いま「むの字屋」の土蔵の中にいます
平成19年1月後半の日々一献
★「水芭蕉」を呑む★19/1/31のお酒
「水芭蕉」を何本か呑んだ。
以前、蔵を訪れたときに、たまたま搾っていたお酒がめちゃくちゃうまかったということを覚えている。
その印象が強烈だったから、「水芭蕉」はいいお酒を醸している蔵ということで庵主の記憶には残っているのである。
匂いの記憶が言葉の介在なしに本能的に記憶されるのと違って、味わいはそれをいったん言葉に置き換えておかないと記憶に残らない。
「感動的な味わい」ということで記憶されている「水芭蕉」は、だから庵主にとってはうまいお酒の一つなのである。
その時に試飲して「うまい」と感動さえ覚えたお酒が実は普通酒だと聞いてびっくりしたものである。
うますぎたのである。
しかし、そのうまさも普通酒の場合は長くは続かないというのが、お酒の格の違いなのである。
そういうお酒はうまいうちに呑みきってしまうということである。
それに対して、格上のお酒はやっぱり長くそのうまさが味わえるいいお酒なのである。歳月をへて熟成するに従ってうまくなるお酒も少なくない。
うまくなるというよりも、味わいが深くなるのである。
当然格上のお酒は原価も高いし、造るのに手間がかかり、造り手の気合を要求するものだから、大量には造れない。
そういうお酒を呑んでみると、お酒に緊張感が漂っているのがわかる。わかるような気がするのである。
お酒にこもっている気合が呑んでいて気持ちいいのである。
ただし、そういういいお酒は少ない。が、ちゃんとそういう呑みごたえのあるお酒があるということである。
時にはそういうお酒を呑むのも楽しいのである。そういうお酒を呑んでもうまいとは限らないが、そういうお酒を口にすることは楽しいのである。
「水芭蕉」はどれを呑んでも味が固い。それが特徴である。米はいいものを使っているから、造りの個性なのかもしれない。水のせいかもしれないが、庵主にはその個性がよってくる由来はわからない。
しかし、そこに一貫した味わいがあることがわかるから面白いのである。
なお、同じ蔵の「谷川岳」はちょっと異質なのでここでは念頭に置いていない。「水芭蕉」というラベルが貼ってあるお酒についてだけの話である。
これが「水芭蕉」の味わいだとわかって、次の一本を呑んでみるとそこにも同じ味わいがあり、その次の一本にもぶれることがないその味わいがある。
その味わいこそが「水芭蕉」というお酒なのである。
その味わいが花開いたのは「大吟醸ヴィンテージ」である。
これは、「水芭蕉」の個性といっていい味わいをたたえながら、しかもうまいとしか言葉がない出来映えのお酒である。
庵主が呑めるお酒の一本となった。こういうお酒なら庵主でも呑めるのである。
「水芭蕉」の大吟醸ヴィンテージは、呑む機会があれば一度は呑んでおきたい味わいの一本である。
ただ、非売品となっていたから、ほとんど出会うことができないというのが、そういうお酒の欠点なのである。
★観念的飲酒法★19/1/24のお酒
酒を飲んだときにうまいと思うことがある。
一つには、期待していなかったお酒が、思っていた以上にうまかったときである。意外性のうまさである。なんとなく得をした気持ちになる。
もう一つはうまいお酒を呑むぞと心して呑んだときにそれが本当にうまかったときである。これはうれしいうまさである。
うまいお酒がわかるという矜持と、日本にはそういううまいお酒を造る人がいるという信頼感に裏付けられた日本人に生れたことの満足感に満たされるからである。
うまいには二つの意味がある。
一つには、頭の中で感じるうまさである。これはいいお酒だとわかるお酒がある。そうでないお酒と何が違うのかというと、その酒に込められた造り手の気合が感じられるところが工場生産のお酒とはちょっと気配が異なるのである。
ただし、いいお酒が庵主にとって好みの酒なのかというと、必ずしもそうではないということである。
これもまたいいお酒には違いないとは思うが、庵主の好みではないというお酒はいくらでもある。
庵主の場合、そういういいお酒もときにはうまい酒だということがあるが、心からうまいと感じているわけではなく、頭の中で観念的に組み立てたうまさなのである。
本当にうまいお酒というのは、体がうまいというお酒である。
観念的にうまいお酒というのは、どこがうまいのかを考えなければならない酒である。
一方、本当にうまいお酒、すなわち庵主が好きなお酒というのは、理屈抜きに体が喜ぶお酒だから能書きなんかいらないのである。
そういうお酒は波長が合うお酒ということになる。
高い酒でうまいお酒を買ってきた時に、すぐに呑んでしまってはもったいないからとちびりちびりとやっていても、そういうお酒は飽きることなくいくらでも呑めるのである。
最初の一杯のうまさが、次の二杯目を誘い、二杯目のうまさが、三杯目にまた期待を募らせるというお酒である。
三杯目を呑んでもまだうまいから、つい禁断の、庵主にとっては適量を越えているという意味の四杯目を注(つ)がせるのである。
そういうお酒を呑むと庵主はため息をついてしまう。
あー、お酒がうますぎる、と。
何回かお酒を呑むうちに1回はそれがあるからお酒はやめられないのである。
呑み会をやると数多くの酒瓶が並んでいても、阿吽の呼吸でうまいお酒から空になっていくものである。
さっきのうまかったお酒をもう一杯呑もうとしたらそれはまっさきに空になっているのである。
そういうお酒は大方の呑み手が好む共通のうまさをたたえているということだろう。そのうまさが安く再現できればいいのだが、そうはいかないのがお酒である。
うまいお酒を造ろうとしたら、ある程度の手間とお金がかかるということである。 簡単に手がけても酔っぱらうことができる酒は造れるというのに、わざわざ手間暇をかけて造ったお酒のことを、庵主は丁寧に造られたお酒といっている。
うまいまずいよりも先にその酒造りの姿勢がきもちいいお酒のことである。
酒造りになにか一工夫を感じるときは技のあるお酒だという。
一般的にそれはうまいお酒にはいる。中にはすごいお酒になることもあるが。
庵主の体がうまいというお酒は呑んでいて心くつろぐお酒である。
さて、庵主にとっては観念的なうまさを味わう呑み会があった。
泡盛の「やまかわ」を呑んだ。
泡盛は蒸留酒である。日本酒のうまいのに馴染んでいる庵主にはよくわからない酒である。
今は焼酎ブームであるが、庵主にとって焼酎というのは貧乏人とかアル中の域にある呑ん兵衛が呑む酒というのが子供の時分のイメージだった。当時の世間は焼酎をそう捉えていたということである。
焼酎は変わっていないのに、正しくいえば昔のそれよりは、より美しく、より呑みやすくなっているのだが、その地位は世の中の方が大きくぶれてしまったために今日では零落する日本酒と肩を並べるようなったのである。いや、焼酎の方が羽振りがいいか。
庵主にはそういう子供の頃からの偏見があるから、焼酎を冷静に判断できないのである。
その点、子供のころから地酒は焼酎だったとか泡盛だったとかいう人の感覚は庵主とは異なるのだろう。
酒のうまさはそれを愛飲している人から聞くしかないのである。
「やまかわ」は泡盛である。蒸留酒である。
庵主にとってはうまいわけがない酒である。愛飲者からその味わいの楽しみを聞くことにした。
泡盛はタイ米を原料にして造っているから米焼酎なのである。
熊本県の米焼酎を特に球磨焼酎と呼ぶように、沖縄のそれは泡盛と呼んでいるのである。
その伝でいうなら大手酒造メーカーの普通酒はプラント酒とでも呼ぶことになろうか。
焼酎の特別名称の場合はなんとなくうまそうにに感じるが、プラント酒というネーミング(商標)ではまずそうな酒に思えるから当然没案である。
ネーミングというのは買い手の購入意欲をそそるもの、もしくは記憶に残るものでなくてはならないからである。
泡盛にも一般酒というのがあるという。
清酒で一般酒といえば、なにかとなにの普通酒のことだから、本土に持ってきたときには使いたくないとはいっていが、泡盛の普通酒は三年未満の若い酒のことであって、清酒のように格の違いをいうものではない。
その一般酒の2005、2004、2003、2002と呑んでみた。それぞれの年につくられた泡盛である。
アルコール度数は30度である。
甘い。アルコールが甘い。度数はあるが、甘いのである。そしてにおいは庵主には理解の外の味わいである。
このにおいは、庵主は、昔なら呑めなかっただろうが、いまでは拒むこともなく口に含むことができるのは頭で泡盛を呑んでいるからである。
熟成の違いか、造られた年による違いなのかわからないが、微妙に味わいがちがう4本である。
庵主は2003年の味が気に入った。印象に残るものがあった。4本を呑み比べると2003年の味わいが可愛いのである。
瓶貯蔵の1998とタンク貯蔵の1998を呑み比べてみる。
「珊瑚礁」の酒銘で出しているものである。
瓶とタンクの違いだと聞いて呑んでみると、気のせいか、瓶にはかすかに土くささを感じる。
だまって出てきたからそれも気がつかないだろう。
最後に15年貯蔵の「かねやま」を呑ませてもらった。かねやまというのは山川酒造の屋号である。
「かねやま」を呑むと、蒸留酒は時の流れをたたえておいしくなる酒だということがわかる。
15年の歳月を経た泡盛は、その好き嫌いを超越して、それを口にする喜びにひたれる酒だったのである。
★好みのお酒★19/1/17のお酒
庵主がいううまいお酒というのは、あくまでも庵主が呑んでうまいと感じるお酒のことである。
庵主が口にして思わず「うまい」と感じたお酒である。それはまず味覚としてのうまさであるが、やがて心にしみてくるうまさに変わるのに時間はかからない。
「うまい」という満足感に、身も心も満たされたときの幸福感のことである。
世の中には庵主には理解できない超辛口のお酒でもうまいと感じる人がいるのである。
蓼食う虫も好き好きである。
それでいいのである。
世の中で一番つまらないことはどれも同じということである。
世にあるお酒がすべて大手酒造メーカーが心をこめて造る普通酒のようなお酒ばかりだったら、庵主にはお酒を呑む理由がなくなってしまう。
違いがあるから面白いのである。その面白さがなくなったらお酒を呑んでも甲斐がないではないか。
微妙な違いが分かるということが楽しいのである。
それを「機能快(きのうかい)」というのだということを知ったのは渡部昇一の本を読んでである。
「機能快」については庵主のブログに書いたことがあるから検索するとすぐ出てくるだろう。
お酒の味わいの微妙な違いを表現するのが難しいのである。
であるから、それは庵主のように量が呑めない酒呑みにとっては格好の肴になるのである。
このお酒のうまさをどうやって表現したらあとあとまでその味わいを記憶に残せるものかと思案するのが楽しい。
その味わいを言葉に変換しておかないとすぐに忘れてしまうからである。
酒銘とそれを呑んだときに感じた印象を記した一言が残っていると案外そのときの記憶が蘇(よみがえ)ってくるものである。
お酒はいいお酒になればなるほど二度と同じものが呑めないものだから、それは即そのお酒との一期一会に対する感謝の言葉になるのである。
滅びていくものを、なくなっていくものを愛でる気持ちである。もう出会うことがないものとの出会ったときのトキメキを書き記しておくということである。
他の誰ももっていない庵主だけの記憶である。心の財産である。宝物と言い換えてもいい幸せの記憶なのである。
そういうトキメキをうまいお酒はもたらせてくれる。
庵主がうまいと思うお酒の条件はこうである。
それは前提条件ではなく、結果的にそういうお酒を呑んだからうまいと感じることがわかったということである。
いろいろなお酒を呑んでわかったことなのである。
だから、他の人がそういうお酒を選んで呑んだからといってもうまいと感じるものではないと思われる。
庵主の好みと好きなお酒の傾向が似ている人なら参考にはなるだろうが、そうでない人にとっては、そういうお酒が好きな人もいるのかと思ってもらえばいいだけのことである。好き嫌いだから善し悪しを超越しているのである。好き嫌いを善し悪しで論じても意味がないということである。
庵主がうまい思うお酒の共通点は、アルコール度数が最低16度以上のお酒である。それ以下のものは呑んでも物足りない。水っぽく感じるのである。
一口含んだときに、「あれっ、これうまい」と感じるのは18度とか19度ぐらいあるお酒である。
度数はあっても、お酒自体に力がないとすぐ飽きてしまうのだが、度数が高いお酒は庵主の気を引く酒なのである。
次の条件は神秘的になる。
言葉でうまく表現できないからである。
すなわち、造り手の気合がこもっているお酒がうまいということである。
造り手の気合とはどういう味だと聞かれても困る。
まちがいなくそういうお酒があるということである。そのうまさばかりは実物を呑んでもらうしかないが、そういうお酒は呑み会や試飲会でも最初に呑まれてしまうから、それを知らない人はいつまでたってもそれにめぐり会えないということが多い。
知っている人だけが楽しんでいる味わいなのである。
実は、造り手の気合を感じても、庵主の好みに合わないお酒はいくらでもあるのだが、しかし、そういうお酒を口にしたときにここちよい緊張感がまた気持ちいいのである。
うまいとは言わないが、いいお酒を呑ませてもらったと記すのである。
造り手の気合がこもっているお酒のうまさを少しでも言葉で伝えるために「むの字屋」を続けているのである。その言葉を模索しているのである。
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