「むの字屋」の土蔵の中にいます 平成17年12月の日々一献 ★年末の一杯★17/12/28のお酒 厳寒である。今年は寒い冬になった。そこにきて原油の値上がりで暖房用の灯油も高値を更新している。しかし寒い冬は悪いことばかりではない。 雨の降る日は天気が悪いとはいうが、しかし傘屋にとっては恵みの雨である。世の中のすべてにとって悪いというものはないということである。 実は厳寒の冬にも楽しみがある。 燗酒である。底冷えのするときは燗酒がいっそう体にしみてうまく感じるからである。 場合によっては熱々の燗にして、お酒の味を飛ばして呑むのもまたうまい。 寄席の帰りの冷え込んだ夜に、ちょっと体を温めようと思ってはいったお店に「開運」の純米ひやづめがあった。 それに燗をつけてもらった。 さすがに「開運」である。ほどよいぬる燗は、しっかりとうまいという満足感を残してなめらかに喉を過ぎていく。ほっと体が喜ぶのがわかる。 ほんの束の間の幸せに満たされたのである。 ★カップ酒ブーム★17/12/21のお酒 カップ酒のブームについて書いておかなければならない。 カップ酒は大関が開発したコップ入りの日本酒のことである。手で開けられる金属製の蓋を開ければ、容器がそのままコップになってお酒を呑むことができる。 通称はワンカップであるが、それは大関の登録商標になっていて、普通名詞はカップ酒である。 話に聞くと大関は年間30万石の生産量のうち、その3分の1をワンカップが占めるという。ヒット商品なのである。大関の大黒柱なのである。 庵主は大手酒造メーカーのお酒を呑むことはまずないから、「ワンカップ大関」もアルコールくさい安酒にちがいないという先入観からバカにしていたものである。 ところが、庵主好みのうまいお酒と「ワンカップ」を呑み比べてみる機会があって、呑んでみると思いのほかうまいので驚いたことがある。あくまでも思いのほかであるが。 けっこう回転がいい商品なのだろう、製造年月日の若い瓶だったせいもあって、呑めない酒ではなかった。いやおいしかったのである。 「ワンカップ大関」はうまいわけではないが、乙な酒なのである。 大手の酒でも新しいお酒は呑めるということである。ただ、まっとうなお酒とそれが並んでいたら手に取るのは最後になるだろう。 大手のそのランクのお酒は呑まなくてもあるていど味が予想できる酒だから、なにがあるかわらない小さい蔵元のお酒を先に味わってみたいからである。小蔵のお酒にはひどいものもあるが大当たりも期待できるからである。ただし再現性が期待できないことが多いのだが。 大手メーカーの酒に大当たりはちょっと期待できないからである。よくいえばそれだけ造りが安定しているということである。ということはいつ呑んでも同じような味だということで信頼性が高いといえないこともないが、うまいという水準で安定しているわけではないから呑んでも甲斐がないのである。 カップ酒の容量は一合である。どこかのメーカーが20ML増量して200MLのものを出しているが、苦笑するしかない。 一合という、手に持ったときにいちばんしっくりする大きさがいいのであって、胴が長くなった200ML瓶は、酒を呑むという心情ではなく、アルコールを飲むという依存症感覚に気持ちが転化するからである。 一見すると、同じように酒を呑んでいるように見えるが、1合のカップ酒はお酒であり200MLはすでにアルコールに飲まれているのである。 呑み手の主体が両者ではひっくり返っているということである。 人、酒を呑む。やがて酒、人を呑む。ついには酒、酒を呑む。 古人(いにしえびと)の観察である。酒をよく見ている。知っている。 1合の酒はまだ酒を呑んでいる段階であるが、200MLの酒はすでに「やがて」の域に踏み込んでいるということである。酒会社が多量飲酒を慫慂(しょうよう)していはいけない。 そのカップ酒が最近多くの蔵元から発売されるようになった。 以前から造られていたのかもしれないが、よく目につくようになったのである。 カップ酒のブームは酒販店のマチダヤが仕掛けたとも聞く。 カップ酒はマイナーな酒だった。それが最近脚光をあびてきたのである。 カップ酒の中の酒はひどいものが多いということで、どっちかというと自虐的な呑み手がその世界に浸っていたものだが、最近は「ワンカップ大関」が大吟醸を出して庵主を大いに楽しませてくれたところである。 ブームづくりの仕掛けが当たったのである。すくなくとも話題として取り上げられることが多くなったのだから。 庵主の庵の近くの呑み屋でもカップ酒を並べている。 その銘柄がおおっといわせる蔵元なのである。「大関」「月桂冠」「松竹梅」「白鶴」ではないのである。 そこにあるのは「初亀」「正雪」といった庵主が贔屓の静岡の蔵元の酒から、「村祐」「上喜元」「鍋島」といった、おいおいほんとにカップ酒を出しているのかと思うような意外な蔵元、それに「芳水」「黒牛」といったちょっと気になる蔵元のカップ酒まで並んでいるのである。 大手メーカーのカップ酒なら呑まなくても味は予想ができるが、これらの蔵元なら、ひょっとしてうまいお酒が詰まっているのではないかと期待が高まるのである。 庵主はその1合の酒が、うまいまずいにかかわらず量が多くて呑みきれないからただ遠くから眺めているだけなのだが、たしかに今時のカップ酒は気になるのである。 ただしカップ酒には致命的な欠陥がある。蓋の部分が大きいという構造上、密閉度が甘いようで、お酒の保管にはあまり向いていないということである。 いいお酒を詰められないのである。ワンカップ大関級のお酒にはふさわしい容器なのである。 では通常の酒瓶のように口を小さくしたらいいのかというと、そうすると蓋をカポッと開けてキューっと呑むというあの呑み心地が味わえなくなってしまうのである。 口元を小さくしたら、いわゆるラッパ飲みになってしまうから、お酒のラッパ飲みは日本人の美意識にそぐわないということである。 蓋の部分を猪口の形にしてそれで呑むということも考えられるが、それがプラスチックであってはどうしようもない。カップ酒というのは長所が即最大の欠点という構造になっているということである。 けっきょく、カップ酒にはいいお酒はいれられないということで、うまい酒は期待できない容器なのである。 こと庵主に関していえば、1合も酒を呑むことはないからそれはただ迷惑なだけな酒なのである。呑み残したら保存には向かないから、酒を無駄にする容器だというわけである。 お酒が呑める人にはきゅーっ一杯できる手頃な酒なのだろう。 ブームということで少しは日本酒が売れるようになるかもしれないが、庵主が呑めるお酒とは縁がないところでのブームなのである。 ★一発大逆転 代打満塁サヨナラホーマー★17/12/14のお酒 庵主は、ここ何年かは12月10日前後に行なわれる与太呂会の「初亀を呑む会」で「初亀」をじっくり味わって幸せを感じながら一年の呑み納めにしている。 それから新春元旦まではお酒を呑まないのである。呑まないことにしているのである。呑まない姿勢ではいるのである。 一つには、アルコール依存症でないことを確かめるためである。 一つには、この時期は風邪がはやり始めるころなのでアルコールの摂り過ぎは体の免疫を低下させるという記事を読んだことがあるからである。 12月は街中にクリスマスソングが流れ、ボーナスも出てみんな気分がうきうきするせいか、師走のお酒は気持ちが大きくなるせいかつい呑み過ぎるからである。 与太呂会で呑んだ「初亀」は「亀」を初めとして9種類である。 庵主は「亀」の味わいに納得しながらも、このうまさがあれば十分だと評価したのが本醸造である。雄山錦で精米歩合60%のしぼりたて原酒「新酒」である。一升瓶で2400円である。おもわずうまいという言葉が出てしまった。 今年呑んだうまい本醸造の3本に入る酒である、と口にしたら、ほかの2本はなんだとツッコミを入れられた。 高いお酒がうまいのは当たり前である。当たり前でなくてはならない。でも、造りはしっかりしているのだが、残念なことにうまくないというお酒はいくらでもあるということなのである。 庵主は、うまい本醸造を口にするとそこに酒造りの技を感じるということなのである。気負いのないお酒にこめられた確かな腕前を感じるのである。それが小気味いいのである。 小兵が巨体の力士を倒すのを見るような快哉を叫ぶのである。 庵主は、低精米歩合のお酒を見ると、その味わいに期待するよりも前に、ついよく米を無駄にしたものだなあと、そこまで磨かないとまともなお酒が造れないのかなあと、そっちの方が気になるから、そんな贅沢なお酒を庵主如きが呑んでもいいのだろうかと良心の呵責にたえて呑むことになるから腰を据えて呑んでいられないのである。 でも、そういうお酒もまたうまいのだけど。 というのは、「亀」を呑んでから、その本醸造を呑んでみたら、やっぱり格の違いをかんじてしまうのである。 お金持ちが自分の車の自慢をしていて、ジャガーだマセラッテイだサーブだと話に花が咲いていたが、その話に加わらなかったもう人のお金持ちにあんたが乗っている車はなにかと聞いたところ、私はロールスロイスですと答えられてそれまでの自慢話が吹っ飛んでしまったという状況に似ている。 ロールスロイスのようなお酒もあるということである。 ただし、庵主は「うまい」という感動をお酒に求めるから、それが安いお酒で実現できればそれで十分なのである。 何百億というお金をかけたのにつまらない映画より、低予算で撮られたおもしろい小品の方が好きだといういうことである。 したがってお金をかけて、しかも面白いという映画なら全然問題ないのである。それを否定する理由はないということである。 でもどっちの映画に出会った時により楽しいかというと断然低予算で面白い映画なのである。 午後5時から始まる与太呂会はぴったり2時間で終わる会である。 中には遠くから参加されるメンバーもいるから、帰りの電車までに少し時間があるのと、夜もまだ浅いのでもっと呑みたいというので2軒目につきあった。 近くの「来会楽」(こあら)で呑む。 お酒は「手取川」の「露堂々」である。 来会楽の片口は庵主好みの洒落たデザインである。それにお酒を入れるだけでお酒がおいしそうに見えるのがいい。 庵主はいつもはグラスで八分目ぐらいにお酒を入れてもらって呑んでいるものだからはこんないい片口があるとは知らなかった。 それがまたうまいので、お酒はもちろんのこと、その片口が楽しいので、もう一杯「満寿泉」の七年熟成を呑んだがあったのでそれである。 低温での保管ができるようなったので、七年間眠らせておいても紹興酒のようなニオイが出ないのである。そして味が落ち着く。味わい深いお酒がそこにある。 お酒は確実にうまくなっているということである。日本酒はまずいという印象をもっている人たちにこのうまさを教えてあげたいのである。 美女たちと片口でお酒を分け合って呑むのもいいねぇ。 電車の時間に合わせて送り出した後に来会楽を出たら、与太呂会の第二部に出席していたメンバーと会ってしまった。 その中に最近日本酒のうまさに目覚めた人がいて、今日の「初亀」もうまかったのでもっとお酒が呑みたくなったということから銀座の「串銀座六丁目店」で呑むことにした。 四谷三丁目から銀座まではすぐそこである。いや、みんな酔っているから、すぐそこに感じるのである。 酔っぱらっているのではない。「初亀」のすごさに感銘を受けて、お酒のうまさに酔っているのである。 電車に乗っている間、称賛の言葉が切れない。 夜も遅いので、串銀座では、庵主が大好きな「波瀬正吉」を呑む。 今夜は庵主にしては少し呑み過ぎなのだけれど、それでも「波瀬正吉」のうまさはしっかり感じるのである。いやなお酒、と思ってうれしくなる。 「李白」の「吉岡光雄」の最後の一本が出てきたということで、それも。 「吉岡光雄」はこれだけ呑んだ後でもその力強さがひしひしと伝わってくるお酒である。すごいとしかいいようがない。 で、お店の閉店時間となって追い出される。 外は寒い。 美酒のうまさにとち狂ってしまった一人がまだ呑みたいというから五反田の「おまつり本舗」に行くことにした。 おまつり本舗はお酒を持ち寄って呑む会をやっていると聞いていたから、まだうまいお酒が残っているだろうと踏んだのである。 与太呂会は定時開始定時終了の国鉄なみのお酒の会であるが、おまつり本舗のお酒の会は開始時間は決まっていても終わりがないという会である。 夜中の12時を越えても終わっているわけがない。 その読みは当たった。 テーブルにはメンバーが持ち寄ったお酒が林立している。 「南部美人」の愛山や「喜久醉」の純米吟醸からはじまって、「北雪」の純米大吟醸なのに花酵母という下手物まで、さらにはどこで探してきたのか庵主が初めてみるようなお酒もある。 たとえば、酒米の祝を使って醸した「京生粋」は京の雅びを感じるかと思って呑んでみたが、すでに美酒三昧で酔いしれている庵主の舌はその繊細な味わいを感知する状態にはなかったのである。 「夜明け前」「鳳凰美田」「勝駒」はすでに空になっていた。 「吾妻峰」や「黒牛」のカップ酒があるのは今のワンカップブームの反映だろう。 「日置桜」や「手取川」や「丸真正宗」もある。2001年の「越乃寒梅」大吟醸というものある。 さすがに「飛騨自慢」の「鬼ころし」はアルコールを感じてしまう。とはいえ、これも長い人気を誇るお酒である。こういうお酒がいいという人もいるということである。はっきりいって、庵主には呑めないお酒である。 ところが、そんな中にとんでもないお酒があったのである。 庵主は相当呑んでいる。はっきりいってもう呑む必要がないのである。 だから味見のつもりでちょっと口にしただけなのである。 それがうまかった。なんだ、このお酒。 それまで錚々たるお酒を呑んでいるのに、それらのうまさとはまた別の目茶苦茶うまいお酒なのである。 お酒はスペック(商品仕様)ではないと思った。 全体的なバランスのうまさなのである。 それまで呑んできたお酒はそれなりに愛想のいい美人だとしたら、このお酒は美人とは別のきさくなうまさなのである。 呑んだあとに呑んでもうまいのである。しかも「波瀬正吉」ならそのうまさを客観的に感じることができるうまさだが、このお酒は体が喜んですいすいと呑んでしまううまさなのである。呑んだあとに、うまいっ、とくるうまさなのである。 その日呑んだすべてのお酒を吹っ飛ばしてしまったそのお酒は「鍋島」の佐賀の華で精米歩合60%の特別本醸造である。 呑み納めの日の最後の最後の一本が大当たりだったのである。 ★「ロングロウ」★17/12/7のお酒 そういえばここしばらくウイスキーは飲んだことがないなと庵主の写真の先生が口にした。たしかに最近はウイスキーの話題をとんと耳にしない。 せんだってサントリーが100万円のウイスキーを売り出して即完売したという噺があったが、そんな高いウイスキーが庵主のところに回ってくるわけがなく、所詮打ち上げ花火かモルトの在庫一掃セールだったのだろう。 「サントリーオールド」が全盛時のウイスキーに活気があったころが懐かしく感じるほどである。杜氏はウイスキーを飲むということがステータスシンボル(地位誇示道具)だったのである。「オールド」の宣伝が頑張っていたから、他の会社のウイスキーもそれにひっぱられて売れていたのである。 もっとも「オールド」はその中身がいかがわしいということで酒呑みの間では格好の酒の肴になっていたものだが。 その話題が他社のウイスキーのいかがわしさに及んだのもまた「オールド」の貢献だった。日本慙愧洋酒史を飾る「ウイスキー」の絶頂期のことである。 いまはだれもウイスキーを飲まないものか、そんなことは話題にも登らなくなった。酒のわかる人はモルトウイスキーを飲んでいるからなのかもしれない。 その「オールド」も今はその酒銘通り昔のお酒になってしまった。今は「ニューオールド」というのだそうだ。意味としては間違ってはいないのだが、形式的には形容矛盾になってしまったのである。なんだかちゃらんぽらんになってしまったウイスキーを象徴しているみたいである。 イギリスのサッチャー首相が日本に対して蒸留酒の税額を下げよと圧力を掛けてきたことがウイスキーの長期低落のはじまりだったようだ。 もともとは、イギリス国内で売れなくなったウイスキーの売り先を日本に求めたというのがサッチャー首相の邪心だったのだが、ウイスキーが安くなるとその威光も薄れてしまいウイスキー全体の没落のきっかけになってしまったのである。 時代の趨勢が度数の高い酒からライトな酒へと移りつつあったということもあったのだろうが。 しかしである。時を同じくしてシングルモルトウイスキーが日本国内で飲まれるようになったのは幸いだった。 庵主がウイスキーを呑み始めたのはそのうまさを、モルトウイスキーの味わいを知ったからである。 うまい。うまいのである。その香りの馥郁なこと、そして口にふくんだときのカーッとくる刺激感に堪えるときの大人感と不良感がいいのである。 甘い。度数が高いのによくなじんだアルコールの甘さは舌を心地よく刺激する。 ハーッ、と高度数のアルコールに堪えて、口にしたチェイサーのまたうまいこと。水のおいしい飲み方はこれにしくはないと思えるほどである。 時々バーに立ち寄ることがある。 初めての店なら一杯目はジントニックである。二杯目はモルトウイスキーをもらう。じっくり飲めるから時間持ちもいいからである。 2杯飲んだら庵主の定量である。すなわち、その2杯目はその日の〆(しめ)の酒なのである。安易な選択はできない。 そのお店では「ロングロウ」を出してくれた。 それがうまかった。渋いといっていい味わいにその酒の特徴を見いだしたのである。 そうか、うまいウイスキーは本当にお酒を知っている人たちのひそかな愉しみになっていたのである。 ★お江戸のうまいお酒「喜正」★17/12/1のお酒 地酒ブームが起こってから久しい。 ナショナルブランドのお酒よりもずっとうまい地酒があるということが広く知れわたったのである。 はしりは「越乃寒梅」だったと思う。 当時は三増酒が全盛のころで、その中にあって「越乃寒梅」は周囲を圧倒するうまさだったのである。 庵主はそのころの酒事情を体験していないが、文献を読んでみるとそういう状況だったようである。 それによると「越乃寒梅」はいいお酒を造っていたのである。いまは時代が変わったから相対的にその地位は下がってしまったのである。 地酒はうまいとはいっても、地酒ならなんでもうまいというわけではない。 まずい地酒もいっぱいあるのである。いまでもそうなのだから、当時はもっとひどかっただろう。 一般的に大手酒造メーカーのお酒にうまい酒はないとはいっても、剣菱から桶売り(蔵元から別の蔵元に売る未課税酒)の酒を造ってほしいと要請された地方の蔵元が「剣菱」の品質を確保するための製造条件がその蔵の造り方と比べたらずっと高いのでびっくりしたという話を本で読んだことがある。それまでと同じお酒の造り方をしていたのでは相手にされなかったというのである。 「剣菱」に桶売りをやっているということはその蔵のステータスだったということを、今は自前の酒銘でお酒を売っている別の蔵元さんから聞いたことがある。 大手酒造メーカーのお酒はうまくないというよりは、味わいが浅いということなのだと思う。よくいえば、どこで呑んでも同じ味わいの安定した酒質だということである。ただ、高い品質で安定させることはむずかしいから、どうしてもそこそこの味で安定させることになるというわけである。 大量にアル添したお酒は、お酒というよりは焼酎っぽい日本酒と言った方がいいものだし、そうでないお酒にしても、大手の蔵元が造った本当にうまいお酒は滅多に出回ってこないから呑む機会がないので感動することがなく、そこそこのお酒はあまりにもそつがなく造られているので呑んでもおもしろないというのが本当のところだろう。 まずくはないが、うまくもないというお酒を呑むことほど虚しいものはないのである。 東京にもいくつかの蔵元があるが、はっきりいって庵主がうまいと思う蔵は少ない。いま庵主にうまいと唸らせてくれる数多くのお酒に比べて、なにかが欠けているのである。 が、しかし、東京に、お江戸にも庵主が納得するお酒がある。 「喜正」 (きしょう) である。 以前にもその大吟醸を呑んでうっとりしたことがあるが、今夜もいきあたりばったりで入ったお店に「喜正」の純米があって、ためらわずそれを注文したのである。 大振りの片口に正一合とちょっとの「喜正」が入って出てきたときにはしまったと思ったのである。 座ったカウンターの上に大皿料理が並んでいて、ちょっとだけ腹に納まるものをと思ってポテトサラダを頼んだら庵主の想定外のたっぷりのイモサラダが出てきた。 量が多いですねというと、大将は売れ残っても捨てるだけですからカウンターのお客さんにはサービスですという。 片口にたっぷりのお酒もサービスなのかもしれない。 呑めないのである。庵主にはサービスでいただいたお酒は身に余るのである。 大将のセリフではないが、呑み残したら捨てるしかないではないか。 庵主にはお江戸サイズの徳利でよかったのである。一合徳利に一合のお酒が入っていないお江戸サイズのぼったくり徳利のことである。 一番小さいグラスで一杯、という注文をつけなかったのが失敗だった。 しかし、状況は一変した。 「喜正」の純米を口にしたときに、そのうまさに驚いたのである。 そのかろやかな酸味がうまい。いま庵主は酸味の美しいお酒に心惹かれるのである。「喜正」のうまさは本物だと久しぶりの出会いに喜びがわいてきたのである。 すっと入る、そしてすっと切れていく。 はっきりいって庵主好みの甘くてうまいというお酒ではないが、その酸味の魅力は出色である。女の色香に迷ってしまうように、その酸味の美しさになびいてしまうのである。 しかし味そのものはがっしりしていて、呑み手にこびない主張のあるお酒である。そのお酒に秘められいる迫力に圧倒されて思わず背筋を伸ばして呑んでいたのである。 いいお酒を呑んでいるという実感がわいてくるのである。 うまい酒ではないにのなぜこのお酒は人をひきつけるのだろうかと、その秘密に迫ろうと真剣に味わっていたら、気がついたときには一合の酒がもうなくなっていたのである。 |