「むの字屋」の土蔵の中にいます 平成17年11月の日々一献 ★ちびカップのお店★17/11/30のお酒 ちゃんと、ちびカップ(だったか、ミニグラスだったか、もう思い出せない)約65MLが用意させれているお店である。 庵主にはちょうどいい量である。2杯呑んで適量である。 そのちびカップ(だったか、ちびショットだったか。とりあえず、ちびカップと書いておく)はべく杯である。 銃弾の弾頭のような形をしているからそれを置く台がついてくる。台に置かないと倒れてしまうのである。 庵主はそういうグラスが好きである。グラスを楽しみながらお酒を呑むことができるからだ。 酒祭りをみると滋賀の「不老泉」(ふろうせん)があった。1杯目はその山廃純米である。 酸味に冴えがある。「悦凱陣」の酸味、「木戸泉」の山廃の酸味に並ぶ美しい酸味である。とはいうが、その酒がうまいとは書かない。 その酸味に加えてもうひとつの特徴的な味があるのだが、その味を言葉で表現できないのがくやしい。独特の味なのにそれを言葉に置き換えられないのがもどかしい。言葉に置き換えられないということはその味を覚えられないということだからである。 見ると精米歩合60%とある。 60%の磨きでこれだけ味のある力強いお酒が造れることがわかる。 こういうお酒を呑むと、磨きは60%で十分と思うのだが、しかし、ほかの酒で60%というのは時として外れであることが少なくないのである。 2杯目のお酒は、すなわちその日の〆(しめ) のお酒は、庵主のホームグランドともいえる勝手知ったる「開運」の純米を落ち着いて呑もうしたが、大将が別のお酒を呑んでみませんかと声をかけてくれたのである。 出てきたのが「奥羽自慢」だった。たまたま知っている佐藤勝杜氏の顔が浮かぶ。ここで会えるとはうれしいと思ってそれにすることにした。 知っているお酒をゆっくり呑みたかったからである。 知っていますかと尋ねられたので、ええ知っていますと答えたら、じゃ別のにしましょうという。お店の奥は深いのである。 「三重錦」が出てきた。それもいいと思ったが、以前に呑んだことがありますといったら、じゃもっと面白いのにしましょうといって持ってきたのが一見ちゃらんぽらんなラベルが貼られた一升瓶だった。 よく見るとラベルには720MLと書かれている。四合瓶のラベルを転用しているのである。大丈夫かとふと不安がよぎったのである。 それが純米の「タクシードライバー」だった。その映画のポスターのようなラベルを見て焼酎ではないかと疑ったものである。 岩手の「喜久盛」のお酒である。ひょっとして下手物かと思ったが、味はしっかりしていた。充実の味である。 もっとも疑う必要はなかったのである。並んでいるお酒を見ればわかるようにうまい酒しか置いていないお店だからである。そのお店が選んだお酒である、間違いがあるわけがないのだから。 このお酒も精米歩合は60%だった。60%の磨きでうまいお酒を2杯味わったのである。 お店は吉祥寺の「須弥山」(しゅみせん)である。 ★今月の新刊★17/11/23のお酒 山同敦子さんの新刊「愛と情熱の日本酒 魂をゆさぶる造り酒屋たち」(ダイヤモンド社刊・2005年11月10日第1刷・1890円税込)は、読むとまたまたお酒が呑みたくなる本である。だからいけない本である。 うまいお酒を買ってきた時に似ている本である。 うまいからいくらでも呑めるのである。でもそのうまさをいつまでも味わいたいと思って長く取っておこうとは思うのだが、酒のうまさの誘惑に負けて、もう一杯、また一杯と呑んでいるうちにあっという間になくなってしまう。 この本もそうだ。いい味なので、その味わいをいつまでもずうっーと読んでいたいのだけれど、ついもう1ページ、また1ページと先を急ぎたくなる。 「喜久醉」「醸し人九平次」「悦凱陣」「王禄」「奥播磨」「十四代」「飛露喜」「秋鹿」「磯自慢」と九つの蔵を訪ね、その造り手の酒造りに対する情熱を描いた本である。 九つのお酒は、庵主もまたうまい酒という評価しているお酒ばかりである。その酒銘を見ているだけで一つひとつのお酒のうまさが心に浮かんでくる。 そのうまさの秘密が明かされるのである。そのうまさはこうして造られているという秘密の開示である。だから手品のたねあかしを読むように面白いのである。そうか、そうだったのかと、納得するのである。そのお酒をあらためてじっくり味わってみたくなるのである。 そして、文は人なりというが、お酒もまた人なりなのだと頷くのである。 手品もタネを知っただけではそれを上手に演じることができないように、お酒造りの秘密を知っても、それをうまいお酒に結実させるのは手品師ならぬ造り手のセンスによるからそっくり真似をしても同じお酒ができるものではない。 ただしその方法論は美酒につながる王道なのである。 山同さんのお酒の味わいを語る言葉がいい。この本にはお酒のうまさが読んでいるだけで目に浮かんでくる表現がつぎつぎに出てくるのである。 庵主がほしかった表現がどんどん出てくるのである。そうだそれがいいたかったのだという当を得た言葉が続く。 庵主が少ない語彙を使って四苦八苦してそのお酒のうまさを伝える言葉を探していたところに強力な援軍が現れたのである。 たとえば、老ね香 (ひねか)のことをどう伝えるかというと「紹興酒のような老ね香がある」と書いている。それでいいのである。 どんな香りなのかわからない人に老ね香とかムレ香を言葉で伝えることは最初から無理なのである。現物を嗅いでみないことにはそのニオイを想像することすらできないだろう。その無理をなんなく乗り越えてしまうこの書き方はあざやかである。なんだそう書けばよかったのかとそれを読んで思うのである。 庵主はうまいお酒を呑んだときに、これはまさに甘露である、とだけしか書けないが、この本では「この酒は、まさにそれだと思った。すっと静かに体に染み込んでいって、滋養となっていく。あとはただ幸せな心持ちだけが残る。酒であることさえ感じさせない不思議な感触」という。 そうそう、その気分なのである、そのとおりなのである、うまいお酒を呑んだときに心にわいてくるお酒との一体感は、庵主がなんとかして伝えたかったことは。 山同さんが書くと、うまいお酒を呑むことの悦 (よろこ)びが伝わってくる。庵主はそれを読んでいると、またその美酒を呑んだときに味わった悦楽を思い出してお酒のうまさに、すなわち甘露な記憶にひたることができるのである。のがれられなくなるのである。 こういうお酒を呑むことができる身の幸せをありがたく思うのである。 本に出てくるお酒がうまいのに、それを語る文章がまたうまい。 最初のページからそうなのだから、それから先のページを早く読みたくなるではないか。 それであっという間に読み終えてしまったのである。 ただ本がいいところは、お酒と違って読み終えてもまだ形が残っているということである。おいしかったところをもう一度味わうことができる。 書を捨てよ居酒屋へ行こう、とドンと背中を押し出してくれる本である。 街には今うまい日本酒がいっぱい呑み手を待っているのだから。呑み手の幸せはすぐ目の前にあるのだから。 ★「蓬莱泉」純米吟醸三年熟成生酒★17/11/16のお酒 庵主は、「蓬莱泉」(ほうらいせん) と「不老泉」(ふろうせん) と「天遊琳」(てんゆうりん) がこんがらがってしまう。 よく、「立山」(たてやま) と「月山 (がっさん) を間違えてしまうということは以前に書いた通りである。 お酒は「月山」なのに、てっきり「立山」だと思い込んで注文したら、出て来たお酒が「月山」なのでよくよく酒祭りを見たらちゃんと「月山」と書いてあったということが再三ある。 どちらも庵主の好きなお酒というわけではないので、呑んでもうまいという印象が残らないから、本当はうまいお酒なのにあの時はきっとそれがわからなかったのに違いないと思ってまた呑んでみるのだが、やっぱりうまいと思えないのである。 「立山」については、このまえ大吟醸を呑んで感心した。これがお酒だ、お酒のうまさだと一安心したのである。 「月山」についてはまだそれがない。 「むの字屋」にはブログがあって「むの字屋の日本酒痛快速報」という。そっちの方は毎日更新している。ブログはこのホームページのトップページの真ん中にある「ブログ」のボタンをクリックするとそこに飛ぶことができる。 気に入ったら、お気に入りに登録してご贔屓にしていただきたい。 更新時間は毎日午前0時前後である。 そのブログにコメントが寄せられて、「蓬莱泉は静岡のお酒でしたか」という問い掛けがあった。 そういえば「蓬莱泉」という酒銘は聞いたことがあるなと思ったものの、何県のお酒だったかすぐには思い出せなかった。 すくなくても、静岡の酒でないことはたしかである。 そこで、「蓬莱泉」と「不老泉」と「天遊琳」がこんがらがってしまうのである。 三重の「天遊琳」はたしか呑んだことがあると思う。 「不老泉」は呑んだことがあったっけ。その県名が出てこない。 「蓬莱泉」はどうだったっけと、庵主の記憶は頼りない。 その「蓬莱泉」と出会ったのが池袋の道筋である。 お店の店頭に、おっと馬から落馬をしてしまった、店頭にお勧めのお酒を書き出した黒板がおかれているお店があった。 その筆頭のお酒が「蓬莱泉」の「夢筐」(ゆめこばこ)だった。 心に掛けているとどういうわけかそのお酒と出会えるものなのである。そういうときは、まるで庵主はお酒に誘 (いざな) われているような気がする。 庵主はそのことを人徳ならぬ酒徳(しゅとく)が高まったと悦にいっているのだが、なんてことはない、注意力をそれに集中しているものから、気にしていなかったときには目に入って来なかったものが目につくようになっただけなのである。 もっとも、普段は歩くことのない道筋で見つけたお店だから、案外酒徳というのもあるのかもしれない。 「蓬莱泉」の「夢筐」はあいにく切れていた。 代わりに、おなじ「蓬莱泉」の「純米吟醸 三年熟成生酒」を味わってみることにした。 「蓬莱泉」のひやおろしもあったが、庵主の酒量はいずれか一杯である。両方は呑めない。 どっちを呑もうかと思案するのもまた楽しい。 庵主は、最近は、若い酒よりも1年から2年の熟成をへたお酒がうまいと感じるようになってきた。呑んでいるうちに、ちょっと苦みが感じられるところがあると、それもまた渋いと感じるようになってきた。 だから、この場合は3年熟成を呑むことになるのだが、この3年というところが問題なのである。 運が悪いと老ね香 (ひねか)が出ているお酒である可能性があるからである。老ね香が苦手だからである。 「蓬莱泉」、さすがである。 3年の歳月をへて、味がへたっていない。かえって油が乗り切っているという感じがする味わいである。 酒は酸味、だと庵主は改めて思う。 この「3年熟成」の酸味は快調である。舌に乗っかったときの気持ちがいい。 お酒が舌の上で転がっているような、まさに珠のような感触のお酒なのである。 切れがいい。 「蓬莱泉」は愛知の関谷醸造のお酒である。 ★ゆうばーる★17/11/9のお酒 うまいものを食べた。 生ハムである。 そしてはじめて庵主が口にできるピクルスに出会った。 それが「ゆうばーる」というお店である。 スモーク料理とワインのお店である。 ワインも味の表情が豊かな赤を飲ませてもらった。 だまって座れば注文をつけるまでもなくうまい酒が出てくるお店である。 庵主に、どんなワインがよろしいですかと聞かれても答えようがないのである。 「リースリングの甘いの」といってもそれはなさそうだったから、お店に任せたのである。ただ赤が飲みたいとはいった。 生ハムのとろけるようなうまさに感嘆した。簡単に感嘆するのもなんであるが、それを口にしてほっとしたのである。 お酒でもなんでも、うまいものを口にすると、体が納得するうまいものならホッとするのである。 ふだんいかに緊張を強いられる食い物をくっているかがわかる。 うまいお酒を口にすると、ふだん呑んでいるお酒との違いを知って日常の食生活に苦笑させられるのと同じである。 ハレの日に着る着物が美しいのは当たり前なように、それはハレの食べ物なのである。体力が、あるいは気力が落ちているときに元気を付ける時に食べるものである。 体が丈夫なときはなにもそんないい物を食わなくていいのである。 ピクルスというのは西洋漬け物といったところか。それが、これまで口にしたものはただ異様に酸っぱいだけでちっともうまいとは思わなかった。 ところが今日のは違った。まさしく漬け物である。野菜の味がしっかりしている。だからうまいのだ。 これまでは瓶詰にしてすでに精気を失ってしまっている野菜の酢漬けを食べていたようである。 フルーツの缶詰を食べて、もとのリンゴやみかんを想像することは難しい。それと同じである。 漬け物にしても天ぷらにしても、もとの素材の特徴が失せてしまったものは、漬け物や天ぷらを食べているのではなくて、漬け物や天ぷらのまねごとを食べているのである。 お酒の世界にもそれがある。 お酒の格好はしているが、それはお酒ではないというアルコール飲料がある。両者は、うまいとまずいで区別できる。 まっとうなお酒はうまいのである。 本当にうまいのである。 お酒が呑めない庵主でさえ呑めてしまうのだから。 それと同じ味わいを「ゆうばーる」で味わってきた。 昼間立ち読みをした雑誌で紹介されていたお店である。 庵主の目が行ったお店だった。 当たりだったのである。 ★ちょっとだけ幸せ★17/11/2のお酒 ちいさなお店である。 お酒は「上喜元」「九平次」「緑川」「七田」「吉田蔵」と呑むお酒に不足はない。 「緑川」の純米吟醸「緑」を呑んでみた。 「緑」は新潟のお酒であるがしっかりした造りの純米酒である。ただし庵主の好みではうまいというお酒ではない。いうならば大人の味わいのお酒である。 庵主の舌には手ごわいお酒だった。 淡麗辛口のすかすか酒(悪口をいっているのではなく特徴を語っているのである)とは違って骨のある味わいのお酒である(といっても勧めているわけではない)。 庵主はもって甘いお酒が好みである。 お酒を頼むときに、うっかり呑める量を言わなかったものだから、ほぼ一合のグラスで出てきた。五勺でよかったのだが。 五勺までなら好みのお酒でなくても気合で呑めるが、それ以上になると庵主のひ弱な根性では量が多過ぎる。 一合では多過ぎたといったら、今度は呑める量で、半分で召し上がってくださいと返ってきた。 肴がうまい。煮物も韮のおひたしもうまかった。 うまいお酒があって、肴がうまくて、静かに呑んでいられるお店である。放っておかれているようで、なにかを頼むとすぐ返事があるからちゃんと見ていてくれるのである。 五勺のお酒だから長居はしない。ちょっとだけの時間を気持ちよく過ごせるお店である。 神保町にある「やまじょう」である。 庵主は飲みはしないが、ちなみに泡盛を見たら「カリー春雨」だった。 −−−−− お酒の名前は、「じょうきげん」、「くへいじ」正しくは「醸し人九平次」(かもしびとくへいじ)、「みどりかわ」、「しちだ」、「よしだぐら」正しくは「手取川」(てどりがわ)の「吉田蔵」である。「緑」は「みどり」。 ★トップとボトム★17/11/1のお酒 日本酒に、荒走り(あらばしり)、中汲み(なかぐみ)、責め(せめ)という言葉がある。 お酒を搾るとき、醪を酒袋に入れたときに最初に滴ってくる部分を荒走りという。そのあとにつづいて出てくる部分を中汲みという。最後にぎゅーうっと圧力を掛けて搾りだした部分を責めという。 最初に出てくるお酒がまろやかでうまいのだという。中汲みはそのお酒の性格がよく出ている部分だという。責めになると味がきびしくなってくるがそれはそれでまたひとつの味わいだという。 といわれて、なるほどと思ってはいけない。 お酒は連続して出てくるのである。 どこまでが荒走りで、どこから中汲みで、どこから責めなのかの区分はどこでするのか、ということである。 最初の2割を荒走り、中の6割を中汲み、最後の2割を責めと見ているようである。そのへんの区別はいい加減だということである。おっと、いい間違えた。そのタンクによっても違ってくるということである。 上中下と格付けするならば、やはり荒走りの優雅な酒、中汲みの清楚な酒、責めのやんちゃな酒といった順番になるのだろうが、その順番にうまいのかというと必ずしもそうはいえないからお酒は面白いのである。 ケチのつけようがない味だがなにか物足りない荒走りより、責めの方がずっと変化に富んでいて楽しいということは起こりうることである。 三つの違いは酒のよしあしというより、味わいの違いなのである。 お酒に興味がない人になら、荒走りのうまさを、つぎの堅実な中汲みを、という順番でもっていくのがいいのかもしれない。 一本のタンクの、荒走り、中汲み、責めを呑むことはまずないだろうから、今書いていることは観念的な話といって笑っていいことである。 さて、話は生ビールに変わる。 大きなアルミ缶に入っている生ビールは、缶の上の部分から出てきたビールと下の方のビールとは明らかに味わいが違うということをいいたかったのである。 最初に出てくる部分のほうが軽快な味わいが楽しめる。庵主もこちらの方が好きだ。 最後の方に出てくるビールの味わいは重いのである。重いというよりは苦みがかってくるのがわかる。 その部分のビールを飲んだ後に、新しく缶を替えてジョッキに注いだ一杯目の生ビールを飲んでみるとその違いが明瞭にわかる。 だから、この生ビールはちょっと味が濃いなと感じたときにサーバーの方に目をやると新しい樽(缶)に取り替えていることがある。 そういうときは、別に飲みたいわけではないが、フレッシュな生ビールの感動を味わいたくてついもう一杯頼んでしまうのである。 感動という言葉を気安く使ってしまったが、ここでは日常生活の中で起こったちょっといい出来事ぐらいの意味である。 |