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「むの字屋」で軽く一杯
★「うまい」お酒とは★16/2/16のお酒 ラーメンを使った例え話を思いついたのである。 庵主がいう「うまい」とは、そのお酒が湛(たた)えている味わいのうまさをいう。口当たりのよさであり、味わいの深さのことである。口に含んだときにまろやかな感触があるお酒が好きだ。そして庵主はお酒の量が呑めないから、最初の一杯であまいと感じさせてくれるお酒であるということである。舌の上にあまみを感じさせてくれたお酒がすぅーっとキレがよく喉を過ぎていくのがいい。 きれいな酸味が感じられるお酒がおいしい。庵主がうまいと感じたお酒の味を支えているのは実は酸味だということを庵主は気づいている。もちろん酸味が前に出たのではいけない。 庵主がいううまいお酒とは上記のような条件のいくつかを満たしている庵主好みのお酒のことである。だから、庵主のお酒の話には辛口のお酒は滅多に登場しない。庵主にとっては呑んでもつまらないからである。 必要に応じて行なわれる多少のアルコール添加は、香りを醪にではなく酒の方に残すとか、味わいを滑らかにするとかの合理性も感じられるが、アルコールの添加量が度を越すとうまいお酒とからは遠ざかって行き、別の次元の酒になってしまうのである。 日本人はどういうわけかラーメンが好きで、本屋にいくとうまいラーメン屋を紹介する本がいつでも何冊か並んでいる。だから、だれでもラーメンの味については一家言を持っているはずである。 ラーメンにもいろいろな味わいのものがあるが、大きくわけると二つのラーメンに分けられる。うまいラーメンとどうでもいい味のラーメンである。 どうでもいいラーメンとは、一度食べたらそれで十分いいという味のラーメンである。あるいはただ空腹を満たせばいいという、とりあえず食うラーメンである。一方、うまいラーメンとはまた食べにいきたくなるラーメンである。ラーメンを食べるときには、だれでも贔屓のうまいラーメンを追いかけているはずである。うまくもないラーメンを食べても幸せを感じないからである。 それと同じように、日本酒にはうまいお酒と、一回呑んだらそれでもう十分という二種類のお酒があるといえば、うまいお酒があることを知らないばかりに、どうでもいい味のたしかに酔っぱらうから酒にはちがいない日本酒を呑むことのむなしさが判ってもらえると思うのである。 だれもがうまいラーメンを好むように、日本酒も同じ呑むのならうまいお酒を呑みたいとは思いませんか。 ★静謐で苛烈な生き方★16/2/17のお酒 ヤバイという言葉は、こういう時に使うのだろう。庵主がいつもおそるおそる扉をあけて、そしてドキドキわくわくしながら読んでしまうホームページで、である。 ヤバイとか、ダサイとかいった言葉は、書き言葉では使い道がない言葉である。そこだけ浮いてしまうからである。葬儀の場で一人だけ赤い服を着ているようなものである。赤い服を着て、こみ上げる悲しみを必死にこらえている面相を見たならかえって始末におえないのである。やっぱり場にそぐわないよ。 野上弥生子、である。 野上弥生子の最後の作品は若い日の記憶だという。釣りは鮒に始まって鮒に終わるというが、人もまたいろいろやったあとに若いときの記憶に戻るのだろう。 酒は、「開運」に始まって「開運」に終わる、というのが庵主の実感である。それはたぶん庵主が血をひいていると思われる、北陸の地の味覚が能登杜氏の造りに共鳴するものがあるからなのだろうと仮説を立てているのである。庵主はなにぶん北海道の生まれなものだから、三代先の出自がわからないのである。どうやら北陸の出らしいという話による。 葬儀の赤い服は冗談にしても、奇を衒(てら)うというほどではない、目立ちたがりというか、自己顕示欲が旺盛な性分というのか、その抑制がきいていればお洒落といっていい気分は庵主も好きであるが、また静謐(せいひつ)にして苛烈という気魄がひしひしと感じられるそばにいるだけでもぞくぞくとくる雰囲気にも、人にあってもそうであるけれど、そういうお酒にも心ひかれるのである。 中身は豊かなのに、静かな笑みをたたえているお酒が、である。 奈良の「梅の宿」大吟醸限定品/鑑評会出展酒/斗瓶囲い、というお酒を呑みながら、あじわい豊かなお酒に出会えた喜びにひたっていたのである。こういうお酒が造れなくなる状況になったときにはヤバイという言葉の出番なのだろう。 米を殺せば、お酒は呑めなくなるということである。 米を殺し、鯨肉を封じ、屑肉を食わせて、栄養のない麦を大食させ、塩砂糖の摂り過ぎを慫慂し、食品添加物をたっぷりいれた人工食品を与えて国力を低下させようという魂胆がはっきり見えているのである。 多くの日本酒もまた外国から持ってきた原料用アルコールをいっぱいまぜて売られている。今のお酒はハーフなのである。 野上弥生子の生家は大分県の小手川酒造だという。「宗麟」である。 ★「嘉泉」純米吟醸★16/2/23のお酒 全国に日本酒の蔵元があるのだから(ただし鹿児島県だけは日本酒を造っている蔵がない)東京都にもあるはずなのに、東京のお酒というのを呑む機会がほとんどない。 神奈川県のお酒というのも、一般的には思い浮かばないはずである。千葉の酒は、埼玉の酒は、と聞かれても、多くの人は答えることができないだろう。 東京は全国各地の上級酒がどんどん入ってくる激戦区である。ヤワな酒や特徴のないお酒を選んでまで呑む余裕は庵主にはない。 一年は365日。毎日一杯ずつ呑んでも365種類しか呑めないのである。だからうまい酒から呑んでみたい。でも、お酒が向こうの方から飛び込んでくることがある。 福生市出身の「嘉泉」(かせん)の純米吟醸が飛び込んできた。 磨き55%である。「うまい」酒ではないが呑める酒だった。ただし少し米くさい。いかにも地酒風のお酒だった。それでもすすめられると体がこばまない酒である。久しぶりに2合ぐらい呑んだろうか(なお「 」書きのうまいは、庵主の好きな味ということ)。 「この酒、樽酒のにおいがしますね」とあまりお酒を呑まない人がいっていた。そのとき呑んだ青森県弘前市出身の「豊盃」(ほうはい) 純米初しぼりのきれいな味と比べると、福生の酒はあかぬけしていなかっただけなのである。 ★三十年目の内藤洋子★★16/2/23のお酒 かれこれ三十数年前に内藤洋子という女優がいた。気品のあるお嬢さんだった。庵主はその頃北海道にいて熱烈なファンだったのである。 そして今日、喜多嶋洋子と名前を変えたご本人にやっと会うことができた。「天使の羽音」のサイン会に行ってきた。会うというには、ちと所要時間が短かったが、一瞥したというよりも長い時間だったということで、会ってきたということにしておこう。 お酒も恋い焦がれていると、向こうの方から縁を結んでくれる。呑みたいと思っているとどういうわけかお酒が向こうの方からやってくるものである。 心に描くということが実現のための第一歩である。 熱心な女性ファンが当時の雑誌記事のスクラップ帳を持っていたので見せていただいた。そうだ、そうだ、おでこの広い内藤洋子がそこにあった。 すぐ女優をやめちゃったのは喜多嶋修が悪い、という声もあったが、喜多嶋修がちゃんと内藤洋子をアメリカはウッドランドヒルズの山奥で大切にしてくれたからこそ、いまこうして純粋培養の内藤洋子を見られるのだと庵主は思う。 サインしてもらった本を抱えて、帰りに立ち寄ったお店で心ウキウキ呑んだのは、まず「喜楽長」純米吟醸+14。辛口にして味わいあり。いや逆だ。味わいがあって、しかも辛口。この辛口は、いまのところ庵主が呑んでみる気になる唯一の辛口の酒である。 そして「奥播磨」純米仕込み29号袋しぼりの燗。これがいい。アル添酒に燗をつけるとアルコールだけのスカスカの味になってしまうが、まともに造られた純米酒を燗にするとそのお酒の味わいにはえもいわれぬ滋味があって、「よくぞ日本人に生まれたり」といった幸福感にひたることができるのである。 生きるということは、出会えることの喜びなのだと思う。 ★東京モンに焼酎を教えてもらうこともないだろうに★16/2/26のお酒 昨年、SSIの「焼酎アドバイザー」の合格者が1000人に達っして「きき酒師」の合格者数を上回ったと読売新聞に出ていた。合格者数は、焼酎が1007人、日本酒は933人だったという。 史上最高の焼酎ブームを反映しているのである。 SSIというのは「日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会」のことである。 その資格試験の受験料と、その前に受講しなければならない講習会の受講料、それにFBO(SSIの上部団体)の入会金、年会費等々、資格を取るためには10万円近いお金が必要である。100枚9000円のマーク入りの名刺を作ると、総費用約10万円÷100枚というわけで、一枚の原価が1000円という高貴な名刺が出来上がるのである。 逆から見ると、一人10万円×1000人=100,000,000円(なんと1億円)というお金が入ってくるSSIがこの焼酎ブームで一番おいしい焼酎を呑んでいるということなる。 九州の人がぼやいているという。「東京の人間に、九州の焼酎について習うわけにはいかない」と。 その心意気と矜持(きょうじ)やよし。それでこそ九州男児である。 でも、東京に倣(なら)ってしまったのである。商売が下手だったのである。焼酎も資格もおいしいところはみんな東京に持っていかれたのだから。 ★「竹林 ふかまり」燗よし★ 16/3/5のお酒 何気なく立ち寄ったお店に、あるとは思ってもいなかった「竹林 ふかまり」があった。 東京では、この月末には桜が咲こうというのに、三月の初めの頃は底冷えのする日が続く。そのラベルが目に入ったのなら、庵主はためらわず「竹林」の燗である。「竹林」で体をあたためることができるのなら、この時分こんな幸せなことはない。 ややあって、片口に入って「竹林」の燗酒は出てきた。 以前その燗を呑んだときの味と違っていないだろうなという一抹の不安を抱きながら口にしてみた。 前に呑んだときにうまいと感じた味の記憶は、庵主の心の中で時の流れとともにどんどん美化されていくから、次に呑んだときに、美しい記憶の味と素朴な現実の味とが一致しないということはよくあることである。 うまい。やっぱりうまいのである。「竹林 ふかまり」の燗のうまさは、庵主がいう「うまい」といううまさではない。過不足のない味わいのうまさなのである。満足感のうまさなのである。もうこれ以上に加える必要はないし、不足を感じる隙もない味わいなのである。その絶妙なバランスに酔えるのである。いうなれば安心のうまさである。 安全であること。安心であること。それが食い物のうまさの根本である。「竹林 ふかまり」の燗をゆったり味わうと安心のうまさを味わうことができるのである。 ★平野遼と香月泰男★★ 16/3/8のお酒 香月泰男(かずき・やすお)という画家がいる。本人は物故者であるが、その絵はいまでも死んでいないという意味でいると書く。 いま、東京駅の中にある東京ステーションギャラリーで「没後30年香月泰男展」をやっている。3月28日まで。 シベリア帰りの画家である。シベリア帰りといっても絵の勉強などで行ってきたのではない。満州で兵隊として終戦を迎え、戦後、ソ連によって不当にも厳寒のシベリアに送られて過酷な収容生活を強制され運良く生きて日本に帰ってきたのである。シベリア帰りといえば歌手の三波春夫(故人)もそうである。 香月泰男にはシベリアシリーズという一連の作品がある。この絵が凄いのである。いいというヤワな次元の絵ではない。凄いのである。絵の前に立つと、ドーンと心に迫ってくるものがある。絵が生きているのである。絵の鼓動を感じるのである。そこいらの美しいだけの心のない絵があほらしくなるほどの迫力がある。 絵を見て震えがきたのは香月泰男が二人目である。平野遼(ひらの・りょう)が初めてだった。だから、庵主(あんしゅ)の庵(いおり)には財布と相談してやっと買うことができた平野遼の本物の絵が掲げられている。画家はすでにこの世にいないのに、その絵は今もなお脈打っているいるのである。絵の力をこわいと思う。 日本酒もそうである。一度本物のお酒を呑んだら、アルコールをたっぷりまぜてうすめた酒を呑むのがあほらしくなるのである。呑んでも悪くはないが、呑むまでもないのである。いい酒がいくらでもあるのだから。 ★気品がある★ 16/3/9のお酒 今日呑んだ二杯は、いい酒なのにお酒がうまいと感じなかった。 一週間前に風邪を引いて、いや花粉症が悪化したのかもしれないが、鼻がつまり、全身がだるくなって、頭がふらふらになり、その日はとうとう一日中寝込んでしまったが、まだその余韻をひいているみたいである。 「松の司」(まつのつかさ)の愛山の大吟醸を呑む。お酒はなめらかである。ほんのりとにがみがある。そしてアルコール味を強く感じるのである。 「東一」(あずまいち)の大吟醸を呑んでみた。味が立っている。立体感がある。これにもわずかなにがみを感じた。そしてアルコール味を感じるのである。 お酒を呑んだときのうまいという味わいが感じられなかった。からだがつかれているようである。ただお酒の気品はしっかりわかるのである。 ある女の子が「私はアルコールがまざっているお酒は呑めない」といっているのを聞いたことがある。庵主にはお酒を呑んでもアル添酒なのか純米酒なのか区別がつかないので本当にアル添がわかるのかと半分疑っているのだが、今日呑んだお酒はアルコールっぽいと感じた。 アルコールが入っているとわかったわけではない。お酒を呑んでアルコールをいつになく強く感じたのである。体が敏感になっているのだろう。あるいは本当に添加したアルコールを感じていたとしたら、庵主にもアル添がわかるということになるが、こんどお酒を呑んだらまたわからないことだろう。 ようするに体がまだ本調子ではないようである。 ★「越乃景虎」の「龍」★ 16/3/12 のお酒 よくある間違い。「越乃影虎」。「一ノ蔵」が「一の蔵」と書かれていることが多いことと双璧をなす。 もっとも、庵主もあの有名な「越乃寒梅」を、「越の寒梅」だったか、ひょっとして「越之寒梅」だったか時々わからなくことがあるから、「一ノ蔵」か「一の蔵」かはっきり覚えていないというのはよく理解できる。 「景虎」は上杉謙信の若いときの名前であるとそのホームページに書いてあった。 その「景虎」の「龍」にめぐり会った。新潟から来られた方のお土産である。 呑んでみる。米の違いもわからない、アルコールが入っているかどうかもよくわからない庵主でさえ、このお酒にはアルコールを感じる。アルコールの入れすぎじゃないかとも思うほどである。久しぶりにアルコールっぽい味わいのお酒を口にしたのである。いかにも新潟の酒といった、なつかしいといいたくなるような味わいである。しばらくこの手の酒を呑んでいなかったからである。淡麗にして辛口。ひっかかるところがない。 庵主が呑んでうまいと思う酒ではない。が、呑めるのである。さわりなく喉元を通りすぎていくお酒なのである。こののどごしのなめらかさがアル添の効能なのかと納得する。 ラベルにもお金をかけていないようだから、地元の人に呑んでもらうために手頃な値段(一升で1600円に近い値段)を前提にして造られたお酒だと思ったが、後から調べたら1750円だった。 その値段にしたらかなり力(りき)が入っているのが感じられるお酒である。たくさんお酒が呑める人には気安く呑める、そして呑みあきることのないいい酒なのだろうと思ったものである。たくさんお酒を呑む人に感想を聞いてみたいちょっと気になるお酒である。 ★ある書店で★ 16/3/14 のお酒 ある書店の辞書売場には、講談社の「類語大辞典」(柴田武・山田進編・税別6500円)の横に洋泉社の「講談社『類語大辞典』の研究」(西山里美著・税別2000円)が並べてある。庵主が買うのは安いほう、洋泉社である。 庵主が本を買うとき、いつも苦笑しているのである。庵主の目に入ってくる本がなぜか草思社か洋泉社だからである。べつに両社の本を選んでいるのではないが、本を手に取るとそれが両社の本だったということが実に多いのである。 悪口本の洋泉社、見透かし本の草思社といったところか。そこそこの知性と好奇心はあるが、権力を持つ側について何かをやるという度胸もなく、また面倒なことは避けて通るという合理的な考え方の持ち主といったあたりが読者層だろう。そういう読者層の頭の潤滑剤みたいな本なのである。潤滑剤自体は何らかの仕事をするものではない。わさび見たいな層がいるということである。庵主はわさびも大好きである。 庵主には、うまいと思って呑んだお酒があとからみたら能登杜氏の酒だったということがよくあるが、それと同様に庵主の人生は一つの興味と傾向の中で回っているようである。よくいえばそれが個性、悪く言えば視野が狭いというところか。 六千五百円の辞書を売ったほうが、二千円の本を売るより儲かるから、あえて二冊を並べて売っているのは大講談社の手抜きに対するその書店の批判なのか。ただ単に洋泉社のその本がどこにあるか聞かれた時にすぐわかるようにとのことからかもしれないが、洋泉社の本を読むと、大講談社の類語辞典は必要な言葉がすぐには見つからない辞書らしいということは窺える。今は、大辞典というハッタリが効かなくなったとともに、あれだけの重量のある本になると紙の本ではなく、電子本で作るというのがこれからの方向ではないのだろうか。 もし、プレミアム(ハッタリの高値)がついている「越乃寒梅」の横に「冬樹」を並べて売っているお店があったとしたら庵主はためらわずに「冬樹」を買う。そっちの方が明らかにうまいからである。 ★究極のお酒はこれだ★ 16/3/19 のお酒 漫画の「美味しんぼ」は究極の料理の対決だったか。「究極」という名の幻影を追いかけるというロマン(ウソ)で引っ張っていく話である。 「今一番うまいお酒はなんですか?」と聞かれたら、庵主はためらわず「静岡の『開運』です」と答えるということは以前に書いたことがある。 「一番うまい酒」などというロマンはあるわけがないのに、つい聞いてみたくなる質問だから庵主は神妙な顔をして自信たっぷりにそう答えるである。けっして間違いではないからである。 多くの人は「開運」の名前を知らないから、静岡のお酒の講釈からはじまって、能登杜氏の話をして、では時間があったらその「開運」をご馳走してあげましょう、と庵主は自腹をきって実際に「開運」を呑ませてあげるのである。そしてまた一人日本酒ファンを増やすという地道な布教をしている。 なかには、「今日はほんとうにおいしいお酒を教えてもらいました」という感謝の言葉と同時にお勘定は私がもちますという奇特な方もいらっしゃるが、そういときは遠慮なく割り勘にしてもらうのである。 さらにである。「究極のお酒はなんですか?」と聞かれたら、庵主はその答えも知っている。 究極のお酒は青森の「豊盃」(ほうはい)の本醸造「ん」である。お酒の名前が究極なのである。究極の「ん」。阿吽の呼吸の、ア・ウンのンである。すべての行き着くところの「ん」なのだから。その先はない。その先は無である。酒を呑むのは無駄、の無の字といったところか。 ★庵主の好きな酒★ 16/3/25 のお酒 庵主の好みである。 好きな酒。秋田の福乃友の「冬樹」の生酒。岐阜の玉泉堂の「蘭奢侍」。そして、静岡の「開運」の「波瀬正吉」。 燗酒で口にあったもの。岡山の「竹林ふかまり」。山形の「改良信交大吟醸あら玉」。それに「開運 無濾過純米」。それと大穴が「奥播磨」純米仕込み29号袋しぼり。これは万馬券だった。 ★呑んではいけない★ 16/3/29 のお酒 うっかりお酒を呑みすぎて夜の早い時間から寝入ってしまった。6時すぎから呑みはじめたので、酔いがまわって夜も早いうちに寝込んでしまったのである。なにも食わずに呑みはじめたのもよくなかった。 お酒を呑む。酔う。時間があっという間に打ち過ぎてしまう。これって、与えられた人生を本人の意志で勝手に短くしているのだから、自殺するのと同じじゃないかと書いたことがある。自殺が永続的人生短縮行為だとすれば、致酔は断続的な人生短縮行為である。 神につかえる人は異性を拒むとか聞くが、それも偏狭な精神状態だと思う。傍でみているとそう思う。体は腹がへったら物を食いたくなるようにできているのに、精神力でそれを阻止しようというようなものだから、よほど自虐的な性格なのだろう。変わった性向の持ち主なのである。 世の中には一人や二人ぐらいならおかしな人がいたほうが面白いからそれはそれでかまわないが、その一風変わった考え方を他人に押しつけられては迷惑この上ない。ご本人はそういう考え方にひたっていることが心地よい生き方なのだろうが、庵主にはお近づきになりたくない生き方なのである。あっしには必要ありません、といってお断りするのだが、「私の真似をして生きなさい。そうすると気持ちがいいですよ」とご親切なお誘いをしてくれる人達がいるのである。 庵主は呑めない人にお酒をすすめることはしない。「私、飲めません」という人には「お酒は飲まないですむのなら、飲まないほうがいいですよ」とこたえている。こんなうまい物を人に呑まれたのでは勿体ないという思いからである。 酒呑みにも、酒を呑むことを正当化する理屈はあるが、それもまた偏頗な酒狂人、おっと宗教人のご託に似ているのである。 ★お酒は居酒屋で呑むのがいい★ 16/3/30 のお酒 のぞいてみたくなるお店はこうである。 銘柄を指定する必要がない。今あるお酒を出してもらえばいいのである。 そのお店で、出てきたのは、長野の「舞姫」が醸(かも)している「翠露」(すいろ)だった。しかも、雄町(おまち)と美山錦(みやまにしき)という米違いである。お酒を楽しませてくれるのである。 どういうお酒を用意しておくと客が喜ぶかを心得ているのである。だからまた行きたくなる。 庵主は、常々、うまい日本酒を呑みたかったら、まともなお酒を置いている居酒屋に行って呑むのが一番だといっている。 そういうお店なら、出てくるお酒は、もちろんのこと、うまいとかまずいとかをいうレベルはもちろん越えている。質の悪い酒ははなから置いてないからである。うまいかどうかは呑んでみなければわからないというところがお酒という商品のスリルのあるところである。自分で買ってきて呑むと結構ハズレが多い。居酒屋でなら、好みが合わない酒はあっても、ハズレがないという利点がある。口に合わなかったら一杯でやめればいいのだから結局は安くつくのである。 では、そういういいお酒を置いているお店はどうやって知るのかということになるが、本屋に急げである。そのようなお店を紹介した本はいくらでも手に入る。どうしてもいいお店を知りたいというのなら、庵主にご一報いただければ、ご馳走してくれるならご案内いたしますよ。おっと、庵主はただ酒は呑まないので、割り勘でね。 ★年度末★ 16/3/31 のお酒 3月が年度末なのは、入学式を桜の花が咲き誇る時分にやりたいからなのだという。ちょうどいまは桜花満開の候である。 日本酒の酒造年度は7月から翌年の6月末までである。だからいま造られているお酒は平成15年度のお酒である。だから平成16年のお酒はまだない。造りの多い蔵では4月にはいってもまだ仕込みをやっているところがある。仕込みは終わった蔵でも搾りは4月以降の作業になるというところも多い。4月になって会計年度が16年度に改まっても、酒造年度はいまだ15年度なのである。 まぎらわしいのは、日本酒の製造年月の表示は瓶詰にした時を記載することになっているから、16年3月の表示があっても、今年仕込んだお酒であるとは限らないということである。去年仕込んで1年ほど寝かせたお酒である場合がある。 今年のお酒がほしいのに、うっかり16年3月のお酒を買ったら去年の酒だったということがある。苦笑。 10月の末に、パッケージには大きな文字で新酒と書かれたお酒が並んでいた。小さい蔵の酒だから、いつも仕込みの開始は11月になってからなので、10月にその年の新酒があるわけがない。しかし、10月にはその年の米で造ったお酒が出来上がっている蔵もあるから、それを知らないと本当の新酒だと思い込んでもおかしくないのである。これもまぎらわしい。 冷蔵庫の棚に並んでいる去年の新酒は十分な熟成をへているから、本物の新酒よりも味はいいにちがいないので庵主ならそちらのほうを選ぶが、今年の新酒を味わいたいと思っている人が勘違いしかねない。 日本酒の製造年月日の表示についてはいろいろ問題のあるところである。 ★「南」純米吟醸無濾過★ 16/4/6 のお酒 高知の「南」(みなみ)である。 米は松山三井(まつやまみい)の50%である。そして高知県酵母とある。醗酵日数は40日と手間がかかっている。 きれいなお酒である。香りが華やかである。日本酒度は+6となっているが、まろやかな酒質で香りが色っぽいので甘く感じる。まだ「南」呑んだことのない人にはおすすめの酒である。ただし一杯呑めば十分だと思われる。 というのも高知県酵母なのである。高知県酵母といっても種類があるのだろうけど、一般的には香りがきれいに出るものが多い。はっきりいって香りが出すぎるのが特徴なのだが、さすがに香りのお酒を卒業した庵主にとってはこのお酒を呑むのはちょっときついというのが感想である。 花見の季節に、花に浮かれて華やかな香りにつつまれながら呑むには楽しいお酒かもしれない。 ★「純米酒」と「米だけのお酒」の違い★ 16/4/10 のお酒 「純米酒」と「米だけのお酒」の違いはわかるだろうか。 それ以前に「純米酒」と「本醸造」の違いだって分かりはしないだろう。 「醸造アルコール」と「醸造用アルコール」も微妙に違っているのがおかしい。 ところで、「和牛」と「国産牛」とは違うということを知っていますか。 「ミネラル・ウォーター」と「ナチュラル・ミネラル・ウォーター」の違いはと聞かれてもどこが違うのか見当がつきますか。 常識の持ち主ならわからないのが普通である。だから、まぎらわしい表示で買い手の誤解を誘ってあやしいものを売りつけるようなことはやめろと庵主は思うのである。 表示というのは、だれが見てもこれは本物だこれは類似商品だとはっきり区別できるものでなければならない。本物という基準を明確にすることが肝心なのである。 純米酒だけを日本酒とし、それ以外のアル添酒は清酒リキュールとして分ければ、前者が本物、後者は酒を売るために造った余計なお節介であることが一目瞭然なのである。いずれを呑むかは財布の中身との相談だけである。 庵主は「アイスクリーム」と「ラクトアイス」の違いなら知っている。 前者は贅沢アイス、後者は貧乏アイスである。食べているときの気分が違うのである。アイスクリームを食べているときは優雅な気分にひたることができる。ラクトアイスのときは清貧の風を味わうことができる。人間は貧乏でも生きていけるんだという心の余裕を感じるのである。 貧乏アイスも捨てたものではないというのがおかしい。おいしいはずだ、庵主にとってはそっちの方が小さい時からなじんできたおいしいアイスクリームなのだから。 ★日本酒でない日本酒★ 16/4/12 のお酒 これは笑い話である。 生=死であるという。生きていても、死んでいても同じだというのである。 なぜかというと、等式の両辺を同じ数字で割って掛けても等価であるから、両辺を2で割るという。すると、生/2=死/2、となる。すなわち、半分生きているのと、半分死んでいるのは同じ状況だから、この等式は成立することがわかる。で、両辺に2を掛けてもこの等式は等価であるから、生=死も正しいということになるというのである。 さて、日本酒でない日本酒というのはこうである。ここからは庵主のネタである。 無濾過の日本酒というのがある。 日本酒というのは、米を原料にしてアルコール醗酵させた醪を濾した物である。あるいは類似する副原料を添えて造った醪を濾したものである。日本酒というのは「米」と「濾したもの」というのが必須条件である。すなわち濾してないものは日本酒の定義に含まれないことになる。 そこで、「無濾過」の「日本酒」というのは、「無濾過」の部分を別の言葉で置き換えると、濾過していないというのだからそれはすなわち「日本酒には含まれない」ところの「日本酒」ということになる。 スマートに書くと日本酒でない日本酒である。不思議なお酒なのである。 その無濾過の日本酒がいま大はやりで、そのうまい味わいを口にしながら、庵主はいま一体何を呑んでいるのだろうかとつくづく思うのである。 ★ああ、ありがたい★ 16/4/15 のお酒 こちらのお酒はほんとうにおいしいですね、と声を掛けてきたカウンターの隣に座っていたお客様に対して。 「このお店にあるお酒は、いま一億二千七百万人いる日本人の中でも一握りの人だけが、いや正確にはもっともっと少なくて、爪の先ほどのほんのわずかの人だけしか呑めないうまいお酒なのです。 日本酒と言われているのに、当の日本人でさえ、多くの日本人が呑んだこともないお酒をこうして口にできるということは本当に恵まれていることだと思っています。 いうならば、神様によって選ばれた本当に数少ない日本人なのです。うまい日本酒を呑むことができるエリートなのだということです。 こんなにうまいお酒を、世間様に対して何も役に立つことをやっていない庵主が選り取り見どり、ほしいままにまかせて手当たり次第に呑んでもいいのだろうかと、いつも内心忸怩たる思いを抱きながら呑んでいます。 でもうまいんですね、それが。 贅沢という言葉はこういうお酒を呑むことのためにある言葉だと思います。どうぞこの幸せを存分に味わっていってください。」
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