「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成18年1月の日々一献


★「雪鶴」★18/1/25のお酒
 ちょっと心に残っていたお酒があった。
 新潟の「雪鶴」である。また出会ったのである。
 それがうまかった。百貨店の試飲販売である。

 落語では枕という。話の本題に入る前に時世の話をしてお客の気持ちをつかむテクニックのことである。
 客の気持ちを掴 (つか)むということで掴みという。
 「雪鶴」はその掴みがよかった。その本醸造である。それが、ちょっと呑んだだけでうまい、のである。
 ほんのりの甘さと、ちょっぴりの渋みと、しっとりと舌にしみてくるせつなさがある。なめらかな酒質の純米酒とまごうような本醸造ではない。あきらかにアルコールを感じる本醸造である。
 一口含んだときにお酒と思わせるのは、すなわちアルコールを感じるのは、生原酒なのでアルコール度数が高いせいかもしれない。
 それでいてうまいと思わせるのは、そのアルコールの刺激の甘さである。そして口に中に広がるお酒自体の甘みの心地よさである。加えて後に残る渋みが舌を甘やかせない刺激となって酒を呑んだという印象を残して喉元をとおりすぎていくからである。

 明治のチョコレートだけが明治のチョコレートなのは明治のチョコレート以外のチョコレートは明治のチョコレートではないからです。
 みたいな書き方になってしまったが、ようするに「雪鶴」の本醸造がうまいのはそのお酒がうまいからなのである。
 うまいの理由を分析しても、ではその成分を組み合わせるとそのうまいお酒になるわけではない。
 うまいお酒はただうまいとしか言えないのだが、せっかく呑んだうまいお酒だからそれをしっかり自分の記憶に残すためにこの文章を認 (したた)めているのである。
 それをお読みになっている方はよほどお暇な方なのだろうと庵主は忖度申し上げるのである。

 本醸造酒というと、中には下手な大吟醸よりうまいお酒がある。逆に本醸造という金看板をぶら下げるまでもないと思われるどうでもいいお酒もある。
 庵主は、うまいとはいえないお酒なのに気に入った味のお酒の味わいのことをせつない味という。
 うまいというお酒には確固たる基準があるから、その基準を下げるわけにはいかないからである。
 でもそのうまさから外れた位置にあってうまいと思わせるお酒があるのである。この「雪鶴」の本醸造がそれである。
 呑んでいて楽しいお酒といおう。そしてブログの「むの字屋の日本酒痛快速報」に書いたようにそれはめんこいお酒なのである。

 「雪鶴」の大吟醸は1年の熟成をへていい味になったお酒の見本みたいな味わいである。
 庵主は、若いお酒を呑んでもあまりうまいと感じなくなった。今時分なら新酒の大吟醸が出てくることがあるが、はっきりいって、それがうまいかどうか判断ができないからである。
 まだ炭酸がきいていて、それが舌の感覚をかき乱すから、口当たりはいいとは思うものもそのお酒自体の味わいはまだわからない状態だからである。
 生まれたての女の子の赤ん坊の顔を見てもどれもこれも似ていて貶しようもないが、褒めようもないのと同じである。
 できたてのお酒なんか、赤ん坊の味である。つまらない。
 やっぱり大きくなって美しくなった女の人のほうがいい。

 ちょっぴり甘い香りをただよわせている「雪鶴」の大吟醸は大人の味わいになっている。
 味が豊かなのである。そして味わいを楽しめるだけの含みがある。これはうまいお酒なのである。
 本醸造といい、大吟醸といい、「雪鶴」はしっかり個性のあるお酒だから呑んでいて楽しいお酒なのである。


 
★うまい本醸造酒★18/1/18のお酒
 純米酒というと、アルコールを添加した本醸造酒よりなんとなくうまいお酒のように感じる。
 アルコールの添加もそのやり方と量の問題なのである。アルコールをちょっと加えるとお酒はなめらかになる。
 舌あたりも、その香りもである。
 
 お酒は純米酒でなくてはならないという主張もあるが、庵主はいつも書いているように、純米酒が必ずしもうまいわけではないということから、下手な純米酒よりもうまい本醸造酒を選ぶのである。

 そのうまい本醸造酒を2本。
 一つは「磯自慢」(いそじまん)の本醸造。これをぬる燗で呑むと、やっぱりうまいのである。ぬる燗を頼んだら、電子レンジで温めたのか、まだら燗で出てきたが、燗冷ましもまたうまい。
 いつ呑んでも味にブレがない。すなわち期待通りの味を、それ以上でもなく、またそれ以下でもない思っていた通りの味わいをまた楽しませてくれるのである。
 本来のアル添酒はこういうのをいうのだろう。
 うまさをたたえた本醸造である。そして、うまさが安定してるお酒である。

 もう一本は「鍋島」(なべしま)の本醸造である。
 以前「鍋島」の純米酒を呑んでそのうまさに度肝を抜かれた人がいた。あのとき呑んだ「鍋島」のうまさが忘れられないと会うたびにいわれるのである。
 それと同じようなうまいお酒を教えてほしいという催促でもある。

 お酒はね、呑まれてしまうとなくなってしまうものなの。一期一会とはお酒のことをいうのにふさわしい言葉なんだよ、とたぶらかすのである。
 だから、いいお酒は出会ったときに呑んでおかないとあとからまたそのお酒に出会うことはかなわないよ、と教えているのである。

 と、庵主はそう思って、もう呑めないのにさらに一杯を呑んでは、酒を呑むとなんでこんなに酔っぱらうのだとクダをまいていたことがある。
 そんなに無理して呑むことはなかったのである。
 長くお酒を続けているとお酒の神様はちゃんとうまいお酒を呑ませてくれるということがわかったからである。

 じつはもう一本、「雪鶴」(ゆきつる)の本醸造の生原酒がある。これがうまいのである。
 けっして高いお酒ではないのに呑むと楽しいのである。うまいを通り越して、それを口にするのが楽しいお酒なのである。
 このお酒については次の日曜日に何人かに味わってもらうので、その感想をあらためてご紹介したいと思う。


 
★お正月の寄席★18/1/11のお酒
 普段は100人あまりしか入らないところなのにのびのびと噺を聞くことができる寄席も、初席(新春興行第一弾のこと)だけは満席になる。しかし、それも10日目の夜になると席に余裕が出てくる。
 今年も新春十日目にして、見る人の方には余裕がなくなったということなのかもしれない。
 末広亭である。

 いつもの寄席は昼と夜の二部構成であるが、お正月は第一部、第二部、第三部と三部構成になる。
 それなら中身が濃くなるのかというと逆である。ただの顔見せになるから芸をたっぷり味わうことはできないが、芸人が入れ代わり立ち変わり出てくるので高座はにぎやかなのである。
 高座にはふだんとちがって華やかなお正月飾りがあって、上手、下手には凧が舞っている。といっても壁にはってあるだけだが。
 書き割りは、青空に向かって翔ぶ鶴に千年松で縁起がいい。

 お目当てのローカル岡と昔昔亭桃太郎は代演だった。
 本当は寿輔を聞きたかったのだが、出演時間が第一部で、芸を見るには早過ぎる時間である。昼間っからお酒というのと同様、真っ昼間から芸物を見るのも気が引けるのである。
 体がそれを受け入れる時間ではないということである。

 代演も悪くはないのである。思いがけない芸人と出会うことができるからである。
 まずいお酒をまずいといってもそれがうまいお酒に変わるものではない。出てきたお酒をいかに楽しく呑むかなのである。
 庵主の場合は、日頃呑んでいるお酒がいかにすばらしいお酒であるかをそれによって知ることで悦にいるのである。
 俺の勝ちだというひそやかな思いである。
 そして、そんな贅沢なお酒を呑んでいたらそのうちきっとバチが当たるに違いないと自戒するのである。いたって謙虚な酒呑みなのである。

 お酒も芸人も出会いである。
 お酒と芸人の共通点は、熟成で一段とその味がうまくなるということである。
 たとえば若い人に人気がある吉本の若手芸人はお酒でいえば初搾りのようなものである。たしかにフレッシュで楽しいといえば楽しいのだが、深みがないからすぐあきてしまう。
 庵主も、その手のお酒がうまいですよといって出てきたときには、さわやかな味わいですねとはいうが、けっしてうまいとはいわないのである。
 そしてそのあとに一、二年しっかり熟成させたうまいお酒を呑んでほっとするのである。

 トリの一番前の色物、手品の松旭斎小天華がよかった。
 終始セリフなしで、表情だけでその手品の不思議のツボに誘導してくれるので、いま何が起こっているかよくわかる。
 手品を見ていても、今なにが起こっているのかわからないということが庵主にはよくある。
 赤いドレスを着た女手品師が、赤いシルク(ハンカチのこと)を出して何かやっていてもよくわからないというようなことが。
 その点、この夜の小天華はよかった。黒い着物である。そしてシルクの出しかたにスタイルがあった。スタイルがあったというのは、そのやり方がカッコいいということである。短い時間なのに、またそのスタイルが見られることを期待したくなるほど流れがきれいだった。
 
 手品を演じる人はどこが不思議に見えるかということを自分ではわかっているから、見る人もそれが分かるだろうと思ってしまうことがよくある。
 しかもその芸をよどみなく演じられると、見ている方は何が起こっているのかわからないことがある。どこが不思議なのか理解できないのである。手品なる高尚な芸についていけないのである。
 手品師は、手順を演じるのではなく、自分もその不思議を感じながら手品を進めてもらわなくては困る。
 小天華は客の好奇心と同じ高さに立って手品をやっていたから、それは不思議現象を楽しむということを越えて芸の世界になっていたのである。
 芸というのは、俺もそう思うとか俺も不思議に思うといった共感のことである。

 そして、トリの噺だけはそれまでと違ってみっちり聞ける。
 その夜のトリは三遊亭遊三だった。
 長屋の花見である。
 押しがあって、それでいてけれんのない芸に引き込まれる。口跡もいい。キレがいいのである。遊三の噺はコクがあってキレがいい。
 その声に含まれている気が高いから庵主の体にすぅーっとしみいってくるのである。落語を聞いてなにもそのストーリーを追いかけることはない。その声を聞いていればいいのである。庵主がわざわざ入場料を払ってまで寄席で眠りにいっているのは、その声が心地よいからなのである。いい声を聞くと生気がわいてくるからにほかならない。
 長屋の花見などは庵主はもう何十回も聞いたことだろう。なのにこの夜は心から笑えたのだから遊三にはまいったである。
 貧乏長屋がそろって上野に花見に行く。大家さんが用意したお酒の中身は番茶のでがらし、蒲鉾は大根を半月に切ったもの、玉子焼きは沢庵である。
 酔えないお酒を呑んで、大家さんから酔ったふりをしないともう面倒を見ないと言われた店子がやけくそになって酔っぱらう。
 いいお酒だね、その玉子焼きを一つ取ってくれねぇか、しっぽのほう、といった感じである。
 噺の筋はおろか、そのセリフさえわかっているのである。それでもおかしいのである。それでも笑わせる。それが芸なのである。

 今年は長屋(日本)にもいいことがありますよ。
 ほらお酒に茶柱が立っている。
 


★お酒のあるお店★18/1/4のお酒
 京料理のお店。
 そのお酒。
 「徳次郎」
 「[酉+与]右衛門」(よえもんのよは酉に与と書く字。パソコンでは出てこない漢字を使った酒銘を付けるなと庵主は思っているが、口に出してはいわない。人の名前はそれぞれに思い入れがあるように酒の名前もそうだろうから。あー迷惑。)
 「あけぼの」
 「白岳仙」(酒銘にはどれにもちゃんとふりがながある模範的な酒祭りだったが、これには「はくらくせん」となっていた。濁音を嫌った京音便か。そんなことはあるまいが。)
 「鷹勇」の「海に解ける陽」
 「王禄」の「渓」
 「東北泉」のなんとか
 それともう一ついい酒があったのだが思い出せない。庵主の記憶力の限界である。

 と、書くと、知っている人はどこのお店かわかるのだろう。おいているお酒に主張があるからである。こういうのを酒祭りというのである。酒銘を見ているだけでわくわくしてくるではないか。
 ただお酒の数を並べただけのものでは、酒銘を見ても呑みたいと思う酒がないのである。その中から無理に選んでも心はさびしいのである。
 京料理がいいという連れに誘われてはいった店である。
 呑めるお酒があってほっとしたものである。
 いい料理を出すお店でうまいお酒がおいてないということはあっても、いいお酒をおいてあるお店で料理がまずいということはまずないからである。
 いい店でよかったという気持ちである。
 で、一番安い1合1000円の「徳次郎」を選んだ。値段で選んでのではなくまだ呑んだことがなかったからである。特別純米である。
 あとからお酒の値段をネットでみてみたら、お店での提供値段は原価からするとバカ高いことがわかった。新装開店のテナント割烹である。たっぷり家賃を呑まされたのである。ただ苦笑するだけである。
 いや、その味からすれば「徳次郎」の原価の方が少し安すぎるのかもしれない。

 お酒は錫の片口、錫の猪口で出て来た。
 呑んでみる。
 味はまさしく純米酒である。
 庵主が好むモダンな味わいの純米酒ではなく、伝統的な本格的味わいの純米酒である。その味わいを一言でいえば、庵主の舌には重い。
 といっても「徳次郎」の特別純米は十分にいいお酒なのである。味わえるお酒なのである。それが好きな味わいかと聞かれたら、庵主の好みではないということなのである。
 庵主の舌はすでに新しい味わいの純米酒しか受け付けなくなっている。
 新しい味わいというのは、軽くて、あまい酒である。そして造りがしっかりしているお酒である。すなわち味に厚みがある酒でなければならない。それを支える輪郭がしっかりした酸味がある純米酒である。
 といってもたぶんこれを読んでいても、それがどういうお酒なのかわからないことだろう。

 軽い味ってどんな味なの。
 あまい酒と甘い酒とは違うのか。
 味の厚みってなに。
 しっかりした造りってどういうのをいうの。
 酸味の輪郭ったなんだ。
 そのすべてがわからないはずである。
 なぜかというと書いている方がそれを具体的に説明できないからである。

 その意味するところは、いろいろなお酒を呑んで感得してもらうしかないのである。その違いは呑めば分かる。
 じっさいに味わってみればすぐにわかることである。言葉で伝えることができるのはここまでということである。
 お酒は味わってもらうしかない。酒は読むものではない。味わってみてはじめてお酒である。もっと正確にいえば、うまかったときにお酒なのである。
 なにもあわてて短期間でお酒を知ろうとする必要はないし、また時期がこないと呑めないお酒というものがある。

 いま庵主が呑んでいるうまいお酒も、二〜三十年前には呑みたいと思っても手に入らなかったお酒である。
 日本人が贅沢になって初めて実現したお酒なのである。それに気がついている庵主のような先進的な酒呑みが、多くのそれに気がついていない人たちを出し抜いてとんでもないうまいお酒を呑み漁っているのである。
 狂気だと思っている。こんなうまいお酒がなんで庵主如きなんぞに回ってくるのかとうれしい巡り合わせに空恐ろしくなるほどである。
でも、庵主はすでにうまいお酒に狂っているから、それが当たり前だと思っているのである。

 お酒はうまいものというのが庵主の常識である。
 まずいお酒に出会うとかえって興味がわいてくるほどである。普段はうまいお酒しか呑まないが、お葬式にいくとそういうお酒が出てくるから、庵主は葬式が大好きである。だれか知っている人が死なないかなと心待ちにしている罰当たりなのである。
 そして葬式ぐらいうまいお酒を用意しろと毒づいているのである。

 雅びな京料理をいただきながらお正月早々不謹慎なことを考えていたのである。
 「徳次郎」を呑みながら考えることが思いがけぬ方に流れてしまったのである。


★「千代むすび」の熟成酒がうまい★18/1/1のお酒
 それを古酒と呼ぶか、長期熟成酒と呼ぶか、あるいはべつの洒落た名称を考えるか、いまはそこまで存在価値が認められていないのが長年ほったらかしておいた日本酒である。

 古酒といえば、「達磨正宗」とか「木戸泉」とかの蔵元を思い浮かべる。
 「月桂冠」もいいものを持っていると聞くが、呑む機会がないからないのも同然である。
 古酒はさがせばいろいろな蔵元がもっているから出会う機会は少なくない。

 その古酒には、ただ歳月をへたというだけの老(ひ)ねただけのお酒と、幾星霜をへていちだんと味わいが濃くなっているものとがある。
 もう一つ、由美かおるみたいに年をとってからの方がより魅力的になっているお酒とがあるのだ。
 それをどれも古酒とくくってしまっては誤解のもとである。

 味がくずれて紹興酒みたいなにおいになったものはただの売れ残りで尚古酒(しょうこしゅ)、熟成によって味わいに深みが出たお酒を光香酒(こうかしゅ)、そして熟成によって日本酒の範疇を越えて酒のうまさを味わわせてくれる次元のお酒になってしまったお酒を花薫酒(かくんしゅ)といったぐあいに呼び名を違(たが)えたほうがいいと思う。もっともその境界線はあいまいではあるが。
 お酒の「有識者会議」でも作って古酒の評価をまかせようか。

 その光香酒と花薫酒を「千代むすび」であじわってしまったのである。
 「千代むすび」の4年熟成の「完熟純米」が光香酒である。
 色もきれいんハチミツ色をしている。透明な一升瓶にはいっているから、そのいろがよくわかる、おいしそうな色なのである。
 老ね香はきれいな味になったときは熟成香という。
 起こっていることは同じなのに、その香りが好ましいときは熟成香であり、それがうまくないときは老ね香というのである。
 「完熟純米」は熟成香につつまれている古酒である。老ね香なのだが、それが軽やかなのである。これは老ね香だと思っていても、その味がけっして欠点ではなくて、ある瞬間からそれがうまさに感じてくるのである。
 あ、これはいい古酒だ、と思ったときからそのお酒は美酒だということがわかるのである。

 おなじく「千代むすび」の「江戸仕込み十年熟成」である。江戸時代の仕込みにそって精米歩合90%ぐらいで仕込んだという。
 そのお酒が化けていた。
 上質のリキュールの世界に踏み込んでしまったお酒である。
 甘い。庵主は甘いお酒が好きなのだが、そのすきな甘さとは次元の違う甘さなのである。クレームドナントカと呼ばれるあの甘さなのである。
 食後にリキュールグラスで一杯呑むといい。

 日本酒にデザートの感覚を楽しめるお酒があるということを知って庵主はうれしくなるのである。
 庵主は、お酒を呑んだ後には甘いアイスクリームが食べたくなるたちだから。
 このお酒はいくらで売るのですか、と蔵元さんに聞いたら、まだ値段を決めていないという。500ミリリットル瓶に入ったそのお酒はいまそのデビュー価格がいくらになるかを待っているところである。
 安売りはしないでね、と庵主は願っているのである。


さらにおいしいお酒が呑みたいとき、そして前月のお酒も呑みたいときは