いま「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成18年10月の日々一献


★一般市販酒のきき酒会★18/10/25のお酒
 お酒の世界は広い。
 庵主が普段は出会うことがない一般市販酒のきき酒会があった。いわゆる普通酒が並んでいるきき酒会である。お店的発想ではいつでも注文できる定番酒ということになる。
 その時々のうまいお酒だけを狙って呑み歩いている日本酒ハンターの視野からは最初から外れているお酒である。
 わざわざ呑むまでもない酒なのだが、好奇心から、そして、ひょっとして品質がよくなっているのではないかという期待から、加えて参加費が安かったから念のため最近の普通酒の味を確かめてみることにした。
 
 日本酒の全生産量の70%ぐらいが普通酒である。それを普通酒だとすると、庵主が日頃口にしているお酒は普通ではないのだから異常酒ということになる。異常を別の言葉に置き換えたらキチガイ酒 (きちがいざけ)ということになるが、そう呼んだのではちょっと意味がずれてしまうのが日本語の面白いところである。キチガイは酒に掛かるのではなく、それを呑んだ人に掛かるからである。
 普通酒が大量生産のお酒だとしたら、異常酒は造られる本数が少ないお酒である。
 庵主が呑めるお酒はその異常酒の中にある。
 その中のほんのり甘いお酒が唯一庵主が呑めるお酒である。いわゆる辛口のお酒は呑めない。呑んでもうまいと感じないからである。

 体力があるうちはうまいとは思えないお酒でも呑むことはできたが、いまはもうだめである。
 修行で酒を呑んでいるわけではないから、うまいと思う酒しか呑みたくないのである。そして庵主が呑んでもうまいと思うお酒がいまは多すぎるのである。味わいに力がこもっているお酒である。
 うまいというのは味のよしあしというよりも、そのお酒を呑んだときの満足感のことである。そういうお酒を呑んだときの感懐は、うまいは旨いから美(うま)い昇華されるのである。
 庵主にとってお酒というのは、呑んで酔っぱらうことを楽しむものではなく、その美しさにふれて心やすらぐものなのである。

 世の中にはいろいろなお酒がある。味なんかどうでもいいから、酔っぱらえば酒だと割り切ったものも少なくないのである。それはそれでまた存在価値があるのだろうが。
 世間の広さを感じるきき酒会だった。庵主が知っているお酒の世界はごく狭いということである。
 そして、酒だけ呑んでもつまらないということがよくわかる試飲会だった。
 そういうお酒をお店ではおいしく呑ませてくれるのだから、酒だけ呑んでもそのよしあしはわからないのである。
 もっとも庵主はそういうお酒は呑めないのだが。
 心を鬼にして観念的にそれを呑もうとしても、体が受けつけないからである。


★「気障蔵」(下)★18/10/18のお酒
 承前
 が、紙パック入りのお酒というのは酔っぱらうことさえできればいいという酒で、うまさは度外視のお酒だという認識が庵主の中にはある。
 本来なら遮光瓶に入れて売らなければならないお酒を安い紙パックに入れて売っているということを見ただけでどんな米を使っている酒か心配になってくるのである。
 もちろん、米はコシヒカリだということはわかっているが、それをどういう状態で使っているかということがわからないということである。
 大手の酒造技術は進んでいるからである。よくいえば、進み過ぎているからである。だから恐ろしくもあり、興味もある。
 庵主の常識を超えた、想定外の造り方をしている酒ではないかという不安がよぎるのである。
 とはいえ、庵主はどんな造り方をしたお酒でもかまわない。呑んだときにうまければかまわないのである。
 しかし、一般的に、へんな造り方をしたお酒にはうまいとは思えないお酒が多いということである。
 磨きも80%を越えるようなお酒だったりしたらどうしょうと思ったところ、精米歩合は70%だということがわかった。
 70%磨けば十分である。いま庵主がはまっている「ふなぐち菊水一番しぼり」が70%で心をつかむ味わいをの酒を醸しているから、じっくり醪をねかせたのならうまいお酒になっている可能性はあるということである。

 しかも、100ミリリットル130円というお試しサイズもあるというのがいい。
 それを買って呑んでみようと思って電車を降りてすぐに酒屋に走ったのである。
 しかし、それは幻の酒だった。
 どこにも置いていないのである。
 百貨店を何軒かと、通り道にある酒屋を覗いてみたがどこにもなかった。
 ひょっとして広告だけの「幻の酒」なのではないかという思いがわいてきたのである。
 「黄桜」のユーモアなのかもしれない。
 もしそれが現実のお酒なら一度呑んでみたいと期待を膨らませているところなのである。
 無理して探さなくてもいいお酒のような予感はしているのだが。



★「気障蔵」(中)★18/10/11のお酒
 承前
 「黄桜」は、本醸造の規格を提唱した蔵として庵主の記憶に残っている。
 三増酒全盛のときにアル添量を減らすという画期的な提案をした蔵なのである。
 当然、周囲の反応は、三増酒でも売れるのになんでまたそんな面倒くさい、そしてもうからない酒を造るのだという嘲笑である。
 中には、それを過剰品質として嗤った人もいただろう。
 お酒は米だけで造るのは当たり前だろうと思っている庵主は、本醸造という紛らわしい名称を認めるものではないが、その現実的な提案を実現した意欲がある蔵元として庵主は一目は置いているのである。
 だから「コクがキメての純米酒」には目がいったのである。
 
 見ると、米はコシヒカリである。飯米である。お酒は普通は酒造米で造るものである。ご飯を食うのではなく、酒を呑むのだから。
 水は伏水ということだが、今時水の調整はいくらでもできることだろうから、昔みたいに水がお酒の出来のすべてだということはないはずである。
 赤城山系の水で造ったビールでも、丹沢山の水で造ったというビールでも、富士山の湧き水で造ったビールでも庵主にはその違いがわからない。
 判る人にはたしかにその違いがあるというが、庵主にとってはその部分はどうでもいい違いなのである。
 お酒のうまさも、造り手は水のよしあしをいうが、しかし、庵主はそことは違う部分にお酒のうまさがあると感じているからである。
 自動車はタイヤがないと走れない。
 いいタイヤをはいた車はたしかにいい走りができるだろうが、運転がじょうずでないとそれを生かすことができないように、いい水を使ってお酒を造ってもそれだけでは車でいえばいい走りができないのと同じである。

 三栖蔵で仕込んだとあるが、庵主はその蔵を見たことがないので、どんな特徴がある蔵なのか知る由もない。
 三栖蔵で醸されたお酒がどんな味わいなのか想像もできないのである。

 醪日数が普通の1.5倍とあるから、50日醪かと思い浮かべてしまう。きっといい香りが漂っているに違いない。
 炭素量を減らしたとあるが、ふつうの人ならお酒を造るのに何のために炭素を使うのかわからないのではないだろうか。
 庵主ならわかる。
 「えっ、大手は炭素を減らしたお酒が造れるの?」と。
 
 能書きを読んでいると期待は高まるのである。
 「黄桜」だからきっと何かをやってくれるだろうと。
 そして値段を見たのである。
 1升瓶で1700円である。
 戦慄(せんりつ)が走った。
 おいおい、そんな値段で、コクが決めての純米酒が造れるのかという疑問と、大手の技術力ならやれるのではないかという期待感からである。
 1700円でうまい酒が呑めたら大儲けというものである。
 しかし、と不安感もぬぐえない。
 広告には紙パック入りの容器が載っていたからである。
 紙バック入りの酒は安いと思ってもよく見たらアルコール度数を下げてあるものが少なくない。いまは酒税の取り立て方が変わったが、以前は15度を基準にして度数を1度下げる毎に酒税が安くなったからである。
 アルコール度数を下げることによって売値を安くなった酒税分だけ売値を下げることができる。いうならば麦芽の使用量を減らすことで酒税を回避してまずいビールを造ったビール会社と同じ発想なのである。
 よもや、親切心からそれが呑みやすいですよとはばかりに水を加えて度数を下げていたわけではあるまい。ときには13度まで下げたものが売られている。そんな酒では庵主は呑めないのである。
 「コクがキメての純米酒」もアルコール度数を14度〜15度ぐらいに下げて値段を下げているのではないかと邪推したのである。
 データーをみると16度であるという。よかった。
 が、(ここで次回に続く)
 


★「気障蔵」(上)★18/10/4のお酒
 ワープロで「黄桜」と打とうとしたら「気障蔵」と出てきた。
 ということは、ここ何年も庵主は「黄桜」と書いたことがなかったということである。長い間ご無沙汰していたということである。
 即、ワープロの辞書に「黄桜」を登録した。
 なぜ「黄桜」かというと、電車の車内広告でその広告を見たからである。
 電車の広告で日本酒の広告を見るのは珍しい。
 電車の酒広告の多くはビール類だからである。
 庵主が見た「黄桜」のそれは新製品の「コクがキメての純米酒」である。

 福井県産コシヒカリを100%使用した純米酒だという。
 水は伏見の名水「伏水(ふしみず)」だという。
 そして、黄桜三栖蔵(みすぐら)にて醸造したという。
 さらに、通常の1.5倍のもろみ日数をかけたという。
 しかも、炭素量を抑えた濾過で、日本酒本来の味・香り・色合いを実現したという。
 その特徴は、コクのある味わい深い純米酒であるということだという。

 大手の酒である。
 しかも、「黄桜」である。
 もう何十年も前のこと、三増酒が全盛で、純米酒をさがしても見当たらなかったころに売っていた数少ない純米酒の一本が「黄桜」だった。
 庵主はそのときの印象が残っているから「黄桜」には好意的なのである。
 にもかかわらず、この何十年間、「黄桜」の純米酒を呑む機会がなかったということである。
 その間に、周囲のお酒がどんどんうまくなったから「黄桜」まで手がまわらなかったのである。
 大手酒造メーカーのお酒でなくてもうまいお酒を造る蔵が増えたということである。
 さらにいうならば、そういううまいお酒が増えたといううれしい実態を知っている人が少ないために、東京にいると、その手のうまいお酒が飲み放題だということである。
 庵主はうまいお酒ばかり呑ませてもらっている。
 今日の日本酒はうまい酒がいくらでもあるという実態を覆い隠しているのが大量にお酒を造っている大手酒造メーカーなのだろう。
 最初に出会うお酒が、まずくはないが、うまくもないお酒だったら、日本酒のうまさはこの程度かと思い込んでしまう。
 それは悲しい現実である。
 悪貨が良貨を駆逐するといったら言い過ぎかもしれないが、酒造業界はそういう構造になっているのである。
 よしあしではなく、それが現実である。



★日本酒の日★18/10/1のお酒
 10月1日は日本酒の日だという。
 誰も知らない。
 庵主も、酒販店からのメールでそれを知ったぐらいである。
 酒に関する漢字についている酉という字が、十二支の十番目だから10月が酒の月で1日がお酒の日だというわけである。

 もう3年前になるが、日本酒の出荷量が焼酎のそれに抜かれて以来その趨勢が変わる様子はない。
 日本酒は今元気がないのである。
 空元気でもいいから、10月1日に合わせてマスコミに載るイベントを開けばいいのだが、その気力もないようである。
 
 若い人はむかしのように馬鹿呑みをしなくなったようである。
 節度をもって呑むようになったのである。
 ときに一気呑みでぶっ倒れる人が出るが、あれは馬鹿のみではなくてアホ呑みである。
 そのうち、居酒屋がそれを許していたら、飲酒運転者にお酒を呑ませるのと同様にお店が処罰されるようになるだろう。

 いま、飲酒運転の根絶がマスコミのヒット商品となっている。
 マスコミはニュースを売る商売である。飲酒運転の記事を載せると読者が喜ぶということで連日その非をならす報道をくりかえている。
 ところが、捕まるのが、検察官だったり、警察官だったり、教育長だったりと、やってはいけない人がつぎつぎに検問の網にかかるのだから、酒呑みは怖いもの知らずなのである。
 そういう人たちだけが飲酒運転でつかまっているわけではなく、そういう人たちだけを選んで記事にしているということは言うまでもない。
 みんな多少の酒のときは平気で車を運転しているということである。

 いまのところは、運転手が酔っているときにはエンジンがかからない車を造ろうという動きがあるように、自動車の方に目が向けられているが、そのうち、酒を呑むから飲酒運転をひきおこすということで、それを根絶する手っとり早い方法は酒を禁止することだということになったら大変である。
 かつて禁酒法をやっていたおかしな国があったが、つかまえてもつかまえても飲酒運転がなくならないとしたら、原因から断たなければならないという動きになるかもしれない。
 やがては、車の運転免許同様、飲酒も免許がないと呑んではいけないということになるにちがいない。
 免許交付が警察の利権になるというわけである。
 あるいは財務省がその手を広げるのか。
 
 いよいよ日本の人口は減少しはじめるという。
 子供が生れなくなったのと、せっかく生れた子供が虐待で殺されちゃうからどんどんお酒を呑む人が減っていくということである。
 これまでたくさん日本酒を呑んでいた先達は高齢化とともに酒量が下がってくる。
 また日本酒から焼酎に切り換えたという人も少なくない。
 お酒の需要は増える要素がないのである。
 というのは実はウソである。

 お酒は売れているのである。純米酒が売れている。売れなくなったのはアルコールを入れすぎた普通酒である。
 純米酒はほぼ前年並みの売上で推移している。
 呑み手の数が減っているのだから、ほんらい、減らなくてはならないはずなのに前年並みに売れているということは上向きであるということである。
 ビールは代用ビールを開発して、新規需要を伸ばしているが、お酒はすでに普通酒が代用ビールの域に達していたから、それ以下の酒を造りようがないというわけで手の打ちようがないのである。

 今年の日本酒の日は、飲酒運転根絶の槍玉に上げられてお酒をもっと呑みましょうというには気がひける日だったのである。