「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成17年7月の日々一献


★七年熟成「冬樹」★17/7/27のお酒
 庵主の好みのお酒である「冬樹」(ふゆき)には実は4年熟成とか7年熟成というお酒が市場に出回っているのである。
 それらを売れ残りと邪推することもできないことはないが、それならそれで庵主はうれしい。「冬樹」のうまさを知る人はまだ少ないということを知って一人ほくそ笑むのである。うまいお酒をいつまでも呑みつづけられるぞというひそかな喜びがわいてくるからである。

 「冬樹」の熟成酒が呑みたければ、まとめて買っておいて、毎年1本ずつ呑むことにすればいいのだが、書物が横積みになっている狭隘な庵には酒瓶を置いておくだけの余地はない。
 書物が増殖するというのも、それが消尽しないからである。その点お酒はいい。いくらいいものを味わっても後(あと)に残らないから狭い庵を圧迫することがないというところがいい。
 小さな庵である。物をためこんでそれを後世に残そうという生き方ではない。お酒のうまさはそういう生き方に叶うのである。
 本当にうまいお酒を呑んだらちょっと元気になれるのがいい。

 呑んでしまえばなくなってしまいもう二度と出会えないということでは、お酒こそはまさに一期一会なのである。いいお酒なら出会ったときに呑んでおくことである。
 とはいっても、どれがいいお酒なのかはある程度お酒を呑んで見当がつくようにならないと判断できないわけで、「むの字屋」に通ってその勘を養っていただくしかない。
 うまいお酒を呑みたいと自分の意志を明確にすれば、いいお酒は向こうのほうからやってくるようになるということを断言しておく。
 まずは酒場に出かけていくということである。
 そうでなければ、うまいお酒が目の前にあってもそれに出会うことなく打ち過ぎていくのである。

 庵主なら、黙っていてもそこに目がいく「冬樹」の七年熟成は実に不思議なお酒である。

 呑むと、炭酸のまろやかさが楽しめる。熟成七年なのに搾りたてのお酒のような炭酸の快感を味わうことができるのである。
 七年といえば、おぎゃといって生まれた赤ん坊も小学生になる歳月である。
 長く眠っていたお酒を呑む時の、その液体にみなぎる時間の重みは心をゆたかにしてくれる。時間を目で見ることはできないが、それを口の中で感じることができる。過去の時間をいま一呑みするといういい気分に導いてくれるのである。

 冷えて出てきた「冬樹」は、酒質がしっかりしているのがわかる。はっきりいってかなり強い酒である。重い酒といってもいい。そのまったり感は、甘露を味わっているという充実感を喉にしっかり残してくれる。
 こうなると酒を呑むという感じではなく、庵主が行き過ぎてきた過去を振り返っているようなものである。
 もう記憶の隅に追いやられて思い出すこともなかった昔の思い出が不意に浮かんでくる。
 「冬樹」を呑まなかったらもう噛みしめることもなかった記憶が再現されて、その間の人生を二回やっているようでなんとなく儲かったような気がする。
 もちろん過去を繰り返すことはできないからそれは錯覚なのだが、うまいお酒は生きてきたことを改めて見つめ直す余裕をもたらしてくれるのである。
 「冬樹」の七年である。すこし酒温があがると、かくれていた熟成香が出てきた。しかしそれは落ち着いた味わいである。
 熟成の趣を感じて、いいお酒を口にするという贅沢な気分にひたることができるのである。
 「冬樹」の米はキヨニシキである。



★缶酒★17/7/20のお酒
 缶ビールというのは定番になってしまった。
 よくアルミ缶に口をつけてビールが飲めるものだと庵主は感心しているのである。庵主の写真の先生は異常なビール好きなのに、缶ビールは必ずコップに移してから呑んでいる。
 そしてそのコップは冷蔵庫の中でよく冷えているものを使うのである。

 コップを冷やして呑むというテクニックは日本酒を呑むときにも役立つ。酒は冷や(常温)でコップの冷たさで酒の味をしっかり味わいながら冷たい呑みやすさを同時に味わえるからである。

 缶酒である。
 燗酒ではない。アルミ缶に入ったお酒のことである。
 庵主はお酒は瓶でないとダメだと思っている。金属臭はお酒によくないのではないかという疑問がぬぐえないからである。
 酒に金属が溶け込む心配はないのかという邪推をしている。
 
 紙パックにはいった安いお酒が流行っているが、あれは箱の内側に貼っているフィルムが溶け込むという記事を読んだことがある。
 ビールのアルコール度数(5度)と日本酒の度数(15度)の違いも関わってくるのではないか。
 調べるのが面倒くさいので、疑問だけをばらまいておく。

 「ひのくち三光しぼりたて」を呑む。缶酒である。もちろん缶からグラスに移して呑む。
 まったりである。
 ちょっと独特の香りがある。純米酒などによく出る香りが出ている。その香りの正体が今の庵主はわからない。
 もっともその正体が分かってもそれを正しく伝えるすべはない。なになに似た香りといってもそれを読んだ人がその香りを思い浮かべることができないからである。
 その香りは庵主に経験によればいいお酒なのである。このお酒はアル添酒である。
 
 「蔵で生まれたての原酒」とある。
 たしかに味があると思ってあとから表示を見たら、なんとアルコール度数が20度以上21度未満になっていた。
 呑んでいてアルコールの高さを感じないのは、酒質がまったりしているからである。甘く感じるのである。
 200ミリリットル缶入りで325円である。度数が標準より5%も高いとその分酒税が高くなるようになっている。
 これは高納税酒なのである。お金持ち向けのお酒である。とはいっても200ミリリットル缶ならたいした負担にはならないのだが。

 特定名称は表示されていない。いい酒だと思うのだが、普通酒なのか。
 これが普通酒ならとんでもないうまい酒ということになるが、値段が一升換算で2925円である。相当なレベルのお酒なのである。

 表示が細かい。
 「生詰ですので冷でお早くお召し上がり下さい」
 「生酒ですので必ず冷蔵庫にて貯蔵願います」
 「お酒は20歳になってから」
 「お酒はおいしく適量を」
 「開栓には十分注意して下さい」
 「妊娠中や授乳期の飲酒は、胎児・乳児の発育に影響するおそれがありますので、気をつけましょう」

   お酒は岡山の「三光正宗」である。


★「越乃雪月花」17/7/13のお酒
 新潟のいわゆる淡麗辛口のお酒というのは、庵主にとって苦手なお酒である。
 まずいからというのではない。味がないからである。
 人はそれを、水のように呑める酒というが、庵主は最初から味のあるお酒でないとダメだからである。
 新潟の淡麗辛口のお酒というのは、庵主の好みの対極にあるお酒だということである。
 うまい料理を食べながら、お酒の味を気にすることなく呑み続けるには丁度いいのだろう。
 ただ残念なことに、庵主はそんなにお酒が呑めないのである。

 新潟の酒がどれも一様に淡麗辛口というわけではなく、庵主は例えば「鶴齢」とか「根知男山」などは呑んでうまいと思う。「八海山」も大吟醸になると呑める。
 「越の華」の大吟醸は庵主の心に残る一本である。新潟の酒でも庵主がうまいと感じるお酒は少なくない。
 そうはいっても新潟酒の印象は全体的にはやっぱり淡麗辛口なのである。もう一度いう。庵主には味が感じられないお酒なのである。
 もちろん新潟のお酒にも探せばうまいものがあることを知っているが、庵主はまず静岡のお酒に目がいってしまうからどうしても後回しになるのである。
 後回しになったお酒は庵主の酒量の限界からそこまでたどり着かないということなのである。
 だから、新潟のお酒を呑む機会は少ない。
 
 「越乃雪月花」というお酒がある。越乃とあるから新潟のお酒である。感じるところがあって呑んでみた。
 雪中熟成酒だという。雪を詰めた冷蔵倉庫を造ってそこに瓶燗したお酒を3か月熟成させたのである。
 普通に考えれば、瓶に詰めた酒なのだから雪の中で冷蔵しても、冷蔵庫の中にいれておいても保管温度が同じだったらどっちでも変わらないのではないかと思うが、雪中貯蔵と聞くとおいしそうに感じるのである。
 本当にうまいのか確かめたかったというわけである。
 商品名は「深雪の里」(みゆきのさと)である。純米吟醸と純米酒がある。

 「深雪の里」の裏ラベルには製造年月17.3、出荷年月17.7月と表示されている。
 以前にも書いたことがあるが、新潟のお酒は製造年月日の表示が見やすいものが多いので好ましい。そういうところに丁寧な仕事を感じるのである。
 製造年月日の印字はあっても、どこにあるのがすぐ見つからないものや、印字が読みにくいものを見ることが多いが、そういうのを見ると何のために表示しているつもりなのだろうかと中途半端な仕事ぶりにそのお酒の造りまで不信を感じることがある。
 新潟のお酒のように表示がはっきりしていると庵主はうれしい。紙箱にはいった「上善」などは箱の表面に製造年月日が書かれているからわかりやすいことこのうえない。もっともうれしくなるからそのお酒が好きかというと話はまた別ではあるが。

 「深雪の里」は出荷年月まで表示されているのだが、製造年月と出荷年月の違いがわかる人はどの程度いるのだろうか。
 庵主は最初、醸造年度と出荷年度を表示しているのかと思ったのである。
 出荷したのは今年だが、そのお酒を造ったのは、例えば2年前であって、これは2年間の熟成をへたお酒ですということを明示したかったのかと思ったのである。
 よく見たら、製造年月は05.3であり、出荷年月は05.7となっていて、その間はせいぜい3〜4か月だから、庵主が考えたような表示ではないことがわかった。その程度の熟成ならふつうの新酒とことさら異なるところがない。
 製造年月は業界の恒例によって、お酒を瓶詰した日付であることがわかる。

 食品の表示にある賞味期限と消費期限の違いがわかる人がどのぐらいいるのだろうか。その意味が理解されていないと、賞味期限が消費期限と誤解されるということも十分考えられる。
 もっといえば、消費期限は食えなくなる期限でないことはいうまでもない。余裕をもって設定されてるからである。
 日本酒に賞味期限や消費期限が印字されていないのは、ふつうの日本酒は早めに呑んだほうがいいのだが、中には時間が経過した方が味がよくなるお酒があるということからである。
 早めに呑んだほうがいいお酒とじっくり寝かせた方がうまくなるお酒の違いについては、一つ前に書いた「世界一旨い日本酒」の中にくわしく書かれているから研究されたらいいと思う。お酒に対する興味がいっそうそそられると思う。

 「越乃雪月花」の雪中熟成酒「深雪の里」の吟醸酒を呑んでみる。
 流麗な味わいのお酒だった。
 流麗というのは、きれいなお酒よりも少し下、水のように呑めるお酒よりずっと上といった位置である。
 「うまい」というお酒ではないが、丁寧な造りが感じられて好もしいお酒である。
 「越乃雪月花」という酒銘も美しいが、「深雪の里」の味わいもまた美しい。
 「とりあえずビール」という言葉があるが、その効用に似て「深雪の里」の味わいはこれからじっくりお酒を呑もうというときに、一杯口にすると、お酒が呑みたくなってくるさそい水のような呑みやすさとさわやかさを感じさせるすっきりしたお酒である。
 庵主にとっては、食前酒ならぬ酒前酒としてちょうどいい味わいだった。とりあえずビールならぬ、とりあえず美酒といったところである。
 品のよさを感じさせる味わいなので、呑んでいて気持がいいお酒である。
 見るとアルコール度数が15〜16度と加水調整されていたから、庵主には軽く感じたのである。
 庵主の好みとしては、もっと度数の高いこれの原酒があったら呑んでみたいのである。

 「越乃雪月花」の他の酒を呑んでみたが、淡麗辛口の新潟流の味わいだった。
 一度地元に行って、ご当地の日常料理を食べながら呑まないことにはその本当のうまさは分からないのだろうと思ったものである。


★今月の読書「世界一旨い日本酒」★17/7/6のお酒
 光文社新書から「世界一旨い日本酒」(古川修著・税込735円)が出た。
 長くうまいお酒を求めて呑み続けてきた呑み手が書いた本である。
 書いてあることは庵主の経験則とよく重なる。

 まずい日本酒が多いということである。
 でもまともなお酒を造る蔵もちゃんとあるということである。
 アルコールの添加量が多い日本酒には期待はできないということである。
 香りの強い酒は食中酒としては呑めないから、そういうお酒では量が呑めないということである。
 若い人が最初に出会う日本酒はろくでもない酒であることが多く、そのことが日本酒の衰退に大きく貢献しているということである。
 初めて日本酒を呑む人にまともな日本酒を呑ませたら間違いなくうまいという反応が返ってくるということである。
 そして、「開運」はうまいお酒の一つであるということである。

 そのほかにも、庵主が同調できることが数多く書かれている。
 うまいお酒を呑み続けると、似たような結論に近づくということである。
 世の中にはうまいお酒を呑みたいという人と、酔えればなんでも日本酒だと思っている人に二分される。
 いまどきバターとマーガリンの区別がつかない人がいるだろうか。
 普通車と軽自動車の区別がつかない人がいるだろうか。
 ところが、うまい酒とそうでない酒の区別がつかない人はいるのである。
 もっとも軽自動車なのにそれをあたかも普通車であるかのような売り方をしている酒造業界が一番悪いのであるが。それを許している大蔵省(今は財務省を名乗っているが)が巨悪の正体なのである。

 世の中には庵主のようにうまい酒しか呑めない人がいる。
 庵主はいつもそういう酒しか呑んでいないから、お酒はうまいものというのが当たり前だと思っているが、じっさいは日本酒と名乗るへんなお酒を呑まされて、日本酒に不信感を懐く人の方が多いということが実状なのである。
 おもしろくなければテレビじゃないといって、乗っ取り騒動で世の中を楽しませてくれたのはフジテレビだったが、それにならっていうならば、うまくないお酒は日本酒じゃないである。うまいお酒がいくらでもあるんだってば。

 庵主は体質的にうまいお酒しか呑めない故(ゆえ)にであるが、著者の古川さんは酒歴が長いこともあって、求めて旨いお酒を追いかけた人である。
 その間のお話は、戦後の日本酒の流れを概観することができるので大いに参考になる。
 また、数多くの、うまいお酒が呑める居酒屋を紹介している。これも役に立つ。庵主の贔屓のお店が増えそうである。

 この本のキモは、「生酒の常温熟成が旨い」という著者の経験から導き出された主張である。
 しっかり造られた純米無濾過生原酒なら、常温で熟成させておいても味が乗ってくるという。
 その主張には庵主もたしかに感じるところがある。
 「木戸泉」の元旦しぼりを常温で放っておいたのである。庵主は四合瓶を買ってきてもそれが呑みきれない。平気で残してしまう。
 半年を経て、そっけのない味にでもなっているかと思って呑んでみたらこれがいいのである。常温でその辺に置きっぱなしになっていたお酒がである。
 間の抜けた味になっていたら、お風呂に入れるところだったが、これは呑まずにはおけない力と艶が乗ったいい味になっていた。
 お酒は必ずしも冷蔵庫に入れておかなくてもいいということがわかった。
 
 冷蔵保管すると、熟成も遅くなるが、旨味が乗るのも遅くなってしまうという。
 では味が乗ってくるお酒はどいういお酒かというと、一つの目途として燗をつけてみて甘みが出てくるお酒なら常温で置いておいてもきれいに熟成するという。
 手抜きの目途としては、まともなお酒を造っている蔵元の名前を覚えておいて、その蔵が醸したお酒なら大丈夫だと判断すればいいのである。

 よくできた純米酒のような本だった。内容が示唆に富んでいるだけに、庵主にとっては熟成を増してさらにうまくなる生原酒のようにこれからもくりかえて読むことがができる味のある本である。うまかったのである。


★あれ、印象が違う★17/7/1のお酒
 千葉の御宿のお酒「岩の井」を呑む。
 目の前に「岩の井」が何種類かあったので結局それを全部呑むことになってしまった。
 好きなのである、庵主は「岩の井」が。
 
 いつから好きになったのか、もう記憶は定かではない。
 たぶん、初めて呑んだ「岩の井」が「大吟醸」だったのだろう。そのバランスのとれたうまさが庵主の好みに合っていたのである。
 香りがきれいで、呑むとほんのり甘くて、それでいて切れがよく、のどごしもさわやか、という清純スターそのもののお酒だった。
 第一印象がよかったので一目惚れしたのだと思う。

 その後も「岩の井」を呑むと、前に呑んだときのうまさを裏切らないうまさを呑ませてくれたから、「岩の井がうまい」という評価が庵主のうちに確立したのである。
 いつも期待どおりのうまさを呑ませてくれたからそれは信用となったのである。
 呑んだのは、「岩の井」の「大吟醸」→「大吟醸古酒昭和51年度仕込」→「純米吟醸一段仕込」である。

 「大吟醸」を呑んだときの印象が庵主の期待に比べて弱かった。
 「岩の井」の大吟醸は無条件にうまいという庵主の記憶がふくらんでいたのだろう。現実の「大吟醸」は、庵主が抱いているそのうまさに対する期待よりやや小さいところで一定水準以上のうまさをたたえていたのである。

 つぎに呑んだ「大吟醸古酒」の衝撃的なうまさについては別のところで書いたとおりである。期待する水準をはるかに越える味わいに出会って、庵主は一瞬それがなんであるかを認識できなかったほどである。

 最後に呑んだのが「純米吟醸山廃一段仕込」である。
 このお酒だけを呑んだときの酸味のうまさは書いたことがある。ところが今回「岩の井」の最後に呑んだところ、以前呑んだときの印象と違うのである。
 味が立っているのである。
 庵主がいう立っているという表現は味についての表現である。それがどういう味なのか伝える言葉が庵主にはまだない。だから庵主にはたしかに分かってるところのその味について書いているわけである。多分何かの成分の香りだと思うのだが。
 香りとか味わいはそれをうまく伝えることができないもどかしさが残るのである。
 酸味のよさは確かに感じるが、それよりも立った味わいが強く感じられたのである。
 いつもの「一段仕込」の地味な感じとはちょっと違う味わいだったということである。
 あれっ、こんな表情をすることもあるのかと、呑み手に個性を主張してきた「一段仕込」に意外な一面を見たのである。
 同じお酒でも呑むときによって味わいが変わり、またそのお酒自体が変わっているということもあるだろうが、お酒の味の違いが楽しめるようになると、お酒のとりこになってしまうのである。

さらにおいしいお酒が呑みたいとき、そして前月のお酒も呑みたいときは