いま「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成19年4月後半の日々一献


★真っ当とは無理をしていないこと★19/4/25のお酒
 サントリービールに「モルツ」というビールがある。
 その原材料は「麦芽・ホップ」だけである。
 ビールはその二つの原料のいいものを選ぶと、それだけで造れるということである。ビールにわざわざ醸造アルコールを添加するまでもないということである。
 本物の食い物はシンプルなのである。
 それで十分に食い物として命がみなぎっているビールができるのである。その命をいただくから人間は元気に生き続けることができるということである。

 健康食品という言葉があるが、暗に不健康食品というものを念頭に置いている言葉である。
 不健康食品とは、見掛けは食い物みたいだけれど、中身がない食い物をいうのだろう。
 そういう食品もたしかに食い物ではあるが、それは栄養を摂るためというよりは、目で楽しむなり、贅を楽しむためのものである。
 時には貧乏なためにとりあえずそれしか食うことができないという場合もあるからそういう食品もなくてはならないのである。
 よく言えば、食事の彩りをつけるものである。それはそれでいいのであるが、そればかりでは困るということである。
 人間が生き続けるためには他の動物や植物の命をいただいて健康を維持する必要があるからである。
 つまり、食い物には命がこもっていなければ役には立たないということである。

 すなわち、食い物には二つの次元があるということである。
 真っ当な食い物と、見掛けは食い物のようであるが中身がスカスカのものである。
 現在の食生活は保管や料理が簡便な加工食品が主流であるが、その実態は便利であることを優先させた中身が薄い食い物であるということである。
 人間の中身が虚しくなっているのは食い物の質が劣化しているためなのかもしれない。
 
 「モルツ」を造っているサントリーは「ジョッキ生」という人造ビールみたいな飲物を造っている。
 「キリッとうまさ原材料UP!」した「ジョッキ生」の原材料名はこうなっている。
 書き出すと長いので覚悟していただきたい。
 「ホップ、コーン、糖化スターチ、醸造アルコール、植物繊維、コーンたんぱく分解物、酵母エキス、酸味料、香料、カラメル色素、クエン酸K、甘味料(アセスルファムK、スクラロール)、苦味料、」そして「炭酸ガス含有」となる。
 ホップはまともなビールを造るときにも使うから、それ以外の材料は、麦芽の代わりをさせるための成分なのだろう。
 最初から麦芽とホップでビールを造る技術があるのに、サントリーは原料の組み合わせを駆使して、実に芸術的なビールの紛い物を造っているのである。
 何のためにそんな面倒くさいことをするのか。
 趣味でビールを造っている会社なのか。
 そうではない、模造酒造りが好きな会社だからである。洒落で酒を造っている会社だからである。洒落の洒の字は酒に似ているが、一本足りないということなのである。
 エルメスとかビトンの模造品を造るといろいろと大変だが、酒の模造品はオリジナルなのだということなのだろう。だから何を造ってもいい世界なのである。
 
 しかし、ビール造りに関してはそんな面倒くさいことをする必要がないのである。エルメスなどの模造品なら作れば儲かるが、しかし、ビールの模造品を造っても儲からないからである。
 そして、初めから麦芽とホップで造ったほうがずっとうまいからである。
 こと日本に関して言えば、食糧は食い切れないほどにあふれているのである。食べ過ぎで肥満を託っている人が少なくないほどである。
 そのような豊かな時に、なぜそんな粗末な飲物を造る意味があるのか庵主には理解ができないのである。
 少しでも安い値段で、ビールみたいな飲物を提供するためなのかもしれないが、そんな後ろ向きの努力をするよりも、ビールの税金を下げればすむことである。
 サントリーなどのビールメーカーは考え方がゆがんでいるのではないかと心配になってくる。現場の醸造責任者はそんなものを造っていて満足しているのだろうか。
 よりうまいものを造るのが酒造メーカーの幸せのはずなのに、より品質の悪いものを飲ませようという発想はどこから出てくるのか庵主には理解に苦しむのである。
 金儲けのために、というより会社を存続させるために無理をしているのだというのなら理解できる。それが従業員を養うためというのなら目をつぶる余裕は庵主にもあるが、それが真っ当な酒造りなのだというのなら苦笑するしかないのである。
 そんな紛い物を、お金を出してまで飲みたいと思いますか。
 
 日本酒は戦後になってから米不足を生じて、しかも弱り目に祟り目で、折悪しく腐造(ふぞう・醸造過程でお酒が腐ってしまうこと)が全国的に発生したことから、緊急避難としてアルコールを添加する酒造法が容認されたのだが、いったん手抜きの酒の造り方を覚えると人間は楽をしたくなるもののようである。
 爾来そういうお酒が今日に至るまで延々と世をはばかることなく造り続けられているというのが歴史的事実である。
 そういうお酒もまた日本酒の文化の一面なのである。そのことをじっくり味わうしかない。
 中にはそういうお酒がうまいと言い出す人まで出てきて、価値観の混乱が起こっているが、そんな酒でもうまいという人であっても、両者の造り方を比べてみれば、そういうお酒が劣悪な造りであることを否定することはできないだろう。
 そんなことはわかっていて呑んでいるということである。だから、酒のよしあしで呑んでいるのではなく、初めて出会った酒がそういう味わいだったという“うまさ”なのである。
 そういうお酒がうまいという人は、日本酒との不幸な出会いを引きずっているということである。

 ビール会社が臆面もなく造っている代用ビールもまた、そういう悲劇の味覚を造っているということである。
 えぐい味というのはそれが癖になると病み付きになるということである。

 その人のおふくろの味を他の人がわかるわけがないように、代用ビールや、かつては一世を風靡した、いや、世に跋扈していた三増酒の味わいも、人によってはそれが懐かしい味わいになってしまったのである。
 その味覚は貶められるものではなくて、味覚の多様性としておけばいいだけことなのだが、「モルツ」と「ジョツキ生」の原材料名を比べて見たときに、「ジョッキ生」の方にサントリーの天をも恐れぬ芸術的調合の美を感じるという人は少ないであろう。それよりも、俺は何を飲んでいるのだろうかという不安が先立つのではないか。
 それは不自然だからである。なんとなく無理しているなというご苦労を感じてしまうのである。
 軽蔑の気持ちが憐憫の情に変わってしまうほどである。

 そんなものが飲めるのかと不安になってくるかもしれないが、鼻をつまんで飲めば結構飲めるのである。 
 まずいと気がつく前に飲んでしまえばいいのである。
 「モルツ」の350ミリリットル缶を219円で売っている酒販店で、「ジョッキ生」のそれは118円である。ほぼ半値というのは魅力的ではある。
 そういう代用食でも、今日なおも、ちゃんと需要があるのである。
 「モルツ」と「ジョッキ生」は両立するのである。
 どっちがいいとかいうことではなく、どちらを選ぶかという問題なのだろう。

 庵主の場合は、体が元気なときは「ジョッキ生」でも飲めるが、そうでないときに「ジョッキ生」を飲むのはちょっと辛い。それでは体が満足しないからである。
 けっきょく真っ当なビールを飲んで口直しをしたくなるからかえってお金がかかるということなのである。 
 安いはずの方がかえってお金がかかるということで、「ジョッキ生」は必ずしも貧乏人のためのものではなくて、本当は金持ちの飲物なのではないのかと庵主はふと思ったものである。

 お酒も、楽しんで呑むのなら、世を拗(す)ねた酒ではなくて、真っ当なものを味わおうよというのが庵主がいつも言っていることなのである。


★一に蒸し、二に蒸し、三に蒸し★19/4/18のお酒
 たまたま立ち寄った居酒屋に「大信州」があった。
 店主が地元のご出身だという。
 おもわず庵主の顔がほころびたのはいうまでもない。
 自分でもそれがわかるほどの僥倖(ぎょうこう)だった。
 
 お酒を呑むときに一番うれしいのは、期待通りの味わいのお酒が出てきたときである。
 まず、そのお酒がうまいのがうれしい。
 そして、自分の記憶の中にあったお酒と再び出会えたことがうれしい。
 そのお酒が以前と変わっていないうまさであったというのがうれしいのである。

 「大信州」の杜氏は下原多津栄杜氏である。
 その酒造りの神髄が「一蒸し、二蒸し、三蒸し」だという。
 お酒造りの要諦は、普通は「一麹、二モト、三造り」と言われている。
 酒屋万流というが、その一つのうまさを庵主は「大信州」で味わったのである。

 と書いてきたら、普通の文章を書こうとしていたのに、庵主がやっているブログの文体になっているので苦笑してしまった。
 一つのスタイルを作ると、思考法がその型にはまってしまうということである。

 松竹映画の監督に小津安二郎(おづ・やすじろう)という人がいた。
 「東京物語」や「秋刀魚の味」などの映画を撮った監督である。
 その監督のカメラアングルが独特のスタイルだった。
 極端なローアングルなのである。
 レンズの位置が低いのである。
 そのスタイルが選ばれたのは、ホームドラマを題材とする映画を撮っていた監督で、当時の日本の生活は座敷での生活が主(しゅ)だったからその生活においては視線の位置が畳からそんなに高くないところにあったためである。
 どの映画を見ても同じようなローアングルで撮られているから誰が見てもすぐその映画が小津安二郎の映画だとわかるほどである。

 そういう映像のスタイルが固まってしまうと、逆にそのスタイルではホームドラマしか撮れなくなるのである。
 畳の上から1メートル上に固定されたカメラではアクション映画は撮れないからである。
 それと同様に文体のスタイルを固定してしまうと発想もまたそのスタイルに束縛されることになるということてある。

 庵主のブログのスタイルは、すなわち、4行ごとに1行の空きを入れて16行で一つの文章にまとめるというのは、パソコンで読むときの読みやすさを考慮して作ったものである。
 パソコンの画面で、行間のない長文を読むのは疲れるからである。
 疲れる前に読ませてしまえというのがそのスタイルだった。
 つまらなかったと気がついたときには、すでに読み終えていたというスタイルなのである。
 なかなかいいことを言っているじゃないかという場合には贅言のない簡潔な文章だということである。
 短い文章でいわんとしていることが伝わるならそれに越したことがないというわけである。
 
 これから先はそのスタイルにこだわらない書き方をしたい。
 長野の酒「大信州」の話である。
 お酒は純米大吟醸生原酒の2006年製造の「仕込四号」だった。そのラベルからして期待を裏切られることがないようなうまそうな印象を覚える。
 うまそうな感じがするラベルなのである。うまいお酒の顔がそこにあった。
 
 呑んでみると、やっぱりいいのである。
 うまいと書かないのは、庵主がうまいといっているお酒の味わいではないからである。庵主がいう甘いお酒ではないが、いい味わいのお酒なのである。
 1年の熟成を経て本当にいい味になっている。
 いいお酒を呑んでいるという贅沢な気分が味わえる安定感と満足感が気持ちいいのである。
 下原杜氏は「一蒸し、二蒸し、三蒸し」だというが、その主張のうまさを心から味わうことができるお酒だった。
 またまた庵主の心に叶ういいお酒を呑んでしまった。ありがたいことである。「大信州」の純米大吟醸生原酒は期待通りのおいしいお酒だったのである。