「むの字屋」の土蔵の中にいます
 

平成16年1月の日々一献

★大当たり★16/1/28のお酒
 「開運」無濾過純米生酒(「軽く一杯」に掲載)の燗のうまさについて、お酒の味わいは女性にたとえるとわかりやすいという経験から、それにそって書くとこうなるという例。

 「開運」無濾過純米生酒の燗酒がうまい。久しぶりに庵主の口に合う燗酒にめぐり会えた。大当たりである。
 「開運」の無濾過純米生酒を熱燗にすると、あたたまったお酒にほどよい甘味が感じられる。それは甘酸っぱいといったほうがより正確なのかもしれない甘美なぬくもりである。燗酒のうまさは、酒のよしあしよりもまずこのぬくもりの心地よさに、そして気がつくとなんとお酒ではないかという仕合わせ感にあるのではないか。燗酒のうまさは女の子に感じる仕合わせ感に似ているのである。燗酒にしてうまいお酒が少ないというところも。
 冷やで呑むお酒のおいしさは、口の中で表情を変えていく味わいが呑み手の想像力をかきたてるところにある。冷や酒を舌の上にのせると、それまでつぼまっていたお酒が口の中で温められることによってふわっとふくらむのがわかる。その感触の変化がお酒に対する想像力を刺激して自分の心の中に描いたうまさがひろがりそれがお酒の味わいの厚みとして感じられるのである。うまいお酒は心で呑んでいるのである。悪酔いするのは体で酒を呑んでいるからなのだろう。
 燗酒はそういう想像力をかきたてる部分がなくて、温めることによって化粧をぬぐったお酒の顔をそのまま見るようなものだから相当地顔と性格がよくないとうまいと感じることがないのである。化粧をしていたときには隠れていてわからなかった性格の善し悪しが燗をつけることで繕うことができなくなるからである。
 多くのお酒は、温めると冷やで呑んだときよりも味わいが薄っぺらな感じになる。燗をつけてうまくなるなら燗酒もいいが、いまのお酒は冷や(常温のこと)どころか、文明の利器である冷蔵庫で冷やして呑んだときにうまいと感じるように造られているからなんでも燗をつければ「からだ」にやさしいというわけにいかないのである。お酒の造りの変化は化粧の上手な女の子がふえたのと軌を一にしている。
 いまの日本酒は文明開化した酒なのである。電気文化依存型に変質してしまっているのである。女の化粧の仕方が進歩したように、お酒もその身形(みなり)もまた時代の流れとともに当世風に変わっているのである。だから、今のお酒は突然燗を付けられると味がとまどうのである。その戸惑いを舌が感じるから、燗酒を呑んでもうまいとは感じないのである。
 とはいえ、この寒中には、酒は温めて呑みたい。酒で体をあたためたいのである。心にぬくもりがほしいのである。女の子のやさしさにひたるようなひとときにほっとしたいのである。酒に感じるうまさも女に感じるぬくもりも、頭の中で作られた幻想であることはそっくりである。感じる方の心がゆたかになれば、どちらももっともっとおいしくなるということである。
 「開運」の無濾過の純米酒を熱燗にして呑んでいたら、庵主の心の中にうまい酒とさわやかな女の幻想を見たのである。いい酒を呑むと仕合わせになれるのである。


★「鶴齢」純米無濾過★16/1/21のお酒
 どこの蔵元とは書かないが、なんでも、純米酒を造るのに蔵元が米の買いつけを間違えて、東条町の特Aの山田錦を買ってきてしまい、それで無濾過の純米酒を造ったというお買い得のお酒があるという話を聞いて、それが「鶴齢」だと言うので、それならつい最近呑んでうまいのがわかっているから間違いないお酒だと確信して買ってきたのである。久しぶりの一升瓶である。
 「鶴齢」無濾過純米。精米歩合は65%である。65%というのがいい。いい米を無闇に削って造ったお酒はうまいのは判るが、今の庵主はあまり心がひかれない。それより60%ぐらいの磨きでうまい酒に興味がある。
 「岩の井」が玉栄の60%で造ったうまい酒を知っているから、60%まで磨けば十分にうまい酒ができるとわかっているからである。できた酒の管理をしっかりすることである。
 一升瓶を庵主一人で呑めるわけがない。たまたま寄り合いがあるので、それに合わせて買い求めたのである。
 うまい酒ではなかった。それがいいのである。「水のように呑める酒だね」という声があった。「水のような酒」だといわれたらそれは妥当ではない。そんなやわな酒質ではない。「水のように呑める酒」というのはいい評価である。これは呑んだときにうまいと感じる酒ではないが、味がしっかりしているからいくらでも呑めるということである。あきがこない。グラスにつがれたらいくらでも体にはいる酒なのである。
 庵主は量が呑めないので、最初からうまいと感じるお酒が好きである。盃を重ねているうちにそのうまさがわかってくるというお酒はダメなのである。そんなに呑めないからである。だから普段はこういう酒は呑まない。が、この酒はつがれたら庵主にも呑めるのである。「酸度1.9というのは新潟の酒では珍しいでしょう」と酒屋は言っていたが、うっすらと琥珀色の色合いといい、舌にのせたときのふっくら感といい、いくらでも呑めるという意味で庵主にはいやな酒だったのである。


★香水とお酒の試飲と霧造り25度の日本酒★16/1/14のお酒
 年が改まると冬物のバーゲンセール〔安売り〕がはじまる。庵主がネクタイ〔首飾り布〕を買うのはこの時期だけである。冬のボーナス〔賞与〕が出てクリスマスセール〔耶蘇教主生誕祭協賛狂乱買い漁り期間〕で購買欲が盛り上がる旧臘には十分に高級なお値段で売られていたネクタイも年が明けると冬物バーゲン〔値下げ〕と一緒に売値がこなれてくる。物には相応の価値感というものがある。一本一万円のネクタイとか、この前乗った飛行機の機内誌の広告にあった10万円の美容クリーム〔化粧品〕などには、庵主はそれだけの価値を感じないから酔狂な商品であるとしか思えない。一升10万円の日本酒を可笑しさを堪えて見ているのと同じである。
 庵主を褒める人がいないということはかなり前に書いたことがある。人柄に褒めるところがないので、しかたがなしにお世辞で「いいネクタイをしますね」と庵主が身につけているものを褒めてくれる。だからこの時期に瀟洒な柄のネクタイを買っておくことがこの一年間に人から褒められる回数を左右することになる。いや、人様に褒められる部分を用意しておくという配慮をしておかなければならない季節なのである。
 そのネクタイを探しに行ったときに、同じデパート〔百貨店〕で男物のフレグランス〔香水〕が目についたので、二つの気に入った匂いをテスター〔試用品〕で両手の掌に吹きつけた。ラストノート〔後残り香〕がよくなかったら、あとから石鹸でよく洗って匂いを薄くしておくことができるからである。
 そのあとに地下の酒売場に行ったのは順序が間違っていた。新年の酒売場にはいつもと違って同時に数銘柄の酒の試飲が行なわれていた。なかなかお目にかかれないお酒もあったので、試飲させてもらうことにした。が、試飲用のプラスチック〔合成樹脂〕製の小さなコップを持つと掌に吹き掛けたオーデコロン〔匂水〕の匂いが鼻にはいってきて肝心のお酒の匂いがわからなくなってしまうのである。
 食い物、飲み物は香りが感じられないとそのうまさが半減してしまう。風邪を引いて鼻がつまっているときに食べる食い物のまずいこと。それと同じで、お酒もその香りが感じられないとそのお酒のうまさが判らないのである。お酒を口にしたものの、酒の味がよくわからないままに、ただ酔いだけが回ってきてしまった。
 「鳴門鯛」がアルコール度数25度という変わった日本酒を出していた。「純米霧造り生」である。アル添ではないという。醸造酒は蒸留酒とちがって、高くてもせいぜい十数度のアルコール度数しか造れない。ビールなどは5〜6度であり、日本酒が高いほうで20度あたりが上限だろう。という知識があるなかで、25度の日本酒というのはどうやって造ったのだろうか、そして味はうまいのだろうかと気になるではないか。
 掌から匂ってくるそれだけで匂っている分にはいい匂いを感じながら、その25度の「鳴門鯛」を試飲させてもらった。
 味は日本酒の趣というよりも焼酎に似ている。樽貯蔵したウイスキーのような味わいの麦焼酎とか、たっぷりアル添して焼酎に近い紙パック入りの日本酒とかがあるが、写真が撮れる携帯電話みたいにどっちつかずの中途半端なおもちゃみたいなお酒を造ってもしょうがないだろうと庵主は思っているが、まさにその思いを味わせてもらった。変った酒であるとしか言いようがない。
 それをどうやって造ったかは結局わからなかった。「霧造り」といって、いったん造ったお酒を霧状にしてそれを醪か搾ったお酒に添加して度数を上げたとかいうのだが、やっぱりよくわからなったのである。
 呑みながら、黙って呑むと吟醸酒のような酒で実は米焼酎であるという「鳥飼」を思い出していたのである。
 ちなみに、「霧造り生」は720ミリリットル2000円。「鳥飼」は720ミリリットル1730円。どちらも一度体験したらそれで十分な酒である。でも、一度は呑んでみたいでしょう?


★1月のお酒特集記事★16/1/7のお酒
 中年男性向けの雑誌が数多く出ている。「大人の隠れ家」とか「一個人」とか「オブラ」とか「ブリオ」などである。団塊の世代といわれる人口の多い年代をターゲット〔読者層〕にした商品である。中年とは肉体はすでに老化の域に入っているが、自分ではまだ若いと信じ込んでいる世代のことである。多少はお金がたまって余裕があり、子供を卒業して大人の趣味に目覚めたセンス〔洒落っ気〕のある読者層を相手にして、自分はまだ若いのだという幻影をすりこんでオジサン読者たちの気持ちをやさしくなぜてくれる雑誌群である。もちろんオジサンという言葉を想起させることはしない。そこでは、読者は身心ともに充実している麗しく頼もしい中堅層なのである。
 それらの雑誌をながめると、毎月、どこかの雑誌が日本酒特集を組んでいる。日本酒の特集が組まれるということは日本酒に興味がある読者がいるということなのだ。いい酒を好む人は少なくないことがわかる。が、やっぱり少ないのである。
 平成13年のデーター〔資料〕であるが、この年に造られた日本酒の75%が普通酒なのである。本醸造でさえ13%しか占めていない。純米酒に至っては10%弱しか造られていないのである。
 その前に、そもそも「普通酒」の意味を知っている人がどれだけいるのだろうか。ここでは普通の人が呑むお酒のことを普通酒だとしておこう。
 データーによると、吟醸酒 3.3%、純米吟醸酒 3.0%、純米酒 5.8%、本醸造酒 13.4%、普通酒 74.5%となっている。
 呑んでうまいと納得できるお酒は普通酒から出てくることはないだろうから、本醸造を含めた残りの25%の中に見いだすことになるだろう。25%のうち、まずい純米酒を除いて、またうまい本醸造酒が半分とみて、合わせても全体の10%ぐらいだろうか、うまい酒と呼べる範疇は。
 うまい酒に出会える確率は10分の1である。お酒はご飯ではないから、毎日三度三度口にするというものではないので、普通にお酒を呑んでいる分にはうまい酒と出会うことがないということも十分ありえることなのである。
 庵主が子供の時分は、チーズといえばプロセスチーズだった。だから固形の洗濯石鹸のようなうまくもないチーズがチーズだと思っていたのである。ナチュラルチーズを知ってはじめてチーズのうまさに目覚めたのである。
 日本酒も、大方の人はうまいお酒を呑んだことがないというのが現実なのだと思う。そうでないとしたら、普通酒が75%を占めているという実態になるわけがない。
 少しお金がたまると、今よりちょっといい物が欲しくなる。雑誌を買って読む人は好奇心と向上心が旺盛な人だから、うまい日本酒の情報は読者に満足感を与えてくれるのである。でもその真相は、老化した肉体は無意識のうちに日本人の体質に合った昔から食べ物を求めているというのが本当のところではないのかな。肉や牛乳など、これまで口にしなかったものを突然食べ出しても体がそれについていけないのである。若いころはともかく、歳をとるとそれらは体に無理がかかってくるのではないかと庵主はお酒を呑みながら感じているのである。お酒を呑んでいると、庵主の体がうまいと心底納得して悦楽を感じることがあるからである。日本酒は日本人の体質にあっているからうまいのである。
 「日経おとなのOFF〔暇つぶし〕」2月号が「最高の酒亭へ」という特集を組んでいる。客単価が1万円弱という少し気張ったお店の紹介である。
 うまい日本酒にめぐり会って、日本酒にはまったという人が少なくない。うまいお酒に出会うには、いい酒を置いているこの手のしっかりしたお店を利用するのがてっとりばやいと思う。まず、じっさいにうまいお酒を体験しないことにはそのよさがわからないからである。
 それといいお酒を揃えているお店は肴も興趣のあるものが出てくるからちょっとした贅沢な時間を過ごせるのがいい。
 でも、雑誌の特集記事はつぎからつぎと庵主の知らないお酒をさがしてくるものだと感心するのである。いや、それほど日本酒は深い世界なのである。 


  ★頌春★16/1/1のお酒
 一年の計は元旦にあり、という。元旦に届けられる年賀はがきは一年のウソのつきはじめである。旧年の内から「明けましておめでとう」と書いてはポストに投函する。日本の新年はウソで始まるのである。いや、そういうのを用意周到というのかもしれない。たしか年賀状は年が明けてから書く習慣だったと思うが、ちょっと前から今のような形になったのである。そのようなちょっと前に始まったことが、うっかりすると、太古から連綿と続けられているしきたりのように勘違いしてしまうのである。元旦に届く年賀はがきというのは、いくらさかのぼっても郵便制度が始まる以前にはなかったことは確かである。
 今のアル添酒(国産米で造ったお酒に外国から輸入したアルコールを混合して、それでもなお日本酒と称して売られている清酒のこと)が昔からあったものだと思うと大間違いである。この前の戦争の時に造りだされた窮余の一策なのである。戦時酒といっていい。平和になった今日でも、お酒はまっとうな平和酒に戻ることなく、戦時酒が連綿と造り続けられているのである。
 まっとうとは、腰のすわったかけひきのない、ウソのない、誠実な態度のことである。まっとうでないものは自信がないものだからゆらぐのである。「おい、おい、それでいいのか」と心配したくなってくるものがまっとうでないものである。
 アル添酒が悪いといっているのではない。酒は進化する。変化もする。庵主が呑める吟醸酒も日本酒の進化であり、変化の産物である。そういうお酒がなかったら、庵主は日本酒に口をつけることはなかっただろう。アル添もまたお酒の一変化なのである。しかし、庵主はアル添酒が大方を占めているという実体を横目に見て、その根性が間違っていると思うのである。その方向が違っていると思うのである。酒は呑み物である。食い物なのである。食い物というのは体にいい物でなくてはならない。アルコールを添加したお酒は日本人向きのお酒だといえるのだろうか。
 そういえば模造酒が得意な某社でさえ、そのビールにアルコールを添加することはしていないのである。水にビール香料をといて、その他苦み成分をいれたりして、アルコールを5%添加して、炭酸ガスを加えてビールと称して売るということをしていない。そこに最低の良心があるからである。
 お酒の主成分はアルコールなのだから、お酒にアルコールを混ぜてなぜ悪いのかという疑問がわくかもしれない。酒とアルコールとは同じに思えるかもしれないが、両者は似て非なるものである。教養というのは、似てはいるが質の違うものの違いを知っているということである。いや、その違いをかぎわける判断力のことだといっていい。ここでは呑み手の教養が試されているのである。
 バターとマーガリンの違いは判るだろう。飲料水と蒸留水の違いも、後者が味もそっけもないHOであるのに対して、飲料水はそれに微量のマグネシウムとか鉄分などのミネラル成分が含まれている水のことである。体にいい水である。こっちが人間の飲む水である。蒸留水は一時的には飲料水の代用にはなるが長期に飲むものではない。
 同様に、お酒は酵母が原料から醸しだしたアルコールである。醗酵によって生じた自然現象である。そのアルコールに何百種類という微量成分がまざっているのがお酒である。アルコールだけを取り出したら、ただの主成分であり、一原料ということになってしまう。一方、酒造原料用のアルコールというのは、アルコールだけを抽出したものである。キチガイ水というのはお酒の成分のうちアルコールだけに着目して、それが人間に与える悪影響を表現したものだろう。お酒(醸造酒)を適度に呑んでいる分にはそうはならないからである。
 アルコールを飲んで興奮し、「やめろ」といってもやめられない人や、「やめる」といってもやめられない人がその症状である。アルコールの薬理が理性というブレーキを壊してしまうのである。口で言ってもその行動を制することのできない人のことをキチガイという。通常の理屈では動かないからその行動が読めない人のことである。だから傍迷惑なのである。現に酒を呑んで暴れたり、家族に迷惑をかけたりする人がいて、相当の人が苦労しているのである。
 致酔成分であるアルコールの悪影響をそう呼んだのだろう。抽出したアルコールの多量摂取はキチガイのもと、すなわち周囲の迷惑になりかねないということで、国民の健康と周囲の迷惑をふやさないためにも税金を高くして制限してもいいのである。
 だいたい、飲まなくてもいい人にまで酒を飲め、飲めと酒類の販売拡大をおおっぴらに認める社会がまっとうなものであるわけがないではないか。けじめのない飲酒を押しつけるというのは庵主の風になじまないのである。いけないよ。
 何年か前に、米が不作の年があり、そのとき緊急輸入した外米と国産米を混ぜて食用米として売られたことがあった。庵主はそれをやった奴だけは絶対に許せない。日本の米と外国の米は、同じ米といっても味わいが全然違うのである。醤油に似ているからといってソースを混ぜて、それを醤油として売るようなものである。これは日本人の味覚をばかにした犯罪行為である。輸入牛肉を松坂牛として売る不正表示よりもたちが悪い。食品犯罪といっていい。
 国産米から造ったお酒に外国からもってきたアルコールをまぜて造ったお酒を日本酒と呼んでいいのか、いやそれはよろしくない、というのが庵主の考えである。またそういう日本酒を造るということは酒造りの方向が間違っているのではないかというのが庵主の思いである。
 酒とアルコールはよく似ているから混ぜて売ってもいいのだという考え方を認めることができるかということである。
 食堂に入って頼んだ定食のご飯に、国産米と外米が混ざっていたときのあの異様な味わいと、お役人が日本の食文化を破壊するそのような行為をだれもとどめる者がいなかったということに愕然としながら奇妙な味わいのそのご飯を鼻から息をしないで食べていたことを思い出す。要するにまずかったのである。
 食い物は文化である。しかも生まれたところに密着した文化である。日本に住んでいる日本人がなにゆえに、遠く外国からもってきた食い物を食べなければならないのか。そのことからして不自然なことだと知るべきなのである。
 健康食品という言葉があるが、飲物も含めて食品というのは健康のために食うものであって、体を壊すために食うものではないだろう。体によくないものは毒である。だから食品というのはすべて健康のためのものなのだ。健康食品という言葉があるということは、不健康食品があるということを前提にしているのだろう。こっちの方が体にいいですよというわけである。が、一般的にその健康食品なるものは値段が高いのである。あほらしいと思う。そんなもの買っていた分には財布の中身のほうが不健康になってしまう。
 まずは、まっとうな食い物をまっとうな値段で(異常に安すぎる値段もまっとうとは言えない)手に入れることができるようでなくてはならない。
 お酒もまた、まっとうな物を、まっとうな値段で造ってほしいのである。
 ビールもどきの発泡酒は、まっとうでないものを、まっとうな値段で売っている例。紙パックに入って安売りされている清酒は真っ当でないものを異常にまっとうでない値段で売っている例である。
 その点、まっとうに造ったお酒を、多少無理していると思われるまっとうな値段で売っている蔵元さんのお酒はありがたい。いいものが、手頃な値段で手にはいるからである。
 庵主は、新年も、まっとうなお酒をまっとうな値段で呑めるお店を贔屓にしたいと思っている。庵主は量を呑まないので、瓶入りの酒を買ってきても呑みきれないから、お酒はおいしいお酒を置いているお店でしか呑まないからである。
 ということは、あいかわらず、あっちふらふら、こっちふらふらの腰のすわらない酒の呑み方をつづけるということである。いやいや、庵主を求めてくるお酒との新しい出会いを求めて積極的に出向いていくということである。
 いいお酒は体にいいのである。また心も満たしてくれる。要するに、うまいのである。そういうお酒に出会ったらその喜びをお伝えしていきたいと思っている。
 世間は暮れと正月だが、今年も、お酒造りはこれからが佳境にはいろうとしている。