いま「むの字屋」の土蔵の中にいます
平成19年8月前半の日々一献
★思いもよらないそのうまさ★19/8/9のお酒
暑い。東京は暑い。亜熱帯といっていい夏の暑さの中で、見ただけでも糞暑苦しい背広を着ている人を見ると、もっと見た目に涼しそうな恰好をできないのかと思ってしまう。
真っ赤な外壁のビルとか、太陽光をもろに反射するガラスを使った外装のビルを、それを見る人に不快感を与えるから公害だと見るとしたら、夏場の暑苦しい見掛けの洋服も公害といっていいのかもしれない。
この東京の気候に合ったビジネス着をデザインできないことをもって、日本の洋服のデザイナーは才能がない人ばかりだと庵主は思っている。だぶん業界はこの意見に反論できないはずである。その程度の業界なのである。お相撲の世界と同格である。だからだれも本気で相手にしないのである。
おっと、他人の着ているものと他人の買い物にケチをつけないというのが庵主のモットーだった。が、ここは内心の吐露ということでご容赦を。
この時分は、庵主はもっぱら生ビールである。
まずは生ビールで喉をいやさないことには体が干からびてしまう。
で、その一杯の生ビールで庵主のアルコール摂取量は定量に達してしまうから、本命のお酒にまでたどり着けないのである。
だから、今の季節はビールの話ということになる。
ビールがうまいからである。
この時分の日本酒は、背広を着たビジネスマン同様、その印象が重いのである。
お酒を呑もうと思っても体が身構えてしまうのである。生ビールなら体はホイホイと喜んで飲んでしまうのに。
アルコール分も汗となって散るから、呑んだ後も体が軽い感じがするというのも夏の生ビールは庵主にとって都合がいいのである。
食物には陽性のものと陰性のものがあるという。
体を温める方に作用する食物が陽性、逆に体を冷やす方に働く食物を陰性という。ちなみにアルコールは陰性の食物である。塩は陽性なので、塩をなめてお酒を呑むというのは理にかなっているのである。
「秋茄子は嫁に食わすな」という諺(ことわざ)があるが、その解釈にはそんなうまいものを嫁には食べさせたくないという姑根性のことをいうのだという説と、茄子はお嫁さんの体を冷やすので体をいたわっての知恵だという説がある。
合理的に考えれば、茄子は陰性の食物なのでうまいからといっても食べ過ぎると体を冷やすので、秋口に妊娠しているお嫁さんにあまり食べさせては体によくないということを、分かりやすく秋茄子は嫁に食わすなといったものだと考えればいいだろう。
一般的に夏の野菜や果実は陰性のものが多い。
夏は暑いから、少しでも体を冷やす作物が好まれてきたということである。生活の知恵である。
いまでは一年中食うことができるトマトも本来は夏の作物である。
冬にサラダかなんかでトマトを使う人もおかしいが、それが金になるといって作る方の見識が完全に狂っているのである。馬鹿は双方である。
で、トマトは夏の作物だから、体を冷やす方に作用する陰性の食物なのである。
茄子もまた同様である。
季節外れの作物はその作用がひ弱だから、見た目だけの効用しかないということである。
旬(しゅん)のものが一番おいしいのだが、旬を外して食う作物はうまいところを外して食べているということになる。
それは食う人にとっても作物にとっても不幸なことだが、人間は記憶という補助装置があるから、ほんとうはうまくない季節外れの作物でも過去の記憶に頼ってそれなりのうまさを感じながら食べることができるのである。
「越乃寒梅」がうまい、「八海山」がうまいというのも、その補助装置によるものであって、それが作動してうまく感じる人にとってはそれらはうまいお酒なのであるが、しかし、庵主のように、ことお酒に関してはそういう補助装置が働かない場合には、体がそれらの酒を呑んでもウンといわないのである。考えようによっては不幸な身なのである。
もっとも「久保田」の「萬寿」などよりもずっと値段が安くてうまいお酒がいっぱいあるから全然問題ないのであるが。
この時期は、体が少しでも体温を下げるものを欲するようである。
きりっと冷えているお酒がうまいということは頭の中ではわかっているのだが、体はすぐさま体が冷えるものを好むのである。
生ビールである。
発泡酒は駄目である。気合が足りないから、喉をいやす役にもたたない。
減塩醤油だの減糖おしるこなど、病人が食うようなものがうまいわけがないように 麦芽を減らしてビールのうまいところを削った酒がうまいわけがないのである。
ビール会社の見識もお相撲並みなのかもしれない。
日本では酒類は自分で飲むものであっても個人では造っていけないことになっているから、飲み手は造り手に対して勝手なことを要求してもだれも文句いえないようになっているのでビール会社の方は気を悪くしないように。そういう特権を与えられたビール会社はビール造りを独占しているのだから飲み手の要求はそこにぶつけるしかないのである。もっとも、そんなビール擬を造らせている操り手は大蔵省であることは分かっているが、その大蔵省は顔が見えないので文句の持っていく先がわからないのである。
お店の冷蔵庫で必要以上に冷やされている発泡酒は飲んだ時にはその冷たさで満足できるが、しかし、その味の浅薄さが感じられて、もっとまともなビールを飲みたいという気持ちが襲ってくるのである。
体は本当に正直なのである。
さて、タイトルに掲げた「思いも寄らないうまさ」を味わわせてくれる酒であるが、その話は次回に回したい。
“とんでもないうまさ”を感じさせてくれる酒と出会ったのである。
★下世話な物言いが嫌いな人は読まないように★19/8/4のお酒
わが国では、個人が自分で呑むためであっても勝手にお酒を造ってはいけないことになっている。
少し前までは、といっても昭和の御世(みよ)37年までのことであるが、梅酒でさえも無免許の個人が自由に造ると酒造法違反になる犯罪だったのである。
梅酒造りが上手なおばあちゃんはお上の意向に逆らう不逞の輩だったのである。そのおばあちゃんが犯罪人だと思えますか。
そして、醸造免許は、個人は簡単にもらえないのである。
ちょっと下世話な表現になるので、そういうのが嫌いな人は、次の1行は読まないでほしい。
庵主は、わが国の酒税法を「センズリ禁止法」と揶揄している。
酒なんか、だれでも造ることができるのである。
本屋に行けば簡単にアルコール度数が1%を越えてしまう米からアルコールを造る方法を書いた本が売られている。
日本の本屋の鷹揚なところである。
自分が呑む酒を自分で造ることは基本的人権の範疇だろうと庵主は思っているから庵主は平気で「米からアルコールを造る実験」を行なうことがある。
実験結果を捨ててしまうのはマータイさんではないがお米が「モッタイナイ」ので呑んでしまうのであるが、酒税法は実は憲法違反の法律なのである。
醗酵技術は文化である。それは人類共通の財産である。すなわち基本的人権であるということである。
酒造を禁止しているために、日本人はお酒の造り方を知らないのである。
だからまずい酒が堂々と流通しているのは御存知の通りである。
あんなまずい酒より自分で造ったどぶろくのほうがずっとうまいということはいうまでもない。
自分でどぶろくを造ると、不思議なもので、自分が造ったものはそれが失敗作であっても可愛いのである。
映画の世界にこんな科白(せりふ)がある。
ズバリ本当のことをいっているので苦笑するしかない科白ではあるが。
「親にとっては宝物のような自分の子供も、他人が見ればただのガキ」。
映画の世界で、庵主は人間の心の裏側をよく学んだのである。
自分自身の中にあるいやな部分を映画の登場人物を借りて教えてもらったということである。
それは映画の中の世界だと突き放すことで、自分の心は傷つくことなく、できれば見たくもない人間の正体を、すなわち自分の姿を見ていたということである。
映画を不良文化財と呼ぶ人の気持ちもわかるような気がする。手品のタネあかしをそう簡単にしちゃいけないよという配慮からなのだろう。
手品のタネを先に知ってしまうと、その手品のおもしろさがわからなくなるものである。
人間を裏から見ると、その素晴らしさが見えなくなるよという親切心がそれを不良文化財といわせたのだろう。
そして、お酒は人間の裏側がよく見えるようになる薬なのである。
次の色違いの何行かも、下世話な物言いが嫌いな人は読み飛ばしてほしい。
庵主が今日の酒税法を「センズリ禁止法」と呼んでいるのは、酒税法の非を説明するときに分かりやすいからである。
センズリなどは個人が自分で楽しむ分には勝手に自由にできるものなのに、それをやってはいけないというのが酒税法である。
なぜなら、個人が勝手にやったのでは税金が取れないから、そういう気持ちのいいことはやってはいけないというのである。
しかし一度それを知るとまたやりたくなるという需要はあるので、それは政府が公認するところで女の子からそのサーピスを受けてなくてはならないというのである。
そういう仕組みなら、女の子の方から確実に税金が取れるから取りっぱぐれがなくなるというわけである。
個人が簡単に自由にできることを禁止してまで、徴税のために政府公認の場所でしか快感に耽ってはいけないという仕組みが酒税法の考え方である。
そんなものは憲法違反以前に噴飯物でしかないが、裁判所にその非を訴えると、裁判官は実は政府の庇護の下(もと)で食っている商売だから、自分の職を危うくする判決を書くわけがないので、畏れながらと訴えるといつも「酒税法は合法なり」というとぼけた判決しか出ないのである。
大袈裟にいえば、酒税法は基本的人権の侵害なのであるが、いつも人権を楯にキャーキャー言っている団体もろくなお酒を呑んでないとみえて、そのことに思いいたらないようである。
キミは、「センズリを勝手にやってはいけない。やるときは政府が許可したところだけで税金を払ってやれ」という法律に従えるか、ということである。
庵主なら、阿呆らしいと一升に付してしまう。おっと、そんなに呑めない、一笑に付してしまうだけである。
デパートやスーパーマーケットなどで、「未成年者の飲酒は法令で禁止されていますので、販売時に年齢を確認させていただくことがあります」といった店内アナウンスが流れていることがある。
禁止の淵源が法令だというのがおかしいのである。
何人も戦争を行なってはいけない、と法令で禁止すればそれがなくなるのか。そんなことはないのである。
法令で禁止しているから未成年者の飲酒を制しているわけではあるまい。
成長期の子供がアルコールを飲むと心身の発達に支障をきたすことがあるからである。
「子供のアルコール飲用は、それが原因で馬鹿な大人になる可能性がありますから、危険負担は自己の責任において行なってください。過去の多くの実例からして子供のアルコール飲用はお勧めできません」というのが大人の物言いだろうと庵主は思うのである。
子供にははっきり教えてあげればいいのである。
アルコールは毒です。子供は飲んではいけません。
その毒を酒と呼んでいるのは、すでに棺桶に近づいている大人の冗談にすぎません。
いつ死んでもいいという年寄りの冥土の旅の餞(はなむけ)がお酒なのです。
お酒を呑むことは、酒も煙草もやらないで百まで生きてもしょうがないという大人の分別なのである。
お酒は歳をとってから、自分の能力の限界を知って自虐的になってちょっと不良ぶりたいときにカッコよく呑みましょう、といったところである。
大人になってから呑むお酒は、子供のときにはただまずいだけだったものが、じつに面白くなるのである。
よく、麻雀やゴルフをやるとその人の性格が判るという。それは普段は隠しているその人の裏側が見えるということであるが、一方、お酒はその人の人格がわかるのである。普段は見せないその人の品性と教養がそこはかとなく現れるのである。
だから、お酒は恐いのである。
麻雀やゴルフは入れ込んでも性格がよくなることはないが、お酒は教養を高めることができるという余徳がある。
だから、大人になったらいいお酒を呑みなさいと庵主は勧めるのである。
お酒はおいしくないのでチューハイの方が飲みやすくていいという若い人は、呑んでいるお酒がはっきりいってまずい酒だから、本当のお酒のうまさに思い至らないのである。
お酒の本物のうまさは、若い人の想定外の世界にあるからである、可哀相。
まともなお酒は、酒が呑めない庵主が口にしても、体が喜んで呑み込んでしまうほどに凄いのである。
呑んでから、あっ、これはお酒だったと気付くほどである。
そういうお酒がいくらでもあるのに、知らない人はそういうお酒とめぐり会うことができないのである。
これを読んでいるそういう若い人はまずいないだろうからそのことを書いても無駄なのであるが、そして今これを読んでいるお酒を知っている人はきっとそのとおりだと酒肴している、おっと首肯しているに違いない。
お酒はうまいものであるという真実を若い世代に伝えることがうまいお酒を知っている呑み手の責務なのである。
そうすることによって、結局は自分がまたうまいお酒を呑めるようになるからである。
★記念酒の勧め★19/8/1のお酒
武蔵小山にある居酒屋の『酒縁川島』から開店二十八周年を記念するお酒が送られてきた。何度もお店に通った勲章というわけである。
開店二十八周年、おめでとうございます。
庵主はいくつものお店から、お酒を教えてもらったが、酒縁川島はお酒の面白さと蔵元さんと語り合う楽しさを教えていただいたお店の一つである。
酒呑みなら一度は訪れたいお店の一軒である。
まだ酒縁川島を知らない方は、ネットで検索してさっそくそのうまいお酒を体験してほしい。
お酒がおいしいお店が酒縁川島である。
庵主の場合は、最後にマスターが作る呑ん兵衛が喜ぶカレーライスを半量で頼むというのが通例になっている。
お酒の仕上げに蕎麦もいいが、庵主は蕎麦だとまたすぐに空腹感が襲ってくるのである。中途半端に食べるとかえって空腹感が募るということがある。もっとおなかに充実感を感じるものを食べたかったと思ってもそれに相応しいものがなかったのである。
そこに川島のカレーライスが登場した。お酒の後でもおいしい不思議なカレーライスなのである。うまいものを食ったという充実感を感じながらもおなかが重くならないのである。
庵主はレストランに行ったときには、デザートに何を食べるかを決めてから注文する料理を決める。
だから、日本料理店で、フルーツを切っただけの水菓子とか業務用のアイスクリームを匙で掬っただけのバニラアイスしかないお品書きが出てきたときには幻滅して最安のコースを手早く食して出てくる。
もっとも、自腹で訪れる時はそんなつまらないお店には行かないから、料理を注文するときにはデザートをしっかり確かめたうえで、それに向かってワクワクしながらその日の幸せ料理を選ぶのである。
すなわち、おいしいデザートを食べるために料理を楽しみにしているわけである。
デザートというのはいうなれば安心して飲み食いするためになくてはならない保険なのである。
酒縁川島のカレーライスはそのデザートに匹敵するわくわくする一品である。締めの楽しみがあるから、安心してお酒が呑めるのがいいのである。
しかももちろんのこと出てくるお酒が多彩で、食後に、というか、呑んだ後に呑むデザート酒もちゃんと用意されているから、酒呑みにとっては満足至極の居酒屋なのである。
デザート酒といっても洋酒ではなく、もちろん味のある日本酒が出てくる。
こういうお店が武蔵小山という僻地(失礼)で二十八年間も続いたということはそのお酒の水準が呑み手から広く支持されてきたことがわかるのである。
お酒が持っている雰囲気に通暁しているママが素敵で、その笑顔でお酒がいっそうおいしくなるのは人徳ならぬ、ママの酒徳というものだろう。
お酒を呑むということを、アルコールを飲むことだと思っている人は不幸である。
お酒を呑むということは、人との出会いの妙なのである。
わが国では、醸造免許を持っていない個人が自分で呑むためのお酒でも造ってはいけないことになっている。
だから、お酒が呑みたいと思った時には他人(ひと)にそれを依存しなくてはならないようになっているのである。
その人は造り手だったり、呑ませ手だったりする。
人と出会わないことにはお酒は呑めないということなのである。
その妙を楽しませてくれるのが居酒屋である。
酒縁川島二十八周年記念酒は、福井の「雲の井」が醸している。
純米吟醸無濾過生原酒でアルコール度数は19度である(正しくは18度以上19度未満と書いてある)。
酒造免許を持っていない人がやってはいけないが、これで梅酒を仕込むとうまいものができるはずである。この19度はさすがにうまい。
うまいというよりも前に、口に含むとお酒造りの気合が伝わってくるいいお酒である。呑んでいて実に気持ちがいいお酒である。
こういうお酒を口にするとお酒がやめられなくなるのである。
そういういいお酒を記念酒として、創業記念とか、誕生日などに配る習慣ができると庵主はうれしいのである。
大手の酒造メーカーは記念酒を造っちゃいけないよ。大手が造っている酒は米から造ったアルコール飲料であって、庵主がいうところのお酒ではないのだから。
庵主がいうところのお酒というのは、庵主が呑めるお酒ということである。
呑めないお酒や、呑んでも甲斐がないお酒に興味はない。
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