「むの字屋」の土蔵の中にいます
 

平成16年5月の日々一献

★ちょいと一杯★16/5/26 のお酒
 渋谷で映画を見たあと、ちょいと一杯。
 「開運」大吟醸生。鑑評会出品用の単一タンク。庵主にとってはお酒はやっぱり波瀬正吉。一杯目はためらわず、まずそれ。その店はいい酒が揃っているから最初に波瀬正吉を呑んでもあとに呑む酒がないという心配がないからでもある。
 小さいグラスで、と注文すると60ミリリットルの日本酒グラスが小皿に乗って出てくる。例によって、そのグラスの八分目、いや九分目でお願いする。
 このお店は一杯が100ミリリットルと明示されているから、グラスからお酒をあふれさせてちょうど100ミリリットルといったところだろう。平皿にあふれたお酒は見た目以上に量がある。
 庵主はグラスの外側がお酒で濡れるのがいやだから、酒はグラス内にとどめてもらう。
 なにもいうことのないお酒である。どうでもいいというのではなく、体にすんなりしみてくる注文するところがないうまさだからである。
 不平不満は、満足できない状況で発するものである。体がすっかり満足しているお酒になにも言うことはないというわけである。
 2杯目は「小鼓」の「天楽」。
 きれのいい酒である。うまいとはいわないが、品のいいお酒であるのが気持ちいい。品がいいというのは快感なのである。だからいいお酒なのである。
 最後に、口コミで「まんさくの花」の「真人(まなびと)」。口コミというのは、庵主の前に座っていたお客さんの会話から「真人はいいね」という声が聞こえてきたのである。
 「真人」は生(き)モト[酉に元]の純米。
 評判どおりだった。前の席の客に感謝。味には生モトの酸の厚みが感じられる。酒質に深みがある。
 写真でたとえれば、速醸モトがデジタル写真の画質だとしたら、生モトはフィルム写真の画質である。写真を知らない人にいうならば、どちらも見た目はよく似ているのだが、味わいながら見ているとフィルム写真のほうになんともいえない深みを感じるということである。目で見たらほとんど変わらないが、心の目で観るとやっぱりフィルム写真の画質のほうが豊かである、ということである。
 ちょっとの違いなのだが、そのちょっとの違いがわかるようになるとうれしいものなのである。
 実用上はデジタル写真で十分、しかし心の底から満足したかったらフィルム写真でないと満たされないというわけである。
 選ぶことができるときには美しいもの、うまい酒を選びたいということなのである。それが高じるとうまくない酒や美しくないものは認めたくないということになるが、庵主は「差別」の根源は美意識にあると思っているから、そのことを必要以上に主張すると「差別」につながりかねないので、それもまた度を越すとよしあしだと思っている。なにごともほどほどにしておくのがいいのだろう。
 だから庵主は普通酒をけなすことはない。ただ好んでは呑まないだけなのである。
 仮に特定名称酒をうまい酒だとすると、その特定名称酒は日本酒全体の25%しか造られていないのである。世の中の75%の普通酒を声高に糾弾しても衆寡敵せずなのである。
 とはいえ、庵主はやっぱりうまい酒だけを選んで呑んでいるのである。
 ちょっと一杯だけのつもりが、つい3杯になってしまった夜。


★アル添酒の、限界を越えてしまった「能登乃国」★16/5/19 のお酒
 「宗玄」の試飲販売で、庵主が普段は口にする機会がない普通ランクの「宗玄」を呑ませてもらった。
 本醸造とは言っていた「能登乃国」である。
 いつもそうなのだが、庵主が呑んでいるお酒はその蔵元の上の方のランクのお酒とか、居酒屋さんが見つけてきた出色のお酒ばかりだから、いわゆる普通酒級の、地元で売られている「経済的な」お酒を呑むことが少ない。
 その手の値段が安いお酒がだめだといっているのではない。なんといっても、庵主はお酒の量が呑めないからそこまではたどり着けないだけのことなのである。
 さて、「能登乃国」だが、まいった。多分、その日は庵主の体力がかなり落ちていたものと思われる。一口呑んだときに、アルコールを感じてしまい、お酒の気魄が感じられなかったからである。ひさしぶりのアルコールっぽいお酒だった。アルコールを入れすぎるとお酒の気魄が薄まるのだろう。気魄が感じられないお酒は庵主には呑めないのである。
 そういえば、試飲販売で呑ませてもらうお酒というのは、なぜかうまいと思えないことのほうが多いということに思い至ったのである。
 あれはどうしてなんだろう。
 今回の「宗玄」にしても、庵主が日本酒の話をするときに使っているお酒なのである。うまいお酒の例として呑んでもらうお酒なのである。それなのにこの試飲販売で呑んだお酒にはとくに印象が残っていないのである。
 同じ「宗玄」とはいっても、庵主が普段飲んでいるクラスのお酒がうますぎるということなのかもしれない。
 一度だけ、試飲販売で「天覧山」を呑んだときはうまいと思ったことがある。予備知識がなくてさして期待していなかった蔵元のお酒がうまかったときに、その意外性がうまいと感じるのかもしれない。
 なんの気なしに呑んだ「正雪」のうまさに、うれしくて涙を流しそうになったことは以前に書いたことがある。あれも意外性のうまさだったのだろうと思う。
 庵主にとっては、「宗玄」は当然うまいお酒だからその期待以上の味が出てこないと満足できないということだったのだろう。
 しかし、この前の「常きげん」も「司牡丹」も、居酒屋で呑むときは迫力を感じるのに、試飲のときはそれが感じられなかったということは、やっぱり不思議なのである。
 答えは意外なところにあって、昼間っからお酒を呑んでいるからなのかもしれない。
 お酒は夜になってからじっくりと味わうのが一番うまいものらしい。いや、けじめとして昼間から酒を口にするものではない。
 ちなみに庵主の飲酒時間は午後6時から午後10時までである。ただし時にお酒がうまい時は、時計をとめてしまう場合もあるけれど。呑まずに我慢している時間があるから、その日の最初の一口がうまいのである。
 結論である。うまいお酒を呑みたいのなら、ちゃんとしたお酒を置いている居酒屋で呑むのがいちばん安上がりである。


★K氏の注文★16/5/12 のお酒
 そのビヤホールで、ピッチャー[大型のビール差し]でとった生ビールの味がへたっていたのである。
 炭酸ガスの元気がなくて麦汁(ばくじゅう)の苦みだけが重く感じられた。さわやかビールではなく、渋い味のするビールだったのである。
 庵主はその生ビールにいま一つ物足りなさを感じながらも、室温の関係でこんなものかなと妥協して飲んでいた。
 と、一緒に飲んでいた生ビールに関しては一家言のあるK氏がウェイター[給仕]を呼び止めて声をかけた。
 「この生ビール、炭酸ガスが通常よりも弱く感じるんです。調べていただけませんか」
 それを聞いて庵主は意を強くした。やっぱりこの生ビールは弱いビールだったのだと自分の舌に自信を得たのである。なり注(成行が注目されます)である。
 ややあってサーバーを確かめに行ったウェイターが戻ってきた。
 「確かめましたが、圧は正常でした」と。
 で、K氏「そういうことをおっしゃるからダメなんです。実際あなた方がビールを飲んで確認してみてどう感じましたか」。
 本当かどうかはわからないが、アルコール度数が高いスピリッツ類を常飲する人は性格が荒くなる傾向があるのに対して、ビールを飲むと性格が穏やかになる傾向が見られるということを読んだことがある。ビール好きのK氏はそのせいか口調はいたって穏やかである。
 「ビール販売に携(たずさ)わっているわたくし達が、このガス圧が物足りなくておかしいと申し上げているんです」
 実はK氏は、そして庵主と一緒にそのビールを飲んでいた人達はビールを提供する立場の人なのである。
 「ガス圧計が正しいとおっしゃいますが、わたくし達の官能検査で、このビールは通常の満足度を満たしていないと指摘しているので、他の銘柄のビールと比較するなり、生樽と瓶ビールを比較するなりしてから判断していただけると納得できますね」
 ウェイター曰(いわ)く。
 「ピッチャーに生ビールを注(つ)ぐと、その時点でガスがある程度逃げて、瓶ビールよりもガス圧が少なく感じられるから、普段飲んでいるビールよりもガス圧が低く感じられると思います」
 ウェイターは規定通りなので自分にはどうにもできないという反応だったのでK氏はそれ以上はなにも言わなかった。要するに言ってもわからないということを悟ったのである。
 最近読んだビールの本によると、加熱殺菌していないビール(要するに生ビール)とそれを加熱殺菌したものとを飲み比べてみても味わいはほとんど変わらないと書いてあった。生ビールがうまいと感じるのは、案外、生ビールの生という文字に幻惑された錯覚なのかもしれない。
 庵主は、ビールを呑むときは、選択肢があるときには無条件で生ビールを選んで飲んでいるのだが、加熱殺菌をしたビールであっても炭酸ガスの案配がよくてほどよく冷えているものならば、今うまいと思って飲んでいる生ビールとたいして変わらない味なのかもしれない。
 ただ、生ビールのうまさは炭酸ガスの微妙な違いにその秘密があると庵主はにらんでいる。
 と書いていると、またうまい生ビールが飲みたくなってくる。あのいくら飲んでもすいすいと体に入っていく、気持ちよく喉元を通りすぎていくうまい生ビールが。
 K氏は、喉につかえた生ビールを叱ったのである。うまい生ビールはうまい状態で出すのがお店の責任であることを教えようとしていたのである。苦いビールで、そのことを飲み込んでしまったのである。


★なぜ女に酒を呑ませてはいけないか★16/5/5 のお酒
 一つ前の話題から読んでください。
 妊娠中にお酒をぴたっとやめられるだろうか。授乳期の期間までお酒を断つことができるだろうか。
 「妊婦の飲酒が原因の胎児性アルコール症候群の深刻」という記事が雑誌『選択』の2004年4月号に載っていた。
 『選択』というのは、あえて読むまでもないが一度読みはじめるとわざわざやめる気も起こらないという連用性のある点ではまるでお酒みたいな雑誌である。
 記事の文章が締まっているので要約のしようがないから引用させていただく。
 「NPO法人アルコール薬物問題全国市民協会は、ビール酒造組合や日本洋酒酒造組合等の酒造酒販関連団体に対し、FAS(胎児性アルコール症候群)予防のため、酒類の容器と広告に『妊娠中は飲酒をやめる」よう警告表示をつけることを要望した。」とある。
 平成12年の調査では、妊婦の18.1%が妊娠中に飲酒をしていたとのことである。  同協会が昨年開催したシンポジウム(問題提起講演会)では「特に胎児の脳に与える影響の深刻さは、多くの参加者に衝撃を与えた。」という。
 妊娠中に母親がアルコールを飲むと、それが胎児の脳に悪影響を与えるというのである。
 だから、「今後妊婦の飲酒は大きな社会的な問題となってくると予測されているなか、酒造酒販関係団体がどう対応するか注目されている。」というのである。
 タバコみたいに、ラベルの30%強の面積を使ってFAS障害児の不気味な写真でも貼り込むのだろうか。
 サントリーを例にあげて申し訳ないが、例えば、「妊娠中にマグナムドライを飲むと、あなたのかわいい赤ちゃんの脳を爽快に刺激して、松井選手のようなメリハリのきいた顔のゴジラと呼ばれる赤ちゃんになりかねません。赤ちゃんのしあわせのために妊娠中の飲酒はやめましょう。母乳で育てられるお母さまは授乳期間中も飲んではいけません。授乳期間が終わったら思いっきり呑みましょう。マグナムドライを心ゆくまで。その間はマグナムドライが売れなくてもかまいません。あなたの赤ちゃんが心優しい子供に育つようサントリーはあなたの子育てに協力します。」といったところだろうか。
 タバコの外箱にいくら気持ち悪い写真を貼り付けても、タバコ中毒患者はタバコをやめることがないように、酒もその程度の忠告を貼り付けたところではやめることはできないのである。
 酒を断つなんていう努力をすることはないのである。女ははじめから酒をたしなまなければいいだけのことなのである。
 先進国では、子供を産もうという女性が減っているという。酒を呑む女性が増えているという。もう子供を産むことが喜びではなくなっているのである。本来なら子供を産んだほうがうれしいはずだが、そうではなくなっているということに、女の直感が働いているのではないかと不安になってくる。すなわち、人類の未来を信じられなくなっているということなのである。女の飲酒がやけ酒なのではないかと心配になってくるのである。


★酒売れて人滅びる★16/5/3 のお酒
 昨年(2003年)の9月1日から、酒類販売の小売免許の制約が緩和された。それが規制緩和だというのだから恐れいる。どこの馬鹿がそんなことを考えたものかご尊顔を拝見させていただきたいものである。
 今タバコの規制がどんどん厳しくなってきている。
 こちらのほうは何の目的で誰が言い出したものか分からないので不気味な動きではあるが、大方、時々禁酒法などのヒステリックを起こす国からの風なのだろう。酒タバコと不健康の双璧として並び称されている一方のタバコはパッケージに見ただけでも気分の悪くなる病変写真を印刷したりして一生懸命になって規制(=いやがらせ)を強化しているというのに、もう一つの悪であるお酒がいちだんとお買い求めなりやすくなりましたといのうは均衡を逸しているのではないか。
 規制緩和といって不意打ちのようにバサッとやるものだから、週刊新潮 2004年2月25日号の記事によると)縄張り(販売区域の調整)が廃止された9月以降、酒販店の店主の自殺がじわじわと増えているという。これまではお上のお墨付きによる縄張りによって食っていくだけの売上があったものが、そこいらのコンビニなどでやたらにお酒が売られるようになったので太刀打ち出来なくなり首が回らなくなったのである。
 そういう酒販店はこれまで独占にあぐらをかいてお酒の勉強をしてこなかったからそのツケがいま回ってきたのだという冷静な見方もあるが、そもそも酒をもっと売れ売れと税収の確保目当てに規制緩和などという言葉を口走った人達が間違っているのである。
 では9月からだれでもお酒が売れるようになったのかというと、当面は競争が激化して酒類販売の秩序が乱れないように販売規制地域を指定して、そこでは酒販売の許可をしばらくは出さないという。最初からそういう規制をするのなら、なにも規制緩和なんかする必要がなかったのである。
 今は子供の数がどんどん減っているから、飲酒適齢期の大人男の数も当然減ってくるわけで、消費者の数が減る中でこれまで以上に酒を売ろうとすると、飲ませてはいけない女子供に販路を求めるしかない。タバコがそれをやって顰蹙を買っているのである。
 酒もまさしくタバコと同じ道を行こうとしている。コンビニの酒売場を見ると、アルコールの怖さを知らない子供たちに売りつけようとしているのだろう、ジュースと見紛うようなパッケージにはいったアルコール飲料が並んでいる。
 酒タバコはストレス解消に安上がりな必要悪だという見方もあるが、酒タバコの税収よりも、その後遺症で治療にかかる費用(すなわち健康保険から病院に支払われる金額)のほうが数倍から十数倍多いという試算額がある。余談ではあるが、この試算額というのがどうもいかがわしいのである。以前、東京都が世界博の中止を決めたときの賠償金の試算額は実際に払われた金額の数倍だったことがある。厳正なお仕事をされる役所にしてもそれだけの誤差が出るほど試算額というのはアヤシイ数字だということである。
 税金で得しても、その数倍の健康保険料が出ていくから、社会総体でみたらかえって大損であるということである。酒タバコの常用者を減らしたほうがいいというのである。
 アメリカにおいては酒の販売を禁止するとギャングがはびこったように、タバコも禁止すると麻薬屋が儲かるようになっている。だから飲むなということはできる相談ではない。禁止したほうがかえって社会的な弊害が大きくなるからである。
 とはいえ、酒とタバコは目先の税収のために規制を緩和して売りまくればいいというものではないと庵主は考えるのである。
 庵主はタバコについては吸わないのでわからないが、お酒に関しては「こんなうまいものを(若い)女子供に呑ませるのは勿体ない」と思っている。子供からパチンコを取り上げた大人の思いと同じである。おいしいものは大人のもの、という考え方の持ち主なのである。


★原理主義者★16/5/1 のお酒
  古(いにしえ)の人が考えたことを踏襲することに生き甲斐を感じている人のことである。
 前の人がやった通りのことをやればいいのだから、自分では何にも考えなくてもいいかららくちんな生き方である。よく言えばどうでもいいことに頭を悩ますことがない合理的な生き方なのである。
 凡人が、多少頭を使ったところで、たいした智恵が出るわけではないという覚めた生き方である。すくなくても、庵主に関してはそれがぴったり当てはまる。
 キリスト教原理主義者とかイスラム教原理主義者とか呼ばれる人達は敬虔な人ということになっている。敬虔とは、事に当たって別の見方からの対応ができない頑固と同義語である。一つの性格は両面から評価できるということである。それが人間の生き方なのである。その反対面が見えるようになるということが大人になるということなのである。お酒の呑み方においてもまたそうなのである。
 主義者というのは、一方の面を強調するだけの片端者のことである。だから傍(はた)で見ていると薄っぺらに見えるのである。ただし、のめり込むと己(おのれ)が神になるのである。だからこれは一番強い生き方である。もうひとつただし、一番味気ない生き方でもある。世の中の半分を切り捨てた生き方だからである。なにごとも残りの半分の方がおもしろいからである。それを毒と呼ぶときもある。
 「酒は百薬の長」という。同時に「酒は命を削る鉋(かんな)」ともいう。どちらが本当なのかと詮索することはない。紙に表と裏があるように、表裏一体なのである。表面(おもてめん)しかない紙はない。神もまた、悪魔(ご宗旨によってその呼び方は異なる)といった反対面を同時に持ち合わせているのである。東洋の陰陽で一対という考え方もそれと同じことを言っているのだろう。無というのは、なにもない状態ではなく、陰と陽とが均衡している状態だという。無が有しているエネルギーは高いという。なるほど、である。
 キリスト教やイスラム教などは親切なもので、ちゃんとした聖典があって、生活事万端、嫉妬殺意一切、その処し方を指南しているという。庵主はさいわいその手の本は苦手なので委細は知らない。そんなものにしたがっていたら当面の生活ができなくなるからである。今時テレビは見られない、自動車には乗れないというのが原理主義者なのである。何分古い時代の本だから、神様もテレビや自動車を知らなかったからである。ご宗旨の神様はその程度の先までは見通せないところの全知全能だったのか、そうなるまで被造物を生かしておくつもりではなかったものか。テレビを見て、車に乗っている原理主義者を庵主は笑って見ているのである。益体もないことだ、と。とりわけパソコンなんかは神に抗(あらがう)う冒涜の道具だろう。いま庵主はそのパソコンで文章を書いているのである。古典に則っていたらこんな楽はできない。
 ご聖典にはどこにそれらの便利なものを使っていいと書いてあるのだろうか。できるけれどやってはいけないことを制しているのがそれなのに、それらのご宗教の原理主義者はすでにありがたい聖典の掣肘を振り切って逸脱したご託を述べている変わり者としてしか庵主には見えない。口には出さないが見苦しいと思う。それはまたカッコイイということもできるところがものごとの二面性なのである。シンプルなのがいい。片一方から見ていたのでは本当のところは分からないのだ。
 聖書はただで配っていることがあるから、何度か見たことはあるが、コーランは今だに見たことがない。見たことがないという点では、庵主は歌舞伎も見たことがない。庵主の生き方とその手の本との関わりはその程度のものだということである。大方の日本人にはおよそ接点のないイラクにわざわざ遠征して猛暑を楽しみに行っている自衛隊員がいるが、庵主には酔狂なこととしか思えないのである。
 ただほど高いものはない、という言葉があるが、以前新約聖書をただでもらったことがあることを思い出した。そのいかかがわしさを、いやいや、血わき肉おどるその面白さを教えてくれる人が身近にいなかったから、その本は庵主の血肉となることなく、どこかでいま静かに眠っているはずである。捨てた記憶はない。いまの庵主にはさいわいそれは捨てるほどの価値もないものでしかないのである。日本人の多くがうまい日本酒を知らずに死んでいくように、庵主もまたどこかに埋もれているそれのうまさを知らずに死んでいくことだろう。酒に興味がない人にいくらうまい日本酒を教えてもお酒に対する見方が変わることがないように、その手の話に興味がない庵主にはそういう世界もあるのかで終わってしまう事柄にすぎない。
 おもしろいことに、彼らの入信勧誘の語り口が、庵主がうまい日本酒を勧めるときの話の進め方と同じであることを知って、勧誘を受けながら可笑しさをこらえるのに苦労したことがある。同時に、庵主がやっているうまい日本酒の世界への誘(いざな)いを「布教」と呼んでいることがあながち間違いではないと知るのである。
 日本酒にも原理主義者がいる。純米酒絶対主義者のことである。日本酒は昔からの米・米麹で造ったものだけが正しいとする人達である。
 戦後長く続いた三増酒にウソを感じて真っ当な道を目指した人達である。アル添の日本酒は邪道であるとする規矩(きく)が明確な人達である。基準がしっかりしているのである。
 庵主も、うまい日本酒を呑んだことがない人に真っ当な日本酒を進めるときの語り出しは純米酒原理主義者である。「日本酒には純米酒といううまいお酒がありましてね、いまの日本酒の多くはアルコールを混ぜて造られているから、そういうお酒を呑んでいたのではいつまでたってもうまい日本酒に出会えないんですよ」と、それが半分はウソと知りつつ相手の無知に付け込んで誑(たぶらか)し始めるのである。まずい純米酒をいっぱい呑んだことがあるというのに。
 アル添の日本酒でもいいじゃないか、という人から見ればまさに頑迷というしかない人達である。偏屈といいかえてもいい。現にアル添のお酒がほとんどなのにいまさら純米酒絶対を叫んでも、もうもとには戻らないというわけである。
 アル添は日本酒造りの進歩でもある。第一、現在呑んでいる日本酒自体、昭和に入って竪型精米機が造られるようなってから洗練されてきたお酒なのである。江戸時代の日本酒と比べたら過剰品質といっていいお酒である。世の中変わっているのである。もっと融通をきかせたほうがうまいお酒が呑めますよというのが大方の見方なのである。
 純米酒原理主義者はカッコイイが、時としてうまいものを逃してしまうということである。これ宗教でも同じように思える。