いま「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成19年5月後半の日々一献


★一日の長★19/5/30のお酒
 「一日(いちじつ)の長」という言葉がある。
 似たようなものだけれど、ちょっとだけ違いがあるということである。
 実用的にはその違いは大した違いではない。どっちでも変わらないということが多い。
 黒澤明の映画のセットでは、画面には写らない裏側まできちんと仕上げられていたという神話がある。
 画面に写りもしない部分に凝ってもしょうがないのであるが、そのどうでもいい部分の気遣いがうれしいと感じるのはどうやら日本人の特性みたいなのである。
 そして、そこまでやる気合を、というか執念のことを一日の長という。
 しなくてもいい努力といっていい。あるいは長くやっていることによるちょっとした配慮といったところである。余裕が感じられるというのが妥当なところなのかもしれない。
 一日の長は、美意識としての観点からは、そのちょっとした違いが24時間では埋められないほどの隔たりであることがある。
 一日の長というのは、よくやっているという好意的な評価である。そういわれたら素直に喜んでいい。
 
 さて、お酒の話である。
 いま庵主が凝っているお酒が「ふなぐち菊水 生原酒」である。
 200ML入りのアルミ缶にはいっているお酒である。
 これがうまい。そして楽しいのである。
 純米酒なのかというとこれが本醸造なのである。下手な純米酒や、真面目な大吟醸よりうまいのである。
 しかも、精米歩合が70%である。お酒の手本といっていい酒である。
 1缶280円とか、278円とかで売られているから、1升換算では2500円の酒ということになる。妥当な値段である。
 このお酒は酸味のうまさといい、その切ない甘さといい、庵主の心を掴んで離さないのである。

 しかも、このお酒、どういうわけか、どこにでも売っているのである。
 百貨店にもある、近くのスーパーにもある。そして、なんとコンビニでもおいてあるところが多い。
 すなわち、呑みたくなったらすぐ手に入るという不思議なお酒なのである。
 「松の司」の「瀬戸清三郎」が呑みたいと思ったときにはそれがどこで呑めるか思案しなくてはならないし、下手するともう誰かに呑まれてしまって現物が残っていないことも考えられる。
 が、「ふなぐち菊水」なら、製造年月日が日替わりのお酒で呑めるのである。

 いま、庵主の手元にあるのは「2007.04.04」と「2007.04.05」である。
 清酒の製造年月日というのは、造った日付ではなく、製品化したときの日付である。タンクの中のお酒を瓶や缶に詰めた日だったり、瓶に詰めて貯蔵してあったものに商品化するためにラベルを貼った日だったりする。
 同じタンクの酒を2日間にわけて詰めたら、同じ酒が異なる製造年月日になることも考えられるが、手元にある2缶を呑み比べてみたのである。
 で、中身の味わいは違っていたのか。
 ほとんど同じである。
 「ふなぐち菊水」の味わいである。
 が、その味わいは絶妙に異なるのである。
 「04.04」の方がまろやかなのである。
 「04.05」はまだ固い。固いというよりは酒の若さを感じた。人間でいえば年を重ねた人はよく丸くなったといわれるが、その丸くなる前の雰囲気を感じさせる味わいなのである。
 酒の若さというのは、まだ残っているガスの味だったり、立っている味わいのことである。
 立っている味わいというのは、一つの味が突出して感じられる状態をいう。
 ようするに目立つ味わいがあって、そこに若さを、すなわち自己主張を感じるので呑んでいるとつい微笑ましくなってしまうのである。
 
 一方、「04.04」は角がとれた味になっている。
 たった1日の違いだから、24時間の違いというより、タンクの違いによる癖の違いなのだろうと思うが、ふと「一日の長」という言葉を思い浮かべたのである。
 もっとも、製造年月日が古い酒の方が若い酒よりもうまいとか、一日の長があるというわけではない。たまたまこの日に入手した二つの「ふなぐち菊水」はそういう味わいの違いがあったという話である。
 「ふなぐち菊水」は、製造年月日別の呑み比べができるから一人で呑んでいても楽しいのである。



★日本酒リキュール★19/5/23のお酒
 酒はその造り方の違いによって大きく三つに分けることができる。
 醸造酒、蒸留酒、混和酒である。
 醸造酒というのは、糖分を酵母でアルコール醗酵させた酒である。
 醸造酒のアルコール度数はビールの4〜5度から、高いもので日本酒の18〜19度ぐらいといったところである。
 それを蒸留してアルコール度数を上げたものが蒸留酒である。
 蒸留酒はスピリッツともいう。
 さらに、蒸留酒に果実や草などを混ぜてその成分なり香りなりを抽出した酒を混和酒という。蒸留酒の方が効率よく抽出できるが、アルコール度数が低い醸造酒をそれらに混ぜても混和酒である。
 混和酒はリキュールともいう。

 日本のリキュールといえば、代表的なのは梅酒である。
 そういえば、いまでこそ、梅酒をつけるときに使う酒はホワイトリカーの35度ぐらいのものを使うが、そんなきれいなスピリッツが造られるまではどんな酒に漬けていたのだろうか。
 焼酎を使っていたのだろうか。

 ラジオの長寿番組に「全国子供電話相談室」という番組がある。
 TBSラジオで毎週日曜日の午前9時から放送されている。
 いまは「子ども電話相談室」と書くのかもしれないがラジオで聞いている分にはそれがどうなっているのかはわからない。子供の供が、差別用語だという人たちがいて子供は子どもと書くという風習が教育業界では行なわれているようなのである。
 その番組は子供の素朴な疑問に対して大人が一生懸命答えるというものである。
 大人が、子供の質問に四苦八苦して答えるというところがおもしろいのである。
 答えは必ずしも正しくなくていいのである。子供の気持ちを納得させることができればいいのだが、時に大人の想像を絶する質問があって回答者が絶句することがある。
 たとえば、「人間の手の指の数はなぜ5本あるのですか?」
 そんなことわかるわけがないのである。
 あるいは「弁慶の泣きどころは、弁慶が生まれる前はなんと呼ばれていたのですか?」
 大人はつい弁慶の前の時代の人名をさぐってしまうので、あわてふためいてしまうのである。そういう回答者の反応がおもしろい。
 
 「今日のようにホワイトリカーができる前は、梅酒を造るときにどんな酒に漬けていたのですか?」
 庵主は、自問してわからなくなってしまったのである。
 多分焼酎だと思うけれど、その焼酎は、芋か、麦か、蕎麦か、と聞かれたら、見当もつかない。蕎麦でないことだけはたしかだけど。
 まさかと思うけれど、大昔からあると思っていた梅酒は、実はホワイトリカーが造られるようになってから始まったものというのが真実だったということはないだろうが。
 そのラジオ番組の回答者のような心境になってきたのである。
 わかっているつもりのことが、実は全然知らなかったということに気付いたのである。

 ちなみに、人間の指の数が5本ある理由は、頓智のある人が次のようにいっている。
 「もし手の指が4本しかなかったら、手袋の指が1本余ってしまうから」
 
 梅酒造りは梅の実をスピリッツに漬けると果肉の成分が抽出しやすい。
 アルコールの度数がある程度必要だということである。
 梅の実が出回る季節になると、梅酒造り用にホワイトリカーの35度が顔を出すがそれがお勧めの度数なのである。
 変わった味わいを求めて、芋焼酎とか黒糖焼酎やブランディーなどに漬ける人もいるが下手物である。いや、変化球といっておこう。
 度数はそれほど高くないが、日本酒に漬けても梅酒が造れないことはない。
 日本酒に漬けた梅酒も結構うまいのである。
 辛口の日本酒と甘口の日本酒とで別々に梅酒を漬けてみるとその違いが出ておもしろい。ただ梅の味が出てくるのにスピリットよりは時間がかかるという。

 広島の「富久長」が広島産の檸檬(れもん)を使って柚子(ゆず)と合わせて造ったリキュールがいいのである。
 日本酒で造った「純米ゆずレモン」である。500MLで980円ぐらいだった。
 檸檬を日本酒に漬けて造ったお酒では島崎酒造(「東力士」)が造った日本酒仕込の「檸檬酒」(レモン酒)を呑んだことがある。
 わるい酒ではないのだが、檸檬の酸の苦みも出ていて、それだけで呑むにはちょっと味にふくらみがない感じがする。なにか物足りないのである。ちょっと寂しいのである。その味にもう一つなにかがほしいと感じるのである。
 世に数多く売られているレモン風味のアルコール飲料は香料を使ったものがほとんどであるが、その手の味に馴染んでしまった舌には本物の味は重すぎるのかもしれない。
 偽物が大手を振って歩いている世界で本物が肩身の狭い思いをしているような構図なのである。
 そして、人工香料で造ったレモン入りアルコール飲料はたしかに口当たりはいいのだが、味に深みがないのである。
 そこで、この「檸檬酒」なのである。
 その二つをうまく混ぜて呑むと最高に贅沢な味わいにひたることができる。
 キリンの「氷結レモン」に「檸檬酒」を入れると実に味わい深いカクテルになる。と、気がついたときには、それまでどうやって呑んだらうまいかと思案していた「檸檬酒」はほとんどなくなっていたのである。

 「富久長」の「純米ゆずレモン」はストレートで呑んでも気持ちいいリキュールに仕上がっている。
 檸檬+柚子の香りのバランスがいいのである。両者の欠点をお互いの香りがうまく補っていてまさに爽やかな味わいになっている。
 大きい氷を1個いれてロックで呑んでもいいし、冷えた炭酸で割ってもうまい。

 岡山の「竹林」には白桃を漬けたリキュール「白桃妃」がある。
 日本酒を使ったリキュールにはいいものが少なくないのである。
 ただ、なかなか出会えないのではあるが。



★コラボレーション★19/5/16のお酒
 本来異質なものを組み合わせることで新しい妙味をかもしだすことをコラボレーションというらしい。
 そういう長い外来語は短くしてコラボというのは日本語の慣例である。
 ルポルタージュはルポになるし、プリファブリケーションはプレハブになる。
 エンターティメントはエンタメである。

 清酒の製造に使われている醸造アルコールというのがある。
 これも日本語の慣例では、それを使う人の都合によって原料用アルコールとか、醸造用アルコールなどと呼び名が変わることがあるが、中身は同じである。
 増量用アルコールのことである。水増し用アルコールである。
 警察予備隊、
保安隊、自衛隊と名前は違っても中身は同じであるのと同様である。
 いや、本醸造酒に使われている醸造アルコールは増量が目的で添加しているのではない、という見方もあるだろうが、醸造酒本来のアルコールに加えてそのアルコールの量が増えることに変わりがない。つまりは増量用なのである。増量用を補填用とか調整用と言い換えも同じだということである。

 「醸造」アルコールというのは、それが合成アルコールではなく、穀物の糖分を醗酵させて造ったアルコールという意味だそうである。つまり人間が安心して飲めるアルコール醗酵によって造られたアルコールだという意味だという。
 醸造アルコールは化学的に合成したアルコールと違うから飲んでも大丈夫だというわけである。
 
 醸造アルコールの多くはモラセスアルコールである。廃糖蜜を醗酵させて造ったアルコールを何度も蒸留して精度を上げたアルコールである。
 サトウキビから砂糖を取った後の廃液の糖分を醗酵させて造るらしい。
 その糖分を廃糖蜜という。山廃もそうだが、廃の字を見ると廃棄物を思わせるからなんとなくゴミから造られたように感じるのは庵主だけだろうか。
 山廃の廃も言葉遣いを変えたほうがいいのではないかと庵主は思っているが、さすがに廃糖蜜アルコールとはいわず、カッコよくモラセスアルコールと呼んでいるのは焼酎業界の方がちょっとばかりセンスがいいのである。
 山廃も、もっとカッコいい言葉にすればいいのである。

 当たり前の話だが、モラセスアルコールは安い。
 1キロリットル16万円ぐらいだと聞いたことがある。
 1000リットルで16万円だから、1リットルでは160円である。
 では、一升瓶なら1.8倍の288円かというと、実はそんなにしないのである。
 1リットル160円というのはアルコール度数が95%のアルコールなのである。実際にはもっと低い度数で取引されているのかもしれないが、ここでは95度として話を続ける。それが60度ぐらいで取引されていてもたいして変わらないからである。
 日本酒のアルコール度数は15度前後だから、実際にはその約6分の1ですむというわけである。つまり95度のアルコールを水で6倍に薄めて使えばいいからである。
 すなわち1升のアルコール代は48円ということになる。
 一升瓶の中身の60%が添加したアルコールという酒の場合その6割だから、そこで使われている醸造アルコールの原価は約29円といったところである。
 醸造酒で造ったアルコールより値段が高いアルコールを添加していたのでは商売にならないということである。
 アルコールの添加は、呑み手のためを思ってしているのではないからである。
 そういう安価な醸造アルコールで造った酒が、末端価格で千数百円になるという事情については、酒税が高いのか、流通経費の問題なのか、庵主は疎いのである。
 以前も書いたことがあるが、増量のために醸造アルコールを使っているのではないという人に、その醸造アルコールが原料の米を醗酵させて造ったアルコールより値段が高くてもそれを使うのかと聞いてみたいものである。
 
 モラセスアルコール自体は決して悪いものではない。
 それを35度ぐらいに割ったものと、すなわち旧酒税法でいう焼酎甲類ということになるが、それと焼酎乙類、すなわち本格焼酎の35度のものを呑み比べてみたときに、何人かはモラセスの35%の方がうまいと感じるという人がいるのである。
 庵主は焼酎は苦手だから、どちらも試飲以上の量は飲みたいとは思わないが、モラセスアルコールはそれだけ飲んでみるとなかなかなものだということである。

 それを醸造酒である日本酒に混ぜるとどうなるか。
 一つ、酒の原価が安くなる。売値も安いので貧乏なときにはホント助かる。
 一つ、醗酵の調整が容易になる。杜氏の仕事が楽になる。
 一つ、醪の芳香を酒に残すことができる。酒の香り生かすことができる。
 一つ、酒質が滑らかになる。まずい純米酒を呑まないですむ。
 一つ、製造後の酒の品質を安定させることができる。きちんとお酒の管理ができない酒屋が喜ぶ。
といった利点はある。
 上手にアルコールを添加すると酒質の調整ができるというわけである。
 ただし、そういう酒はある程度冷やして呑まないとアルコールが浮いてきてうまくない。
 冷やさないと呑めない酒だということは、一般家庭に冷蔵庫が普及したことで呑めるようになった酒だということである。
 常温で呑むと添加したアルコールの平板な味わいが先に感じられてがっかりすることが多い。
 冷やして呑むと醸造アルコールが下に沈んでいるから存外いい感じの味わいになるのである。
 まずい酒でも冷やして呑めばなんとか、冷たいということだけで案外呑めるという経験則を利用するのである。
 もう一つ、まずい日本酒は酸味が弱いことが多いから、ほんの少量の酸味を加えると呑めるようになるという経験則がある。
 その場合の酸味というのは具体的には柚子果汁がいいという人が多い。ただし、加える量に注意する必要がある。一滴では多すぎるのである。一滴の何分の一かで十分なのである。入れすぎると柚子焼酎を呑んでいるみたいになるから万事休すである。

 そんな奇妙な酒の呑み方をしなくても、最初からまともな純米酒を買ってきて呑めばいいのであるが、どんな酒でもなんとかしておいしく呑もうという執念を呑み手はもっているのである。
 ただ、なかなかうまいといえる純米酒がないから、次善の策として上手に造られたアル添酒を求めるのだが、それもまた外れたときにはなんとかしないと呑めないということから導きだされたのがこの経験則である。
 もう一つ経験則があった。
 そういう酒はみんなで呑めばけっこう呑めてしまうものだということである。

 アル添日本酒というのは、よくいえば、いま流行りのコラボの先取りだったのである。要するに下手物のことである。正道ではないということである。