「むの字屋」の土蔵の中にいます
 

平成16年3月の日々一献

★「利休梅」というお酒★16/3/31 のお酒
 大阪のお酒というと、いま庵主がすぐ思い浮かべるのは「呉春」ぐらいしかない。「秋鹿」があるでしょう、と言われてああそうだったとやっと気がつくほどである。その二つで終わりである。
 大阪は池田といえば灘、伏見と並んで名醸地として名を馳せたほどだからもっと知られたお酒があってもよさそうなものだけど、大阪のお酒というのは庵主には印象が薄い。地元で呑まれることが多いので東京まではやってこないのかもしれない。
 が、大阪に、庵主の直感に触れるお酒があったのである。「利休梅」(りきゅうばい)である。うまい酒ができあがったという風のたよりを耳にして電車賃をかけて呑みにいってきた。
 一つはイギリス人のフィリップ・ハーパーさんが造ってあっというまに売り切れたと聞く「和く輪く」というお酒。そして搾ったばかりだという山廃の純米。これはまだ瓶に貼るラベルがまだ出来上がっていないという。さらに横道杜氏の純米大吟醸である。
 年間の造石量が200石だという。よく1000石以下の蔵元が小さいながらも気の行き届いたお酒を造る蔵として紹介されているのを目にするが、200石というとその中でも小さい方の蔵元なのである。大手の蔵のお酒はうまくないと一概にはいえないように、逆に小さな蔵元が造るお酒だから必ずしもうまいとは限らない。小さい蔵元のお酒がなんでもうまいとは言えないものの、大手の無個性なお酒に比べると味わいのあるお酒が多いということである。中にはまずいのが個性という場合もあるけれど。
 お酒のうまいまずいは杜氏の力によるところが大きい。蔵元と杜氏がどれだけきちんとお酒造りをしているか、なのである。だから蔵に訪ねて行くということは、その酒を呑み行くというより、そのお酒を造っている人に会いに行くというのが本当のところなのである。
 「利休梅」は蔵内にある無垢根亭で振る舞われた。
 いいお酒である。気品がある。華があってもでしゃばることのない味わいである。そして生きがいい。造り手の気合が伝わってくる味である。要するにうまいのである。はっきりいって、うまいといってもこれこれがどうだからああだからこの酒はうまいのだといえる確たる理由はない。口にしたときの総合的な味わいがうまいのである。うまいという評価についてはただ庵主の好みを信じてもらうしかない。
 そりゃそうである。美人の、目だ、口だ、鼻だのを論じてもしょうがないのと同じである。全体が醸し出す雰囲気が美人なのである。お酒も、米だ、麹だ、酵母を語ることはできるけれど、呑んだときの全体の雰囲気がうまいのである。
 庵主は「利休梅」に十分に満足した。電車賃の元をとって帰ってきたのである。


★「鎮国之山」本醸造★16/3/27 のお酒
 「鎮国之山」(ちんこくのやま)は静岡の富士高砂酒造の本醸造酒である。
 同じ高砂の「あらばしり」と「中汲み」とこの「本醸造」を呑み比べたときには、あきらかに前二者には及ばない酒だったが、しかし、このお酒だけを口にしたときには実にいい酒なのである。お酒を呑んでいるという味わいがある。味が複雑なのである。お酒は呑む順番も大切ということでもある。
 この時に同時に呑んだ特別純米(磨き60%)の「点睛」のあまりにもストレートな陰のないすっきりした味わいや、改良信交で仕込んだ精米歩合60%の純米「あら玉」が買ってきてから少し室温で置いておいたものだからヒネを感じる味わいになっていたのに比べて、「鎮国之山」は清楚な気品と陰影のある味わいを感じさせてくれたのである。
 庵主は、日本酒の話をするときに、分かりやすくするために、あえてアルコールを添加するようになってから日本酒の堕落は始まったと言い切ることから始めているが、では純米酒がすべてうまいのかというととんでもない、純米酒よりうまい本醸造酒がいくらでもあるのだ。だから、話の最後に、アル添の酒は邪道だという考え方にとらわれてはいけないと結ぶのである。酒のうまいまずいぐらい自分の舌で確かめてみろ、と突き放すのである。
 「点睛」は庵主が好きな酒のベストスリーに上げる大吟醸の「蘭奢侍」を醸している岐阜の玉泉堂の酒である。また「あら玉」の改良信交の大吟醸は燗で呑むとそのうまさが口中に広がって冬場の幸福を味わえる数少ない燗をつけるとおいしいお酒を造っている山形の和田酒造の酒である。
 それに互して、いやそれ以上に豊かな味わいで舌を楽しませてくれるのである、「鎮国之山」の本醸造は。


★はんなりとくっきり★16/3/26 のお酒
 映画を見たあとで立ち寄ったお店。
 「月の桂」(つきのかつら)の純米吟醸「柳」が目についた。まず、それ。
 「月の桂」といえば、今のようにうまいお酒があふれている時代と違って、庵主が呑めるお酒を探すのが一苦労だった昔は「大極上中汲み」のにごり酒が出てくるのが楽しみだったものである。だから庵主は「月の桂」を見ると条件反射的に昔が懐かしくなる。
 その「柳」である。ただし酒銘の柳の字は異体字である、ツクリの卯の左側の部分がタの字になっている。
 庵主の期待を裏切ることのないいいお酒だった。おだやかな酒だった。
 品がいいのである。うまいとかまずいとか感じるお酒というのは自己主張が強すぎるのである。そういうわかりやすい酒もいいが、こういう品のいいお酒はそれとは違う意味でうまい酒である。上品な味わいのお酒にめぐり会えるとうれしくなってしまう。上品は気持ちがいいからである。とっても。
 京言葉に「はんなり」という言葉があるが、この味わいがそのはんなりなのではないかと思い浮かべていた。
 「國香」(こっこう)の純米大吟醸があるというから次はそれだと思ったが、売り切れたとのこと。
 よくあることである。庵主の目がいくお酒は、他の酒呑みもよく知っているのである、なかなか手にはいらない酒だということが。先に気がついて呑んだほうが勝ちである。本数が少ないお酒だから呑まれてしまったらおしまいということである。
 静岡の酒なら「喜久醉」(きくよい)の大吟醸があるという。じゃあ、ためらわずそれ。
 これはくっきりした味わいの見事なお酒だった。まず、酒の元気がいい。酒が舌の上にしなだれてくるのではなく、まるで舌の上にお酒がゼリーのような感じで乗っているような感触なのである。お酒を口に含んだときに立体感を感じる。瓶から注がれた酒が生き生きしているのである。
 「柳」の静かに沸き起こってきて心にじわーっとしみてくるうまさとはちがって、「喜久醉」は口の中で弾むようなそしてまろやかなうまさなのである。
 いずれも日本酒のうまさを堪能させてくれる気魄のこもったお酒だったのである。


★本醸造の実力★16/3/24 のお酒
 「宗玄」山田錦/無濾過/生原酒/本醸造。
 うまいのである。最初にこの一杯が出てきたら、庵主はもうほかの酒を呑む必要がない。この一杯で十分である。そういうお酒である。満足しているときにそれ以上になにを求める必要があるだろうか。だからこれ以上書くことはない。うまい、のである。
 これで書き終わるとちょっと短いので、呑みながらお酒に思いを巡らせる。
 精米歩合は60%である。精米歩合が60%なら吟醸酒の磨きに相当する。庵主が大好きな精米歩合である。酒は60%磨いてうまい酒がいい。それ以上に磨くときれいな酒ができるのはわかっているが、米が勿体ないと思うからである。
 「それ以上に磨く」と書いたが、こまかいことを言うと、精米歩合だから「それ以下に磨く」と書くべきか。精米歩合は数字が小さくなるほどいい酒になるからである。でも「それ以上に磨く」というのは、その水準を越えてという意味だから、実体は精米歩合をそれ以下に磨くということなので、文意からいえばこの表現で間違いではない。
 実は、60%の精米歩合というのは大方のお酒においては味わいがいまいち物足りないというお酒が多いのである。ああ、呑むのは最初からもっといいお酒にしておけばよかったということが多いのである。
 が、当たるとすごい。60%でもうまいお酒が現にあるのだからうれしい。精米歩合60%のうまいお酒というのは、庵主の仮説ではなく、現存する事実であることがちゃんと証明されているのである。
 千葉の「岩の井」の60%、石川の「宗玄」の60%と、庵主の確信を裏付けてくれるお酒を知っているのである。
 でも、安全を見越して60%の酒は避けたほうがいいというのが庵主の実感である。もう一杯別のうまいお酒を呑みたくなるようなやっぱりいま一つ何かが物足りないお酒が多いからである。


★あやや★16/3/17 のお酒
 松浦亜弥、あややである。17歳だという。エプソンのプリンターのCMで、お母さんはマやや、お父さんはパやや、おばあさんはばややということも知っている。
 とってもチャーミングな女の子である。電車の中で、広告写真の中で缶コーヒーを手にしている美女に目をひかれたが、その素敵な女の子がなんとあややだった。子供には見えなかったのである。藤原紀香のような吸引力がある。写真のうまさもあるけれど、モデルが発している気に引き寄せられたのである。人を引きつける魅力がある。まだ若いのに。そういう子もいるのである。
 人の気持ちを引きつける「気」というのは人間だけでなく物にもある。お酒にもあるのだ。居酒屋で酒祭りを見たときに、その酒銘を目にしただけで心ひかれるお酒がある。もちろん、気を感じるのは飲み手の感性なのだが。
 庵主は、経験的事実の積み重ねによる客観的即断を直感とよんでいる。直感には長い時間をかけて培ってきた根拠があるというわけである。人や物が持っている気に反応する感性は、同様に経験的事実の積み重ねによる主観的即断である。ようするにこれはいい、これが好きという反応である。その反応を引き出す魅力をあややも麗酒(れいしゅ)も持ち合わせているということである。その魅力の本質についてはここでは書かない。わからないからである。
 さて、凄いのはそのあややが歌う歌である。リズミカルなメロディーが軽やかに進行するのだが、しかしその歌詞に意味がないのである。庵主はまずそのメロディーのテンポが早すぎてついていけない。ついていけないから覚えられない。また歌詞に意味がないから覚える手がかりがない。歌だと思ってはいけないのだろう。形式は歌ではあるが、それはただのリズムの表現なのである。気分の表現なのである。言葉はいらない世界なのである。
 そういえば酒も似たようなものだと思う。あややの歌がその時のノリという気分を楽しんだあとにはなにも残らないように、一期一会のお酒を呑み切ってしまうと口にした時の気分は文字に認めることはできるがお酒の実体は残らないのである。むなしい世界に遊んでいるのである。
 この手の歌を聞いている世代は、年をとってからいま聞いている歌を思い出すことがあるのだろうか。心配することではないけど、なんだか可哀相な気になってくる。
 あややが歌う歌は流動食みたいなものなのである。まともな食い物ではない。たぶん栄養として残る歌ではないだろう。
 ちょっと前に一世を風靡した、安室奈美恵の歌を書いていた小室哲哉の歌はいまは残っているのだろうか。
 庵主は呑んだ酒の気分を書き記しているのである。まるであややが楽しげに歌を歌っているようなものである。お酒はもう残っていない。いまとなってはそのお酒を呑んだときの感激は再現することもできないのである。


★企画の妙★16/3/10 のお酒
 先だって庵主が日本酒の話をしたときに出席された方に呑んでもらったお酒は「宗玄」(そうげん)の純米酒である。その山田錦と雄町と八反錦を味わってもらった。磨きはどれも55%というお酒が手に入ったので、お米の違いによる味わいの違いを楽しんでもらったのである。
 中にはお酒を呑まないという人もいたが、ためしに試飲量程度のお酒をちょっとだけ味見してもらったら、「お酒もお米がちがうとこんなに味がちがうものなのですね。私にもわかりました。おもしろい経験をさせていただきました」という感想を述べられた。
 普通は同時にいくつかのお酒を味わってみるということはしないから、呑み比べてみるとふだんは気にしていないお酒の違いがわかるというおもしろい経験ができる。
 市販されているお酒を呑み比べてみるということでお酒の違いに興味をいだいてもらえるなら、それがきっかけとなってお酒を選択する範囲が広がることになるから、呑み手にとってもこれほど楽しいことはないだろうと庵主は思っている。そんなめんどくさいことする気はないよ、という人もいるだろうが。
 そういう輩には、「好奇心のない人は長生きしません。いや、いまのように長生きする時代には好奇心がないとからだがもちませんよ」といって脅かすのである。
 「日本酒を楽しみましょう。呑めない人は庵主のようにほんのちょっとだけでいいから味わいましょう。日本酒はわが国が誇る文化なのです。これを酔っぱらうための飲物だと思っている人はまだまだ文化的に開拓の余地がある人です。日本人の物造りの精華であるお酒を知っているということが日本では大人の教養なのです。日本酒はそれほどに幅が広くて奥の深い世界なのです。今日はじっくりと日本酒の深い味わいを味わってみてください。特に今日は同じ杜氏さんが造った米違いの純米酒を味わうという滅多にない機会ですから、ここに居合わせた幸せをしっかり味わってお帰りください」とお酒の世界に誘い込むのである。
 別に米違いのお酒でなくてもいい。同じ杜氏が造ったランク違いのお酒を呑むとか、同じ県のお酒でもいいのである。お酒を呑み比べる楽しさというのを味わってもらいながら、今の日本酒の品質について悪口をいっぱい話しているうちに、酒の話が日本の水事情と食料事情の話にうつり、やがてアメリカの占領政策と現状分析の話になり、教育基本法改正の話をはさんでわが国の行く末の話に発展して、火星には水はあったが酒はあったかという話に行き着くのである。
 その頃には、みんなもうすっかりお酒がまわっているから庵主が口にする半分どこまで本当かわからない話に引きずり込まれて会場は盛り上がるのである。要するに酒の肴には悪口がいちばんいいということを知るのである。
 会が始まった時にはほとんどの人が初めて出会った人達ばかりなのに、講演が終わり車座になって話が始まると、話はさらに盛り上がって終了予定時刻になってもそれで終われるわけがなく、みんな終電の時間を気にしながらも話がつきないのである。
 お酒はキッカケなのである。普段は、真面目に物事を考えていればいるほど思っていることを聞いてもらう機会がないから、こういう場で言いたいことを人に聞いてもらうということで気持ちがスッキリするからおもしろくて帰れないのである。
 いつも庵主がお世話になっている静岡県富士市の酒販店「酒舗やまざき」が富士高砂酒造と提携して、あらばしり・中汲み・責めの3種類のお酒を呑み比べてみませんかという企画を立てた。そう、そう、そういう企画を立ててくれると、庵主は飛びつくのである。そういう呑み比べもなかなかできないからいい企画である。お酒を楽しく呑んでもらうためのアイデアである。
 この三つのお酒を庵主の写真の師匠のところに持ち込んで呑んでいたら、「いつもは日本酒は呑まない」という女の人が飛び込んできて、「あらばしりはおいしい。これなら私にも呑める。でもあれはアルコールくさくて私やっぱりダメね」といって四合瓶のあらばしりをあらかた一人でうまい、うまい、といって呑みきってしまった。
 あれとは本醸造で、山廃純米のあらばしりと違ってたしかにアルコールを感じる味わいではあったが、しかしそれはよくできている本醸造だったのである。


★「ドラフトワン」★16/3/3 のお酒
 ビールのようでビールでないアルコール飲料、サッポロビールがサントリーのお家芸をうばった怪商品「ドラフトワン」を初めて飲んでみた。
 キリン「クラシックラガー」350ml入り缶ビールが183円の「なんでも酒やカクヤス」で「ドラフトワン」の同容量缶は118円だった。味わいを云々(うんぬん)しなければ安いのである。果汁10%の缶ジュースより安い。
 ビール好きの庵主の写真の師匠が、発泡酒は平気で口にするというのに、「ドラフトワンはまずい」と断言したのである。そういうのが庵主は大好きである。即席ラーメンが、食いすぎると体に悪いとか、人間の食い物じゃないとまで言われているのを聞くと庵主はつい食べてみたくなる。やっぱりうまくなかったのである。その追体験がほろにがい。体力がないときには食えない代物である。零落してもまずいものはやっぱりまずいということである。もっともそれしか食えないときには背に腹はかえられないが。
 その「ドラフトワン」であるが、庵主の想像力では、まず炭酸ガスとビール香料、それに色はカラメルで苦みは香辛料ならぬ苦み料などを混ぜて、うま味を出すために隠し味として味の素を少々いれてアルコール分を5%加えて作った合成ビールではないのかと思っていた。
 原材料を見ると、「ホップ・糖類・エンドウたんぱく・カラメル色素」とある。醸造アルコールとは書かれていないからアルコール分は醗酵させて造ったようである。カラメルは当たっていた。糖類の正体が知りたいのである。もちろん麦芽を使っていないのでビールとか発泡酒には該当しないから「雑酒」である。「ビールもどき雑酒」とでも書いてビールの部分を大きい文字で書いておけば、ビールのイメージを借りることができるのだろうが、缶にはただ「お酒」と書いてある。同じ大きさの文字で[生]と書かれているのがおかしい。缶入りのジュースに意味ありげに「生」と書かれているものがあるだろうか。
 庵主はテレビを持っていないので見ることができないが、「ドラフトワン」のテレビコマーシャルはそのアルコール飲料を何だといって売っているのだろうか。「ビールの紛い物ですが貧乏人のために作りました。だから値段が安いのが取り柄です。あなたが飲むのにふさわしい新商品です」とはまさかいえないだろうから。広告会社の語り口を聞いてみたいものである。ものはいいようの技の冴えを見てみたい。
 戦時中じゃありまいし、物資豊富で飽食の日本において、代用ビールのそのまたニセモノを会社をあげて開発しようとする業界の志の低さに唖然とするのである。いや、滑稽を見ている気分なのである。日本ってそれほど貧乏な国だったのだろうか。いやいや、「ドラフトワン」はこれから貧乏人がどんどん増えるぞという先取り商品なのかもしれない。
 ところが、その「ドラフトワン」がけっこう飲めるのである。ただし、ビールだと思って飲んではいけない。炭酸ガスが強く感じられる。ビール様の搾汁に発生した炭酸ガスというより、炭酸ガスをそれで薄めたという感じの味わいである。
 「ドラフトワン」が出てきたことで、日本酒の説明がしやすくなった。
 「ドラフトワン」は普通酒である。そして、純米酒がビール、本醸造が発泡酒だといえば、おおまかな日本酒の構造を理解できるだろう。
 ただし、「ドラフトワン」に相当する普通酒が全体の約75%を占めているということだけはビールとは異なっているのである。


★そんなこと俺はきいてないぞ! ★16/3/1 のお酒
 「dancyu」というのは、その日本酒特集がお酒の流行を左右しかねないほどの影響力がある料理雑誌である。だんちゅう、と読む。男子厨房にナントカから男厨である。いまは日本酒より焼酎のほうが元気がいいから、そのうち、男が呑む焼酎だから男酎だということになるかもしれない。雑誌は機を見るに敏でなくてはならないからである。
 その「dancyu」の3月号の特集「会心の日本酒」に、今年から米から造った酒なら、精米歩合が70%以上でも精米歩合をちゃんと表示しておけば純米酒と名乗ってもよくなったと書いてあった。
 純米酒というのは、米と米麹で造ったお酒でアル添不可、しかも精米歩合が70%以下で、かつ3等米以上の米を使って造ったものをいうと長く覚えていたから、業界の都合で定義を変更するときにはキチンと周知してくれないと困るのである。しかも精米歩合というのは酒の品質を左右する重要部分ではないか。
 外国産の米を使って造っても「米(外国産)」と表示しておけば純米酒なのだろうか。米から造ったアルコールを添加して造った場合も原料はすべて米だから純米酒と呼んでいいのだろうか。米糠を醗酵させて造っても原料は米だから純米酒と表示していいのだろうか。そういうことは「dancyu」の記事からはわからない。
 要するに、純米酒の定義をどのように変えたのか、呑み手である庵主は全然聞いていないのである。純米酒の高邁な思想が心変わりしたことだけはわかる。
 もともと米だけで造られていた日本酒に原料不足からアルコールを添加するという品質低下が容認されたのは戦時中のことである。それにならって、今年は自衛隊のイラク派兵という戦時体制だからということで純米酒が品質低下を図ったものか。
 次回の「dancyu」の純米酒特集のタイトルはきっと「改心の日本酒」だろう。