「むの字屋」の土蔵の中にいます
 

平成16年9月の日々一献

★一合会(いちごうかい)★16/9/29のお酒
 お酒がほとんど呑めないのにお酒が好きな人がいる。あるいは呑まざるを得ない人がいる。量はいらない、ちょっとだけでいい人である。
 庵主は呑む必要もない体質なのに、ちょっとだけ呑みたいのである。それ以上は呑めないのである。
 ある酒席で庵主の隣に座った女性もそうだった。
 量は呑めないという。が、酒販店をやっているので、いろいろなお酒を呑まざるを得ないという。でも、おいしいお酒は好きだという。
 庵主も得たりと「そうそう、おいしいお酒をちょっとだけ味わうのがいいですよね。いくらでも呑めるというのが異常なんです。お酒は毒なんですから。毒を楽しむというのがお酒の魅力なんです。だから子供にはすすめられない。大人の世界なんです。酔っぱらうまで呑むなんてのは、売上を少しでも上げようともくろんでいる日本酒メーカーの差し金じゃないかな。そんな呑み方は。第一お酒に失礼ですよ。量をわきまえない酒呑みなんてのは、ブレーキが壊れた自動車のようなものですからね。ブレーキが壊れた車は、欠陥商品というより凶器といったほうがいい。お酒の場合だと人間ですから狂気といったところですか。アメリカの上流階級ではお酒を飲んで酔っぱらったらあからさまに軽蔑されると聞いたことがあります。もっとも日本でもそれを繰り返したら同じですけど。おいしいお酒をちょっとだけ味わうことができる自制心のことを教養というんですよね。私なんか、酒量がせいぜい1合です。それだけ呑めばもう十分。おいしいお酒ならそんなに量を呑まなくても心から堪能できますからね」
 「ああよかった。呑めない人がいることを知って。こういう会にこられる人はみなさんたくさんお酒を呑まれる方ばかりかと思っていました。お酒をすすめらたどうしょうと心配していました」
 「ここでは、お酒を無理強いされることはありません。みんな自分の酒量に応じて楽しんでいますから、自分のペースでお酒を楽しまれたらいいですよ。私などは仕込み水ならいっぱい飲めますが、お酒はせいぜい1合しか飲めません。それだけでもう十分にしあわせ気分になれますから」。
 「私も1合が限度。私たち、二人とも一合会の会員ですね」。


★亀の尾の17%★16/9/22のお酒
 酒造米の亀の尾(かめのお)を17%まで削って造ったお酒があるという。それを呑む会があるというので好奇心から出席した。あくまでも好奇心である。
 好奇心の一。米を17%まで削れるのだろうか。
 亀の尾は山田錦より粒が小さいと思うが、それを17%まで削れるとしたら、かなり小さい米粒になるはずだ。削った後の米は仁丹の粒より小さいのではないか。できればその米を見てみたい。会場に持って来るのだろうか。
 好奇心の二。17%まで削ってごま粒みたいになった米でお酒を造ってはたしてうまいお酒ができるのだうろか。酒マニアだましのたんなる下手物の酒なのではないだろうか。りっぱな容れ物と包装紙とで呑ませる値段の高いお酒のことである。
 好奇心の三。亀の尾という米は、蔵元の造りによって味わいが大きく異なる味わいの幅が広い米である。17%まで削って醸したという姫路の田中酒造場という蔵元のお酒は呑んだことがないが、相当こだわりのある蔵元のようだから、亀の尾でどんな味わいを醸し出したか興味がある。
 好奇心の四。その酒銘が「寿亀」とあるが読み方がわからない。「じゅき」かあるいは「ことぶ(寿)き(亀)」と読ませるのか。そのまま「ことぶきかめ」か。
 好奇心の五。いままで呑んだことがあるお酒で一番磨いたお酒は23%だった。「獺祭」(だっさい)である。精米歩合17%というのは新記録である。話の種にはなるだろう。他の人はまず呑んだことがない珍奇なお酒だからホラ話のネタにできるという楽しみもあるので、一度味わってみたい。
 といったところである。
 豪快な試飲会だった。会費が採算割れの金額だったのである。蔵元の出血サービスである。
 テーブルには一人ひとりの席の前にドーンと木箱にはいった純米大吟醸「寿亀」が並んでいる。四合瓶を一人一本ずつ呑んでくださいというのである。もし呑めなかった分はお持ち帰りくださいという。四合瓶は立派な木箱にはいって6300円とのこと。
 そのほかに、純米大吟醸「亀の甲」の精米歩合23%と同47%が用意されていた。酒代だけでも会費に相当する。それにホテルの特別誂えの料理がコースで出てくる。箸で食べるフランス料理である。庵主は、日本人に食わせるのにナイフとフォークを出してくるフランス料理屋には閉口しているが、このホテルはそれをとしないのがいい。食事をしながらの味見である。蔵元さんの気の入れ方がわかる。
 さて、17%のお酒の味の方である。
 グラスはワイングラスが用意されていた。グラスに注ぐ。香りには高級感がある。いい白ワインのような気配を漂わせている。香気は無色透明のグラッパのような気もした。呑んでみる。細い、線が細い味わいである。華奢な感じがする。よくいえば繊細といった感じである。
 クリスタルグラスのような透明感のある味わいだ。
 いい酒とうまい酒は違う、と思った。
 「寿亀」は「ことぶきがめ」と読む。ラベルにふりがなが書いてあった。
 「寿亀」はいい酒なのである。きれいなお酒なのである。そしてかそけきお酒なのである。常飲するお酒ではない。が、スポットライトが当たると俄然美しさに輝くお酒である。スターなのである。
 酒呑みなら、つい呑んでみたくなるお酒なのである。
 製造本数は450本だという。この本数では「ない」と同義語である。
 庵主の好きな手品の世界で、超マニア向けの種明かしの本の印刷部数は500部といったところである。それを何年もかけて売るのである。その数では手品の超秘密が部外の人に知られることはないという数なのである。450はそれより少ないのだ。超秘密のお酒である。よく言えば稀少、はっきりいって酔狂である。酔狂なのは呑み手の方のことである。
 庵主は「ない」お酒を呑んだのだから、これからは17%のお酒を話の種にしていつまでも楽しめそうである。
 ちなみに、17%まで削った亀の尾を見せてもらったが、直径が1ミリ弱のきれいな珠だった。米粒というよりは宝石をみているような美しさだったのである。


★「夢醸」★16/9/15のお酒
 石川県辰口町出身の「夢醸」(むじょう)が俄然うまくなった。
 五百万石で醸した純米吟醸の酸味のうまさは特筆に値する。庵主は、思わずウンウンと頷いてしまう。納得の味だからである。庵主が呑めるお酒だからである。
 香川の酒「悦凱陣」(よろこびがいじん)の酸味が剛(ごう)の味だとしたら、「夢醸」の酸味は柔(じゅう)のそれである。舌をくすぐる酸味である。
 日本酒に限らず、庵主が呑める酒は酸味がしっかりきいている酒であることを経験的に知っているから、「夢醸」を呑んで、うまいと感じた正体がそれであることを知って納得したのである。うまいお酒には理由(わけ)があるというわけである。
 酸味といっても、もっとそっけいな味わいのものがあるが、辛口を標榜するその手の酸味は庵主の好むところではない。
 酸味は感じないとお酒の味わいがさびしいが、かといって酸味がきわだってくると「どうだ、俺は酸をちゃんと出せるぞ」といったあざとさを感じてしまう。酒を呑んで、あれっうまいなと思ったときに、酸味がそれをささえていることがわかる程度でいい。
 それはちょうど女の人の化粧のようなものである。私化粧していません、というのも肌によくないけれど、化粧品会社の回し者のようなどぎつい化粧は鼻につく。中庸がいいのである。おっ、きれいだね、と思う程度が一番いい。
 もっともきれいなのは化粧ではなく、もとの顔のよさであるように、お酒の酸味も酒の造りがしっかりしているからこそそのうまさがきわだってくるというところもまた女の人の化粧に似ているのである。
 酸味はきれいな包装紙のようなものともいえる。
 商品を古新聞紙で包んでもいいけれど、昔の八百屋では古新聞紙でつくった紙袋にリンゴなどをいれてくれたものだが、今はいい紙にきれいに印刷された包装紙に包まれている。中身の商品の弱さを包装でカバーしたのではないかと思われるものさえある。中には過剰なまでに贅をつくした包装紙もあるが、なにごともバランスである。包み紙でだまされる人はいるかもしれないが、もともとひ弱な商品を過剰包装しても中身がよくなるというものではない。
 庵主は何年か前に「夢醸」の蔵を訪れたことがある。その時に呑んだ「夢醸」は今の味と比べていまいち洗練されていなかった。それが、いまは洗練されたいい味わいになっていたのである。
 往年は桶売りをやっていたから2000石を醸したというが、いまはそれをやめて300石に造りを減らしたという。そしてこれからは600キロ仕込みの小仕込みでお酒を造っていくという。
 大きい貯蔵タンクは人気爆発で増産中の焼酎の蔵元に売って、あいたスペースに小さいタンクを設置したという。本気なのである。
 この時呑んだ何本かのお酒にはしっかり気合が感じられた。ちょうど人気上昇中のタレントがなにをやっても輝いてみえるように、今「夢醸」は輝いているお酒である。
 「夢醸」を出すまえは「福の宮」という酒銘でやってきた蔵元であるが、この「福の宮」の大吟醸がうまいということも付け加えておかなければならない。
 「福の宮」の大吟醸があったら、ぜひ呑んでみてほしい。そういうタイプのお酒が実は庵主の好きなお酒だからである。


★酸味の誘惑★16/9/13の酒
 香川県の「悦凱陣」(よろこびがいじん)の純米吟醸「興」(読めない)を呑む。
 八反錦だという。八反錦といえば、庵主は「おきゃんな味わい」という言葉でその味を記憶している。
 色なら、緑と言えば多くの人がほとんど同じような緑色を思い浮かべるというのに、味わいについてはだれもが共通の味を思い浮かべる言葉がない。甘い、しょっぱい、という程度ならなんとか伝わるが、それからちょっと外れた味わいを正確に伝えようとするとだれもが共通の味を思い浮かべる言葉がないのである。
 まったりした味という表現が流行っているが、庵主も平気で使っているが、どんな味だか想像できるだろうか。お酒に関しては、甘口、辛口からしていい加減なのである。「辛口のお酒頂戴」と客に言われて+5のお酒を出したら「甘い」といわれたという話をよく聞く。辛口なのに呑んだときに甘く感じる味と、もろに辛口の、庵主に言わせたら厚みがないスカスカのおもしろみのない味わいの酒としかいえない辛口の味とを区別する言葉がない。だからお酒の味わいは微妙なお酒になればなるほど、その味わいを他人に伝える言葉がないのである。
 だから、庵主はそのお酒を呑んだときの第一印象で浮かんだ言葉とその味わいをつなげて記憶している。八反錦のお酒を呑んだときの第一印象が「おきゃんなお酒」だったから、庵主にとっては「八反錦」は「おきゃんな味わい」なのである。三人姉妹の性格でいえば末っ子の性格である。その味をおきゃんな味わいといっても他人にはどんな味わいだか思い浮かべることはできないだろう。八反錦のお酒を呑んだことがある人が、それを「おきゃんな味わい」と表現しているのを見て、そういわれてみればそうだと納得できることはあるかもしれない。しかし、八反錦を呑んだことない人には想像のできない表現なのである。
 その八反錦を使った「悦凱陣」の純米吟醸は、酸味のうまさが他の造りにくらべて一段と魅力的である。その酸味の美しさを味わいたいために、庵主はその店ではいつも「悦凱陣」を指名するのである。一度そのうまさに気づくとまた味わってみたくなる酸味なのである。技を感じる。
 だからといって「悦凱陣」が庵主の好きな酒かというと、そういうことはない。酸味に心ひかれることはあっても、全体の味わいとしては庵主の舌になついてこない薄情けのつれない辛口酒で、庵主が好む甘い酒ではないからである。なのに、それは悪女のような蠱惑的な酸味で庵主をたぶらかすのである。せつない。


★静岡のお酒を呑む日★16/9/8の酒
 毎年9月に開催される東京如水会館での「静岡県地酒まつり IN TOKYO」は年々参加者が増えて今年は500人を越えた。盛況である。酒呑みはよく知っている。うまいお酒を見逃さないのである。
 いまやその入場券はなかなか手に入らないことからプラチナペーパーと庵主は呼んでいる。
 静岡のお酒がドーンとまとめて呑めるから、静岡のお酒がうまいと思っている庵主にとってはトキメキの会である。と、同時に、適量がきわめて小さい庵主にとっては呑みたいお酒を心を鬼にして見送らざるを得ないという我慢との戦いの場でもある。
 「開運」「磯自慢」「初亀」「志太泉」などは呑まない。そのうまさを十分承知しているからである。東京で、いつでも呑めるということもあるから、会場では我慢するのである。「正雪」だけは我慢できずにちょっとだけ味わってみる。特別本醸造に技があった。庵主が呑める本醸造である。もちろんそれより上のランクの酒はうまいのに決まっているのでことさらいうことはない。
 会場を見渡して、最初に呑んだのは「花の舞」の純米酒である。山田錦ではなく、五百万石の方である。四合瓶で1029円とあった。昔呑んだときにこのラベルの純米酒が十分にうまい純米酒だったから、庵主はこの純米酒を静岡の宝と呼んでいる。うまいのに安いからである。味のセンスが現代的である。ライト&クリアなのである。うまさもたっぷりで、かといって味が重いということがない。この味が、庵主の好きな純米酒である。正しく書くと、庵主が呑める純米酒なのである。よって、贔屓のお酒なのである。
 が、翌年になってそのお酒を買ってきて呑んだら、最初のうまさが全然なかったのである。ていねいに造られているお酒だということはわかるが、それがどうしたというのだ。庵主が呑みたかったのは「うまい」という満足感なのである。最初に出会ったお酒は狂い咲きだったのかと心配になって庵主のそのときの称賛は間違いだったのかまず確かめたかったのである。親を心配させる子ほど可愛いというが、「花の舞」の純米酒はそういうお酒なのである。
 で、今年の純米酒はというと満足な味だった。四合瓶で1029円という値段が一段と輝いて見えた。値段の高い酒はうまいに決まっているのだから、そういうお酒のうまさはまた一つのうまさと知った上で、この純米酒のうまさに庵主は納得するのである。
 庵主は酒呑みではない。酒呑めず、なのである。はっきりいって酒を飲まなくてもぜんぜん困らない体質なのである。ではなぜお酒を口にするのかということについては別の時に書いているからそれを見ていただきたい。
 うまいお酒をただ一杯呑んだらもうそれで十分なのである。呑むほどに、お酒がうまくなってきて、あとはいくらでも呑めるという人とは違って、極めて安上がりな呑み方しかできない質(たち)なのである。
 最初の一杯で、「花の舞」の純米酒のうまさに心から満足したあとは、そのあとのお酒は静岡の酒であってもあえて呑むまでもなかったのである。
 全部は呑めないから、会場で出会った顔見知りの酒呑みに、印象に残ったお酒を聞きだして、それらを重点的に呑んで楽しんだのである。そして、仕込み水をたっぷり飲んだのである。
 直球が投げられない、いつも変化球の「小夜衣」とか、知る人ぞ知る酒、庵主にはうまいんだかそうでないのだかがよくわからない「國香」とか、「杉錦」の方もお酒もいいけれど、それよりも女の子に超人気のみりん「飛鳥山」とかをなめる程度に味わってまわった。「忠正」(ちゅうまさ)の山廃純米の味は、庵主が呑める山廃だった。
 一つ一つのお酒を語るとつきないのが静岡の酒である。だからおもしろい静岡の酒である。庵主が造ったわけではないが、「おいしいからまずは静岡のお酒を楽しんでごらん」と庵主はすすめるのである。


★「國香」というお酒★16/9/1の酒
 静岡に「國香」(こっこう)というお酒がある。造りは200石とか300石とかいう小さな蔵元のお酒である。
 それだけ小さな蔵になると、企業というよりも日本酒という文化を継承するための文化事業といったほうがいい。
 造られる量が少ないから、なかなかお目にかかることがないお酒ということになる。この手のお酒になると日本酒のマニアでも呑んだことがない人が多い。でも、いるのである。そういう小さな蔵のお酒を好む人達が。というより熱狂的なファンが。だれも知らないお酒を自分だけは知っているという優越感もある。そういう蔵は造り手の顔がよく見えるからいっそうのめり込んでしまうのである。
 そういう蔵のお酒は企業の酒ではないから、造りが一定していないというスリルがある。去年が俄然よかったので今年はもっとよくなったかと期待すると、そうはいかない。去年と同じ造りのお酒でも味わいがころっと変わってしまうことがあるから呑んでいて楽しいのである。
 で、「國香」であるが、うまいのかと聞かれたら、うまいと答えざるをえないお酒である。この場合のうまいというのは、個性を感じるという点でまともにお酒を造っているという納得感によるものである。うまい以上でもないし、うまい以下でもないということからそれ以外の返答は出てこないのである。
 うまいと同時にニガイのである。そのニガミをうまさの要素として認めることができるかということである。庵主の場合は、かすかなニガミ、渋みといったほうが印象がいいかもしれないが、ほんのり渋みがあるほうがお酒はうまいと感じるようになったのである。若い酒より一年ぐらい熟成したお酒のほうがうまいと思うようになってきた。だから「國香」の渋みはマイナスの要素ではない。ただ、もう少し寝かせておけば渋みも落ち着いて味のバランスがよくなるのではないだろうかという楽しみを感じさせるお酒だったのである。