するというのはどういう神経をしているのだろう。この人に投票する人は、かなりあぶない人に政治をまかせるということなのである。
 自分の行動が辻褄のあっていないことを判断できない人なのだから。
 こういう人が出てきたら、アメリカのどこかの州には「映画館にライオンをもちこんではいけない」という法律があるときいたことがあるが、長野県でもその手の条例をつくらなければなりそうである。
 こんどの長野県知事選挙は、教育県といわれている長野県の県民に対する教育の成果を、すなわち物事を自分の頭で判断できるという教育の基本がしっかり行なわれているかどうかを拝見させていただくことになる傍から見ている分にはおもしろい選挙である。

後日(17/1/4)の追記。
 どうやら政治というのは道理では動かないもののようなのだ。無理が大手を振って通る世界なのである。庵主には理解不能である。酒でも呑んで眺めていればいいことなのだろう。
 誰もがダメだと思っている小泉総理が何度選挙をやっても再選されるという不思議。それは日本人の無意識の智恵なのだろうか。キジルシ状態にある米国政府の相手が出来るのはそれにふさわしい人でないと堪えられないという深い判断によるのだろう。
 田中知事についていえば、傍で見ている分にはおもしろいが、一緒に仕事をしたらきっといやな人だろうなと庵主は何となくそう思うのである。  
★昔とちっとも変わらない★14/10/1
 アメリカの、といったら善良なアメリカ人に失礼なので限定してワシントン政府という。そのワシントン政府のイラクに対するいちゃもんの付け方は、五十数年前の日本に対するやり方とよく似ていると思った。
 相手に容認できない要求を突きつけて、相手が折れてきたとしても容赦なく次の要求を押しつけて、相手が怒らないわけにはいかない情況に追い込んでいくというやり方がである。要求の目的が戦争をすることにあるのだから、なにをやっても無駄なのである。
 あの時、ハル・ノートを飲んで支那(地図上の支那)から日本人を撤退させて満州の利権だけは守ればよかったのだという考え方もあるが、そこまで妥協してもワシントン政府はさらに難癖をつけて日本が怒りを爆発させるところまで追い詰めてきたことだろう。最終目的が妥協ではなく、戦争をすることにあったからである。
 要するにタチが悪い連中なのである。触らぬ神に祟りなしというが、賽銭を投げ込んでおけばすむことなら神様のご機嫌にはふれないほうがいいようである。その賽銭が高いのではそうもいってられないか。
★笑ってはいけない★14/10/5
拉致問題で日本中の怒りが北朝鮮に向かう中、1963年に日本海で行方不明になり、いまは北朝鮮で暮らしている寺越武志氏が一時帰国した。寺越氏は現在平壌職業総同盟の副委員長をしていて自治労中国地区連絡協議会が招待した一団の一員として来日したという(新聞報道大意)。
 その挨拶のなかに「朝日は近くて近い国」というくだりがあって、朝日新聞は身に降りかかるあらぬ疑いを払うために「朝日(ちょうにち)」とちゃんとふりがなを振っていたとのこと。
 なんとなくおかしいでしょう。そして朝日新聞の狼狽を思うとあとから猛烈におかしさが襲ってくるのである。
 東宝映画「喜劇駅前大学」で、松山英太郎扮する制服の警察官に、万年浪人の三木のり平が「なにかあったんですか、郵便屋さん」。「私は警察官です」と憮然として答える松山英太郎。
 喜劇映画の笑いを取るためのセリフには違いないが、しばらくたってからそのおかしさに気がついて笑いがこみ上げてくる。しかもこれは笑ってはいけない笑いだと理性が制するものだから、ますますおかしさがこらえられなくなるというタチの悪いギャクである。
 「飼い犬にジョンイルという名前をつけるのはやめましょう」というのもかなり強烈である。笑ってはいけないのである。
★ノーベル賞のいかがわしさ★14/10/10
今般わが国からノーベル賞の受賞者が2人出て新聞紙上は大賑わいである。おめでたい限りである。おっと、ご同慶の至りと書きたかったのである。筆がすべった。いやタイプ入力なので指が流れてしまった。
 しかしノーベル賞を誰が選んでいるかを考えたら、かなりのいかがわしさを感じるのである。喜ぶにはまだ早いのではないか。あれは特定の目的を秘めた人たちがその目的に貢献した人に与えるご褒美なのではないか。
 要するに連中のためになったいうことを認められてしかも尻尾を振ることに同意した人が受け取る賞典なのではないか。もっとも賞金が一億円ということだから、くれるというものはもらっておけばいいのであるが。あとから負担になることのない金ならば、ね。なんとなくあやしいものを感じるのは庵主だけだろうか。
 文学賞ではないのだから、選考委員が世界のもっとも進んでいる学問とか技術の内容を理解できるわけがない。それが完全に理解できるのなら選考委員こそがノーベル賞の対象にふさわしい碩学ということになる。だからノーベル賞は事務局がなんらなの目的のもとに賞にふさわしい人を選んでいるということである。
 賞を選ぶのはだれか。どのような基準で選んでいるのか。それを考えたら、やっぱりノーベル賞にはうさん臭いものを感じるのである。
 ノーベル平和賞の受賞者をみると答えが出ていると思えませんか。
 そう言えば、湯川博士はなぜノーベル賞を受賞したのだろうか。庵主の素朴な疑問である。
 それに田中耕一氏の受賞の対象となった技術は1988年に発表されたものだという。まさか悪用しても十分に役立つ技術であり特定の目的に大いに貢献しているからということではないんでしょうね。そこまで人(白人のこと)を疑ってはいけないか。
 剰余。「あれは白人のための賞なんでしょう。内輪でちまちまやっていければいいものをどうして有色人種にまで手を広げて受けをねらう必要があるのでしょう。なぜ日本人にくれるのかな。だれが推薦してくれたか知りたい気持ちもあります。いずれにせよ、私は政治にはうといのでそのへんが理解できません。理解できないものを喜んで貰うというのもなんですからご遠慮させていただきたいと思います」「賞金が3千万円も付きますが」「いまどき3千万をいただいても税金でごそっと持っていかれるのでしょうから、手元にいくばくも残らないお金を額面だけでもらってもうれしくありません。たなぼたの大金をもらったら分には私は舞い上がってしまいますよ。俺は偉いんだという気持ちを押さえられず傲慢になってしまいそうな危惧を感じています。それに大金が入ったことが世に知れ渡るとよく多方面から寄付の申し入れがあると聞いていますが、そういうお話がきたら一々それにご返事しなくてはならない。そんな対応に時間をさくのは面倒なことなのでそれを思うとますます勘弁してほしいという気持ちになります。それに長年日本人をやっていますと、成り金に対するやっかみを避けられないということはよくわかっていますので、私には好んでそういう環境に飛び込む勇気がございません。また錚々たる顔ぶれと名を連ねるなんておこがましいことでありますから」