「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成15年4月の日々一献

★日本酒はプチ鬱症に薬効あり★
15/4/25のお酒
 長い習慣のせいか、日曜日があっという間に過ぎ去って、曜日が変わって月曜日が始まると鬱な気分になってしまう。心がなんとなくだるいのである。心がくつろぐ日曜日から平日の月曜日へと気持ちを切り換えることがどうもうまくできない。休みの次の日は多くの人が同じような気分になるものだとはわかっていても、心がだるいと感じると、なんともない体までそれに合わせて元気がなくなってしまうのがわかる。身心は一即不離なのである。
 ときには旅でもしてからだを休ませるのがいいという記事を目にしたことがあるが、庵主の場合は逆である。旅先ではしゃいできたときには、もとの生活に戻ったときの心の落ち込みがかえって激しい。なんにも起こらない、変わらない毎日でいることが一番からだにいいのである。
 肉体の体は「体」と、心と肉体を含めた体の状態を「からだ」と書き分けている。
 庵主は鬱病の傾向があると自覚している。小さい時分からそれに気づいていたから心が落ち込んできても全然あわてない。ああまた俺の個性が始まったなと冷静に対処できるのである。自分が自分を制御できなくなる本格的な鬱病ではなく、いま流行りの鬱症といったところなのだろう。心のエネルギーがどんどん低下してきても、なんとかそれを回復する方法をいくつか知っているので、それほど深刻には考えていないから、それをプチ(わずかな)鬱症と呼んでいる。
 もっとも今の時期の頭の中のもやもや感は花粉症の最後のあがきなのかもしれない。庵主の花粉症は5月の連休が明けるころまでつづくからである。
 最近は、鬱の症状は薬で緩和できるというが、薬=毒ということだから、できれば日常の食品で沈んだ心を軽やかにしてくれるものがないものかと思っていたところに、目の前にそれがあった。
 ひとつは「常きげん 山廃大吟醸 限定酒」。もうひとつが「菊姫 11BY純吟荒走り」である。前者は3年、後者は4年の熟成を経ている酒である。
 いずれも酒が内に含んでいる力が相当に高い。その酒を口にしただけでお酒から元気が流れ込んでくるのがわかる。低下した庵主の心のエネルギーを一気に補填してくれたのである。
 絵のよしあしは、心が疲れているときに見るとよくわかるというのが庵主の経験的実感である。数多くの絵がかかっていても、本物の絵だけが疲れた心に元気をそそぎこんでくれるからである。お酒も同じである。
 庵主は絵の善し悪しを知りたいと思ってよく絵を見歩いているのだが、お酒の世界を知ることで両者にはかなり共通するものがあるということを知った。一つの世界のいいものを経験すると別の世界のいいものが見えてくるようになる。真理はどの世界でも、どの分野でも同じ原理で善し悪しが成り立っているようなのである。
 世界中にはいくつもの宗教がわれこそは真理と自称して相争っているというのをみて、宗教のいかがわしさを口にしたら、「どの宗教も真理という頂上は一つ。その登り口がいくつもある山のようなものだ」と教えられたことがある。この答えでは、相争っている理由がよくわからないが、その登り口は違っていても山の頂上はただ一つというたとえはわかるような気がする。宗教のいさかいについては、宗教というのは人を殺すことに対する罪悪感と恐怖感をとりのぞく装置のような気がする。だれが思いついたものかうまいことを考えたものだ。それによって利益を得る人なのだろう。庵主は人殺しは避けて通りたいので宗教には深入りしないことにしている。義理と人情には必要以上にちかづかないことが安全運転のコツである(あっ、車のたとえになってしまった)。
 知るということは、まず比べてみることである。両者の違いがわかるようなるとその善し悪しが見えてくる。そして一つの世界を極めれば、他の分野の価値判断にもそのものさしを適用できることが多いのである。真理と書いたが、それは物事の本質という意味である。いうなれば一つの字体にいくつもの書体があるようなものである。表向きの形は少しずつ違っているが、本質は一つなのである。世の中の原理もそのようにできているのではないだろうか。
 庵主は量は呑めないのだが、こんな時にはお酒が呑める体質であることをありがたいと思うのである。
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字体=文字の基本的な骨格のこと。たとえば同じ字である「経」と
   「經」は字体の違い。
書体=字体が着ている服のこと。明朝体とかゴシック体とか活字の
   デザインの違いのこと。


★ひょっとしての大吟醸★
15/4/15のお酒
 高知県佐川町出身の「司牡丹」(つかさぼたん)の純米大吟醸生原酒がその酒亭の冷蔵庫の中にあった。限定品である。本数が少ないので、その一升瓶に貼ってあるラベルも実用的なデザインである。そして製造年月は15年3月とある。だからひょっとしてこの大吟醸は、と思ってためらわずそれを指定したのである。もしかしたら、そうかもしれないのである。
 おとなの風格がある酒である。
 目立つことはしない。大吟醸だからといって香りが立ってくるような酒ではない。でも匂いを感じさせないようでいてちゃんといい香りがある。
 そして磨き上げられた品性を感じる。過ぎることのない抑制がきいているいい味わいである。呑んでいてあきることのないうまさがある。そのバランスが心地よい。
 それでいて味に洒落っ気がある。酒の味がモダンなのである。泥くささがない。洗練された味なのである。田舎の味といった古くささがない。地元の料理の味付けとの相性にこだわらないクセのない味わいなので、この酒だけで呑めてしまう。
 品がいいのである。だから呑んでいても気持ちがいい。そしてじわじわとその人柄のよさにひきつけられていくお酒だった。
 いつでも出会える「幻の酒」というのもあるが、日本酒のうまいお酒は実はその多くが幻の酒なのである。そのうまさを再現することができない酒なのである。たまたまその酒を口にした人がそのうまさを言い伝えるのである。呑みきったらもう二度と口にすることができない幻の酒として伝説が残るだけである。
 「司牡丹」のこの大吟醸はそういう幻の酒なのである。
  ここから先は庵主の個人的事情である。
 加島義樹杜氏がこんなお洒落な味わいのお酒を造ったというのが庵主にはおかしくてしょうがない。うれしいという意味である。
 地元の味に密着した、はっきりいって庵主の舌にはちと辛過ぎる「司牡丹」を醸している加島杜氏がこんな洒落たお酒も造るのかと思うとお酒を呑むのが楽しくなる。
 庵主が、この酒はひょっとして、といったのは麹なのである。大原さんが造った麹である。で、庵主は2月5日に大吟醸の麹造りをちょっとだけ手伝ったものだから、この大吟醸の麹は庵主が手がけたものかもしれないという期待がよぎったのである。
 もしこの大吟醸が庵主の麹なら、こんなうまい酒を造ってくれた加島杜氏に感謝感激、東京で万歳を叫びたいほどの出来ばえのうまい酒なのである。
 中庸という言葉があるが、この大吟醸を口にして、必要以上にうまからず、そして安心して呑めるうまさをたたえた味わいに、これは中庸のお酒であると加島杜氏の顔を思い浮かべながら得心したのである。


★芝居がはねて飲む酒は★15/4/10のお酒
 庵主の花粉症は相変わらずである。鼻がつまる。街頭でただで貰えるサラ金のテッシュペーパーがありがたい。借金しなければ生活していけない人たちの弱みにつけこんだ上がりから配られている重宝なその紙で庵主は難渋の季節をしのいでいるのかと思うと高利貸しの上前をはねるようで気が重くなるが、この時期は他人の苦労より我が身の花粉症の方が大事なのである。
 朝、起き掛けに催してくるくしゃみの連発。くしゃみができるのは健康の証(あかし)とよい方向で考える。くしゃみをすると肺腑に痛みがはしるときがあるが、好きなだけくしゃみができるということは体が丈夫だということにほかならない。
 喉がやられる。風邪をひいたときのような喉の痛みがいつまでもひかないのである。映画や芝居を見ている最中にきまって咳き込んでくる。咳をすると回りに迷惑になると思い、なんとか抑えようとすると涙があふれてくる。それが苦しい。だから常時のど飴が手放せない。
 目がかゆくなる。庵主は幸いこれはがまんできる。花粉症に煩わされる日々が続いているが、しかし希望は見えた来た。毎年、5月の連休があけるとその症状がいつの間にかおさまるというのがならわしだからである。
 桜の花が毎年きまった時期に咲きほころび、散っていくように庵主の花粉症も一年長生きしたことの証なのである。
 で、今年の花粉症もあと一か月の辛抱となった時に、毎年、未来劇場が銀座の博品館劇場で公演を打つ。今回は題して「艶笑綺譚ミュージカル風 風の又三郎の桃色遊戯」である。勲章が一個ついている。劇団未来劇場創立四十五周年記念公演である。
 喫煙を慫慂(しょうよう)し、銀座ではここでしか耳にすることができない禁句がとびかう大人相手の舞台なので中身については語れない。ただ見てみればわかる。4月20日までだから、お酒同様、芝居は一期一会なのでお見のがしのないよう。
 喉が渇くのである。未来劇場の芝居は2時間半ノンストップである。途中の休憩がない。だから幕間で生ビールを一杯というわけにはいかない。観客と役者の根比べでなのである。観客が飽きるのが早いか、役者がそうはさせまいと緊張を保ち続ける気力がそれを上回るか。敵は観客を飽きさせまいとあの手この手で迫ってくる。
 未来劇場の芝居は麻薬なのである。それはじわじわと体にしみてくる。やめられなくなるのである。その世界から逃れられなくなるという点では良質のお酒を嗜(たしな)むようなものである。それを飲んだからといって人間が少しは増しになるというものではない。ただ、ないと心がさびしいのである。人の寂しさにつけこむもの、それが麻薬なのである。
 未来劇場の芝居は終演の幕が下りるとそれでおしまいである。落語家が一席を終えて何事もなかったかのように楽屋に下がっていくようなキレのよさに似ている。余韻だけが残る。コンサートのアンコールのような未練たらしいシーンがないのが潔(いさぎよ)い。ラジオのクラシック音楽の演奏会で、会場に大粒の雨が降って来たのかと思ったらアンコールの拍手の音だったことがある。あの人たちは録音盤の音楽を聞いたときも感動したからといって拍手してアンコールをするのだろうかと思うと可笑しくなったものである。いじましいと思うのである。
 芝居がはねて我に返ったら、それまで舞台との対峙ですっかり忘れていた喉の乾きがよみがえって来た。喉を潤したくなった。
 水が呑みたい、いや生ビールだ、ジントニックでもいい、と、近くのバーに飛び込んだのである。


★新幹線の運転手★15/4/5のお酒
  新幹線ののぞみの通過駅、たとえば浜松の駅でホームに立って見ていると、脱兎の如くホームを通り過ぎていく運転手と、ちゃんと減速してホームにいる人を驚かせないように通過していく運転手がいる。運行の規則上は人がいるホームを全速力で通過することもかまわないのだろうが、やっぱり後者の運転手に知性を感じるのである。
 知性といえば、女子供に酒を勧めないというのも知性であろう。酒屋のセールスマンじゃあるまいし、「タバコと違ってお酒は健康にいい」とか「酒が飲めないと会社務めはできないぞ」とか「日本酒を呑むと肌がきれいになるよ」とか「夏はやっぱり生ビールだ。プファー」とか「成人になったらまず一杯」などと脅したり、すかしたり、その気にさせたり、唆したりして飲酒を勧める図は見ていてみっともないのである。飲まなくてもかまわない人に飲酒を勧めてはいけない。
 タバコ屋が、まともな男がだんだんタバコを吸わなくなって売上が落ちたので、その分を判断力のない女子供に吸わせようとしている様に知性のカケラでも感じられるだろうか。
 日曜日の読売新聞のお酒ネタは、一つは「酒断るシール」の話である。花見や新入生歓迎コンパなどの季節に「イッキ飲み防止連絡協議会」(03-3249-2551)が作ったシールの話題である。
 もう一つは「授乳中は禁酒に努めたい」という記事である。「母乳のアルコール量は母親の血液とほぼ同濃度」だという。「アルコールは母乳に移行しやすい」とも書かれている。だから酒を飲んだあとの授乳は赤ん坊に酒を飲ませているのと同じだという。
 意外と盲点なのは、栄養ドリンク剤とか風邪薬液、ケーキやノンアルコールビールにもアルコールが入っていることを見落としてしまうという。甘酒とか卵酒はいうまでもない。食前の一杯の梅酒も同様である。それとウイスキーボンボンも
 女に酒を勧めるはやっぱりやめましょう。勧めないのが知性である。
 本音はうまい日本酒はそれを知っている男だけで呑みましょう。ね、ご同輩、そして諸先輩、先達の皆さん。



★千年の技★15/4/1のお酒
  「八海山」の高浜春男(たかはま・はるお)杜氏が祥伝社から「杜氏千年の智恵」(祥伝社刊・1600円税別)を出した。逆か、祥伝社が高浜杜氏の本をものにしたといったほうがいい。
 読みやすい本を作ることに長けた祥伝社の手になってこそ、この本のぬくもりがよりいっそう感じられるからである。祥伝社の本は造り方が丁寧だから読んでいてここちよい。どう読むのかわからない酒造り用語にはちゃんとルビ(ふりがな)が付いている。例えば「蒸米」とあってもフリガナがなければそれを「むしまい」と読むのか「じょうまい」と言うのが正しいのかわからないだろう。
 濾過はどのようにやっているのですかとか、速醸モト[酉+元]で使う乳酸はどういうのを使っていますかとか、庵主がいつも聞いてみたいと思っていることはこの本でもあえて書かれてはいない。いつも、あーだの、こーだのと言って呑んでいる日本酒であるが、その造り方に関しては、庵主にはわからないことが多いのである。日本酒は謎の醸造酒なのである。そのミステリアス(神秘的)なところがうまさの秘密なのだろうか。
 この本を読むと高浜杜氏が大吟醸の造りに注ぐ神経の張りつめようがひしひしと伝わってくる。「八海山」の大吟醸には蔵の中でしか呑めない35%と市販用の45%とがあるという。
 とはいっても市販用という45%の大吟醸が、これがまたそう簡単には手にはいらないのである。工場で造る商品とちがって、酒はまさに一品物といっていい商品だからである。庵主が「気になるお酒に出会ったらその時に呑んでおけ」という所以である。「一期一会」とはお酒との出会いのためにある言葉ではないのかとも思ってしまう。
 とはいえ、さすがに東京である。本を読んだのだからついでにちょっと「八海山」の大吟醸を呑んでみたいと思ったらちゃんとそれが呑めるのである。
 「八海山」の大吟醸は、うまいとかまずいとかいう酒ではなく、細部にまで神経の行き届いていることがわかるお酒に込められた気魄に酔う酒である。呑んでいてその丁寧な仕事が心地よく感じられる酒である。
 大吟醸という贅沢にこころよくひたれるお酒である。