「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成17年4月の日々一献


★「根知男山」(ねちおとこやま) 17/4/27のお酒
 試飲会で、一つの蔵でいくつかのランクのお酒が並んでいたら、大吟醸とかのいいお酒は呑まない。
 その手の酒は値段も高くて、うまいに決まっているからである。
 うまいとはいったが、まずくはないという意味でのうまいである。
 庵主が好むところであるという意味での「うまい」ではない。
 もし、その大吟醸がうまくなかったら、これがよくあることなのだが、呑んだ甲斐がないというものだし、呑まなくてもわかるお酒をあえて呑んで酒量のリミットを減らすことはないからである。

 呑むのはまず純米酒である。
 庵主は、日本酒は純米酒だと思っているからである。だからといって純米酒原理主義者ではないとはいつも書いているとおりである。
 うまい純米酒なら呑みたいのである。
 もちろん庵主が呑んで「うまい」と思う純米酒のことである。

 コンビニの飲料売場を見ると、果汁0%のオレンジジュースとか林檎ジュースを売っている。もちろん果汁が入っていないのだから正しく言うとジュースではない。
 でも、そういう飲み物でも日常用語ではジュースというのである。みかけは確かにジュースだから、それをジュースと呼ぶことにためらいと恥ずかしさを感じることはない。
 果汁0%、すなわち無果汁のそれをジュースと呼んでも気にならない生活水準のときは、である。

 日本酒ではアルコールが半分以上はいってる一部の酒もまた日本酒と呼んでいるのである。
 果汁0%のジュース風飲料をそれと知っててこれはジュースなんだと思い込みながら飲むのはなんとなく気恥ずかしいように、そういうお酒を飲むことも同様に恥ずかしいのである。できれば庵主は避けるのである。
 見たくない現実に目を背けるのである。それが心の健康法である。
 見なくてもいいものに目を向けて、心を傷めることはないのに、それをして一人悩んでいる人がいるが、それは真面目というよりも不器用なだけなのだと思う。

 だから、庵主が試飲会で呑むお酒はまずは純米酒である。
 「根知」(もちろん「根知男山」のことである。「菊正宗」を「キクマサ」と呼ぶのと同じ。ちなみに「松」といえばそれは「□□□」のことである)の純米は、呑める純米だった。
 庵主が呑めない純米酒がある。しかも少なくないのだ。その実態を知っているからお酒は純米酒に限るという考えはわいてこない。
 三増酒全盛の時代ではないのである。アル添がいいとか悪いとかいう状況には今はない。うまいかどうかを見極める時代なのである。
 庵主はうまいお酒が好きなのである。そうでないお酒はどうでもいい。
 いうならば、「うまいお酒至上主義者」なのである。

 庵主が苦手な純米酒というのは、たぶん米だけで手抜きすることなく造ったらそういう味になるのだろうと思われる香りが出ているのである。
 実際に、そういう純米酒を呑んでみると説明できるが、庵主には言葉ではその香りを伝えることができない。
 そういうどろくさい香りを残した純米酒があるということである。

 庵主が呑める純米酒は、その香りがない純米酒である。こちらの味わいをモダンな味の純米酒と呼んでいる。
 モダンという言葉には、実はなかりの毒があるようなのだが、ここではごく普通の意味あいで、当世風の新感覚であるという意味で使っている。
 モダンという言葉を使いたくないときは、洗練された味と書いている。こっちの方が、昔の商品が持っている野暮ったさを払拭した感じを伝えることができるかもしれない。

 「根知」の大吟醸も呑んでみたが、とくにいうことはない。看板どおりの味だったからである。よくできた大吟醸である。
 もう一本が本醸造の「白吟」だった。これがいいのである。
 一言で言えばうまくはない酒である。けなしているのではない。
 香りが強いわけではない。味が厚いわけではない。呑んでドンとくるような勢いのある酒ではない。さりげない酒なのである。
 それを爽やかと書いたら、爽やかという特徴もさりげなさの枠をはみ出る主張のある味わいだからそうともいえない。要するにさりげない味わいなのである。
 そして、つがれるといくらでもはいってしまうお酒なのである。

 よく、水のように呑める酒といういい方があるが、それは水のように差し障りのない味わいのことをいうのだろうか。
 じっさいに水を飲んでみれば分かるが、水は意外と喉につかえるのである。お酒の方がなめらかに喉をとおることがわかる。だから、呑みごこちのよさをたたえたものではないだろうと思う。
 水のように飽きずに呑めるという意味だとしたら、水というのはある程度量を飲んだらもう飲みたくなるものである。
 酒はその点、きりがなく延々と呑み続けることができるのだから、味にクセがないというより、特徴がない味わいの酒が呑みやすいということなのかもしれない。

 「根知」の「白吟」はそのいずれでもなくて、すいすいと呑めてしまうお酒なのである。喉をなめらかに通り抜けていくのである。その感触がせつないのである。それをのどごしのよさというのだろうが。
 盃が空くと、またそののどごしの快感に身を任せたくなる麻薬のような酒である。軽い酒なのに、味にはちゃんとそこはかとない「うまさ」が感じられる。
 庵主がいうところの、これはいやなお酒である。逃れられなくなるお酒といってもいい。
 うまいわけでもないのにやっぱり呑んでしまうお酒だからである。いや、呑めてしまうお酒なのである。


★お酒は目で呑む★17/4/20のお酒
 試飲会で、知っているお酒、知らないお酒と数多くのお酒が並んでいるのを見るのは楽しい。目が楽しいのである。
 だいたい、呑みきれない量のお酒があっても、呑める量以上のお酒は口にすることができないのだから、必要以上のお酒はなくても全然困らないのである。知らなくてもいっこうに困らないのである。
 
 そうはいうものの、たくさんお酒が並んでいるとそれを見ているだけでも楽しくなるのもたしかである。
 実際に呑むお酒はそのうちの数銘柄だろうが、呑む必要のないお酒や好みに合わないお酒というのは、呑める数銘柄に導くためには欠くことのできない要素なのである。
 コンビニの雑誌コーナーで、似たりよったりの雑誌が数多く並んでいるのは、見た目がにぎやかでないと売りたい雑誌も売れなくなるからである。
 主を引き立たせるための脇の雑誌をオトリと言ったのではその編集者には悪いかもしれないが雑誌を売るためには目を楽しませるオトリが必要なのである。

 売筋の酒はこの2銘柄だと目を極めて、それ以外のお酒は呑むまでもないと判断してそれだけしか棚に並べておかない酒販店があったといたら、棚のさびしさは客を遠ざけるのである。
 オトリの月桂冠、白鶴、松竹梅、大関、沢の鶴といった有名ブランド酒で棚をにぎやにすることによって本当に売りたい2銘柄に客を導くことができるのである。

 お酒を売ることは絵を売ることに似ていると思うのである。
 数多くの絵は見るまでもないものであるが、それがないといい絵にも出会えないということがである。
 そして、まだ無名のいいお酒を人に勧めることはまだ世に知られていない絵の価値を多くの人に知ってもらう行為に似ているのである。

 突然絵の話が出てきたが、庵主はお酒同様、絵も好きである。
 いずれも能書きなんかどうでもよくて、出来上がった作品だけが勝負だから、わかりやすい世界だからである。
 ただ「わかる」までに習練と鍛練と経験が必要なのであるが。
 気が向いたら「むの字屋の美術品」ものぞいてみていただきたい。おいしい絵を何点か用意してありますので。


★二番煎じと思ったら★17/4/13のお酒
 キリンビールが新しく出した発泡酒、いや、発泡酒の枠外の酒だから、その他の雑種である「のどごし〈生〉」を電車の車内吊り広告で知る。
 ビールではないビールである。正しくいうと酒税法上のビールの定義には当てはまらないけれど、日常生活上は見た目も飲んだ感じもビールみたいなお酒なので一言でいえばビールである。生活用語ではそれを安いビールという。まともなビールは高いビールである。

 そりゃそうである。100人に聞いても酒税法上のビールの定義を知っている人はまずいないだろう。見た目がビールなら、原料がなんであってもビールというしかないのである。
 日本酒だって、普通酒とか本醸造酒は、日本酒としかいいようがないのと同じである。
 毒でなければとりあえずは何でもいいということである。

 この「のどごし〈生〉」をてっきりサッポロビールの「ドラフトワン」の真似だと思ったのである。庵主は、原料が「大豆たんぱく」とあるから、あのまずいビール(←このビールは生活用語で)を真似してつくった二番煎じだと思い込んでしまった。
 でも、庵主は好奇心があるから怖いもの見たさでそれを買ってくるのである。350ミリリットル缶入りで131円(税込)だった。

 グラスに注いだときの泡の切れがいい。というより、泡がすぐ消えてしまうところはコーラをグラスに注いだときのような感じである。
 で、飲んでみると、喉の通りがいいのである。ビールの味自体はうまいとかまずいとかいうものではなく、喉越しのよさが気持ちいいのである。
 「ドラフトワン」はビールの味にこだわったからまずかったのである。一方、「のどごし〈生〉」はビールの代用品を造ろうとしたのではなかったからいいのである。
 それは、ちょうどサイダーを飲んだときのようなさっぱり感が残るビールだった。たまたまその飲みごこちにビールのような味がついていたのである。

 見た目はビールではあるが、その成り立ちがビールとは逆だったのである。
 男のズボンは、西洋では足にぴったりの股引きが太くなったものであるのに対して、日本ではぶかぶかの袴が細くなったものであると本で読んだことがある。
 見た目は同じズボンではあるが、依って来た方向がまったく逆なのと同じである。

 「のどごし〈生〉」を飲みながら、なるほど、こういう行き方もあったのかと感心しているところである。


★春に飲むビール★17/4/5のお酒
 桜の季節である。今年の桜は去年より開花が遅いようだ。そして、ビール売場に春先用の発泡酒が並ぶ季節である。
 サントリーの「はなやか春生」の缶には桜が満開である。だからつい手に取ってしまう。
 「はなやか春生」は「ファインアロマホップ使用」の「レイトホッピング製法」とあり、「はなやかな香りを実現しました。」とある。
 「QUALITY BREW 天然水 100%仕込」と、当たり前のことをことさら強調しているのだから、香り豊かな発泡酒に違いない。飲む前から期待がいやがおうでも高まるのである。

 が、しかし、庵主は多少は人より多くのビールの本を読んでいるのだが、「レイトホッピング製法」というのがうまいビールを、おっとっと発泡酒を造るためにどのような効果がある製法なのかとんとわからない。どういう製法なのがわからないのだが、そう書いてあるとなんとなくうまそうに思えるのである。宣伝というのはこういうふうにやるという見本である。庵主はそういうのが好きである。

 ファインアロマホップというのはなんとなくわかる。香り豊かないいホップを使ったのだと庵主は邪推する、おっとっと好感する。
 よくみたらレイトホッピング製法の説明が書かれたいた。
 「レイトホッピング製法は仕込工程でホップを2段階投入。2回目はファインアロマホップを100%(全ホップの50%以上)使用し、はなやかな香りを実現しました。」とある。
 原材料は「麦芽、ホップ、大麦、糖化スターチ」とある。
 庵主には、糖化スターチがどういうものか分からないが、毒ではないだろうとサントリーを信用するのである。信用するしかないのである。サントリーは大会社なのだから。それが大会社の信用というものであろう。

 飲んでみる。はなやかな香りを感じないのは、庵主が今は花粉症の季節だからかもしれないと思い込む。
 やはり発泡酒に過度の期待をするほうが間違っていたのである。
 軽自動車に普通車並の性能を期待してはいけないということである。

 口直しに、ネストビールの「XH」を開けてみた。なお、こちらはビールである。
 香りが全然ゆたかである。日本酒の吟醸酒を開栓したときにたちこめる芳香のゆたかさに匹敵するほどである。心がくすぐられるほどに香り馥郁である。
 華やかといってもいいほどに香りの表情がゆたかで庵主の心をときめかせてくれる。庵主が飲めるのはこういうビールである。
 例によって、庵主はビールもまた量が飲めないからこういうはったりのきいている味が好きなのである。あくまでも個人の好みである。

 ところで「はやなか春生」のファインアロマホップというのは、ひょっとして香りの出ないところのそれでいて味わいが深いホップなのかもしれない。
 飲んでうまけりゃ、毒でないかぎり、何をどうやって造っても全然気にしないが、やっぱりビールは、おっとっと発泡酒は、いや庵主がうまかったのはビールだから発泡酒のことではないので、言葉を選ぶとその手の飲み物は、すなわち外からみたらビールのようだが実は一方は代用品というアルコール飲料は、いい素材を使うといいものができるようである。
 大会社はこうして消費者に商品を見極める目を鍛えてくれるのである。ありがたいことである。
 同時に大会社はまともなものを造らないということも教えてくれるのである。悲しいことである。


★贔屓のお酒★17/4/1のお酒
 贔屓のお酒というのがある。
 一方、贔屓の引き倒しという言葉もある。
 贔屓と思いこんでしまったら、欠点もよく見えるようになる。惚れてしまえばあばたもエクボなのである。人間の心理の妙である。
 庵主の贔屓のお酒は「岩の井」である。
 その「岩の井」の「山廃仕込み純米酒」を呑んでみる。精米歩合は65%。米は表示されていないが四合瓶で1200円である。
 手頃である。これでうまかったら大儲けというお酒である。

 贔屓心というのは、きわめて気分の問題である。かりに口に合わなくてもうまく感じるのである。ということは、なんでも贔屓にしてしまえばおいしく食べられるということである。判断基準を客観的という比較対照におくのではなく、主観的という自分の気分に合わせてしまえば何をたべても幸せになれるということである。
 うまいまずいを論じるグルメ評論家は好んで不幸を求める最高に不幸な商売だということである。
 まずいものをまずいといってもうまくなるものではない。それよりも贔屓の引き倒しでおいしく食べた方がずっと利口なのことなのではないか。

 さて「山廃仕込み純米酒」であるが、芳醇な味わいのお酒である。味に厚みを感じる。菊池幸雄杜氏は南部杜氏だというが、その酒質はまろやかで豊かである。
 水のようだと表現されるような頼りない味わいのお酒ではなく、舌に酒の重みをどっしりと感じて(あくまでも感覚的に感じるである。客観的には他の酒とそれはほとんど変わらないと思われる重みのことである)酒を呑んだという充実感がしっかり残る味わいなのである。
 が、しかし、山廃特有のニオイがある。かすかにある。ニオイは微量でもちゃんと感じるのである。なんでもそれは乳酸に由来するにおいだと聞く。
 それは老ね香(ひねか)に似たニオイである。老ね香というのは紹興酒のにおいがそれに近い。そのにおいは古い日本酒にも出てくるニオイである。

 老ね香とはいうがこれは決してマイナスイメージではない。きれいな老ね香は熟成香といってその味わいを讃えるのである。
 これって、そのニオイを贔屓にしたら熟成香、気に入らなければ老ね香でなのである。
 極めて気分の問題なのである。
 芋焼酎だって、呑み慣れないときにそれを口にしたらとても呑めるものではないのだから、山廃由来のそのニオイがなじめないというのは、まだまだ人間ができていないということなのだろう。

 「岩の井」の「山廃仕込み純米酒」はそういう味わいだというのにもかかわらず、庵主は結構うまい酒なのではないかとうまさを探りながら呑めてしまうのである。苦笑しながら呑んでいるのである。
 贔屓の酒なのである。