いま「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成19年3月の日々一献


★「獺祭」の石鹸★19/3/28のお酒
 最初から引用である。

  酒蔵の関係者は手がキレイと言われます。
  酒粕やその素である米麹の中に多く含まれる
  各種アミノ酸・ビタミンB1・B2などの天然の
  微生物の影響だろうと考えられています。その
  酒粕、それも遠心分離でしぼった後のクリー
  ミーな酒粕を練りこんで作りました。作った
  のは手造り石鹸一筋に50年の丸菱油脂石鹸科
  学工業所の西垣壮南さん。
  もちろん、光量・色素・防腐剤などの品質安
  定剤は入っていません。
  純米吟醸の酒粕以外は無添加です。
   獺祭酒粕石けん 65g 630円
   配合成分■石ケン素地、酒粕

 さらに、宣伝チラシの文章を続ける。
  「獺祭 遠心分離 磨き」による
  酒粕について
  遠心分離で酒と分離された酒粕は圧力をかけずに搾る
  ため、他の搾り方のように少しでも多くの酒を一定量のモロ
  ミから搾り経済性を追求するという面から言えば酒の歩
  留りは悪いのですが、その分搾られる酒の品質は高く、
  残る酒粕も微量栄養元素の宝庫です。
 
  酒粕中のアルブチンと遊離リノー
  ル酸はシミ・ソバスカの原因とな
  るメラニンの生成を初期段階で
  ブロックする働きをします。また、
  α−エチルグリコシドとα−グリコシ
  ルグリセロールは優れた保湿・肌
  荒れ防止効果を持っています。

 以上は「獺祭酒粕石けん」の広告チラシの文案(コピー)である。

 庵主は能書きを読むのが大好きなので、こういうのが好きなのである。
 普段、庵主は一番安い石鹸を使っているのであるが、その「獺祭」の石鹸をちょっと使ってみたくなるのである。
 ただ、65グラムで630円もするのなら、体の外側に塗って美しくなる石鹸よりは、庵主は体の中に入れて身も心も美しくなるお酒の「獺祭」の方を選んでしまうのである。

 「日本盛」の美肌化粧品は、その「米ぬか美人化粧水」が120ミリリットルで1575円である。
 「SAKE王国」なるネット販売での能書きはこうである。
 
  肌や髪に潤いを与え、優れた美白効果を発揮する力を持つ
  「米ぬか」を使用した自然派化粧品。日本人と同じ水で育った
  米ぬかだから、日本人の肌と水が合う、日本の国のスキンケア。

 日本人の肌にやさしい化粧品なのである。
 しかし、たった120ミリリリットルで1575円も出すのならお酒の「日本盛」を呑んだほうがいいと思ってしまうのは、庵主には女心がわからないということなのかもれない。

 さらに「白鶴」は「Rice Beauty」を、「沢の鶴」は化粧品「ルモンテ」という化粧品を出しているのである。

 女に飲酒を勧めるよりは、外側から女性を美しくすることに力を注ぐほうがまだ「健全」(←厚生労働大臣用語)な考え方だろう。
 本当かどうかはわからないが、日本酒を呑むと肌がきれいになるということを聞いたことがある。
 お相撲さんの肌が輝いていたのは昔は日本酒をよく呑んでいたからだという説がある。今ではウイスキーなどの蒸留酒を好む力士が多くなったという。
 蒸留酒は逆に肌の美しさをそこなうものらしいが、いずれも呑みすぎれば肌によくないことだけは確かである。



★うまい燗酒★19/3/21のお酒
 この冬も燗で呑むうまいお酒を探していたのである。
 出会えないうちに春になってしまった。
 しかし、それが突然飛び込んできたのである。

 秋田の「福小町」の「ほっ」である。
 特別純米酒である(一升2600円)。55%まで磨いてある。そして、アルコール度数が17〜18度の生原酒である。
 冷や(常温)で呑んでも味のある酒だったが、それをぬる燗にしたときにそのお酒のうまさが爆発した。
 納得、この味が味わいたかったのである。
 庵主は燗酒もまた甘いものでないと好まない。
 「ほっ」は、ぬる燗で広がるその甘さがなんともうまいのである。
 醍醐、醍醐というべきか、甘露、甘露と舌鼓を打つべきか、お酒に心がとろけていくような甘さに、お酒が呑めることの幸せを感じるのである。
 アルコールを一滴も受け付けない体質の人には体験できない幸せを今庵主はしみじみと感じているのである。

 「ほっ」は文字通り、呑んだ時にほっとするお酒として造ったのだという。
 庵主にとっては二重の意味でほっとしたのである。
 まずは、あっ、ここに庵主の口に合ううまい燗酒があるというぬくもりに、そして、今年もちゃんと燗酒のうまいのに出会えたという安堵の気持ちで、である。

 燗酒がうまいと雑誌の特集にあるから、真に受けて燗を付けて呑んでみたらちっともうまくないということがよくある。
 冷や(常温)で呑んだ方が増しじゃないかという酒が少なくない。
 ほんとにこんな燗の味わいをうまいと思って呑んでいるのだろうかと、人間不信に落ちいることがある。
 その燗酒が、まずいとはいえないまでも、けっしてうまいと手放しで言えるほどの味ではないというときには、庵主の良心がそれを「うまい」ということにブレーキをかけるのである。
 もちろん、そういう場をかわす言葉は用意してある。そういうときには「燗酒はおもしろいですね」といなすのである。

 燗はいいねぇ、と、庵主にとってイマイチうまいとは思えない味に頷いている呑み手を見ると、よくこの程度の味で満足できるものだと感心するのである。
 その程度の燗酒の味がうまいと思うのなら、それは幸せなことにほかならないからである。
 それでは満足できない庵主は不幸の淵に沈んでいることになる。
 
 これまでに、いくつかの燗酒のうまいのがあった。
 そのお酒がわかっているのなら、それを買ってきて呑めばいいものだが、庵主は毎年同じ酒ではおもしろくないという浮気性なので、冬が来るたびに新たなお酒を捜し求めているのである。

 一度うまい燗酒の味を知ったら、そのうまさは病み付きになる。
 そのうまさは、冷や酒のうまさが頭の中で感じる観念的なうまさだとしたら、うまい燗酒の味わいは理屈よりも先に体にしみてくる直接的なうまさだからである。
 そして同時に、数多(あまた)お酒はあるのに、燗をつけてもうまくないお酒が多いことにがっかりするのである。
 燗をつけると酒の厚みが薄くなってしまうものが多い。アルコールが前に出てきて、お酒のうまさがその強い刺激の裏に隠れてしまうのである。
 煙草のニコチンや麻薬は、うまいぬる燗にひたっているときのような快感が得られるものがすぐ手に入るから癖になってしまうのだろうが、幸い、うまい燗酒はなかなか手に入らないから、依存症にならないところがいい。

 うまい燗酒に出会った時の記憶は甘美な記憶となっていつまでも心に残るから、またそれを口にする快感と悦楽を求めてお酒の旅に出るのである。


★熟成香といい老ね香という★19/3/14のお酒
 熟成香(じゅくせいか、と庵主は読む。または、じゅくせいこう、とも読む)といい、老ね香(ひねか、もしくは、ひねこう)は同じものである。
 それが自分にとって好もしい時は熟成香という。嫌いなとき老ね香というだけのことである。
 それはときに人の心をたぶらかす。逆に、おもわず吐き出したくなることがある。
 あばたもえくぼという言葉がある。
 痘痕もえくぼと漢字で書くと、アバタは本来醜いものだという気分がよく出ている。が、それを好もしく思えてしまうことが、人間にはあるということなのである。
 ほれこんだ時には、人の心には痘痕がえくぼに見えるということである。
 本当にそうなるわけではなく、そういう人の心のきまぐれをいうのである。
 それは、ものごとは、欠点こそ実は美点なのだという一面の真理を突いている言葉なのかもしれない。

 お酒のうまさというのも、最後は欠点の魅力が決めるようである。
 たしかに、きれいなお酒は文句がないのである。しかし、そればかりだとすぐ飽きてしまうのが人の心である。
 もっと心に残るお酒が呑みたくなる。
 そのお酒のいいところを自分は理解できるという矜持を感じさせるお酒が呑みたくなるのである。
 だれもが認めるお酒に賛意を示してもつまらないからである。
 自分だけがわかる魅力を楽しみたいのである。
 雑誌の日本酒特集で、いままであまり知られていなかった蔵のお酒を褒めたたえるのもその心理をくすぐるためのテクニックである。

 欠点のないのが欠点という言葉がある。
 あまりよくできているとつまらないという贅沢な注文である。
 大手酒造メーカーの普通酒なんかは、その代表例だろう。
 よくできているのである。
 文句のつけようがない。
 ただし、呑んでいてもちっとも幸せになれないということはよく知られているところである。
 そういうお酒を呑んでいると、酒を呑むのがむなしくなるというのが庵主の実感である。

 昔、桶買いというのは、大手酒造メーカーが、中小の蔵元からお酒を買うことだった。
 桶買いというのは造ったお酒をタンクごと他の蔵に売ることである。蔵から蔵のお酒の販売には酒税はかからないのである。
 今時、桶でお酒を造っている蔵はないが(木桶造りというのは別にして)、言葉だけはそれが使われている。無課税移出というのが法律用語だったか。それを調べる気力はない。そんなことはどうでもいいからである。
 今、桶買いというと、逆に中小の蔵元が大手酒造メーカーに注文することが多いのだという。
 造りをやめたが、酒銘だけは引き続き残したいと考える蔵元が瓶詰するためのお酒を注文するのである。
 そのときの大手のお酒造りが凄いのだという。
 日本酒度とか、酸度とか、指定したとおりにきちんと造ってくれるのだという。
 そういう精密なお酒なのに、呑んでみるとちっとも面白くないのである。
 まじめな人がお酒を造るとそんなものしかできないというのがおかしい。
 どこか欠点がないとお酒はおもしろくないのである。
 
 そして、酒といい、毒といい、それもまた同じものなのである。
 子供にお酒を呑ませないというのは、成長段階にある人間にはアルコールの毒性が強く働くからだし、女にお酒を呑ませないのは、子供を産む時に生れてくる子供にさしさわりがあるからである。
 ただ、もう大して役にたたない男の大人だけが、好きにしなさいとばかりに見捨てられたかのようにお酒を口にするのである。
 アルコールに強いことがさも大物であるかのように持て囃されるのは、その手の人間の無知をさらけ出しているだけなのだが、時代は、野酒の多飲から、美酒の味飲へと移りつつある。蛮飲から雅飲の道が開けてきたのである。
 これまでのお酒は味を呑み比べることをするだけの違いがなかったが、今のお酒はその味わいが豊かになったからである。
 そして、これまでは一口に老ね香といわれていたものが、よくよく味わってみるとそれが魅力になっているお酒もあることが分かってきたのである。

 酒という毒をさもうまそうに語るのは自らの肉体をおもちゃにしていることである。宗教はそれを嫌う。飲酒は天をもおそれぬ行為なのである。
 ヤクザな行為なのである。そんなことは知っててわざと悪さをやっているからである。
 酒呑みの話は毒を楽しそうに語っているのだから、それを真に受ける子供には聞かせられないということである。
 「むの字屋」を読んでいる子供はいないと思うが。



★新酒はうまいか、しょっぱいか★19/3/7のお酒
 新酒が出回る季節である。
 庵主は、今では、それをうまいといって呑むことはない。
 ないこともないのだが、それは一、二の例外だけである。
 なぜかというと、若い酒なんか呑んでも少しもおもしろくないからである。
 とはいえ、新酒が出てきた時には、おいしいお酒ですねといって愛想をふりまくことはある。
 それは旬を楽しむためであって、お酒の味を楽しんでいるわけではない。
 楽しみの中身が全然違うのである。
 
 まだ醗酵が進んでいるうちに瓶詰したお酒を開ける時は注意を要する。
 瓶の中が醗酵が進んでいるから、うっかり蓋を開けると中のお酒が噴きこぼれることがある。
 そういうお酒ではよく苦情の電話が掛かってくるという。
 ヤクザから、お前の所の酒で服が汚れてしまったと電話が掛かってきたときにはびびったというを話を聞いたことがある。
 酒販店には、お客さんにちゃんと説明してから売ってほしいといっているのだが、なかなか徹底できないとのことである。
 だから、うちではお酒を知っている人に頼まれた時しかそういう酒を出さないという蔵もある。
 中には、大きな赤い文字で「危険」と書いたラベルを付けて売っているお酒もある。
 ラベルの裏側には正しい栓の開け方がくわしく書かれている。
 さすがに、「ヤクザは呑んではいけません」とは表示ができないのである。
 先だっての「獺祭新酒の会」でも、ポン、ポンと音を立てて栓を抜いている瓶があった。発泡にごり酒など開栓するときには景気がいい音を出していた。
 シャンパンの栓をことさら音を出して抜くような華やかな演出である。
 
 新酒も、そのお酒がうまければいいが、そうはいかないのである。
 新酒というのは、若い酒なのである。だから味に深みがない。人間の魅力と同じである。
 ただし、搾りたての酒は炭酸がまだ舌に感じられて心地よいのがおもしろい。
 おもしろいけれど、味がまだ単調なので呑んでも心に引っかかるものがないのである。すうーっと流れていくだけである。いうならば、私の体を通りすぎて入った男といった感じのお酒である。
 あとに記憶が残らない。

 新酒は赤ん坊のようなもので、若いということで生命力というか、新鮮味はあるが、しかし、本当の美女は歳を重ねてからである。
 赤ん坊の肌に触れるのはすべすべしていて気持ちがいいが、ただそれだけのことで美女の柔肌に比べると深みがないのと同じである。
 お酒の味わいは、女にたとえるとわかりやすいというのは、酒呑み男の共通の思いであるが、いずれも男に夢を抱かせるという点では共通するところがある。

 お酒は男文化である。
 すくなくても利口な女は呑まないものだからである。
 本当に利口な男は煙草を吸わないのと同じである。
 そういうのを小利口というのだったかはよくわからないが。
 お酒が、もし女文化だったら、その味わいは男にたとえられて愛でられていたことだろう。
 お酒というのは文化を呑んでいるということでもある。
 お酒を呑むということは文化を引き継ぐということなのである。
 そう考えるとお酒を呑む意義が生れてきたではないか。
 庵主などは、本当にお酒が呑めないのに、ただ文化を受け継いでいくということだけでお酒を呑んでいるのである。
 造り手がいいお酒を造っても、それを呑み手がきちんと評価できないのでは、呑み手の恥ではないかという思いからである。
 
 お酒は、また、それを呑めば馬鹿になれるというところがいいのである。
 四六時中利口をやっているのは疲れるだけだからである。
 呑みすぎなければ副作用のない便利な薬なのである。
 だがしかし、お酒の唯一の欠点は、うまい酒は適量で呑み終えることができないということである。
 新酒は、その薬効がまだ十分でないところに不満が残る若い酒なのである。

 庵主のお酒の好みは、1〜2年熟成させたお酒がうまいと思うように変わってきた。
 若い酒は、ただおもしろいとしかいえない。それを楽しいお酒というときは、一緒にそれを呑む仲間たちとの雰囲気が楽しいということである。
 味わいだけではなく、呑むという雰囲気をも楽しめるのがお酒だからである。
 庵主のようにお酒の味だけを楽しんでいる呑み手はかなり異常な部類にはいるのだろう。
 美酒のそばにいい肴がないというのだから、これはひょっとして貧乏だということなのかもしれない。
 いろいろなお酒の呑み方があるということである。



★厳寒のお酒★19/3/1のお酒
 厳寒の候である。
 東京も、例年雪が積もる日があるのはこの時分のことで、今頃が一番寒い時期なのだが、今年は暖冬ということで雪の気配がない。
 庵主の庵(いおり)は、その懐(ふところ)ともども寒いから、暖冬を実感することはない。ただ、この冬は灯油が売れていないという新聞記事を読んで暖冬なのだと知るのである。
 しかも、紙の新聞は購読料が高くて買えないから、月315円のインターネット新聞を読んでいる。

 いや、もう新聞を読むこともなくなった。
 中身がないことがわかったからである。
 見出しを流し読みするだけである。
 というのも総合紙の記事で庵主が見るところがほとんどないからなのである。
 テレビがないので、番組欄は庵主には不要のページである。
 スポーツをやらないから、最近はやたらとページ数が増えたその部分はまず見ることがない。
 株式欄は無用である。
 と、見なくてもいい記事をあげていくと、ほとんどのページが不要なページなのである。
 事件の記事を読もうとすると、ネット上ではすでに実名が出ている犯人や被害者の名前はおろか、その背景さえきちんと書かれていないことがあるから、新聞記事を読んでも何が起こっているのかわからないのである。
 それでいて、強姦されて殺された女の子の顔写真と名前まで出すということを臆面もなくやっている品の悪さに辟易するからである。
 今では、事件は、玉石混淆のネットで読むというのが庵主の習慣になってしまった。
 どうせ新聞で読んでも本当のことはわからないのである。ネットの想像力豊かな記事を読んだ方がおもしろいということである。
 真実よりも、おもしろい方が価値があるからである。

 お酒もそうである。真実一路のコチコチのお酒よりも、味は多少ひどくてもおもしろいお酒の方が呑んでいて楽しいのである。
 だから庵主は純米酒原理主義には与(くみ)しない。
 米だけでうまいお酒が造れればいいのだが、純米酒が必ずしもうまいとは限らないからである。
 さいわいなことに、庵主はアル添のお酒かどうかが判別できないのである。
 あわれなのは、ちょっとでもアルコールが添加された味が分かる人である。しなくてもい苦労を背負っているようなものである。
 あまり感度が高いのもよしあしだということである。
 
 お酒の趣(おもむき)を味わう前にアルコールを感じてしまうというお酒の呑み方を、庵主は重箱にはいったぼたもちの例でからかっているのである。
 おいしいぼたもちが入っている重箱があるときに、庵主ははじめにうまいぼたもちを食ってしまうが、アルコールを感じてしまう人は先に重箱の隅をほじくっているようなものだ、と。
 まず、味わうことが先で、能書きはそれからなのである。
 能書きを積み重ねていって、期待を抱いて呑んだら、それほどでもなかったというのが一番残念である。
 なにげなく呑んだお酒が予想以上にうまかったという時の方がずっとうれしいじゃないか。

 厳寒の侯は、酒造りの最盛期でもある。
 新酒がどんどん出回ってくる。
 生生(なまなま)だ、無濾過だ、しぼりたてだ、と庵主を誘惑するのである。
 ただし、新酒の多くはあまりうまくない。
 庵主の好みはきちんと熟成したお酒に移ってしまったからである。
 1〜2年ほど放っておいて、少し老ね香を感じさせるようなったお酒に、味の深みを感じるのである。そして満足感もそれを呑んだほうがずっと大きい。
 
 若い酒はたしかにフレッシュで、炭酸が感じられるのはまさに旬の味であるが、しかし、まだアルコールも固くて甘くも何ともないものが多い。
 庵主は甘いお酒でないと駄目だから、キャピキャピの、そんなお酒は一口含んで終わりである。
 ときに、搾りたての、酒質もまろやかで、舌にしっとり乗ってくるような、甘いお酒がある。
 そういう新酒なら、庵主にも呑めるのである。
 新酒といってもいろいろな味わいがあるから、いろいろ呑み比べるのは楽しいことだが、庵主は、酒量が少ないこともあって、そういうお酒は横に見て、最初からうまいお酒を味わうというのが習慣になっている。

 冬の、よく冷えている部屋の中で、日本酒の瓶の栓を抜くと、馥郁たるお酒の香りが立ち込める。
 その香気が庵主は好きだ。
 お酒の精気が部屋中を満たす。
 うまいお酒があるところに一緒にいるということで、凛とした気持ちになる。
 そのお酒を口にする寸前の緊張感が、一番お酒のうまい一瞬なのである。