いま「むの字屋」の土蔵の中にいます
平成19年8月後半の日々一献
★あるお酒は牛乳で割って飲んでもうまい★19/8/22のお酒
パソコンの故障で8月の定期更新が滞ってしまった。
8月12日に突然庵主が使っているパソコンのOSであるウインドウズMeの動作がおかしくなってしまったのである。
庵主はそれをパソコンのお盆休みと呼んだが、もしパソコンが元に戻らなかったらぞっとするところだった。
そうなったときに絶対やってはいけないことは、リカバリーディスクを使うことである。
それまで貯めたデーターが読み取れなくなってしまうからである。
そういう症状が起こるときに限ってデーターのバックアップをきちんと取っていなかったということが多いのである。
今回もそうだった。
まちがってリカバリーディスクを使ってしまったときも、まだあわててはいけない。
データーを読み出せなくなっても、データー自体はHDにはちゃんと残っているからそれを救済してくれるサービス会社に頼めばある程度のデーターは引っ張り出すことができるからである。
さいわいなことにウインドウズMeはお盆休みを明けて復活した。
しばらく蔑ろにしていたバックアップを行なったが、30G程度の差分バックアップに6時間もかかるのである。
本当は、毎日バックアップしておかなくてはいけないのだが、そんなに時間がかかるのでそうもいかないので、せいぜい2週間に1度というところだろう。
そうなると、バックアップを取っていても、最悪の場合は、最近2週間分のデーターが消えてしまうことがあるというわけである。
パソコンはバックアップが命なのである。パソコンにとって何が一番大切かというと、庵主はためらわずバックアップだと答える。
本当は、OSを変えて、もっと高速なバックアッププログラムを使えばいいのだが、いまはその余裕がない。
もし、ウインドウズMeの故障が直らなかったら、このHPもそれで終わりになるところであった。
庵主はもう何年も手書きで原稿を書いたことがない。
すべてがワープロになってしまった。
だから、そのワープロが使用不能になったらパソコンにこれまでため込んできた過去の書き物がすべて消えてしまうというわけである。
いうならば、記憶喪失状態になったのと同じである。
生きている甲斐を失うようなものである。
そうなっていたら、過去を捨てたような気持ちになって書き続ける意欲を失っていたことだろう。
10日間ほどパソコンが使えなかったので、その間はメールのやりとりができない、HPの更新ができない、情報源のブログが読めないといった孤島状態になってしまった。
新しい原稿が書けないから、8月下旬分の更新にも支障が出てしまったというわけである。
逆にいえば、パソコンがなければ、庵主はこんなに原稿を書くこともなかっただろうし、HPもやることはなかったろうから、「むの字屋」も存在しなかったことだろうと思う。
しかし、バソコンのおかげで、こうして呑んだお酒の感想を書き残しておいたものだから、自分が呑んだお酒なのにとっくのとうに忘れてしまったかつて呑んだお酒の味を、その文章を読み返すことで思い出すことができるのだからありがたい。
呑めないはずの庵主がいかに多くのいいお酒に恵まれていたのかとあらためてその巡り合わせに感謝の気持ちを抱くのである。
で、話は「むの字屋」に戻る。
お酒の話である。
ただし今回はカクテルの話である。
カクテルというのは、見た目に美しいものが多く、ちょっと優雅な感じがする飲み方ではあるが、考えてみればただ酒と酒を、あるいは果汁などを混ぜただけのだれでも作れる酒である。
それで1杯千円も二千円も取ろうというのだから、これはボッたくりの代名詞といっていいだろう。
しかしである。
それがボッたくりに感じないのは、カクテルというのはその酒を飲んでいるのではなく、その雰囲気を楽しむものだからである。
つまり千円なり二千円というお値段は演出料なのである。
洒落た内装のバーであり、高価なグラスであり、端正なバーテンダーの衣装代なのである。
同じレシピのカクテルを自宅の安っぽい照明の席で、100円ショップで買ってきた実用的なグラスに注いで飲んでも、何かが物足りないのである。
同じ美女であっても、すっぴんで寛いでいるときの美しさと、きちんと化粧をしたときではその美しさが異なる。
化粧したときは気持ちの張りが違うからより美しく見えるのである。
カクテルのうまさはその緊張感が感じられる快さなのである。
自宅で飲むカクテルというのはすっぴんの美女というわけである。もっとおいしく飲める前の1杯というわけである。
カクテルは正装の美しさである。
ホームバーが下らないのは、いや、そんなところでカクテルを飲みたくないのは、しょせんカジュアルな空間だからである。それではカクテルを飲んでもおいしくないのである。
牛乳に混ぜて飲むとせつないうまさを感じて身がとろけるような気持ちになれる酒のことである。
それは「ワイルドターキー」のリキュールである。
四合瓶で2千円弱で売られている酒である。
これを牛乳に混ぜると、その香りがじつに甘美なのである。
牛乳の味わいが俄然艶めくのがわかる。
そして、その香りがリキュールなので妖艶なのである。だから、それを口にするときにはぞくぞくとする。
牛乳にウイスキーやバーボンを混ぜたのではそのせつない甘さに酔うことはできない。それでは牛乳がただの割水代わりでしかないからである。
リキュールだからこそ、1+1が2ではおさまらない予想外のうまさがそこに出現するのである。
カクテルのおもしろさは、そういう飲み手の想定を越える思わぬ味わいを自分の手で演出できるところにあるのだと思う。
ただ、「ワイルドターキー」のリキュールは常時売られている酒ではないので、お店で見かけたときには見逃せない一本である。
このリキュールを牛乳に混ぜて飲むとあまりにもうまいので、あっという間に空になってしまった。それで庵主もいま探しているところだが、なかなかみつからないのである。
ネットでも流通在庫が見当たらない。
「ワイルドターキー」のリキュールと牛乳のカクテルは庵主のお勧めである。おっと、甘い酒が好きな人にはである。
★その酒とは★19/8/15のお酒
北海道の新千歳空港に降りて千歳市内に向かう国道36号線沿いに大きな看板があったのは数年前のことである。
その看板を立てていたのは、すなわち広告主は牛乳関係団体だと思った。あるいは北海道庁だったかもしれない。
牛乳を飲みましょうというキャンペーン広告である。
その飲み方が意表をついていた。
ウイスキーの牛乳割を飲みましょうと大書してあったのである。
ウイスキーを水で割って飲みましょうとか、ブランデー水で割ったらアメリカンといっていたのは東京の酒会社であるサントリーだが、おっとサントリーは本社は大阪の会社だったか、そのサントリーがそういう酒の飲み方を大々的に宣伝していたから、ウイスキーの牛乳割もないことはないということになるが、そんなものうまいのかと思ったのが庵主のその時の反応だった。
いまはどんどん牛乳が飲まれなくなっているという。
牛乳の有害説を書いた本も売られているから、それはいい傾向だと思う。
多分牛乳の飲み過ぎが戦後になって流行りはじめた変な慢性病の一因になっていることは間違いない。
飲み過ぎがですよ。
お酒同様、飲み過ぎると弊害が出てくるものはいくらであるからである。
売れなくなった食い物の捌け口は学校給食である。
市場では相手にされない食い物が安値でそこに押し込まれてくるという。背骨が曲がった養殖はまちとか、ミートホープ社の肉もそうだったのではないか。
みんなが同じ物を食べるという学校給食なんかは戦後の生徒の個性を尊重する教育とかに反する行為なのではないか。
本当は学校教育に生徒の個性尊重なんかは必要はないのだが。
ご子息の親御さんは子供の個性を無視してみんなと同じ物を食わされることに抵抗を感じないのだろうか。
うちの子供は囚人じゃないという自尊心のある親はいないのか。自分の子供の食い物は親が面倒みるのが当たり前だろう。
体によくない牛乳を給食で強制されたらそんなものは飲まんでもいいと判断できる親はいないのだろうか。給食費を踏み倒す親がいるということは耳にしているが、給食によらずに親が作った弁当を食わせているという親の話は寡聞にして聞かないのである。
庵主などは発泡酒の飲用を強要されたら、そんなものは蹴っ飛ばしてしまう。
自分の体に良くないものを摂る必要がないからである。
まっとうなビールでないと庵主の体がウンといわないからである。
牛乳も飲まれなくなっているが、お酒も同様に飲まれなくなっているのはご同慶である。
体によくないものは、酒を飲むのは人づきあいの基本だとか、あるいは集団生活の訓練だからといわれても、無理に飲まなくてもいいということなのである。
そういう強要を基本的人権の侵害といって騒ぎ立てる方向に時代は進んでいるからである。
さて、ウイスキーを牛乳で割って飲みましょうという看板の話であるが、牛乳が売れなくなって困っているという今もその看板が立っているかどうかわからないが、最初庵主はそれを馬鹿にしていたものの、庵主の場合、バーで飲むカクテルはよく考えてみたらアルコールの牛乳割なのである。
アレクサンダーであり、酒飲みなら避けて通るグラスホッパーなのである。
なら、ウイスキーの牛乳割も全然問題ないということになる。
アルコールという毒と牛乳という有害飲料を混ぜるというのは、毒をもって毒を制すという理に適(かな)った組み合わせなのである。
で、思いもよらないうまさというのは、その牛乳にとある酒を混ぜたときに起こったのである。
この続きは次回である。
なんとなく昔の紙芝居みたいになってきたが、そのとんでもないうまさはカクテルの魅力の核心に迫る味わいだと庵主は思っているのである。
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