「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成15年10月の日々一献

★「七田」純米。65%★15/10/29のお酒
 あらためて佐賀の「七田」(しちだ)の純米を呑んでみる。以前口にして、酸味といい、あまみといい、そのバランスのよさにすっかり魅了されてしまったお酒である。
 やっぱり間違いはなかった。
 うまいお酒を造ろうとするとふつうは60%以下に磨いて造ることが多いというのに、この純米酒はなんと精米歩合65%でこのうまさを醸し出しているのである。
 麹米は山田錦、掛米は地元の麗峰(れいほう)である。
 この酒がうまい。ただし庵主好みのアルコール度数は高めの酒で18〜19度である。アルコール度数が高いと一瞬うまいと感じるのである。しかしちょっと呑んでいるとやっぱり度数を高くしてもうまい酒とそうでない酒があるということがわかる。
 「七田」の純米はアルコール度数が高くてうまい酒である。無濾過で出す、原酒で出すという、蔵元さんのこだわりの酒だという。そしてこれは庵主もうまいと感じるいい酒なのである。
 いい酒とは前に呑んだときの印象と変わらぬ味をいつ呑んでも提供してくれる酒のことである。変わらないうまさが信用である。安心である。うまくする必要はない。もちろんまずくなったら呑み手は他の酒に安心のうまさを求めるだけである。
 いつに変わらぬお心遣い、とは中元歳暮をいただいたときの礼状の決まり文句であるが、お酒を呑み続けているとその妙がわかってくる。いつも覚えている味と同じであるという安心感が心地よいのである。いつもかわらぬ味わいのお酒を呑むとなつかしいのである。なつかしさは癒しなのである。こころが落ち着くから呑んでいておいしいのである。いや、おいしさを呑んでいるのでなく、自分が知っている味がここにあるということが、いつに変わらぬ安心して呑める味の酒があるということが、そのことがうまいのである。
 お酒をアルコールの酔いだけで味わっているうちは、お酒がもったいない。悪酔いしてしまう。致酔である。お酒の酔いは心で味わうものなのである。心に感じるお酒を呑むとその酔いはおだやかである。心酔である。その酔いは余韻がながく静かに残るのである。
 「七田」の純米を呑んでいたら、造り手の心にふれてしまったのである。こういう酒がうまい。

★四天王★15/10/22のお酒
 三つを三羽烏といい、四つを四天王いう。
 きょうの酒は、庵主はいつもなら阿吽の二杯で終わるところを、うま過ぎたものだから四天王になってしまった。
 「東一」純米大吟醸選抜酒。
 これがいい酒なのである。正確にはややかすみがかかっているのだろう。麹のかおりを残した醪のかすかな味わいが残っている。
 だから、舌にほんのりからんでくる甘さがある。それがうまいのである、庵主にはうまいと思うのである。
 あまさのあとに酒(アルコール)が舌をくすぐるから気持ちいいのである。
 うまい、と思ったときにはその酒にすっかり心をつかまれていた。
 庵主の場合は最初からこういうお酒が出てきたら2杯目はいらない。これだけで十分、いや十二分に満足を味わえるからである。
 空腹のときにやたらと食い物をかっ食らうのは、満腹という満足感を得たいからである。満足感を得たら、もうそれ以上はいらない。だいいちおなかがいっぱいでもうはいらない。
 お酒も同様である。うまいという満足感を得た時点でもう酒を呑む必要がなくなるのである、その日は。それでもさらに呑みたいというのは酒呑みではなく、たんなるアルコール依存症の患者さんである。世の中にはブレーキの壊れた車みたいな人もいるのである。ブレーキを直すのがそりゃあ大変だ。かわいそうに。
 庵主は酒呑みである。足るを知る者である。
 だからこの場合は一杯でいいのである。匂いをたのしむ。味をたのしむ。舌に乗せたときの感触をたのしむ。喉をすぎていったあとの余韻をたのしむ。それらのしあわせを五勺に満たないたった一杯のグラスの酒で味わいつくすのである。それだけの魅力がまともなお酒にはあるのだ。女の子とは10分もいればあきてしまう庵主がことまっとうなお酒を前にするといつまでもこころまろやかになっているのを知って愕然とするのである。お前は人間より酒の方が大切なのかと。
 それはさておき、空になった一杯目のグラスを見つめながら、ついお店の商売のことを気づかってしまうのである。もう一杯だけ呑んで帰ろうかと思ったところに「松の司」の純米大吟醸があった。
 それ。
 切れてる。甘味がふっきれている。どうだ、この酒が呑めるか、といった気位の高さを感じてしまった。違う。庵主が呑みたいと期待していた味わいと酒の味わいがずれていたのである。いくら相手がいい酒であることが判っていても、こういうときに呑み直したくなるのである。いま呑みたいと思っている味わいのお酒が呑みたいという不充足感につき動かされるのである。
 いっぱい水をもらうことにした。
 冷えた水を飲みながらゆっくり考える。
 と、「初亀」「磯自慢」「美丈夫」「東一」と並ぶ中で、「越の雪月花」の大吟醸があった。異色である。能書きを聞きたいと思った。
 米は五百万石です。蔵付き酵母です。さらっとした新潟の中では味わいに広がりが感じられるお酒です。
 それらの酒を選んだ店主が見極めた酒である。久しぶりに新潟の酒を呑もうという茶気がわいてきた。
 水に酔ったのかもしれない。
 これがいい酒なのである。酸味が軽やかで呑みやすいのである。
 庵主がいわゆる新潟のお酒を避けるのは、どの蔵の酒を呑んでも一様な味わいしか感じられないからである。要するに、おもしろくないからである。
 とはいっても蔵元の数が百いつくかある酒王国の新潟県である。すべてが同じような酒であるわけがない。先入観をとりのぞいてまず呑んでみることである。
 「越の雪月花」のこの大吟醸はマルである。ただ、値段とのからみがあるから、同じ味わいなら「竹鶴」のほうが安いのじゃないかと比較考量するのである。
 珍しいお酒があった。
 「蘭奢侍」の火入れである。
 庵主は「冬樹」の生酒をこよなく好む。その火入れがあるのだが、火入れを呑んだときには「この酒を呑んでもよかったのだろうか」と頭を傾げているのである。で、「蘭奢侍」の火入れもまた「冬樹」の火入れを呑んでいるような気分であった。
 生の「蘭奢侍」のあのこってりした甘さがなくなっている。そのかわり舌にのせたときの切れがいい。舌の上でころころころがっているような感触なのである。だから、なついてこない猫みたいな寂しさを感じるのである。
 おっと今宵は4杯も呑んでしまった。
 お勘定、お勘定。

★静岡の日本酒をすすめる★15/10/15のお酒
 庵主が「日本酒が好きだ」というと話をすると、「いちばんうまいお酒はなんですか」という質問が返ってくる。
 いちばんうまい酒なんかありゃしないのだが、庵主はそういう時はためらわず「静岡のお酒を呑みなさい」と答える。自信たっぷりに即答するのである。
 格闘技でいえば、一番強いのは空手か、柔道か、相撲か、プロレスかと聞いてくるような、そそっかしい質問をしてくる人だから、庵主が「静岡の酒」と断定してもその答えが唯一無二でないことに気がつかないようなのである。
 「静岡の酒」と答えるのはそれが庵主の好みだからである。「開運」「磯自慢」「初亀」と錚々たるお酒があるからである。横綱級のお酒がいくらでもあるから間違いはないからである。
 「國香」とか「小夜衣」といった小さい蔵が醸す酒も隅におけない味わいのお酒が多い。熱心なファンがついている。それぞれの蔵に個性があるから呑んでいておもしろいのである。
 10月1日に静岡地酒祭りが沼津で開催された。
 静岡の地酒祭りは東京では毎年9月に如水会館で開かれているのだが、回を重ねるごとに人気が高まって、その入場券はいまやプラチナペーパー(超入手困難)となっている。
 庵主も東京の券は手に入らなかった。それで静岡県内の酒販店にお願いして沼津会場のチケットをやっとこさ手にいれることができたのである。それも店主が自分で使う分を泣き落としで分けてもらったのである。
 それだけの苦労(しばい)をして手に入れるだけの価値があるチケットである。
 会場に並んでいるお酒がうまいのである。
 絶対量が呑めない庵主は、極力試飲するお酒の量を少なくして味わっていたのだが、やっぱり呑みすぎてしまった。
 静岡のお酒の欠点はつい呑みすぎてしまうことである。

★また四合瓶を割ってしまった★15/10/8のお酒
 あっ、またやっちゃった、のである。玄関先に置いてあった「龍力」の特別純米しぼりたて生「神力」の四合瓶をうっかり落してしまったのである。瓶の底の部分が抜けてしまった。あらもったいない。まだ開封していなかったお酒が床の上を流れていく。
 瓶の上の方が割れたのなら、瓶を立てれば半分ぐらいは残ったろうに、底が抜けたのでは悲惨である。栓の方を下にして少しでもお酒を救おうとしたが瓶の首のあたりには猪口一杯分ぐらいしか残っていなかった。
 ほんのわずかになってしまった「神力」を口にすると、まろやかである。味に厚みがある。うまい酒であることがわかる。そのうまさに余裕がある。目いっぱい頑張って造り上げたゆとりのないうまさではない。ゆっくり味わえばいっそうその酒質のよさが浮かび上がってくる性格控えめないいお酒なのである。それでいて一口でそのうまさが、性格のよさが伝わってくるお酒である。つかみがうまい酒といっていい。アルコール度数が18〜19度とあるから、庵主はアルコール度数が高いお酒をうまいと感じることから、それが一口たらずの酒で心ひかれた原因かもしれない。
 この「神力」を呑むのははじめてであるが、庵主が「龍力」にいだいているイメージをそこなわない期待どおりの味わいである。この期待どおりの味わいというのが蔵の信用なのである。以前に呑んだときにうまかったという記憶があるお酒が、自分が期待していた味わい以下の酒だったときはさびしい。では、逆に期待以上だったらうれしいかというと、かならずしもそうでないのである。あれっ、思っていたよりうまいな、で終わってしまう。そして一番うれしいのは、期待どおりの味わいだったときである。どうだ、おれの記憶はたしかだったろうという自惚れがお酒をいっそうおいしく感じさせるからである。さらにうまい酒をきちんと造り続けている蔵元を知っているという優越感がそのお酒をさらに輝かせるからである。
 それにしてもせっかくのいいお酒を、返すがえすも勿体ないことをしてしまった。覆水盆に返らずである。あれ、こういう使い方、合っているのかな。なんてったって、庵主は「風をそよがせてしまう」し、「えもいわれない」と平気で書いてしまうそそっかしいところがあって後から赤面することしばしばなのである。あっ、日本語間違えてしまった、と。「いぎたない」を語感からてっきり行儀が悪いことと思い込んでいたが、辞書を引いたら、「眠りをむさぼっていて、なかなか目をさまさない」とあった。あっ、庵主のことだと苦笑するのである。
 以前にも、買ってきた四合瓶を玄関で落っことして割ってしまったことがある。「福正宗」の「宵待草」である。−8の本醸造で酸味が2.0という「軽快甘口仕込み」というお酒だった。甘口でも呑んでおいしい酒かなと期待して買ってきたのである。一般的に甘口の酒は独特の甘さがあって、庵主には呑むのがかなりきつい酒である。この時も割れた瓶の中にわずかに残ったお酒を呑んだらうまかったことを覚えている。お酒は、残り少なくなったものをいとおしく味わうと一段とおいしく感じるものなのかもしれないと、ふと思ったのである。

★9月の最後に飲むビール★15/10/1のお酒
 10月1日は日本酒の日だそうだ。日本酒の酒造組合が新聞に全面広告を出してもよさそうなものだが音沙汰なく、焼酎の広告の方が元気がいい。没落の日本酒、昇り龍の焼酎という構図が見えてくる。
 ウソで固めたものはいつかはバブルがはじけるのである。焼酎がその轍を踏まないように願うのみである。風評では、もう踏んじゃってるよという声が聞こえてくるのだが。
 10月の声を聞くと、いよいよ日本酒が恋しくなる季節である。
 夏の暑さには、やはり生ビールの誘惑には勝てない。でもひやおろしが出回るようになると体は日本酒にかたむくのである。いうならば10月はお酒の衣替えの時期なのである。
 行く年、来る年ではないが、行くビール、来る日本酒という思いで、9月の最後の日はビールを飲みにでかけた。
 「太閤ビール」のIPAを飲む。いい香り、いい色、そしていい苦み。ビールの魅力の3拍子を味わえるビールである。
 この苦みを味わいながら、庵主も苦みのうもさがわかる歳になるまで生きることができたのだなと、しばし感慨にふけっていた。うまい酒は、酒と会話ができるのである。
 博石館ビールの「クリスタルエール」を飲んで、こういう甘い香りビールが好きなのだから、庵主はやっぱり酒が飲めない体質なんだなとつくづく思うのである。そしてそれでもおいしく飲める酒があることをうれしく思うのである。酒を呑めとはいわないが、お酒が呑めると酒によりかかることができるのである。のめりこむと酒の奴隷になってしまうが、少し呑める分には緊張した心をほぐしてくれる妙薬なのである。
 マスターの機嫌がよかったのか、瓶入りで残り少なくなったから早いとこ出さないと味がなくなってしまうからなのか、同じ博石館の「スーパービンテージ」のお遊び版をごちそうしてもらった。あらためて「スーパービンテージ」の気高さを実感したのである。
 いいビールで納めることができた。両国の麦酒倶楽部『ポパイ』である。