いま「むの字屋」の土蔵の中にいます
平成18年4月後半の日々一献
★わーい大吟醸★18/4/26のお酒
大吟醸酒というお酒がある。
吟醸酒というお酒があるからその上のランクのうまい酒だということがわかる。
で、吟醸酒と大吟醸酒の違いがわからないのである。
分かる方がおかしいのである。それが分かるとしたら相当の日本酒マニアである。日本人における少数派だといって間違いないだろう。
精米歩合の違いである。
吟醸酒は精米歩合60%以下のお酒で吟醸造りをしたお酒ならそう名乗ることができる。うまいとかまずいとかの違いによるものではないということである。
大吟醸酒は精米歩合50%以下で吟醸造りをしたお酒をいう。これまた、精米歩合50%以下で吟醸造りをしていればまずい酒でも大吟醸と名乗ってもいいことになっている。
あたりまえである。うまいまずいは人それぞれだから、取り敢えず上の二つの条件を形式的に満たしていれば実質を問わずに大吟醸と名乗っていいということなのである。
米と米麹だけで造ったそれは純米大吟醸酒、純米吟醸酒という。ただの大吟醸酒、吟醸酒というのはアルコールを添加して造ったそれでである。
純米酒だからうまいというものではないということはいうまでもない。
お酒も料理同様造り手のセンスが物をいうからである。一般的に上手な造り手が造ったお酒のほうが原料の違いによるよりもうまいことが多い。
しかしである。いい材料を造って造った料理でも、味付けを失敗してほんらいのうまさを引き出せなかったということはよくあることである。そういう料理を、材料はいいものを使って作ったのだからうまいよといって人前に出せるかということである。
造り手の矜持が試されているということである。
蔵元によっては大吟醸規格で仕込んだお酒でも、出来上がったお酒がその蔵で想定している大吟醸の水準に達しなかった場合は、一つ下のランクの吟醸酒とか、あるいはただ単に特別本醸造酒とか特別純米酒として出す場合があるという。また、それを下のクラスの酒に混ぜてしまうこともあるという。
大吟醸酒というのは日本酒の粋である。お米を50%以下に磨いて造るお酒である。はっきりいって罰当たりな酒であるとは庵主が常々いっていることである。
そうして造ったお酒がまずいものだったとしたら、造り手は恥ずかしくてこれが大吟醸酒だといって人前に出せるわけがないというものである。
しかも、いまは名杜氏がうまいとまずいとかいう次元を越えた心にしみる大吟醸酒を醸しだしている時代である。呑み手の大吟醸の基準はそれにならっているのである。いい米を使って、よく磨いて造ったお酒だからこれは大吟醸酒だといって出してきても、それらの酒に劣るものだとしたら笑い物になるだけである。
もちろん、呑み手は表に出してそれを笑いはしない。大吟醸酒は品のよさがその本質である。呑み手が下品な真似をするわけがないからである。
とはいえ、いま一つ中身がたよりないという大吟醸が出てきたときには、庵主がそうであるように、呑み手はきっと心の内ではうなっていることだろうと思う。この造り手はなにを勘違いしているのだろうかと。その価値感を共有できないことを悲しんでいるのである。
「白鶴」のカップ入り大吟醸があった。
一合入りのちょっと洒落た形にデザインされたガラスのカップにはいっている262円(税込)のお酒である。それを買ったお店では「越乃寒梅」の別撰を一升瓶で6980円で売っていたから、その値付けでいくとこの「白鶴」大吟醸は、本当はもっと安い酒なのかもしれないが、庵主が買った値段は262円である。
大吟醸である。うまい酒でなくてはならない。値段が高いお酒だからである。高くてまずかったら詐欺といわれても文句がいえない。
その「白鶴 香り華やか 大吟醸 清酒」の精米歩合は50%である。米粒を半分になるまですり減らして造ったお酒である。原料米を100俵買ってきたらその半分の50俵を糠にして捨てて造ったお酒である。もしそういうお酒がまずかったとしたら冗談の極みといっていいだろう。犯罪ものであるとまではいわないが。
アルコール度数が15度以上16度未満に調整してある。
庵主は17度ぐらいのお酒がうまいと感じる質(たち)だから、たぶんこれでは呑んでもちょっと寂しいだろうということは予想がつく。
そうではあっても、いいお酒ならわかるから問題はない。
あらためて表示をよく見たら1合入りでなく、120MLと書いてあった。瓶の形をよく見たらたしかに1合にしては少し小さい。
他の1合入りのカップ酒が並んでいる棚に一緒に並べて売られていたからてっきりこれも同じ容量だろうとばかり思っていた。いうならば、ひっかけ商品なのである。もっとも庵主はお酒の量はいらない口なのでそれでも全然気にはしないけれど。
120MLで262円ということは一升瓶換算で3930円ということになる。それを安い大吟醸と見るか中途半端な大吟醸ととるか判断に苦しむ値段ではある。
「製造年月から約1年間はおしいくご賞味いただけます」とある。
アルミの蓋のところに読みにくい表示で「製造06.03 なんとか」と印字されている。なんとかの部分は工場の記号なのか判読できない。
表示は親切である。「妊娠中や授乳期の飲酒は、胎児・乳児の発育に影響するおそれがありますので、気をつけましょう」とあるが、そこまで書くならば正しく「悪影響」と書くべきだろう。
気をつけましょうとは、どう気をつけたらいいのかこれではわからない。
呑むなというのか、ある程度なら呑んでもかまわないのか。ちゃんと白鶴のホームページのURLが記載されているからそちらにアクセスするとこまかい対処方法が書かれているはずである。
飲酒量は体重に比例するというから、体重○キロの女性なら一日○合まで、といったくわしい説明があるはずである。お酒を嗜む女の人は確認されておくといい。いかにお酒が体に悪いかということがわかるはずである。
だからお酒は命知らずのバカな男の楽しみなのである。女子供が近寄るものじゃない。
大吟醸酒を呑むということはささやかな贅沢である。だから、それがうまいお酒でなかったとしたら、大吟醸酒といってもこの程度なのだから日本酒というのはうまいといってもこんなものかという失望に繋がってしまうだろう。
すなわち、日本酒を見限らせることになりかねないということである。つまりそういう大吟醸酒だったら消費者離れを助長するということである。
トヨタの高級車であるセルシオを買って、それがカローラとかパッソと変わらなかったらだれもトヨタの高級車なんか買わないことだろう。それどころかトヨタの車を見限って他社の車を求めるようになるかもしれない。
素人でもわかるような明らかにいい車でなくてはならないということである。そして高級車というのはその会社の主張が伝わってくる魅力的な車でなくてはならないということなのである。好き嫌いは別にして、それがいい車であることが分かるものでなくてはならないということである。
大吟醸酒は高級車なのである。その味わいの好き嫌いは別にして高級酒としての風格があるものでなくてはならないということである。
そういう思いに立って「白鶴」のカップ酒の大吟醸を呑んでみた。
と、ちょうどここで紙数がつきてしまったのである。
★「鶴齢」にうまい酒がある★18/4/19のお酒
庵主が新潟のお酒で一番好きなのは「鶴齢」(かくれい)ある。
なぜかというと、庵主が好きな能登流の酒質に似ていて味が厚くてぽっちゃりしているからである。
新潟のお酒といえば、いまでも淡麗辛口が主流であるが、それに対して能登流のお酒は濃醇旨口タイプのお酒が多く、庵主は能登流が好きだからである。
無濾過生原酒というタイプが庵主の好みである。
まったりしていて、アルコール度数が高いから輪郭がしっかりしていて、お酒の甘さが感じられるお酒である。
淡麗辛口を掲げる新潟のお酒は庵主は駄目である。呑んでもつまらないと感じるから甲斐がない。庵主にとってはそれを呑むのはお金の無駄遣いなのである。無駄遣いというのもお金の使い方の一つだから時にはいいのだけれど。
新潟の淡麗辛口が駄目だというのも、量を呑まないので、最初からインパクトのある味の酒で、かつ甘い酒でないとうまいと感じないからなのである。
食べ物でも、せっかちな人はしょっぱいものを好むというが、それというのもすぐ味を感じるのはしょっぱいものだからである。
ていねいにダシをとった吸い物はゆっくり味わわないとそのうまさが感じられない。せっかちな人はゆっくり食事をしないからそれではうまいと感じないということである。
庵主もまた性格はせっかちである。一見のんびりしているようにみえるが、それは仮の姿なのである。
性格が味の好みを決めているのかもしれない。
「鶴齢」の「純米酒 無濾過生原酒 山田錦65% 17BY限定醸造」がうまい。
四合瓶で税込1400円(地元の酒屋で)である。
酒質が能登流に似ている。そして甘い。さらに丁寧に造った純米酒や純米吟醸酒にときどき出てくるあのにおいがなくてきれいな味わいである。
このお酒が最初にでてきたら、庵主はためらわずにうまいと唸ってしまう。
うまい酒である。
純米酒がどれもこの水準なら、アル添がどうしたこうしたということはどうでもいいことである。だまって純米酒だけを呑んでいればいいのだから。
65%磨けば庵主が呑める酒が造れるということである。味に華がある。そして洗練された味わいである。
しかし、純米酒でも純米吟醸酒でも淡白薄口といった迫力のない味わいのお酒があるのである。迫力がないというより表情がないといったほうがいいか。
酒屋万流というから、不味いのも味のうちではあるが、庵主はそういうお酒は呑みたくない。というより呑めないのである。
まずい酒というのは、庵主が呑めない酒ということである。好みの味でなくてもいいお酒なら呑むことができるから、まずい酒というのはやはりお酒としては格下の酒であると見てもほとんど間違いではないだろうと思っている。
「鶴齢」のこの純米酒はその甘さがいい。実はちょっと甘すぎるのであるが、一杯だけ呑むのならそれが気がつかない。
甘いからうまいと感じるし、味がぽっちゃりしていて舌にまろやかにからんでくるからいい酒だと感じていい気分にひたれるのである。そしてきれがいい。
現代日本酒の模範として上げられるお酒である。悪く言えば、ニコチン1mgの煙草とかきれいな香りの芋焼酎などと並ぶ当世風の軽佻浮薄な味なのだが、嗜好品のライト化とか健康嗜好(←馬鹿か)という流れに乗っているクールな感覚は時代の先端をいっている商品なのである。カタカナ語でしか書けないところがその商品が軽さを合わせもっているということである。
そつがない所作を見ると洗練されているように見えるように、一見難のない味わいの商品は美しく見えるのである。庵主の好みもまたその方向を向いているということである。
「鶴齢」の純米酒をけなしているわけではなく、実際にいいお酒なのでぜひ味わってほしい酒だから、庵主が好きなお酒の味わいの裏面にあるものを合わせて書き添えたのである。うまい酒を呑みながら同時に時代の軽さを感じているということなのである。
もちろん、ただ呑んだだけではそんな裏面が出てくるわけがないお酒なのである。
その甘さを押さえてさらに気品をたたえた味の「特別純米酒 無濾過生原酒 山田錦55%」があって、これなら万全である。そのかわり値段は四合瓶で1680円税込(ネットの酒屋で)とちょっと高くなるがこれもうまい。
55%の山田錦はうまいという水準を越えているといっていい。すなわち、うまいのは当たり前というお酒でその品のよさを味わうお酒なのである。
お酒の品のよさに感化されて、呑んでいる庵主までもが上品になったような気持ちにさせてくれるお酒である。
こういうお酒を呑んでいると、お酒がうまいとかまずいとかいうことなんかどうでもよくなるのである。
幸せな気分にひたれるお酒である。
そして、55%の特別純米酒には美山錦もあって、それもぜひ味わってみるべきお酒である。
「鶴齢」の味わいは充実している。
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