「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成17年9月の日々一献


★どぶろく★17/9/21のお酒
 どぶろくは、むかしは家庭で造られていたお酒である。だから誰でも簡単に造れるのだが、いまはダメである。
 明治政府が、その主要な財源である酒税を確保するために徹底的に自家醸造を禁止したので爾来(じらい)許可なく酒を造ると犯罪になってしまう。いまでもそうなのである。
 自分のうちで飲むためのどぶろくぐらい自由に造ってどこが悪いと庵主は思うがそれが違法なのである。

 知らない人がいるかもしれないが、ちょっと前までは梅酒を家庭で造ることも違法だったのである。梅を課税酒であるホワイトリカーに漬けるだけで酒税法違反だったのだ。
 国税庁の偉い人もそれが違法だと知らなかったという。たまたまその高官が梅酒が好きだった人だったものか、あるいはそのお母さまが梅酒造りが好きでそのままでは我が家から犯罪人を出してしまうと心配したためか、梅酒造りを違法とするのはおかしいではないかというになって、いまでは梅酒はほぼ自由に造れることになった。
 ほぼと書いたのは、それでも本当は造った後に1%以上のアルコール醗酵があったときには違法になるからである。

 どぶろくの自家醸造も梅酒の製造後の醗酵も、いまはめくじらたてて取り締まりをしてはいないが、違法は違法である。
 アルコール醗酵を国がしっかり管理して独占するというなら、国が提供したアルコールで障害が起きたときは国は管理不十分だったということでその治療費は全額負担してもらわなゃきゃ間尺(ましゃく)に合わない。

 どぶろくに関しては、そのような事情からふつうは造ることができないので、それを飲んだことがある人が少ない。話に聞くと、どぶろくはうまかったという。
 あんまりうまいのでつい飲み過ぎて腰を抜かすことも多かったという。
 というのは、各家庭で造っていたものだから、造る人によっても味わいが違っていたのである。どぶろくは醗酵食品なので漬物同様、たとえぱ同じ沢庵漬けでも家々によって異なる味になるように、どぶろくもまたいろいろな味が楽しめたのである。味の違いは家付き酵母の違いか。そんな大袈裟なことでもないと思うが。

 そのどぶろくが売られている。
 「あさちゃんのどぶろく」である。500MLで税込1050円である。岐阜県の渡辺酒造の商品である。
 醪を濾していないので酒税法上は日本酒(清酒)にはならない。その他の雑種Aとなっている。発泡酒みたいなアルコール飲料と同じ扱いである。
 いわば規格外れの酒なのである。

 それで、そのどぶろくはうまいのかというと、まずくはないのである。とけかかった米粒が混じっているから舌ざわりからして甘い。いや、甘く感じる。
 きさくな味なのである。すっと飲めてしまう。たいしてうまいとは思わないが、それでいて、またちょっと飲んでみたくなる味なのである。一杯のつもりが二杯になってしまうのである。
 腰を抜かすというのもわかる気がする。腰を抜かすというのはついつい飲み過ぎてしまうということだから。
 そして、これなら自分でも造れそうと思ってしまう。自分で造った方がうまいかもしれないと酒を造る意欲がわいてくる。
 おっとっと、酒造免許を持っていない人はどぶろくを自分で造ってはいけないのだった。 


★今月の読書「和(な)の月」★17/9/14のお酒
 癌で若くして亡くなった蔵元がいる。その奥様が書かれた闘病記が「さいごの約束/夫に捧げた有機の酒『和の月』」(坂本敬子著・文藝春秋刊・1381円税別)である。

 本でもテレビでも映画でも難病物には人気がある。死んでいく人の気持のゆれが涙をそそるのである。
 普段は眠っている感情なので、自分にそういう感情があることすら気にしていない人間の心の内を、すなわち自分が秘めている感情の豊かさを、その起伏のうねりを、死と対峙した患者の行動を見ることで垣間見ることができるからである。
 また、とりたてて取り柄のない読者の「わたし、生きていてよかった」という優越感を確実にくすぐるからである。生きている人が勝ち組で、死んでいく人はどんな優れた人であっても負け組だからである。凡才でも俊才に勝てる一瞬だからである。これは気持がいい。
 庵主もとりたてて取り柄がないものだから、涙のこぼれる物語が大好きなのである。涙を流している自分を見て、自分という感情はたしかにここにあると確認することができるからである。
 「われ思う、ゆえにわれあり」といった人がいるが、庵主なら「われ涙する、ゆえにわれここにあり」である。
 生き続けたいという執念とそれがかなわないという現実のきびしさに運命の非情を見るのである。自分の力ではどうにもならないこと、それに納得しないわけにはいかないことがせつない。しかしそれが他人のことだから、安心して涙を流せるのである。

 癌の治療に関してはいろいろな治療方法の案(アイデア)があるようで、本書の中につぎからつぎに出てくるナントカ療法は、まるで患者の家族の気持を翻弄するために権威を誇るお医者さんが覇を競っているようである。こっちの水は甘いよ、である。その光景は、キャバクラのお姉さんたちが妍を競っているかのように庵主の目にはうつる。
 結局、最後は主治医の先生が患者の最期まで看取ってくれることで患者は心の安静を得るのである。
 なんてことはない。お医者さんはただ患者の最期につきそっているだけでいいのである。それがいい癌医なのである。それだけでいいのなら、庵主にも癌の医者はできそうである。なれるとは書かないが。
 それ以上のことはこと本書の患者に対してはすることができなかったということである。そしてそれができる人が癌科のいいお医者さんなのだろう。
 同時に、最期をお医者さんが看取ってくれたということで、その家族は一応の達成感を感じることができるのだから、それが生きていくささえになるのである。手の抜けない部分なのである。
 庵主には面倒くさくてできないことである。どうせ死んでしまうのだから、あとから骸(むくろ)に形だけ手を合わせておけばいいと考えてしまう。手を合わせるのは、ほんとうは、骸にではないのだが。
 医者というのは、おせっかいを銭に替える商売でもあるのだ。ようするに接客業である。技術を売っているのだとしか考えることのできない医者は、したがって人気がないということである。
 よく考えるまでもなく、病気はその本人が直すのだから、医者はその手助けしかできるわけがない。

 最後は肝臓と腎臓の機能が回復不能となって死を迎えるのだが、肝と腎をさして肝腎なところというのは本質をついている言葉だったのかと知る。
 最近の癌治療に関しては早期発見で早期治療の道も開けているのだろうが、同時に末期癌になるとその余命がある程度正確にわかるようになっているということがわかる。
 その間に施される、結局は無駄に終わる抵抗は、患者に対する気休めではなく、実は残される人に対するアフターケア(病後のおもいやり)なのではないのか。
 死んでいった人はそれでおしまいだが、あとに残された人たちの気持をどう納得させるかというのがそれらの治療法の本意なのかもしれない。できることは全部やったと自分を納得させられればあとに悔いを残すことはないからである。

 セカンドオピニオンという言葉がある。一人のお医者さんではなく第二、第三の医者の見立てということである。
 とくに生死がかかっているガン患者にとっては、溺れる者は藁をも掴むではないが生に繋がる治療法があると聞くと試してみたいのである。
 宗教に凝っていれば、神があなたを見放した、で心の整理はついてしまうのだろうが(この部分はイヤミである。いくら宗教に凝っていてもそんなことがあるわけない)、日本人は無宗教の人が多いからそうは問屋が卸さないのである。
 主治医にしてみれば、セカンドオピニオンというのは煩わしいものだと思うが、この本に出てくる癌のお医者さんはみんなそれを嫌がらないのだから、お医者さんが大人になったものか、著者がそのような軋轢があった部分は心の中だけに留めておいたものか、その点については推理小説を読むような興味を感じながら読めるのである。

 父親が癌であることを、子供たちには伏せておいたという。
 すると子供にストレスが発生したのである。母親はなにかを隠しているということが分かるからである。そして、それを母親に問いただしてはいけないという感じも分かるから、その葛藤が子供の心にストレスとなって体調の不調をきたしたという。
 お父さんはガンなんだよと、本当のことを話したら子供のストレスは治ってしまったという。
 家族が癌になったら、本人以外はその秘密を共有して嘘つきの共同正犯として行動したほうがいいように思える。
 もっとも、本人に嘘をつくことでそれをもっとも怒ったのは癌に冒されている蔵元本人だったのである。
 余命が短いことが分かっているのなら、それをはっきり言ってくれないと、あとの段取りができないではないか、と。

 亡き蔵元は造り酒屋の長男として生まれた実直な人だった。自分の病気よりも仕事の方が優先という生き方の人である。
 その蔵元が癌になってぼそっとつぶやく。
 「俺は今までなにも悪いことした覚えがないのに、どうしてこんな目に遭うんだろうな」。蔵元は四十七歳である。
 それは考えようによっては悪いことをしたことがないからである。
 悪いことをして道を踏み外した人は正道に戻るまでに無駄な時間をかけていることになる。悪いことをしなかった人はその分の時間がいらないから、まっとうに生きている時間は真面目な人も不真面目な生き方をしている人も大して変わらないというわけである。
 そうでも考えないと早死にする人はわびしいではないか。
 ほんとうはうまいお酒に恵まれて天寿をまっとうできるのが一番なのだが。

 そこで、お酒の部分である。
 亡き蔵元のお酒造りにかける姿勢がすがすがしい。
 こういう人がお酒を造っているのだと思うと日本酒がますますいとおしくなる。
 とはいえ、庵主は「月の井」というお酒を知らない。呑んだことがない。
 「月の井」は茨城県の大洗にある蔵元のようである。石高がどのぐらいなのかはわからないが、東京では見かけないところをみると、造ったお酒のほとんどを地元で売り切ってしまうのだろう。地元密着型の蔵元ならばそれはそれでいいのだと思う。地元に支持されるお酒をきちんと造るということが蔵元の本義だからである。
 全国展開して、さしてうまくもない似たり寄ったりのお酒をばらまくこともないのである。その手のお酒を呑んでもたいして面白くないのである。
 庵主が呑みたいのは個性のあるお酒である。うまいという個性があるお酒なのである。
 
 亡き蔵元はいつも言っていたという。
 「大吟醸が美味いのはあたりまえ。ふだん晩酌に飲めるような価格の酒が美味いという蔵元になりたい」と。
 まっとうな考え方である。
 米を6割も7割も削って造った罰当たりなお酒をうまいうまいと言って呑んでいるのは美意識が錆びている人たちなのである。
 原料米の70%も糠にして捨ててしまうという食い物を無駄にして造るような贅沢な酒には税負担を上げてもいいと庵主は思っている。
 普段酒(ふだんしゅ)をそれなりにうまく造ることができる蔵元が正しい蔵元なのである。
 ただし、本当にうまいお酒を呑みたいというときには、精米歩合は55%以下でないと賭けの要素が高くなるというのが庵主の実感である。

 亡き蔵元は、茨城の地酒を造ろうとしていたという。
 茨城県が開発した酒米「ひたち錦」と酵母「ひたち酵母」で純粋に茨城産のお酒を造る「ピュア茨城」の運動を率先して進めていた。
 いい米を他県から持ってきて、評判の酵母を買ってきて、有名杜氏を今の巨人軍のように大金で招聘して造ったお酒を、「やっぱり地酒は旨いねえ」といって呑むのは気恥ずかしいものがある。
 というよりもそういうお酒を地酒と呼ぶのはいまや当てはまらないのである。
 それはいうなれば競争酒(きょうそうしゅ)である。その世界の競争は厳しい。狂気の世界だと庵主は思っている。
 「ピュア茨城」は本物の地酒の実現だったのである。
 もっとも、新しい米・新しい酵母で最初の造りからすぐにうまいお酒を醸すことはできないだろうが、造りが慣れればいいお酒が出現することだろう。

 著者が亡き蔵元に捧げたお酒が「和の月」である。「なのつき」と読む。亡き蔵元の名前から一字とった和と「月の井」の月である。蔵元の死に間に合った有機栽培米を使って造ったお酒である。
 著者が有機栽培米を使ったお酒を造ろうと思ったのは、蔵元の癌が悪化したことで食事療法で有機栽培食品を意識して選ぶようになったからである。
 なぜいま造っている「月の井」は有機米ではないのか。有機米で造ったお酒なら体にいいのではないかという考え方からである。
 著者の提案に蔵元は、ではお前が自分で造ってみなさい、といったという。
 蔵元は、有機米で酒を造ったからといってことさらうまい酒ができるものではないということを知っていて、たぶん、妻である著者に贈る最後のプレゼントとしてそれを許したのだろう。
 庵主はそれをほほえましいと見る。

 実際に有機栽培米を使ってお酒を造るとなったら、米の手配からして大変なのだという。しかも有機栽培米を使って造ったことを標榜したお酒は多々あるけれど、「和の月」のようにそのお酒自体を有機食品として造ったものは少ない。
 認定機関からその認定を受けるだけでも相当のお金と手間がかかるという。
 庵主の経験では、有機米を使って造ったというお酒でうまいと思ったお酒はなかったので、有機米のお酒にうまさを期待することはないのだが、こんどの「月の井」の有機米のお酒はちょっと違っているのかもしれない。心がこもっているからである。
 もっともお酒は呑んでみないことにはわからないのであるが。


★「ザ イエローローズ オブ テキサス」★17/9/7のお酒
 馬鹿という言葉は今は使ってはいけないのだったろうか。
 盲は、放送などでは目のご不自由な人と言い換えているから、その伝で行くと、馬鹿は、頭のご不自由な人とでも言い換えることになるのか。
 それは不特定多数の読者を抱えるマスコミの読者対策なのだろう。というのも盲とかビッコという言葉を使うと、該当する人たちとかその団体から、それは差別用語だとか不愉快にする言葉だとかいう難癖を付けて苦情が寄せられるのでその相手をする煩雑を嫌ってのことである。面倒が起こりそうなことは最初から避けているというわけである。
 ところが馬鹿という言葉に関しては、馬鹿の団体というのはないから、また馬鹿は自分を馬鹿だと自覚していない状態だから、どこからも文句が来ないということでそのまま使ってもなんら支障がないようである。
 その点では一番使ってはいけないHAGEという言葉はなんと言い換えるのだろうか。軽髪(けいはつ)とでも言い換えるか。
 それを言われると一番心を傷つける言葉なのだが、表立ってそれに反対する人がいないから、統合失調症のような洒落た言い換え言葉が出てこないのである。

 バーボンバーで、庵主の馬鹿の一つ覚えである「ザ イエローローズ オブ テキサス」を頼む。
 それがうまいのかというと、それしか庵主は銘柄を知らないからである。この前に飲んだときにうまかったから、これなら間違いはないということなのである。
 炭酸で割ってもらったから、芋焼酎のように、バーボンの匂いはするが銘柄の違いまでわかるものではない。
 バーボンの甘い香りが好きだ。
 こんど飲むときにはちゃんとストレートでしっかり味わおうと思ったのである。
 そういえば、飲んでいて、もう一つ「オールドクロウ」という銘柄を知っていることを思い出した。

 芋焼酎はブラインドで出てくると銘柄がわからないという意見を読んだことがある。案外そんなものかもしれない。
 バーボンも庵主にはそれに似たようなものに思えるのだが、どんなものだろう。
 もちろんよく味わえば違いはちゃんと感じられるのだが、庵主は、バーボンには日本酒に求めるように味わいの違いを楽しむことを期待しないから、あの甘い香りがあればそれで十分なのである。

 だからバーボンについてのくわしい知識はない。
 わからなければお店の人に聞けばいいのである。
 ワインは呑むけれどワインの知識には興味がないという人がいた。飲み手がくわしくなったらソムリエのやることがなくなっちゃうからというのである。
 それが正しい酒呑み道であると庵主は納得してしまったのである。

 日本酒を呑みつづけていてわかったのだが、お酒との出会いは一期一会なのである。同じお酒を二度呑むことはほとんどないということである。
 二度と出会うことのないお酒のことをしっかり覚えていても、それを再び体験することができないのだから無駄なことなのである。
 その点、大手酒造メーカーが造る安定したお酒こそは再会の歓びが楽しめるお酒なのである。
 一方、自分でも二度と呑めない酒の話を語るこの「むの字屋」はかなり異常な世界だということである。
 もしこれ真面目に読んでいる人がいるとしたら、かなりあぶない世界に足を踏み入れようとしているのではないかと危惧された方がいいだろう。

 ではなぜ庵主は日本酒にのめり込んだのかというと、そのころ呑んだ日本酒がちっともうまくなかったからである。
 こんなまずい酒がなぜ連綿と呑まれてきたのだろうかという疑問を懐いたからである。
 そしてその頃、「今のお酒は三増酒であり、本物の日本酒ではないからまずいのだ」と啓蒙の書を読んだからである。
 その日から、その本物の日本酒を、うまいお酒を求める旅に出たのである。
 
 うまいお酒を飲みたかったからお店に聞けばいいのである。
 とはいえ、全然知識がないとどんな酒が飲みたいのかの注文もできないのだから、ニワトリが先か、卵が先かになってしまう。
 もちろん、まず先にいろいろ呑んでみるということである。

 さきのワインを飲み手は、それまでに飲んだワインでうまかったもののラベルを持っていて、これが私にはおいしかったのでそれに似たワインをくださいと頼むのだそうだ。
 庵主がバーボンを飲むときと同じである。ただ庵主はその銘柄をしっかり覚えているということだけが違う。もっともたった2銘柄だけだが。
 「ザ イエローローズ オブ テキサス」であり、「オールドクロウ」である。
 「何年ものにしますか」と聞かれたらもうその先は続かないのであるが。


★「而今」★17/9/1のお酒
 「獺祭」といえば、ちょっと読みにくい酒銘だが、「而今」もまた読めないという人が多い酒銘である。
 「獺祭」は読めれば一発で「だっさい」だが、「而今」は「じこん」と読むのか「にこん」と読むのかちょっと戸惑うからである。
 しかも意味もまた「いま現在」というのと「これから」というとり方があるからどっちなのだかこれだけでは分からないのである。
 酒銘は「じこん」と読む。
 意味の方はさてどっちかと「而今」を味わいながら考えるのである。
 
 三重の酒で「幻影城」を醸している蔵が、今年(16BY)から造りはじめた新ブランドが「而今」である。だからまだ出来立てのホヤホヤということになる。
 どういうお酒かというと、蔵の後継者が今年初めて醸して一造り目で全国新酒鑑評会の金賞を取ったお酒である。
 お酒はきちんと造るとまともな酒が造れるということである。
 業界ではそれをビギナーズラッキーというのだそうだが、宝籤や競馬の勝ち馬を当たるのと違って、そこには僥倖の部分が小さいから、今日の酒造は基本通りに造ればうまいお酒ができるのが当たり前だということなのである。

 それにしても、世にあふれているうまくもなんともない日本酒はあれは何なのだろう。どうやって造っているのだろう。
 きっとうまいお酒を引き立たせるためにわざとそのように造っているのだろう。
 どれもがうまいお酒ばかりだとしたらメリハリがなくてつまらないからである。主役を引き立てるためにそれらのお酒は脇役に徹しているのである。
 庵主はその手の酒は呑めない体質なのでそんなことはどうでもいいのだが、そういう酒に押されてうまいお酒が少なくなると困るから、必要以上にその手の酒の悪口をいっているのである。
 敵は本能寺にありという言葉があるが、庵主の真の目的もまた本能寺なのである。
 第一、ダメな酒にいくら文句をいってもよくはならないから悪口をいっても意味がないのである。うまい酒というのは最初から造りの気合が違っているのだ。
 両者は、たしかに酒質のよしあしの違いではあるが、いずれも現にこの世に存在しているものなのだからいうならば個性の違いなのである。よしあしで論じるとその取り柄を見落としてしまいかねない。
 安いお酒のおいしい呑み方というのもあるからである。

 いま、杜氏の代替わりが進んでいる。
 四天王などと呼ばれては一目置かれてきた名杜氏さんたちも若くはないのである。
 これまでお酒造りに磨きをかけてきた杜氏さんの高齢化による引退でお酒造りは若い後継者に引き継がれている。
 そういった若い人が造るお酒に注目したい。気に入った酒があったら贔屓にすればいい。
 贔屓のお酒を追いかけることができるのだから楽しい。
 一つのお酒を追いかけることでまたお酒がおもしろくなるからである。
 ちょうど相撲の世界で将来が楽しみな新弟子を追いかけてその出世を見守るような気分にひたれるのである。

さらにおいしいお酒が呑みたいとき、そして前月のお酒も呑みたいときは