いま「むの字屋」の土蔵の中にいます
平成18年2月の日々一献
★やっぱり「開運」★18/2/22のお酒
お酒を呑みすぎた。庵主にとってはである。
「開運」を呑む会があった。9種類の「開運」を呑んだのである。
特別本醸造の「祝酒」から山田錦の「波瀬正吉」まで、その味わいにはったりがないからこころおきなく呑める。「開運」のうまさはそこにある。その安心感にある。
悪い癖でお酒が出てくるとついその品定めをしてしまうのである。
これはいいお酒なのかどうかとか、うまいかまずいかとか、なにかいいところがあるかとか、アル添が純米かがわかるかとか、いっぱしの格好をつけてしまうのである。みっともないといえば、みっともないお酒の呑み方をしてしまう。
ある有名な天ぷらやが、ネタを揚げるたびにそれを写真に撮ってからたべているお客がいたといって笑っていたことがある。
なんとなく、それに似ているではないか。
そういう呑み方をしても、こと庵主に関してはすぐ忘れてしまうのである。9本も呑んだらどれがどうだったか覚えているわけがない。
でも「波瀬正吉」はうまかったという印象だけはちゃんと残っている。そして「雄町」は新酒なのによく味がなじんでいたと思う。熟成させたような落ち着きがあった。さらに「無濾過純米」はまだ炭酸味が残っていて、最初に呑むお酒はこういうのをいうのだという思いを強くした。時間がなかったのでそれを燗にすることはできなかったのが残念だった。
翌朝、庵主にとってはかなりの量を呑んだというのに、きれいに目覚めたのである。いくらいいお酒であっても呑みすぎたら体の負担になるとは思っていたが、しかし、ときにはその推論を裏切るようなお酒があるということである。
酒のうまさとは1本1本のよしあしもあるが、呑んだ翌日の体調も含めた全体的な面からみたときの安心感によるところも少なくない。
お酒がうまかったという記憶が確信として心に刻まれるのはそういう全体的な呑み心地がすっきりしていて好ましい酒だったことで裏打ちされるのである。
「開運」は庵主にとってはやっぱりうまいお酒だったのである。
★「花の舞」対「福乃友」★18/2/15のお酒
燗酒を探している。
燗をつけるとうまくなるお酒はないかと探しているのである。
今年の冬は寒さが厳しいから燗酒がいっそううまいはずである。あったかいお酒が呑みたい。
そのお酒が見つからないのである。というよりなかなか出会わないのである。
「磯自慢」の本醸造とか、「奥播磨」の純米とか、去年の冬に呑んだ「臥龍梅」の純米備前雄町とか、燗がうまいお酒は知っているのだが、毎年違う銘柄を呑むことにしているからである。
今年は何にしようかということである。
「秋鹿」とか「妙の華」あたりが堅いかなと見当をつけているのだが逡巡しているところである。
「花の舞」の静岡山田錦の純米があった。花の舞140周年記念酒とある。値段が1050円とあってひょっとしたら当たりかもしれないと思って買ってみた。
精米歩合は60%である。
いま一つ味にパンチがない。優等生といった感じの端正な仕上がりである。1500円出してその純米吟醸を買ってくればよかったと思う。
燗をつけても甘味がでない。冷や(常温)で呑んでも燗をつけてもあまり変わらないお酒を優等生の酒という。どんなときも姿勢が崩れないというわけである。
「福乃友」の精米歩合60%の純米酒があった。これで当たりかなと思って買ってくる。庵主はお酒は長く呑んでいるとその瓶を見ただけでオーラが分かるなどとはったりを書いているがそんなことは全然ないのである。
庵主の直感は外れることが多いという常である。たまたままぐれで当たった予感だけを拾い上げてそれを大袈裟に語っているだけなのである。
お酒は呑んでみないとわからないというのが実際の所なのである。
「福乃友」の純米酒は「花の舞」の140年記念酒よりはちょっと甘い感じがする。しかし燗をつけても甘味がいま一つ伸びない。
冷やで呑んだら味があったのであるいはと期待したのである。しかし、いい感じの打球だったが距離が伸びなくて外野フライといったところだった。
庵主は酒が呑めないから、外れると四合瓶の酒は多すぎる。
いずれも精米歩合が60%というお酒だが、それだけ磨いても確実にヒットが出ないのだからお酒選びは難しい。
が、伏兵があったのである。
「開華」の本醸造のしぼりたて無濾過無加水生原酒である。磨き65%。
それの燗がよかったのである。甘味がじわーっと舌にしみてくる。あー、うまい。燗酒のぬくもりが口の中に広がって体にしみこんでいくのがわかる。
度数が18度〜19度未満とかなり高いのだか、アルコールの生硬さを感じさせないのは全体的な酒質が甘くまろやかだからである。醸造酒は、蒸留酒と違ってアルコール感を楽しむ酒ではないのだから、アルコールは味わいの表に出てきてはいけないというのが庵主の意見である。
暑い日に生ビールを飲むとその冷たさが喉元を通って体にしみていくのが分かるが、それと同じように「開華」のぬくもりが喉を通りすぎて体いっぱいに広がっていくのがわかる。
いま燗酒のうまさにひたっているのである。
★お酒が呑めるうれしい夜★18/2/8のお酒
うまいお酒を呑んだうれしい夜だった。
初めてのお店にはいって、お酒を2杯頼んだら、お店が勧めたお酒は「本日のおすすめの酒」になっている2本だった。
一つは「義侠」の「純米吟醸おりがらみ」、一つは「〆張鶴」の本醸造「月」である。
さすがに「義侠」である。ここ二、三日というもの、庵主にとっては年に一度はやってくる体力が低下する時期でお酒を呑んでもうまくない、ビールを飲んでも苦いだけという体調だったのだが、このお酒は違っていた。
体が、これはうまいといっているのがわかるのである。これなら呑めると喜んでいるのである。
呑んでいて飽きない。呑むほどに酒のうまさが広がってくる。
どうやら体調は復調の兆しである。
うまくなければお酒じゃない。そしてお酒をうまく呑むためには健康でなくてはいけないということである。
その健康を維持するためには毎日少量のうまいお酒を呑むということである。
ただこの健康法をお勧めできないのは少量では収まらなくなるからなのだが。
「月」を呑む。しっかり酒の味がわかる。そのなめらかな、というよりさらりとしたきれいに喉を過ぎていく味わいはまさに新潟流である。
悪い酒ではないが、「義侠」のうまさの前では前座といったところである。とはいえ「月」の明確な主張が感じられるしっかりした酒質は、かつて庵主が新潟の酒で呑んでもいいのは「〆張鶴」だけと思っていた頃の思いをけっして裏切らないものだった。
黙って出て来たお酒があまりにもうまかったので、酒祭りを見たら大変である。「松の司」がある、「喜久醉」がある、「栗駒山」がある、「悦凱陣」があると、いっぺんに目にはいってきたのである。
それらを一通り味わった。
三人で入ったお店である。庵主はそれぞれ一口ずつ呑ませてもらって、残りは二人に押しつけた。
一人ではいったお店ならこうはいかなかっただろう。
お店がぜひにと勧めてくれた「菊姫」の「鶴の里」の山廃のうまさも加えて、最後には「悦凱陣」のきりっとした輪郭が明瞭な酸味で締めた。これもまたうまかった。いつもはその酸味のキレだけが浮いているのだが、今夜の酸味はお酒にしっくりなじんでいたからいちだんとうまく感じたのである。
五つのお酒はそれぞれに味わいがしっかりしていて呑み比べるのが楽しいお酒ばかりである。最初のお酒と合わせるとなんと7つのお酒を味わったのである。
ラッキーセブンである。
どれもが庵主の口に合うというものではないが、その味わいの違いがはっきりしているいい酒ばかりだから呑んでいるとお酒の気合を感じるのである。
それらのお酒から気を受けて、庵主の体にまたもとの気がよみがえってきたのである。
おいしいお酒を呑んだ夜だった。
★二つの酸味★18/2/1のお酒
庵主が日本酒の酸味に目覚めたということはすでに書いているとおりである。
ニュートンのリンゴではないが、酸味が突然現れたわけではない。それまで気が付かなかっただけである。
しかし、人間、いったんそれに気がつくと世界がぐーんと広がるのが分かる。
それ以来、お酒の酸味が分かるようになったのである。分かるということは快感である。
学校で勉強が嫌いになる子供はその快感との出会いが遅れているということなのだろう。
盲という言葉がある。今はそれを目のご不自由な人という。直接そういう人に掛かる場合は目のご不自由な人というのが穏当だろう。
もし器量の悪い女の人にそれをいう言葉をぶつけたら失礼の極みである。その場合はお顔のご不自由な方でいいのである。もっともそれさえも口に出していってはいけない。
盲なら1字、目のご不自由な方なら8字である。通常は短い言葉を使うのが正常な感覚である。
酸味は昔から存在していたのに、庵主はつい最近までそれに気がつかなかった。ようするに盲だったわけである。この盲は目のご不自由な方とは言い換えることができない盲である。こういう使い方もあるから盲という言葉を禁句にすることはできないのである。
酸味だけではなく、庵主には見えているというのに認識の上では見えていないことがまだまだいっぱいあるということは想像に難くない。
同時に、お酒を呑み続けているとまだまだそれまで気がつかなかった発見が期待できると思うと、呑めないお酒を呑むのがまたまた楽しくなってくるのである。
なにかと理由を付けてお酒を呑むようになったら、ひょっとして庵主は本物の飲んべえの道に踏み込んでしまったのかもしれない。
が、しかし、本日もきちんと小さいグラス2杯でお酒をおさめたのである。お酒の量が呑めないという実にめぐまれた体質なのである。
その2杯のお酒はともに酸味の美しさを存分に楽しませてくれた。
一杯目は「大信州」の純米吟醸の一番仕込みである。製造年月日は平成17年11月21日と刻印されている。
新酒である。大丈夫かと思う。
若い酒なんか呑んでもおもしろくないからである。必ずもっとうまいお酒を呑みたくなるからである。2杯のつもりが3杯になってしまうのである。
その心配は覆された。
酸味がいい。2か月間でこんなに酒質がなめらかになるものだろうか。いいのである。
その酸味のうまさを、華麗な酸味、と書きかけて、それを流麗な酸味と書くことにした。華やいだ感じの酸味ではなく、しっとり舌になじむ酸味だったからである。
そして新酒がもっている甘さとその酸味とのバランスのいい軽快な味わいが気持ちいい。
いつも庵主が感心している「悦凱陣」の凛とした酸味とちがってこの「大信州」はやさしい酸味なのである。まろやかな酸味である。
二杯目に呑んだ「[酉与]右衛門」(よえもん。よ、は「酉+与」であるがワープロにはない漢字なので便宜上[酉与]と表記しています)の生酒も酸味が個性的な酒だった。
期せずして二つの酸味を呑み比べることができたのでおもしろかった。
「[酉与]右衛門」の酸味は「大信州」に比べると固い。しかし、なんともいえない魅力がある。その魅力を庵主はなんとかして言葉に変えようとしたのだが、とうとう言葉にできなかったのである。
この二つの酸味は味わうと、庵主のお酒のうまさの正体は酸味のうまさにあるという説はいっそうその確信を強くすることになったのである。
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