「むの字屋」の土蔵の中にいます
 

平成16年7月の日々一献

★悪い噂★16/7/28の酒
 ある有名なお酒を呑ませてもらった。
 ある有名なお酒というふれこみだったが、呑む前にはそのお酒の名前は聞かされていない。ブラインドテストである。
 300ミリリットル瓶に小分けされたそのお酒は1998年のお酒だという。瓶にはラベルはなかった。
 呑んでみると、アルコールの気が強くて、ちょっと見にはただの本醸造のように思えた。クセのある本醸造といった感じか。味に奥行きが感じられなかったからそれほどいい酒ではないだろう。いわゆる辛口好きな呑み手にはきりりと感じられるお酒だろう。
 それだけ呑んで銘柄がわかるほど庵主は器用ではない。
 いつも書いているが、アル添なのか純米酒なのかさえわからないのである(わかるわけがないが)。原料米がなんであるかもほとんどわからない。酵母は何かとなったら、当てずっぽうにいっても当たったためしがない。お酒とはそういうものである。
 でも、うまい酒はうまいということだけは分かるのである。わかるというより、体が勝手にこのお酒なら呑めると受け付けてしまうのである。そういう酒がうまいのである。
 一緒にその酒を試飲した何人かの人たちも一様に、たいした酒ではないという感想だった。
 正体は、「波瀬正吉」である。
 それを聞いたときの庵主の反応。まさか、である。これが「波瀬正吉」か、である。酒の管理はどうやっていたのか疑問が浮かぶ。本当に「波瀬正吉」なのかという疑いも湧いてくる。
 庵主がうまいと思って呑んでいる「波瀬正吉」と違って、うまい酒にある最低の味の厚みが感じられない。アルコールの強さだけが感じられて深みが感じられないのである。
 「このごろ開運は造り過ぎで以前に比べて質が落ちているみたいだ」という声があがる。
 そういえば、最近の「波瀬正吉」は+7と表示されているが、庵主がうまいと思って呑んでいたころは+5だったと思う。最近のはより辛口になっているから以前のそれに比べると庵主にはいまいちうまさに欠けるとは思っていたものである。庵主は素直なので、名酒「波瀬正吉」がまずいわけがないと思って呑んでいるから、それはそれでもそれなりにうまいと思いこんでは呑んでいたのである。でも以前とちょっとちがってきたかなという印象は免れない。
 +7の「波瀬正吉」を呑んだときに、味が落ちたと判断するべきだったのかもしれない。かつて「波瀬正吉」を呑んだときにはほんとうにうまかったのである。庵主は、今際の際に呑む酒は「波瀬正吉」だと思い込んだほどである。そういううまいお酒を、つめたい口調で味が落ちたと断言するような人情味のない呑み方は庵主にはできない。というより、うまいという先入観でお酒を呑むと、なんとなくうまく感じるものなのである。酒のうまいマズイは呑み手の主観(思い入れ)が決めるのである。酒の客観的データーや巷間の噂が決めるものではない。
 客観的に呑んだら、ほかにいくらでもうまいお酒がある当今でも「越乃寒梅」は主観的にはうまい酒なのである。酒のうまさとはそういうものである。
 よく酒を知っているある酒屋さんも、開運は造っている量が多いから悪いとはいわないが、それよりももっと小さな蔵の意欲的な杜氏のお酒にいいものがあると言っていた。
 とはいえ、庵主が今年の正月に呑んでいた燗酒は「開運」の無濾過純米で、そのぬる燗に身も心もあたためられたものである。口にふくむと、ほっとしたものである。うまかった。
 噂は噂、酒のうまいマズイは自分で判断すればいいことである。
 そのお酒の味わいがうまいと感じる水準に達していれば、庵主はそれ以上にうまい酒を造れと強欲な要求はしないのである。


★日本酒フェスティバル★16/7/26の酒
 どんな商品にも流行というものがある。
 日本酒もまた流行という人の心のうつろいからはのがれられない商品である。
 人気の移り変わりといってもいいかもしれない。
 それまで全盛を極めていたお酒が、けっして品質が悪くなったわけでもないのになぜか人気がなくなるのである。サントリーオールドのそれをみるにつけ、往年の輝きを知っている庵主にとっては人の心のうつろいを一入感じさせられるものがある。
 ぎゃくにそれまでだれも知らなかった蔵元が突然うまい酒を造り始めて脚光をあびてもてはやされるものがある。「十四代」の出現にびっくりしたものである。お酒はびっくさせれば売れるという実例を示したのである。
 酒銘を変えて、あるいは別酒銘を造って売り込みをかける蔵元もある。
 タレントの人気と同じで、人気のあるタレントは輝いて見えるように、日本酒も勢いを得たお酒は輝いて見えるのである。日本酒の勢いとは、うまい酒を造るという気魄がこもっているということである。その気魄が見えるのである。
 そういう意欲的な蔵元がいま輝いているお酒を持って集まってくる日本酒フェスティバルが今年は7月25日に開催された。主催は武蔵小山にある居酒屋「酒縁川島」である。十人もお客が入るといっぱいになる小さな居酒屋の長い間の日本酒に対する熱意にうまい酒をつくる蔵元が呼応したのである。
 最近名前が出てきた注目の蔵元や、小さいながらもうまい酒を造る蔵元、そして造りにますます磨きがかかって呑み手をうならせるお酒を造る実力のある蔵元など、日本酒ファンならぜひとも口にしてみたい蔵元が53蔵が並び、それにお酒だけを出品してきた蔵元が31蔵加わり、合わせて84蔵の気になるお酒が一堂に会したのである。
 この日本酒フェスティバルは、最近の日本酒の流行と最新の日本酒のうまさを知るためにはぜひとも見ておきたいフェスティバルである。
 とはいえ、庵主には、こりゃ数が多過ぎて呑みきれないという思いが先に立つのである。
 酒は呑みたし、ただしうまいお酒をね、量は呑みがたい庵主にとっては、この夢のフェスティバルは、うまいお酒がそこにあるのに呑むことができないという悪夢のような会なのである。


★藤原ヒロユキのビールの本★16/7/21のお酒
 ビールに関して、この程度のことも日本人は知らされていなかったのかと思って暗然となるか、これまでは知らなかった世界が大きく広がるのだから楽しいことだと思うか、ビールなんかそこまで詮索して味わうまでもないと割り切ってしまうか。
 だいいち男が食い物とか飲み物のうまいマズイを口にするのははしたないことではないか。男は黙って腹におさめるものである。ほら、食い物のうまいマズイを口にする男は、なんとなく軽いでしょう。安っぽく見えるでしょう。堪え性のない軽薄な男に見えるでしょう。みっともないでしょう。嬉々として語るのを聞くにつけ、日頃ろくなものを食っていないその身の不幸を感じて哀れを催すのである。そばにいるだけで不憫を感じて悲しくなってくるのである。
 でもある程度の歳になると、はっきりいってまずい物が飲み食いできなくなるのである。量はいらない。うまいものを少しほしいと思うようになってくる。だから人間が飲み食いできるうまいものがどこにあるかということは生きていくためにも欠かせない情報なのである。たいして食べないものなのに、まずいものを食ったり飲んだりして生きつづけるということは精神的な苦痛なのである。うまいものがいかに生きていく力を授けてくれるものかを実感できるようになるからである。
 藤原ヒロユキの新刊「知識ゼロからのビール入門」(幻冬舎2004年7月10日刊・1200円税別)である。
 ビールが飲みたくなる本なのである。
 こんなにいろいろなビールがあったのかと知るとワクワクする。ビール業界はよくもこれまで人を騙してくれたものだという恨みが吹っ飛ぶほどに痛快である。ページをめくるたびに目が開かれる思いがする。その楽しさからは、著者のビールにかけた思いが伝わってくる。ビールにかけたというより、ビールの魅力にとりつかれたといったほうがいい。とりつかれたというより、そのうまさを知った喜びといったほうがもっとふさわしい。
 ビールはうまいのである。そのうまさを感じてほしいという気持ちがあふれているから、ついその気持ちに感化されてしまう本なのである。
 ああ、ビールが飲みたい。それも、うまいビールが、ね。


★たった四杯で夜も眠れず★16/7/14のお酒
 庵主の酒量はますます縮小傾向にある。
 ビールを飲んだのである。それもたった四杯。箕面(みのお)ビールのペールエール、よなよなエール缶、オルヴァル、サンルイのクリーク(さくらんぼ)である。
 これだけで肩に来た。
 ペールエールのニガミがなんともいえない。そのニガミがクセになる。最初はニガイと思って無理して飲んでいたのだが、いまはそのニガミが、ニガイゆえにやめられないのである。なんとなく麻薬にしびれているといった感じである。
 よなよなエール。夜な夜な飲みたいビールという意味なのか。庵主にとってはいま一押しのビールである。香りが美しい。うまいビールが飲みたいと思ったときに頭に浮かぶのはよなよなエールなのだ。それを思うに、庵主は実は酒を好んで飲んでいるのではなく、美しいものを口にすることを好んでいることが分かるのである。だから、庵主が好んで飲む酒は酒呑みの酒ではないのである。
 オルヴァル。ベルギービールである。修道院ビールである。こういう味わいを個性というのだろう。麒麟だかサントリーだか、アサヒだかサッポロだか、似たり寄ったりのビールでは味わえない世界である。もちろんだれが飲んでもおいしいというそれらのビールが悪いといっているのではない。この世界を知ると、それらのビールを飲んでもつまらないと思うのである。せっかくビールを飲むのなら飲んでうれしいビールを飲みたいと思うのである。
 ただし、庵主の場合はビールでも一杯しか飲めないので、たくさん飲めるビールでなくてもかまわないという前提条件があることを最初に断っておかなければならないが。
 で、最後はフルーツビールである。クリークである。クリークとはサクランボのこと。サクランボビールである。酸味の味わいがうまくて、飲めてしまうビールである。しかも瓶に入っているそのビールは容量が250ミリリットルなのである。
 庵主は飲み過ぎると肩凝りが出てくる。その肩凝りが度を越すと夜中も肩の凝りが気になって眠れないほどなのである。だからいつも呑む量は冷静に計って飲んでいるのである。酒呑みならそんなことはしないのである。
 この日はたった四杯で夜も眠れずだった。
 どんな酒でも二杯、が庵主の適量である。そのことを深く心に刻んだのである。
 うまいお酒を呑むと、お酒のうまさに負けてもう一杯呑みたくなるが、十分満ち足りているのに、貪欲にさらに贅沢を求めるというのは見苦しいと知るのである。
 知ってはいるのについ呑まなくてもいいもう一杯を頼んでしまうというのがお酒のいけないところである。
 「わかっちゃいるけどやめられない」。青島幸夫が書いた歌詞である。ご本人は今度の選挙(第二十回参議院選挙)でそれをやって老醜をさらしていたが、その歌詞(フレーズ)は炯眼だったのである。


★お酒はラベルを見ただけでどこまで味が想像できるか★16/7/7のお酒
 庵主は、いろいろなお酒を呑ませてもらったことからラベルを見ると大体の味が想像できるようになっているのであえてお酒を呑むまでもない、と書いたことがある。
 あたりまえのことだが、ラベルを見ただけでそのお酒の味がわかるわけがない。のだが、ラベルや瓶の姿形を見ているとなんとなくそのお酒に込められた気合が感じられるということなのである。女の直感ならぬ、酒呑みの直感が働くのである。気合のはいっているお酒がうまいのである。そういうお酒は外観にそれらしい雰囲気が感じられるのである。外観にだまされることも多いけど。
 ラベルの印刷代が高そうなお酒がうまいというものではない。また印刷ではなく、コピーでとったその場しのぎのラベルだからといって中身も手軽というものではない。そういうお酒はかえっていいお酒であることが多い。本数が少ないのでコピーのラベルですませてしまっただけのことなのである。
 では、お酒の味をどうやって想像しているかの一例を。
 「英君」の大吟醸の四合瓶を見つめてみる。
 まず、瓶の色は黒である。高級感がただよっている。蓋は瓶と同じ黒い色のプラスチック製である。
 表ラベルは黒い紙に銀色の箔を使ったものでこれまた高級感を醸し出している。
 蔵元が気合をいれて造ったいい酒であることがわかる。
 裏ラベルを見てみると、大吟醸斗ビン囲いと書かれている。精白は山田錦40%とある。酵母がM310。アルコール度数は16.5。酸度1.4。日本酒度+5。16.6とあるのは16年6月瓶詰の意味である。
 香りがいい、きれいなお酒なのだと思う。酵母がM310というのだから、明利酵母だろう。香りを立たせることを念頭においたお酒だということがわかるのである。酸度1.4と日本酒度+5ということだから、すっきりした味わいの無難なお酒になっていると思われる。
 多分、香りが高くて、味にはとくに欠点のない、丁寧に造られた大吟醸と庵主は判断するのである。あえて味わってみなくてもいいお酒だと思う。呑むまでもなくその雰囲気のよさは感じられるからである。おそらくは、気品はあっても米をよく磨いた分、線が弱くなった味わいのお酒だと予想するのである。
 実はこの「英君」大吟醸は、「第二回 究極の静岡吟醸を愛でる会」で、残ったお酒を一本ずつおみやげに持ち帰っていいということで貰ってきたものである。
 それで実際に味わってみることができた。残り物の一本だったから、悪く言えば会場では人気がないお酒だったともいえるが、残り物には福があるということもあるので頂いてきたものである。
 かおりは思っていた通りで、鑑評会の出品酒のようないい香りがする。そしてこれまた思っていた通り味はやわらかいのである。酸味がもっとキリッとしているとうまい酒といえるのだが、丁寧に造られた大吟醸という以上の印象は残らないお酒だったのである。


★一年の半分が過ぎて★16/7/1のお酒
 「秋鹿」純米吟醸 槽搾直汲。能勢産山田錦50%。超辛口とある。
 低温でしっかり保管されていたお酒なので炭酸ガスがまだ感じられて口当たりがいい。確かに辛口なのだろうが、よく冷えているのを小さいグラスで呑むと、辛口を感じることまでもなく、すうーっと呑めてしまう。「秋鹿」はうまい。
 「香月」とあるから画家の香月泰男を思い浮かべてカズキかと思ったら。コウツキと読む。「豊穣ノ香月」である。ほうじょうのこうつき、と読む。
 米が「ひとごこち」という長野産の米。50%磨いてある。封のシールも貼ってあって気合を入れて造ったお酒であることが窺われる。
 呑んでみる。普通のお酒でした。蔵元は大信州。もちろん手抜きのお酒ではないがお米がその期待に応えられなかったという感じである。
 お酒が冷えていたから、常温で味わってみるとまたちがう趣があるのかもしれない。
 「不老泉」の山廃純米。ラベルには「当社の山廃は仕込みに酵母の添加を行なっていません」というようなことが書いてあった。いわんとする意味が庵主にはわからない。蔵元に問い合わせてみたくなる不思議な能書きである。
 お酒の味は独特の味わいがある、個性的な味だった。舌に乗せたときに艶を感じた。
 6月30日。今年も1年の半分が過ぎた。
 庵主はこの半年、なにもしないでうまいお酒ばかり呑んでいたのである。おそらくいま一番贅沢をしている一人だろう。
 ありがたいことである。