「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成16年11月の日々一献

★「司牡丹」の酒生き生き★16/11/24のお酒
 「司牡丹」と庵主はちょっとした関係があって、一宿一飯(いっしゅくいっぱん)の義理があるから、まちがっても貶すことができないお酒である。
 でも庵主は素直だからはっきりいう。「司牡丹」は庵主の好みのお酒ではないのである。庵主の好みでないということが、イコールまずい酒だということではないのはもちろんのことである。
 庵主の好みはいつも言っているようにあまいお酒である。一杯しか呑まないから最初から強烈な印象を与えてくれるお酒でなくてはならないという前提があるからである。
 あまいということはうまいに通じるが、同時にそれは馬鹿でもわかる印象だからあまり賞味能力を要求されないということでもある。要するにわかりやすいお酒で十分ということである。他愛のない酒呑みなのである。
 「司牡丹」は土佐の酒である。地の食べ物が「司牡丹」の味を支えているのである。東京で粗末な肴でそれを呑んでうまいとかマズイとかいう筋合いではない。

 今回試飲会で呑んだのは「司牡丹」の「特選 ひやおろし」と「超特選 純米吟醸 佐川山田錦」である。
 この「ひやおろし」はいい。お酒の元気がいい。お酒のうまさというより、日本酒が秘めている生気を感じるお酒である。その溌剌とした呑み心地がうまい。若いといえば若い酒なのだが、その若さが気持ちいい。呑んでいて楽しいお酒なのである。
 永田農法によって作られた地元産山田錦を使った純米吟醸酒「佐川山田錦」は山田錦の品のよさが素直に出ている美酒である。きれいなお酒である。品のいいお嬢さんを見る思いがする。いいお酒を呑んでいるという幸せ感につつまれる。
 いつもなら、庵主にとってはさほどうまいとは思えない「司牡丹」が今回はその気合のうまさですっかり庵主を気持ちよくさせてくれたのである。
 お酒がいつもこのように気合がこもっていればうまいのだが、管理を一つ間違えるとせっかくのお酒がちっとも心をゆすぶらなくなることが分かる。お酒の管理とはこのうまさを呑み手の口まで届けるということである。温度管理であり、呑み時の管理である。
 お酒は管理を呑んでいるのだと改めて実感したものである。

 高知を訪れた人が、地元の料理で「司牡丹」を呑んだらすいすいと入ってしまった、この味が「司牡丹」のうまさなんですね、と感心していた。お酒は地元で、地元の料理で呑むのが一番幸せな呑み方であるということである。
 しかし、庵主は東京で空調のきいたお店の中でそれを呑んでいるのである。そのうまさを一皮も二皮もそいで呑んでいるということである。
 いいランクのお酒はただ比較することでそのよしあしを論じてもかまわないが、そうでないお酒はやっぱり地元で味わうものだろう。
 お酒を楽しく呑むことと、ただ味わうということは別のことなのである。


★市川雷蔵祭★16/11/17のお酒
 凛といい、艶といい、美という。市川雷蔵祭の予告篇の惹句(キャッチフレーズ)である。その魅力をいうのに、3文字でぴたりと決まるのが市川雷蔵の魅力なのである。
 『シネスイッチ銀座』が11月27日から1か月間を市川雷蔵祭として41作品を連続上映するという。
 その予告篇の藤村志保のナレーション(語り)がもう映画なのである。その声が女優なのである。なつかしさを誘う。そして市川雷蔵の声に、庵主はしびれるのである。だから、しばらくその声をきかないと、映画館でその声を聞きたくなのである。庵主は映画館にはいるとそのうちすぐに眠たくなるから男優の声がよくないと安眠できないのである。男のいい声は安らかな眠りに誘ってくれる。今回も未見の作品を中心に映画館に通うことになりそうである。

 庵主は映画の満足感は男優の声のよさにあると思っている。日本酒にかぎらずうまい酒というのは酸味がしっかりしているお酒である。お酒の酸味に匹敵するのが男優の声のよさである。中身のない映画であっても男優の声がよかったら映画を見たいという満足感が残るが、そうでないときには不燃焼感をいだいて映画館を出るということである。いまひとつ満足のいかないお酒を呑んだときに口直しがほしくなる時のように、もう一本まともな映画を見たくなるのである。声のいい映画をである。
 凛・艶・美。それはお酒の魅力と同じだと思った。
 うまい酒を思い浮かべてみる。
 いい酒には凛とした格調の高さがある。向こうからこっちにすりよってくるお酒ではなく、呑み手がお酒をいかに理解できるかと自分を試す酒である。
 そしてお酒のうまさは艶っぽさにあると思う。庵主が辛口の酒を嫌うのはその艶っぽさが感じられないからである。スカスカの辛口のお酒というのは誰が呑むのかしらないが、庵主にとっては「あーあ、つまらないお酒」なのである。

 いいお酒を呑む楽しみはその美しさに触れる快感にある。最後は美に行き着くのである。だから「むの字屋」には絵の部屋がある。
 お酒の世界と絵の世界との間には、その楽しみの本質には相通じるものがある。お酒がわかると絵が見えてくる。また絵が見えるようになるとそれはお酒を味わうときのよしあしの基準と通じるのである。
 お酒の味わいは酒の専門用語を使って語るのではなく、酒を女の人にたとえるとわかりやすいというのが庵主の経験則である。そしてその酒質は絵になぞらえると明瞭に見えてくるのである。日本酒とチーズが意外と合うように、お酒の世界と絵の世界は意外と気分が似かよっている。日本酒は芸術品でもあるからだ。その心はどこかで通(かよ)っている。
 だから、庵主は、うまいお酒を呑みながらそばにいい絵があるというのがいちばんゆたかな暮らしだと言ってはお酒の最高の肴としていい絵のある生活をすすめるのである。
 いい絵がそばにあるとお酒がうまいから。


★「大関」がやらなきゃ誰がやる★16/11/10のお酒
 先月は月末に葬式で北海道に帰ったらうまい酒が呑めた。今月は月初めに葬式である。趣味の仲間が亡くなった。酒は「大関」だった。
 お清めの席に通されたので、寺の境内にテントを張った席だったこともあり、つめたいビールでは体が冷えると思ってあったかいお酒を頼んだら燗をつけた「大関」の一合瓶が出てきた。
 べつに気にすることもないのだが、葬儀社が用意したその一合瓶は真っ赤な色で「大関」と印刷されている瓶である。普通の市販用のものである。
 不祝儀のときに使う色は薄墨色と決まっている。百貨店でも不祝儀の包装紙はそれ用のものをべつに用意してあり、それを使うのが日本人のたしなみなのである。美意識といってもいい。
 たしかに香典返しが真っ赤な薔薇の花の包み紙だったら、喪主は故人の死を喜んでいるような印象を受ける。
 「大関」は会葬御礼用のお酒にはちゃんと灰色でラベルを印刷したそれ用のお酒を用意しているのである。
 お清めの席用にグレーラベルの瓶を用意してあってもいいんじゃないかい。それが日本の美意識なのである。
 それはともかく、「大関」にはもう一ついいたいことがある。
 今度もらってきた会葬御礼に入っていた「大関」のことである。もちろんグレーラベルの「大関」である。写真は別掲。
 それがPETボトル入りだということはおいておこう。容量は180ミリリットルである。問題はその中身なのである。
 ボトルの表示から引用する「原材料:米・米こうじ・醸造アルコール・糖類・酸味料」「アルコール分14度以上15度未満」と印刷されている。
 商売気がないのである。葬式はその人にとって一生に一度の花道である。そんなときに、いまどき糖類だの酸味料だの使った粗末な酒を出してくるという根性がわからない。葬式酒は在庫処分のつもりなのか。
 もう一度引用する。「製造年月はキャップに記載」とある。キャップには「製造年月 04:10.BJ」と明瞭に印字されている。これは見やすい。新潟酒の表示同様庵主は好きである。その表示がですよ。
 日付を見るとけっして在庫処分ではないことがわかる。新しいお酒が詰められている。
 が、しかしである。なんで一生に一度の花道にそんな低ランクのお酒を用意するのかということなのである。
 葬式の酒である。思い切って故人にふさわしい、かりに平凡な生涯を送った故人であってもいいお酒で西に送るというのが葬儀の見栄ってものじゃないのか。
 葬式の酒ならいくら高くてもだれも文句は言わないのである。だから「大関」は葬儀という遺族の見栄にこたえるべく、葬式用の清酒として呑んでうまいいいお酒を用意して、堂々とそれにふわしい値段を付けて出せばいいのである。多少高くても誰からも苦情はこない。ぼろ儲けのチャンスなのである。葬儀社にそれなりのバックマージンを出しても儲かるぐらいの値段で出しても値切られることはまずないのだから。そのかわり中身の酒はさすがに「大関」だと唸らせるようなものをいれてほしい。お清めの席が盛り上がるような美酒をである。
 そういうおいしい商売ができる場にいくら数出してもたいした売上にならないお酒を出していたのではせっかくの商機をみすみす捨ててしまっているということではないか。だから商売気がないと書いたのである。
 葬式に使う酒はいままで日本酒を呑んだことがない人でさえ、あっと驚くようなうまい酒を用意するのである。普段は高くて呑めないそういういいお酒をまた呑めるから次の葬式が楽しみだという喜びがほしいのである。
 また、日頃は日本酒を呑まないという人でも、そういう場でうまい日本酒があるということを知ったらきっとまたうまい日本酒を呑みたくなることだろう。日本酒のうまさを教えるいい機会でもあるのだ。
 「普段呑む酒も、葬式の酒みたいなうまいのを呑みたいな」と亭主がいえば、「一生懸命働いて、しっかりあたしに保険金を残してくれたら、死んだときにはちゃんといいお酒を用意してあげるよ」とカミさんが答えるような会話がかわされるようにならないとダメなのである。葬式のお酒はあこがれの酒にならないとダメなのである。
 年寄りに残されている楽しみというのは、葬式で普段会えない人とあってしばしのお喋りをすることと、もう残された人生は短いのだからそこでいいお酒が呑めるということなのである。そしてあいつは死んだが俺はまだ生きているという人生の勝利者としての優越感にひたることなのである。そのためには酒は美酒でなければならないのだ。
 そういう得難い席だというのに「大関」がこんな粗末なお酒を用意するというのはそもそも故人を馬鹿にしているようなものである。庵主は「香典を返せ」と叫びたくなったほどである。しかもよりによって、いまでは探さなくては手に入れられないような増醸酒をもってくるというのは冗談にもほどがあるというのが庵主の「大関」に対する苦情である。
 「当蔵は旅立ちのお酒は故人に手向ける最高の花でなければならないと考えています。人の一生は酒の一升で幕を閉じると申します。お別れのお酒にいいお酒を振る舞えるということがその人の花の生涯であり、また最期を飾るお酒こそは故人を送るにふさわしいお酒でなくてはなりません。それが残された人の故人に対する最愛の心づかいでしょう。一生に誠意を尽くされた故人に、大関がその技を極めた最高のお酒を贈りたいと思います。
 日本酒はわが国が造りあげた、いや日本人の心が造り上げたいうなれば日本人の文化の精華であり大和心のきわみであります。大関が心をこめて醸した美酒で故人をお偲びください。
 故人の思い出とこのお酒がいつまでも皆様の心の中に残りますように。 合掌」とでも言っていいお酒を出してくれないことには、葬式に行く楽しみがないではないか。
 葬儀には最高の酒を用意するものだという習慣をはじめてくれるのは、ワンカップ酒で先陣を切った「大関」以外にはないのである。葬儀はこれからの有望市場である。単価の高いお酒を売り込む恰好の場なのである。
 葬式でおいしいお酒が呑めるようなったら、庵主にとってはこれほどうれしいことはない。それはまた故人に手向ける最高の真心なのである。


今月はお酒が呑めない月★16/11/7のお酒
 今月はお酒が呑めない月である。呑まない月ではない。というのも今月の酒代は新潟中越地震の義援金のしてしまったからである。
 酒に不自由をしているわけではない。人から貰ったりして、いつの間にか集まってきたお酒が何本かあるからである。
 庵主は基本的にはお酒を呑まないから、貰い物のお酒はちょっと口をつけて、美酒を贈っていただいた礼状を認めたあとはその後また呑むこともなく残ったままになっているということが多い。
 貰い物のお酒がかなりいいお酒の場合は、お酒が好きな人のところに持っていって呑んでもらう。
 だから手元に残っているお酒は、人に呑んでもらうまでもない特徴のないお酒がほとんどである。貰ってから熟成数年というお酒もそのままになっている。捨てるにはもったいないが、日々呑んでいる生きのいいお酒に比べるとそれらを呑んでみたいという気持ちはあまり起こらない。
 本でいえば、フレッシュな新刊書ばかり読んでいて、以前に出た本まで手がまわらないという状態である。そんなに本ばかり読んでいる時間がないのと同じである。
 庵主は体質的にお酒が呑めないから、2〜3杯の美酒を嗜んだあとにさらにお酒を呑む気が起こらないということもある。
 なかには旅をしたときに買ってきた地元のワンカップ酒もある。そういうお酒は「呑んで! 」というオーラが全然感じられないお酒で、旅の思い出として以来数年間そのままになっているものもある。室内の暗所に置きっぱなしだから、瓶の外側はかなり汚れているものもある。人にお酒を提供するバーなどではないので、毎日瓶を拭くということはしないからである。
 瓶の中身は大丈夫だと思うが、酒の色がうっすら黄色くなってきてたぶんワンカップ瓶の中で味はどんどん劣化していると思われる。ますます呑み気が起こらないのである。
 瓶がたまって置き場所に困るので最後はお風呂にいれてしまう。酒風呂である。湯気はお酒のにおいがする。お湯がいつになくやわらかくなったように感じるのは錯覚だろう。
 せっかく造ったお酒を風呂に入れることもないと思うから、もったいないを通り越してはしたないことだと思うから、呑めないほどの量のお酒をもらうのはありがた迷惑なのである。
 食い物や飲物を粗末にするとバチがあたる。と、躾けられたからその呪縛はいくつになっても解かれることがないのである。宗教に生きる人の気持ちがわかる。理性とか冷静な判断などによって選んだ生き方ではなく、そういうしきたりなのである。そのしきたりに疑問のギの字も浮かばないまでになじんでしまったというわけである。
 疑問をもつこともいいが、適当にしておかないと精神がおかしくなる恐れがあることと、一般的にいってその程度の疑問は時間つぶしにしかならないことがわかっているからほどほどにといったところだろう。疑問を突き詰めると自分の無力感にさいなまされることになるからである。そうなったときにはお酒で心をいやすのである。お酒の助けを借りてごまかすといったほうがいい。
 今月はそれらのたまったお酒の在庫処分である。年を経て、味がドーンと劣化した酒もあるだろう。貰ったときの味がすこしもへたっていない酒もあるだろう。かえっていい味わいが出てきたお酒もあるだろう。
 庵主が買ってきたお酒は、まともな居酒屋では呑むことができない下手物が多いから、一回呑んだらもうそれで十分というお酒が多い。大手メーカーが造った試験販売商品みたいなお酒も多い。企画の意図はわかるがあんまりうまくないお酒であることが多々である。そういうお酒は人にも持っていけないし、捨てるのもなんだから始末に困るのである。
 へんなお酒を造らなくても、一度口にしただけでうまいと感じるまっとうなお酒を造っていればいいのに、色気を出してヒットを狙うとか売上に貢献しようとすると出てくるお酒はやっぱり下手物なのである。
 庵主は下手物が好きだから、それはいっこうにかまわないし、そういう商品があるからおもしろいのだが、ふだん呑んでいるお酒は、そして呑んでうまいと思うお酒はみんなまっとうなお酒なのである。
 釣りはフナに始まってフナに終わるといういう。お酒もまっとうなお酒に始まってまっとうなお酒に終わるのである。ただその間を埋める波瀾万丈のお酒がないとさびしい。世の中いつも平和だとあきてくるのと同じである。さびしいとはいっても、そのさびしさをいやしてくれるはずのそのお酒の酒質自体がさびしい場合が多いから苦笑するのである。まずいと口に出してはいえないから苦笑するのである。
 新潟に大きな地震があったおかげで、今月はお酒をしみじみと味わって呑めるのである。


★焼酎全開★16/11/3のお酒
 焼酎乙類と泡盛が、「11月1日は、本格焼酎&泡盛の日。」と称して全面広告を打っていた。「味な本格。」と、焼酎は元気である。日本酒造組合中央会の出稿である。
 日本酒が呑まれなくなっている中で、焼酎は勝手に売上が伸びていくのである。向かうところ敵なしである。
 フランスの日本酒同様売上が落ち込んでいるワイン業界は、日本の焼酎こそを脅威として見ているという。食前酒としてよし、食中酒としてよし、食後の決めでも味わえる万能の酒だからである。世界に敵なしの観を呈してきた焼酎の勢いがその広告には漲っている。読売新聞の朝刊の6面である。
 読売新聞は一面の下にある書籍の広告をカラーにした。一面をぱっと見たときに、あんまり色がにぎやかなので夜の歌舞伎町が引っ越してきたのかと思ったら、書籍の広告まで色刷りになっているせいだった。
 白黒テレビがカラーになったときのような新鮮な印象をうけたものだ。カラーの衝撃である。モノラルのレコードがステレオになったときの感動には及ばないが、映画がシネマスコープになったときのような画期的なできごとである。
 とはいえ、新聞の紙面がテレビのバラエティ番組のセットの色遣いみたいに派手でかつ軽薄(あえて下品とはいわないが)になっていくような気がすることも否めない。まあ、にぎやかでいいけど。
 色で惑わせる新聞ではなく、中身の記事の内容で読者を色めかせてくれる新聞があればいいのだが、それはないものねだりというものである。
 日本酒の世界なら、ねだればその期待にこたえてくれるお酒が出てくるのである。だから呑み手はいくら貪欲になっても願いがかなえられるとんでもない世界なのである。呑み手の想像を絶する世界といったほうがいいかもしれない。日本人の執念がこもっている世界だからである。
 お酒はいい酒から呑まれて無くなっていくから、日本酒の世界には早く飛び込んだほうが幸せの期間が長くなるのである。
 庵主は、焼酎・泡盛の全面広告の勢いに圧倒されながらも、呑むのならやっぱり日本酒の方がうまいと思うなと思いを新たにするのである。


★こういう日もある★16/11/1のお酒
 ごちそうしてもらった。
 お酒は「天保正一」(滋賀の「喜楽長」の大吟醸)と奈良の「八咫烏」の大吟醸である。
 両方とも、お酒の味がわからなかった。
 この二つは庵主の決めの2杯なのである。勝負服ならぬ勝負酒である。
 だからきれいなお酒なのである。洗練された味なのである。味のセンスがいいのだ。押しつけがましいところがない。品のいいお酒で、呑んでいて気持ちがいいのだが、今回は、いつもならじわーっとしみ出てくるそのうまさがなぜか感じられなかったのである。
 このお酒を呑んでおいしいと感じなくなったら、もう生きている甲斐がないといっていい2本である。庵主はあわてた。
 もっとも、目の前にすわっている女の人が素敵だったから、すっかり上がってしまってお酒の味がわからなかったということも考えられる状況なのではあるが。
 体調は、身体、精神ともに正常である。
 秋口になると、それまであれほどうまかった生ビールが突然それほどうまいとは感じなくなるように、庵主の日本酒生活は一生を通じての限界に達しているのかもしれない、と枯れた思いにかられていたのである。
 日常生活で、時々心臓のあたりに痛みを感じると、俺の心臓はもうダメなのでないかと思うのと同じ気分である。
 「からだ」がそれ以上は必要ないと自制しているのではないか。毒から「からだ」を守ろうとしているのではないか。その時に自分の「からだ」に有害なものを避けようとしているのではないか、ということを漠然と考えていたのである。
 すなわち庵主の一生の酒量をすでに越えてしまっているのではないかと。もうお酒を呑んでもおいしいと感じられなくなったとしたら、こんな寂しいことはない。むなしい、というのはそういう境遇をいうのではないか。目の前にあるおいしいものをおいしいと実感できなくなった心の乾きのことである。心がひからびている状態といってもいい。
 庵主がひらがなで「からだ」と書くときは、身体と精神とを統合した「からだ」のことである。「体」という字の下に「心」と書く漢字があればいいのだが、「恷」という字はあっても、そういう字がないので読みにくいのを承知しながらもひらがなで「からだ」と書いている。いちおうカギカッコをつけるのは可読性(読みやすさのこと)を確保するためであって強調としての意味はない。
 この夜、庵主にとっておいしいはずのお酒がいつものようにおいしいと思えなかったことについては思い当たることがある。というのも今月(10月のこと)は少し呑み過ぎたのではないかと反省するところがあったからである。
 月間30本(30種類という意味)以上はお酒を呑まないということにしているのに、今月は一泊で呑みに行く与太呂会があったこともあって、軽くそれを越えてしまった。
 月間飲酒量過多なのである。
 もっとも10月1日は「日本酒の日」で、日本酒をたくさん呑みましょうという月ではあるのだが。