いま「むの字屋」の土蔵の中にいます
平成18年11月の日々一献
★思いがけなく「万齢」★18/11/29のお酒
中野でショーを見た後にぶらりと立ち寄ったお店にあったのは佐賀の「万齢」(まんれい)の純米の「冷やおろし」だった。
ここで「万齢」が出てくるとは思ってもいなかったから、一も二もなくそれを頼んだ。
以前呑んだことがある「万齢」がうまかったので、その記憶が残っていたからである。
最初の出会いがそうだったことから「万齢」はうまいはずであるというのが庵主の心象である。とはいっても、しばらくそれを呑んでいないのだから、今度のお酒もそうだという確信はないが、しかし、以前呑んだときに感じたお酒の気合からして同じ姿勢で造りつづけているはずだから今度の「冷やおろし」もきっとうまいに違いないと予想したのである。
というのも、今の「万齢」は何年か酒造りをやめていた蔵を継いで造りを再開した子息の小松大祐杜氏が醸しているということを読んだことがあり、そのとき呑んだ「万齢」の気合が十分なうまさをたたえていたからである。
その酒は、小松杜氏がお酒を造りはじめて二造りめか三造り目の酒だったが、庵主が呑みたいうまさの水準をゆうに超えていたからである。この人が造るお酒はうまいという確信を得た瞬間である。
庵主が心に浮かべたその予想が期待値である。
お酒が出てきた。
はたして庵主の予想が当たっているかどうかワクワクする瞬間である。
お酒を含んでみる。味わってみる。
うん、当たりである。うまい。
いい酒だというだけではなく、うまい、のである。
期待値を軽く超えているところがまた気持ちいい。味わいに力みがないのである。それでいてうまいのだから、もう一度繰り返すが、呑んでいて気持ちがいいのである。
こういうお酒と出会えるとうれしくなる。
庵主は最近はできれば1年から2年寝かせたお酒の方が好きになってきたから、冷やおろしといっても呑みたいという気持ちがわいてこないが、こういうきれいなお酒なら呑んでもいいと思う。
この場合のきれいというのは、ほめるまでもないが貶すところもない無難にまとまっているお酒だということではなく、その味わいに曇りがない好感がもてるお酒だということである。
邪心がない、といったら一番ふさわしいのかもしれない。お酒が澄んでいるのである。ときどきこういう力が入っていないように感じるのにすうーっと呑めるお酒と出会うことがある。
「万齢」の「冷やおろし」は、イヤミとか奇をてらったところがない、そして過度にうますぎることもない気持ちがいいお酒だったのである。
と、同時に同じ蔵元が造っている米焼酎「おおち」もあったので好奇心からそれも呑んでみることにした。
庵主は基本的には焼酎は呑まない。うまいと思わないからである。焼酎のうまさを知っている人は酒の世界が広い人である。
庵主の場合は、日本酒で足りているから、他の酒まで手を広げることはないということである。
うまい日本酒が沢山あるので、他の酒にうまさを求めるまでもないという境遇による。
日本酒の古酒を味わっているときに、これはワインのなんとか見たいな味がするというご婦人がいた。なるほど、日本酒の世界で見ると所詮古酒の味わいだが、別の酒の世界ではその味わいが別の評価をされているのかということを知って、できるならそういう酒も知っておいた方がいいのだろうとはおもうが、酒の量が飲めない体質なのでそこまで手がまわらないのである。
とはいえ、その小松大祐杜氏が造る焼酎だということで、好奇心から試しに「おおち」を呑んでみたのである。
おっ、意外と呑める、というのが庵主の第一印象である。意外というのは、客観的にではなくて、焼酎のうまさがよく分からない庵主にも呑めるといういう主観的な意味においてである。
たぶん、呑めない庵主がうまいと思うだから、客観的にも、つまり大方の焼酎呑みもうまいと感じる酒なのだということはまちがいないだろう。
それを呑んでうまいかまずいかを問われたときに、多くのひとがうまいと感じる焼酎だろうということである。
見るとアルコール度数が27度とある。
普通の焼酎は20度とか25度とか30度といったアルコール度数に調整されているが27度というのは珍しい。
あえて25度にしなかったのは、「おおち」にとってはそれが水で薄めたときにちょうどうまいと感じる度数なのでそれにしたということなのだろう。
庵主は日本酒に関してはだんだん好みがはっきりしてきた。
好きな味わいのお酒と興味がない味わいとがハッキリしてきたのである。
その一つにアルコール度数がある。15度のお酒だと水っぽいと感じるのである。味が頼りないのである。「水っぽい酒」という表現があるが、庵主にとっては15度のお酒に感じる印象がそれである。
16度台のお酒になるとやっと酒を呑んでいるという気がする。17度台になるとその刺激を感じただけで一瞬うまいと感じるのである。
庵主は、酒はアルコールという液体の器に盛られたうまさのことであるとは言っているが、器のアルコールもまた酒のうまさの一要素なのだから、その言いようは実はウソであることがわかるが、お酒の話に彩りをつけるネタなのですぐウソだとばれてもそれはおかしいという声が出てくればまた話が広がるツカミに使えるからこの主張はそのままにしておくことにする。
焼酎の場合は、庵主は25度のものを呑むとなんとなく水っぽく感じるのである。日本酒で25度なら濃すぎて呑めないが、正しくは呑めないことはないのだか、その度数がうまいという言葉に直結しないのだが、焼酎の場合はそれでは物足りないというのは酒の違いによるのだろう。
よくある焼酎25度というのが多いが、「おおち」は27度で、わずか2度の違いだがそれは庵主の好みに合う度数なのかもしれない。そのせいで庵主が呑める焼酎だったどうかはわからないが、すくなくとも一口味わったらもう呑まなくてもいいやという焼酎ではなかったのである。
ちょっと得した夜だった。
★埼玉の普通酒★18/11/22のお酒
試飲会に行くと居酒屋をやっている人と出会って名刺を交換することがある。
その名刺が一般的には顔写真がはいっていないから、何枚も名刺を交換すると、あとから名前を見ても絶対その人の顔が思い出せない。
庵主の名刺に似顔絵をいれてあるのはそれがわかっているからである。
庵主には、死ぬまでに一度言ってみたいセリフがいくつかあるが、そのうちの一つが、名前だけの名刺を貰ったときに「こんな名刺もらってもしょうがないんだよな」というセリフである。
藤原紀香とか松嶋奈々子の名刺なら名前だけでも顔は浮かんでくるが、初めて会った人の場合は二、三日もたったら名前だけの名刺を見てもその人がどんな人だったか思い出せるわけがない。
とりわけ試飲会では、庵主はつい酒を呑んでしまうから、酔っぱらって記憶はすぐに薄れていくのである。
庵主は常にカメラを持ち歩いているから、「全国に指名手配されているとか、会社に内緒で来ているとかの事情で写真は困るということでしたら、その旨おっしゃってくださいね」と断って相手の写真を撮らせてもらうことにしている。
後日、撮った写真を送って上げることで庵主のPRにもなるから一石二鳥なのである。郵送という手間暇かけることで相手の名前もしっかり記憶に残るというわけである。
庵主は身が軽いから、そうして出会った居酒屋には即顔を出すことにしている。
とにかく早いうちにまた顔を見ておかないと、相手の顔を確実に忘れてしまうからである。
それに、もちろんのこと、うまいお酒を呑みたいからなのであるが。
浦和でお店をしている人と出会ったので、さっそくお店に行って来た。
駅から近いお店だった。
お酒は地元埼玉のお酒が冷蔵庫の中で冷えていた。
ささなみ(「琵琶のさざ浪」)、天覧山、秩父錦、直実といったご当地銘柄をよく揃えているお店だった。
埼玉のお酒は意外と呑む機会がない。
東京にいると、なかなか出会えないお酒ばかりなので、できれば一通り呑んでみたかったのだが、庵主の適量は2杯である。
一杯目は「天覧山」にした。
以前、都内の百貨店で試飲販売していた「天覧山」を呑んでそれが予想以上にうまかったことでちょっと気になっていたからである。
そのときの酒は本醸造だったか。いい酒を造っているなという印象だけが残っていた。
出てきた「天覧山」はいいお酒だった。うまいとはいわないが、しっかりした造りを味わうことができた。
「純米酒ですか」と聞いたら、返ってきたのは意外な答えだった。
「普通酒です。うちは普通酒を揃えています」。
たしかに、そういわれてみると醸造アルコールの感じがするような気がするが、それにしても味にしっかりした厚みがあるのである。
大手酒造メーカーが造る普通酒の超すっきりしたあの薄っぺらな感じではなかったものだから、てっきりもっといい酒なのだと思った。
いつも書いているように、庵主は純米酒とアル添酒の区別がつかないのである。
アルコールくさい純米酒もあれば、よく馴染んでいるアル添酒もあるからである。
「天覧山」の普通酒はよかったのである。
2杯目は「直実」にした。これは最初から答えはわかっている。もちろん普通酒なのである。
それがまた個性的な味だった。ちょっと特徴のある香りがするが、それゆえに普通酒という感じの酒ではないのである。
それでいて値段が安いからうれしくなってくる。
普通酒がこんなにうまくていいのだろうかと、庵主の常識があっさり覆されてしまった2杯だった。
最近は高くてうまいお酒よりも、安いのに期待以上にうまいお酒を呑んだ時の方が庵主はお酒が楽しめる。
また埼玉の普通酒を呑みに行きたくなる夜だった。
★ふなぐち「菊水」一番しぼりの新米新酒★18/11/15のお酒
庵主がいま気に入っているのが新潟の「菊水」の缶詰である。
「ふなぐち菊水一番しぼり」本醸造生原酒である。200ミリリットル入りのアルミ缶に詰められているお酒である。税込み278円である。そのお酒が酒の安売り屋で330円で売っていたのを見たことがある。局地的にプレミアムがつくようになったのお酒である。
その新米新酒が出た。「製造日 H18.10.14」である。
缶の色が従来のオレンジ色から黄緑になったからすぐ目にいった。
どこがいいのかというと、精米歩合70%でうまいのである。
磨きを上げたお酒がそれなりにうまいのは分かっているので、今は低精白でうまいお酒を呑む方がよりお酒が楽しめるようになってきたからである。
たとえば鑑評会の金賞酒などはどれも一様で、ホントはやっぱりそれぞれに蔵の技を感じるのであるが、ケチのつけようがないから呑んでいても話題にしようがないのでつまらないということである。
かといってうまいのかというと、ただ香りが強くてそれだけの酒だから誉めようもない酒なのである。
そういうお酒よりも、一言感想がいえるお酒の方がおもしろいと思う。
「ふなぐち菊水一番しぼり」はちょっと独特の香りがあるのだが、それがまた癖になってしまうのである。
「新米新酒」は去年のそれと変わらぬ蠱惑的な味わいで、ちょっと呑んだだけでお酒を呑んだという満足感が味わえるということが酒が呑めない庵主には打って付けなのである。
というのもアルコール度数が19度とかなり高いために、その度数が庵主の好みに合致していることからその味わいの評価がどうしても高くなってしまうのである。
15度の酒を呑むとなんとなく頼りなく感じてうまさを感じないのである。16度台になるとやっとうまいと感じる。17度あれば、その度数だけでうまいと感じるようになってしまったのである。
ならば18度や19度ならもっとうまいのかというと、そうとは限らないのだが、この「菊水」は19度の辛さを感じさせないうまさがある。
酸味とのバランスがうまいのである。甘く感じるのである。
そして、「菊水」の缶詰がいいのはどこでも売っているということである。庵主の庵の近所のスーパーやコンビニにも売っているからありがたい。
いくらうまい酒だといっても手に入らないお酒はないのと同じだからである。
★古い酒★18/11/8のお酒
手元にある酒瓶を整理した。
以前に買ってきたり、貰ったり、呑み会で残ったものを引き取ってきたりしたものである。
どの瓶も少しずつだけお酒が残っている。
しかも、長年常温で呑まずに置いてあったものだから、中にはおっと思わせるものもあるが、ほとんどは老ね香が出てて、いまさら呑むほどの味わいではない。
とはいっても、呑めない酒はない。ただ、その一番うまい呑み頃を外しているということである。
せっかくなら、うまい時に呑んでおくべきだったが、庵主は量が呑めないから、つい呑み残しのお酒がたまってしまうのである。
一回に60ミリリットルの日本酒グラスで2杯しか呑めない体質なのに、四合瓶で貰ってきたのでは呑みきれるわけがない。
加えて、庵主は根性がない呑み手なので一つのお酒を呑みつづけているうちに飽きてしまうのである。
そういうのを浮気症というのだろう。女でそれをやったら顰蹙ものだが、お酒でなら通ですねということになる。
つぎつぎに相手の女を変えるというのは、逆に見れば、すぐ女に振られているということだから自慢にならないが、その点お酒はいい。
いい酒であればあるほど次がないのだから、そういうお酒は造られる量が少ないから誰かに呑まれてしまったらもう次に呑みたいと思ってもなくなってしまっているから一つの酒に執着することができないのである。また別のお酒を求めるしかないということである。
一つのお酒を決めてずっと浮気しないですむということは、そのお酒がそこそこの酒だから次を求めることができるからだというわけである。
いいお酒は下手すると、全部で一升瓶が100本もないということはよくあることだから、仮にそれを全部一人で買い占めても、1日1升呑む人なら、三か月あまりしかもたないということになる。
三か月でお酒をやめられる人がいたら聖人というものである。しかもそういうお酒は呑み手が呑む酒ではなく体が喜ぶお酒なのであるから、身も心も悦楽にひたれるお酒の味を知ったらもうやめられなくなるのである。酒に酔うのではなく、いい酒はその酔い心地のよさに酔ってしまうのである。
だから、庵主はいいお酒は出会ったときに呑んでおけといっているのだが、それはお店の売上に貢献するためのセールストークである。
庵主はたった2杯しか呑まないから、それを言うときは連れがいるときで連れにうまいお酒を呑んでもらうためである。
本当はなにもあわてて呑むことはないのである。いい酒は1杯でも十分に深く味わえるからである。
呑める人はたくさん呑んでください。庵主は2杯も呑めば十分なのである。
そんな庵主のところになぜ手元にお酒があるのかというと、一つは酒屋に行ったときにお酒を見せてもらったお礼で一番安いお酒を買ってくるからである。
いまは、はせがわ酒店なら一合瓶のお酒があるし、冷蔵庫の中のちょっと横を見るとカップ酒があるから、普通はそういうのを買ってくるのだが、ときには四合瓶とか500ミリリットル入りの瓶しかないときがある。
そういうときは一番いいお酒を買ってくる。でも、その四合瓶が呑みきれないのである。浮気症だからということはすでに書いた通りである。
そして、庵主が行く居酒屋では呑めないお酒を見たときに好奇心から買ってきたお酒がある。
普段庵主が呑んでいるようないいお酒ではないが、ちょっと気になるというお酒である。
まだ呑んだことがない蔵の純米酒とか、燗上がりと書いてあるが本当に燗を付けたらうまいのかと気をそそられるお酒とか、ワンカップの大吟醸といった下手物のお酒などである。それに「信濃錦」の甘酒とかである。
そういうお酒は居酒屋では出てこないから買わざるをえない。
そういうお酒は目で見て想像して頭の中で味わえばいいのだが、ついその想像力が当たっているかどうかを舌で確かめたくなるからである。
だいたいは思惑がはずれていることが多い。だから残ってしまうのである。
呑み会で残ったお酒というのも、お分かりのとおり、人気がなかったお酒ということである。どなたも、もう呑まないでいいと判断したお酒なのである。
引き取り手がいないから、勿体ない世代の庵主がありがたく頂戴してくるのである。一升瓶の残り酒などは小さい四合瓶に詰め替えて持ってくる。
それが長い間残っているものだから、あとから呑むときに瓶と中身のお酒が違っているために、いま何を呑んでいるのかわからないことがよくある。
そういうお酒の瓶を整理したのである。
呑む気になればまだ呑めるお酒ではあるが、すでにうまいまずいという次元をこえて哲学の世界に踏み込んでいるお酒である。ありがたいお酒なのである。
庵主はそれぞれの瓶に少しずつ残っているお酒を一本に集めて、お風呂に入れるのである。
その日は贅沢至極の湯につかるのである。
★「来福」ひたち錦の精米歩合15%★18/11/1のお酒
茨城の「来福」が精米歩合15%のお酒を造った。米はひたち錦である。
超高精白のお酒である。磨き過ぎなのである。
精米歩合を高めた、すなわちその数字が小さいお酒では「獺祭」の二割三分が有名である。
定番のお酒というのがある。その分野の代表的なお酒で安定して供給されているお酒である。
うまいかどうかは別にして、超辛口といえば「雪の松島」の+20だろう。辛口のお酒といえば、「司牡丹」の「船中八策」(+8)を定番にしているお店が多い。
そして、高精白のお酒といえばその山口の「獺祭」の二割三分が定番である。
福井の「梵」に20%というお酒があった。これはうまかった。酔っぱらっているときに呑んだのだがそれがまたうまかったのである。
それに挑戦するかのように、遊びで造ったお酒がひたち錦を15%まで削ったこの「来福」の超・純米大吟醸である。
それらのお酒は庵主にいわせれば堅気の酒ではない。
米を85%も捨てて酒を造るというのは冗談の度を越しているからである。
庵主の主張は精米歩合70%でうまい酒を造れというものである。
それが技というものだというわけである。
ただし、70%のお酒は外れの場合が多いので人には勧められないが。
磨き過ぎのお酒というのは、鉛筆を作るときに軸に木材ではなく純金(24K)を使って作るようなものである。
そういう鉛筆を作ることを遊び心という。が、そういうものを手にして見せびらかしたり、自慢することは堅気の人がやることではないことはいうまでもない。みっともないという感覚である。
それでも、庵主はそういうお酒を口にするのである。好奇心が強いから。品がないからといっても同じである。
15%まで磨いたら、透明感は高いが腰のない頼りない味わいのスカスカのお酒になるかと思っていたが、それほどでもなかった。呑めたのである。
ちょっと味がエグイと感じたのは、後から調べたら花酵母を使っているとのことだった。そういう感じの味わいのお酒だった。
話のネタに呑んでおけばいいお酒である。
そういえば、以前愛媛の「千代の亀」が精米歩合10%の純米酒を造ったことがある。「北十字」と名付けられたそのお酒は500ミリリットルで10万円ということだった。
庵主は呑んだことはないが、それを聞いて、そのうち庵主は精米歩合0%の究極のお酒を造ってみようかと思ったものである。
気分を変えるために呑んだのが島根の「智」である。これは精米歩合70%というお酒である。天と地の違いがあるのだが、これが存外いいのである。
さすがに精米歩合15%といったのお酒とは次元はちがうのだが、呑んでいてうまい。
つまり、なんとなく味が寂しいお酒を呑んでいるという感じはしないお酒である。
このめりはりが面白いのである、お酒を呑むということは。
さらに「弥久」(びきゅう)があったのでそれで締めるとにした。
庵主はいま酸味のうまいお酒に心なびいているから、「弥久」の味わいに満足したのである。
|