「むの字屋」の土蔵の中にいます
 

平成15年11月の日々一献

★「千代むすび」純辛★15/11/26のお酒
 庵主が苦手な、超辛口のお酒である。
 まずは鳥取は境港市出身の「千代むすび」。その「特別純米酒超辛口+15」という「純辛」。
 いやー、びっくりした。この、酒というより、ただのアルコールかと見紛うほどのスカスカの、というより、米の酒の厚みを毫も感じさせない味わい。
 米は五百万石である。酵母は9号。この酒は、これ自体が醸造用のアルコールとして使えそうなほどに味わいがないのである。芯は強い。米から造ったアルコールだから、それを加えて微調整したお酒は純米酒といっても通せるじゃないか。「米だけの酒」ということになるのだろうが、これを使ったお酒ならアル添でも純国産の日本酒である。
 当今の日本酒は、日本の酒なのだから原料はすべて純国産だと思っているのだとしたら大間違いである。なんと日本酒のほぼ90%は国産原料と舶来原料の調合品なのである。時代は変わっているのである。だまされているとまでは言わないが。そのことは日本政府ともよく似ている。
 アル添に使われている醸造アルコールはほとんどが外国からの輸入品だから、いまの大方の日本酒は100%国産品ではないというのが実態なのである。外国から輸入した粗留アルコールを国内の工場で精製して国産と称するのは、中国から輸入したそば粉を長野で袋詰めして信州産というのと同じでないか。実態は中国製であるように、国内で精製したアルコールは外国製といっていいだろう。
 醸造酒に「純辛」を混和しても、それはただのブレンドになってしまうか。
 「純辛」には技を見た思いがするが、庵主はまちがっても呑む気がおこらない。本格的な超辛口なのである。
   +15でも、「喜楽長」とか「開春」で、庵主も呑める超辛口があるのだから、日本酒の味わいの幅は広いのである。
 秋田県神岡町出身「刈穂」の番外品の「純米+21」。
 辛口の極限である、庵主にとっては。「雪の松島」の+20というのがあるが、呑んでも少しもおもしろくない味わいである。こんなの呑む人がいるのだろうかと、庵主は思うのであるが、ちゃんといるのである。庵主には理解できない世界がそこにある。
 「刈穂」の+21はけっこう呑めるのである。すくなくても、庵主にとっては呑んでもつまらないただデーターだけの辛口の酒ではないところに、呑める酒を造るという意志を感じるのである。
 とはいえ、庵主が好んで求めるお酒ではないことはいうまでもないが。
 以前にもこの+21を呑んだような記憶があるが、そのときの印象をなんて書いたのか覚えていない。前と全然評価が違っていたりして。その場合は、庵主も歳をとったということなのである。

★「万禮」(ばんれい) ★15/11/19のお酒
 北海道の千歳市で呑む。
 北海道の空の玄関は、また、航空自衛隊、陸上自衛隊北千歳駐屯地、同東千歳駐屯地を擁する軍都でもある。
 市内の居酒屋。長野の「大信州」の純米大吟醸が1杯 700円のその店で、山形の「出羽桜」の「万禮」は1500円だった。値段が2倍だから2倍うまいかというとそういうことはない。しかし、味は2倍、 いや2倍以上に深いのである。酒のおもしろさがそこにある。
 庵主はカウンターで呑んでいた。隣にすわっていた一人の客は、北寄貝と柳葉魚 (ししゃも)を頼んでいた。
 「こっちに来てから、つぶ貝と北寄貝ばかりになってしまった。うまいもの。」 「雲丹(うに)なんか食べなかったけどこっちに来てからだね、うまいと思ったのは」「北海道の柳葉魚はうまいねぇ。今が旬だよね。うまいのはあとひと月というところだね」「柳葉魚 もこれでもう一生たべられないかもしれないな」「そんなことはないでしょう」と店主。
 私服を着ていたが、自衛隊員なのである。
 時の東京政府は、戦乱の続くイラクへの大儀なき派兵を決めている(恫喝されて、いやいややっていることはわかっているが)。先だっての選 挙(11月9日挙行衆議院選挙)では小泉総理が率いる自民党の派兵政策を押しとどめることができなかった。
 自衛隊員が貧乏くじをひいたのである。しかも、その貧乏くじを引かされたのは北海道の隊員なのである。
 イラク派兵の主力となる陸上自衛隊第2師団(旭川)と第11師団(札幌)のほかに、第5師団(帯広)と第7師団(千歳)の各部隊で編成が行なわれていると道新(「北海道新聞」のこと。どうしん、と読む)は報じている。
 イラクで戦死した米兵をみると、案の定、黒人兵やインディアンの女性兵士である。差別社会 であるアメリカの実態がそれでわかる。東京政府の感覚では北海道の自衛隊員はどうやら黒人兵並みらしい。
 アメリカの社会ではきれいごとを言うのは白人である。白人を頂点にして、口にすることがはばかられる階級社会であり常に緊張を強いられるストレスの高い虚構の国家であることが見えてくる。だ れだってしきたりが違う異民族と一緒には住みたくないのである。心が落ち着かないからである。そ ういう社会をまとめるのには口先だけの理念しかない。声の大きい人が支配する社会である。 態度のでかい奴が、と言ってもいい。ウソの大儀で暮らしていると、誰かが大声を出すと理非の判断をすることなく一致団結してしまうところにアメリカのそらおそろしさがある。しかも刃物(核兵器)をもったキチガイ(一神教徒)ときているからその対応には手を焼いているのである。
 さからわないで派兵の道を選ぶか(肉体をささげて日本の義を守るか)、相手をソレと知ってた上で大儀を通すか(命の保障はなくなるが)。いずれの判断をしても命懸けである。避けているのが一番だが、グローバルゼーションという全地球的連鎖の中にある今の時代ではそれもできない。今度の選挙では小泉総理に博打を任せたというわけである。民主主義とはだれも責任を持たない制度とわかったのである。
 「大信州」の純米大吟醸と「龍勢」を呑んでいたその客が、また柳葉魚を、うまい 北海道の柳葉魚を食べることができないことになったら、東京政府の無謀を掣肘でき なかった悔いは同じ時代に生きていた者として一生残るのではないかと思いつつ、そ の客とあたりさわりのない古酒の話をしながら、庵主はにがい思いで酒を呑んでいた のである。

★ライブ塾★ ★15/11/14のお酒
 庵主のトークショーが高田馬場にあるライブ塾「トリックスター」で開催された。実際にお酒を呑みながら日本酒を語りあう会である。
 主役はもちろんうまい酒である。庵主はご案内役である。
 いま、うまい日本酒が続々と造られているというのに、日本人がそのうまい日本酒を知らないのである。呑んだことがない人が多いのである。
 一人でも多くの日本人に、うまい日本酒があることを知ってもらい、本物の日本酒のうまさを味わってもらい、まっとうな日本酒のおいしさに目覚めてもらうおうというのが庵主の姿勢である。それを布教と呼んでいる。
 布教というのは宗教の押し売りのことである。自分が良いと思っていることを一方的に押しつけて洗脳していく活動である。勧める側に迷いがないのが怖い。うまい日本酒の布教は、「良い」ではなく「酔い」を広める活動である。酔うといっても、お酒の芸術性に酔うのである。日本酒の深さに酔ってもらうのである。
 宗教が女子供を相手にしていないように、お酒も基本的には女子供に呑ませるものではないと庵主は思っているが、布教活動は時としてそれ自体が目的化してしまうことがあり、お酒も同様に女・子供をたぶらかすこともやぶさかではないのである。
 まっとうなお酒を実際に呑んでもらい、そのうまさを実感してもらうというのが庵主の布教の方法である。
 日本酒の実態を話し、そのウラ話を語り、酒造りの基礎知識を交えながら当今のお経のような(例:純米無濾過本生原酒槽搾り中汲み全量山田錦)日本酒用語を解説し、用意したいくつかの日本酒を実際に呑んでみてもらい、本物の日本酒のうまさを味わってもらっているうちに会場は美酒の酔いがたちこめて、2時間で終わる予定が4時間近くになるというほどに盛り上がってしまった。
 それほど本物のお酒には身も心も癒してくれるパワーがあるのである。知らない人が集まった会場は、旧知の人の会合のようななごやかな雰囲気になってしまった。うまいお酒は人の気持ちをなごませるのである。その雰囲気を味わってほしい。
 でも、トークショーをやっていると、デパートの実演販売みたいな気になってくるのがいけない。それほど扱い商品(=お酒)に魅力があるのである。
「あなたは
●今、日本酒は米から造られていると思っていませんか
筆箱の中身が毛筆でないように日本酒も中身が変わっているのです
●本物のうまい日本酒を飲んだことがありますか
すぐ目の前においしいお酒があるのに気がついていないのです」
というのがキャッチフレーズである。
 ライブ塾の日本酒の話は好評で、いや、当日用意したお酒があまりにもうまかったので、来年の1月にも第2弾を開催してまた呑もうということになった。その節にはぜひ機会をのがさずうまい日本酒を体験していただきたい。

★純米酒、うまい! ★15/11/12のお酒
 日本酒は、アルコールを少し加えると、酒質がなめらかになり、香りもほんのりと立って、軽やかでさわやかなお酒になります。
 そういうお酒の造り方もあるのである。しかし、きちんと造られた純米酒のうまさは、アルコールの力を借りなくても、そのさわやかな酒質よりもずっと心をはずませてくれるのである。庵主は、もちろんアル添(あるてん)が悪いとはいっているのではない。純米酒だけがまともな日本酒だとは思っていない。へたな純米酒よりずっと、ずっとうまい本醸造酒がいくらでもあるからである。庵主は、まずい純米酒よりは呑むと心はずむ本醸造のほうを選ぶ。
 清酒はどうやって造ってくれてもいいのである。ただ庵主が呑んでうまければいいのだ。そうはいっても結局庵主のからだが「うまい」と感じるのはよくできた純米酒とかうまい本醸造酒などであるというのがこれまでの体験的結論なのである。
 とはいえ、うまい純米酒を呑むと、その気品のよさ、洗練された軽やかな味、そして味わうほどに深みが感じられる味わいに、お酒を呑めることの幸せを感じるのである。あーっ、うまぇ。
 「豊能梅」(とよのうめ)の純米吟醸。高木酒造の酒である。高木酒造といいっても「十四代」の蔵元ではない。高知県の高木酒造のお酒である。
 これがきれいな酒なのである。酸味が心地よい。庵主はいつも言っているのだが、お酒のうまさは酸味のうまさが決めるのである。かろやかですっきりしたさわやかなお酒なのだが、それでうまいのである。まだ知る人の少ない「豊能梅」がちゃんと東京の居酒屋で呑めるのである。こういうお酒にめぐり会えると、東京の居酒屋の実力をひしひしと感じるのである。
 首都東京は酒都東京でもあるのだ。
 「獺祭」(だっさい)の純米「無濾過生原酒 槽場汲み」。遠心分離で酒を搾る蔵元の酒である。これもまたきれいな酒質である。「豊能梅」とはちがって、舌にしっとりからみついてくるせつない味わいがある。呑み手の心をしっかりつかんでしまう味わいに純米酒のうまさを知るのである。
 そして「正雪」(しょうせつ)の純米大吟醸。山影純悦(やまかげ・じゅんえつ)杜氏が自分で作った「吟ぎんが」を50%に磨いて自ら醸した美酒である。つやのある酒質である。まったりに近いまろやかな味わいの酒である。うまい酒は酒に力がある。口にすると、そのお酒が秘めているパワーが庵主の体に伝わってくるのがわかる。水が高いところから低いところに流れるように、酒のパワーが庵主の体に流れ込んでくるのである。純米酒のうまさがそこにある。
 だれだ、アル添するとお酒が軽やかになるといったのは。アル添しなくてもちゃんと軽やかにしてそれでいてうまい酒ができるじゃないか。「豊能梅」。だれだアル添すると香りがほんのりたってくる、などといったのは。純米酒はそのままで気品が感じられる香りをもっているじゃないか。「獺祭」。だれだアル添すると酒質がまろやかになるといったのは。ちゃんと純米酒を造るとまったりしたふくよかな味わいの酒ができるじゃないか。「正雪」。
 3本呑んで、それぞれに味わいの違いを楽しめる個性を感じながら、魅力的な味わいの純米酒のうまさを存分に味わったのである。
 純米酒はうまいよ。

★「秋の夜長に燗酒を楽しむ会」★15/11/5のお酒
 燗酒の季節である。もちろん、いいお酒は冷や(常温のこと)で呑んだほうがうまいのだが、あっためて呑むお酒もまた心も温まるものがあるほのぼのとした呑み方である。
 が、燗をつけてうまいお酒というのがなかなかないのである。が、が、燗にしてうまいお酒を呑んだときのなんともいえないあの心の襞(ひだ)にまでしみてくるぬくもりのやさしい味わいはやみつきになる魅力を秘めている。
 いちど燗酒のうまさという快感を味わったら、また同じ悦楽にひたりたいという思いにかられて次の燗酒に期待するのだが、きまって裏切られるのである。この前の燗酒のうまさは幻だったのだろうかと、あたためて味の厚みがなくなってしまった、よく言えば軽やかな味わいの、はっきり言っていって間のぬけた味わいになってしまった酒を「これがうまいのだ」と自分をだましながらも、しかしこれをうまいといっていいのだろうかと良心の呵責にたえながら口にしているのである。だからその味わいはいつもほろ苦いのである。
 で、秋の夜長に燗酒を呑んでみようという会があって、ひょっとしてうまい燗酒にめぐりあえるかもしれないというかすかな期待をいだいて参加してみた。
 出てきた酒は16種類である。結局は庵主にとってはほとんどが冷やで呑んだほうがうまいと思われる酒だった。中に燗上がりする酒として売っている酒もあったが、さほどの感動はなかった。
 ぬる燗にして、呑んでうまいかなと思われたのは「呉春」の大吟醸と純米大吟醸の「亀の翁」だった。とはいえ、いずれも冷やで呑んだほうがもっと深い味わいを楽しめる酒である。
 意外と、お酒は燗冷ましの味わいも捨てたものじゃないということがわかった。
 燗酒のいいところはそのさわやかな酔い心地である。うまいまずいは別にして、酔いがほんのりとまわってくるのが気持ちいい。燗をつけながら、これから酒を呑むぞという心持ちがじわじわと沸き起こってくる間合がいいのである。これが冷やなら、瓶から移して終わりである。呑み方がいかにも安直である。なんとも粗末な呑み方である。その点、燗をつけるという一呼吸が優雅なのである。その余裕が人間的なのである。前者を餌的酒の呑み方とすれば、燗酒は人間の食事的な呑み方である。どっちが高尚かいうまでもない。
 江戸時代は、冷やで呑むのは貧乏人の呑み方と蔑まされていたとあるが、当時の酒は温めなければよく味わいが出なかったのではないか。いまの酒は冷やで呑んでもうまいのである。日本酒も進化しているのだ。進化しすぎて、今やアル添酒という合成酒が跋扈しているほどである。そんな餌みたいな酒を呑まされてはたまらない。酒税法という色眼鏡を通して見るとそれも日本酒に見えるらしい。
 お国が酒税法で認めているお酒を一生懸命造っているのにそれにケチをつけるのはおかしいという蔵元さんがいたが、それで自分の造っている酒に納得ができるのかいと庵主はその蔵元さんの自尊心まで心配したくなってしまう。
 会は、燗酒のぬくもりの効用でああだこうだいいながら最初からいい雰囲気でもりあがって、あっと言う間に時間が過ぎてしまった。燗酒のよさがそこにある。
 が、少ししか酒が呑めない庵主にとっては、味わいのうまい燗酒を求めているから、そのような効用はあくまでも二次的な要求なのである。
 うまい燗酒を呑んだことがある。でも、そのうまさを再び体験するためには何度も何度も試行錯誤を繰り返しているのである。
 あんた、お燗のお酒を一人で呑んでうまいまずいと言っているのかい、と聞かれたら返答に窮してしまうが、燗酒のうまさというのは、庵主にとってはめったにめぐりあうことのできない僥倖なのである。当たったときのあのうまさが忘れられないのである。