「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成15年8月の日々一献


★酒を呑むと時間が消える★15/8/30のお酒
 大吟醸の古酒を呑む会があった。
 「大信州」の「信濃薫水」。
 「栄光富士」純米大吟醸。
 「一本義」。
 「誠鏡 幻」。
 「銀鱗」。
 「くろさわ」純米大吟醸。
 「伯陽長」9BY。
 「四季桜」の「花宝」である。
 お店で寝かせてあった大吟醸もあるが、それぞれ2年ないし6年間静かに眠っていた酒である。
 庵主は、用意された仕込水をたっぷり飲みながら一通り味わってみた。
 うまいとはいわない。しかしそれぞれに一癖も二癖もある味わいになっている。ここで呑んだのは8本だが、これが7本だったら映画になぞらえて「七人の侍」といっていい酒である。好き嫌いはともかく個性がはっきりしているのである。
 新酒がこれからどうなるのかわからない新人スターだとしたら、これらの酒はできあがった個性で見せるベテラン俳優である。味がある。
 夜の7時からはじまった会だったが、そろそろ10時ごろかなと時間をみたら、時計の針は12時を過ぎていたのである。
 ベテランのお酒に身をまかせていたら、時間があっと言う間に過ぎ去っていた。いや庵主の感覚では時間が消えたという感じがしたのである。
 時間を忘れて酒に楽しむことができることをよしとするか、酒をくらって時間を無為にすごすことを愚かとみるかは意見の別れるところだろう。ただ、庵主はいま酒を呑んで時をすごす余裕があるということだけはたしかである。


★その店は−−安いから好き★15/8/27のお酒
 六本木の駅に近いところに新しい店があった。
 お店の名は「酒友」(さかとも)である。
 酒祭りを読む。「東洋美人」本醸造、「往馬」、「馥露酣」、「磯自慢」別選本醸造、「根知男山」、「開運」吟醸、「楯野川」純吟といったお酒がグラス(80ミリリットルぐらいと見た)で300円〜400円で呑める。
 庵主にはこういうお店がありがたい。量は呑めない。そしていろいろなお酒を呑み比べてみたいから。酒の揃えといい、提供値段といいアンテナショップのような印象を受けたが、あとでお店のパンフレットを見たらはせがわ酒店のプロデュースだった。
 はせがわ酒店なら酒に不足があるわけがない。
 まずは「楯野川」純吟を呑む。
 酒の質感がいい。便箋の紙にたとえるならば絹目の紙のような感じなのである。この感じが庵主は好きなのである。
 新宿駅西口にある「天狗舞」で「中三郎」を初めて呑んだときに感じた味わいを思い出した。酒なのに、口に含んだときにアルコール飲料という感じではないのである。えもいわれぬ甘露をふくんでいるような思いがした。やがて酔いがまわってきて、それがまさしくお酒だったということに気づいたものである。
 その感触を、この「楯野川」を呑みながら思い出していた。にわかに世に出てきたお酒であるが、期待にたがわない酒である。
 二杯目は「開運」の吟醸を呑んでみた。いつも、つい「波瀬正吉」を先に呑んでしまうから、このランクの「開運」はこういうときでないと呑む機会がない。
 これも安心して呑める酒である。十分に酒を味わえる。
 庵主の定量となって、浴衣娘が目につくあいかわらずにぎやかな六本木の夜を後にした。
 おでんをとって、酒2杯で1980円也。量を求めない庵主のためにあるような重宝なお店である。


★「白桃妃」★15/8/25のお酒
  今日はとんでもない日である。銃器ネット、おっと誤変換、住基ネット(住民基本台帳ネットワークシステム)が本格稼働しはじめた日だからである。自分の首をしめるような制度をのうのうと稼働させてしまったことは慙愧に値する。
 連日妨害プログラムが作られて実害が発生している不安定な「ウインドウズ」というどうしようなもないOS(オーエス。パソコンの基本ソフト)に乗っかっているシステムに安全性を求める方が無理なのである。
 ブレーキがよく壊れる自動車に安心して乗れといわれているようなものである。庵主にはそんな危険な車に乗る度胸はない。
 しかも全国どこでも個人のデーターが引き出せるということは、何万人という関係者がアクセスできるということなのだから、プライバシーもなにもあったものではない。それを便利と思うほうがおかしいのである。
 それによってどういう弊害が起こるかわかっていても、世の流れの前にあっては防ぎようがないのである。ほとんどの人が戦争なんかしたくないと思っていても、ひとにぎりの人の策謀の前にはそんな思いなど簡単に払い飛ばされてしまうようなものである。つい最近もその実例があった。
 歴史の流れの恐ろしさをいまひしひしと感じている。個人の思いなどひとたまりもないのである。
 庵主は、この日一日中ろくなことがなかった。
 厄落しに、酒を呑んだのである。
 丸本酒造の「白桃妃」(はくとうひ)である。
 丸本酒造は「竹林」を醸している岡山県鴨方町の蔵元である。そこで桃を使ったリキュールを造ったという。
 「呑んでみますか」というので、災いを払うにはふさわしい桃の酒なので所望したのである。
 たしかに桃のにおいがする。でも梅酒といわれてもそんな気がする味だった。能書きによると一本に白桃を2個使った本物指向のリキュールであるという。
 この手の酒は女性向けということで造ったのだろうが、庵主のような男も呑むのである。だいたい女に酒を飲ませるのは邪道だと庵主は思っている。飲むなとはいわないが。
 「白桃妃」。とんでもない日には厄払いのおまじないとして飲むにふさわしいお酒なのである。


★すぐ訂正★15/8/20のお酒
 知らないということは強い。断言しちゃうのだから。
 鑑評会の金賞受賞酒というのは、香りはいいけど味はなよなよしたものが多いと書いたが、それはウソである。
 必ずしも味が弱いものばかりとはかぎらないのである。呑んでもうまい金賞受賞酒があった。
 ここでいう「うまい」とは、うまいまずいのうまいではない。鑑評会の出品酒は杜氏が技を極めたお酒である。まずいわけはないのである。呑んで損するお酒ではない。十分にうまいのである。値段を考えなければ。
 ここでいう「うまい」とは、呑んだときの充実感のことである。味は悪くはないが印象に残らずに通り過ぎていく酒があるが、そうではなく、呑んだという記憶を残していくお酒をうまいというのである。
 「南部美人」の大吟醸斗瓶囲い雫酒 鑑評会出品酒がそうだった。ちなみに値段は一升瓶で8000円となっているが、8000円出せば呑めるかというとそういうわけにはいかない。少ない本数なので日頃の行(おこな)いがいい人だけが呑める酒なのである。そういう人がこのお酒にめぐり会えたなら一升瓶で8000円でお分けしますよということなのである。
 自動車のように工場で設計図にもとづいて複製できる商品ではないので、納車6か月待ちなら手に入るという世界ではないのだ。お酒の世界は。
 そういうお酒は庵主のような人が先に呑んでしまうので、あとには空瓶だけが残されるのである。
 しばらく舌の上でころがっていた「南部美人」の出品酒は、うまいという余韻を庵主の心に残して消えていったのである。
 上には上があるという冷酷な言葉がある。それを知ったら自尊心と矜持をもった多くの人は生きていくはりあいがなくなる言葉であるが、お酒の場合はその違いを幅が広いといって愛でるのである。
 人間の才能の違いは上下であるが、お酒の味わいの違いは左右の幅の違いなのである。これならどんなお酒を呑んでいても奢ることはできない。また卑屈になることもないのである。


★やったね、「北の錦」★15/8/15のお酒
 プロ野球に北海道シリーズというのがある。
 プロ野球の出稼ぎ興行である。避暑興行なのかもしれない。
 巨人の選手などは北海道に遊びに来ると俄然調子がよくなってはりきっちゃうのである。だから本当の目的は別のところにあるのかもしれない。
 さて、「むの字屋」も北海道シリーズである。庵主の生まれ故郷は北海道の千歳市である。お盆なのでお墓参りをしてきた。本当の目的は別のところにある。
 東京にいて、全国各地のまっとうなお酒を呑んでいると、どうにも郷里で呑む日本酒がおいしくないというのが実感なのである。
 北海道の日本酒がそもそもおいしくないのか。
 北海道という風土で呑む日本酒がおいしくないのか。
 北海道にある日本酒がおいしくないのか。
 それを探りに行ったのである。
 街中の居酒屋で(庵主が)呑めそうなお酒を置いてあるお店を探して呑み歩いたのである。
 ただし、街中といっても千歳市内である。しかも旧市街といっていいあたりだけである。
 庵主が幼少のころには人も住んでいなかった地区がいまや新興住宅地となっていて、広々とした、いやそこまではない、余裕のある敷地に瀟洒な住宅が建ち並んでいる。その新興住宅地にまでは足を伸ばさなかった。それらの住宅地は自動車を利用することが前提の地にあるからである。だから以前は人が住めなかったのである。
 以前ならいさしらず、当今車に乗って飲みにいったら、飲ませたほうも犯罪者である。歩いて行ける範囲の居酒屋にどれだけおいしいお酒があるかが重要なのである。
 1軒目で大当たりだった。庵主が呑める酒の揃っている店だった。ほかの店で期待外れの酒を呑んだときもここに戻ってくれば口直しができる。
 玄関先の間口は狭い。隣はバーで、右の入口がバー、左の入口がこの店になっていて、バーの看板のほうが蠱惑的だから、うっかりすると気がつかない控えめなお店である。
 看板に地酒とはあるが、お店の外には揃えている酒銘が出ていないので、はいってみたらそこそこのお酒をそろえただけの店だったという不安もあったが、たまたま玄関がガラス戸で、店内をのぞいてみたら冷蔵庫の中に一升瓶が並んでいるのを見て入ってみたのである。
 庵主が座ったカウンターの前にちょうど簾が掛かっていて、そこに酒銘が書かれてた紙が2列、3段にして貼ってある。
 まず、目の前に「正雪」である。庵主の好きな静岡の酒の中から「正雪」を選んだというのがうれしい。「開運」「磯自慢」を置くというのはあっても中から「正雪」を選び出したというのがいけるのである。
 隣に「飛露喜」とある。これだけは定価で手にはいらなのでプレミアムが付いていますと主人は恐縮していた。といってもバカ高値ではない。もちろん、庵主はそういう酒を頼むことはしないけど。
 その上に「益荒男」がある。山廃である。呑んだことがある酒だけれど、やっぱり口にしたくなるのである。
 その右に、ご存じ「山法師」。「六歌仙」の酒である。ほんにり甘い、庵主好みのお酒である。
 庵主の呑み量は五勺だから、これだけで十分である。いや十分すぎる。せいぜい2杯が限界なのだから二晩(ふたばん)通える。
 しかもその上に、「南」の大吟醸が、そして「龍勢」の番外品が掲げられているのである。
 「南」と庵主の出会いは衝撃的だった。庵主が初めて呑んだのは本醸造だったが、もちろん保管のいいお店でほどよく冷えて出てきたお酒を口にしてそのうまさにびっくりしたものである。これならへたな大吟醸より呑んでいて楽しいというのが第一印象だった。
 丁寧に造られたお酒をきちんと保管して、ほどよく冷した状態で呑むときの日本酒のうまさはまさに至福といっても過言ではないということを知ったのである。
 そして「龍勢」の番外品は、東京でも知っている人が少ないだろう逸品である。
 こういうお酒の揃え方をしているお店は料理もうまいというのが庵主の経験則である。いい酒を揃えているお店は料理もうまい。しかしその逆は真ならず。うまい料理を出してくれるお店が必ずしもいい酒を置いているということはない。
 さて、本題である。
 「北の錦」の特別純米酒「北斗随想」である。
 「北の錦」は時として三増酒を平気で造るので、期待をしながら呑んでもいま一つ満足が得られないお酒だった。北海道なら旭川の「男山」か、栗山町の「北の錦」がうまい酒を造らないと他の蔵の酒を呑む気が起こらないではないか。
 が、こんどの「北斗随想」は呑んで納得したのである。これなら呑める。杜氏の思いと、その気魄に応えてお酒がその思いにたがわぬ酒を醸し出したのである。造り手と酒の呼吸が一致して、手を携えて飲み応えのあるお酒を造ったぞという快感が伝わってくる酒なのである。監督の作戦と選手の働きがぴったり合ったクリーンヒットである。呑んでいてつまらないはずがない。呑んでいてワクワクする酒なのである。
 北海道で造られる日本酒を呑んでいて物足りなかったものはこの快感だったのである。


★「開運」の金賞受賞酒で一升瓶★15/8/13のお酒
 全国新酒鑑評会の金賞受賞酒というのが出回っている。もちろん受賞酒自体はそんなにたくさん量があるわけではないから、金賞を受賞した酒と同じタンクの酒というわけである。斗瓶に取り分けたうちの出品しなかったものということである。鑑評会の酒の雰囲気が味わえるということで、ちょっと呑んでみたくなるお酒である。
 小売価格は通常、四合瓶で5000円である。それを仮に3800円とかの安い値段をつけて売ってもいいのだが、値段が安いから売れるという酒ではないので、それをやっても蔵と酒販店が儲けをとりそこなうだけの愚行にしかすぎない。しかも呑み手の期待まで損なってしまう蛮行でもある。
 かといって6000円とか7000円とかの値札が付いているとこんどは割高感を感じてしまう。四合瓶でそんなに出すなら、一升瓶でもっと安くて十二分にうまい酒がいくつも頭の中に浮かんでくるからである。しょせん鑑評会の酒である。どっしりしたうまさを味わう酒ではない。女の子にたとえると、ただ美人なだけの酒である。ちょっと見てみたいが、すぐにあきることがわかっているからである。
 この四合瓶で5000円という値段設定が酒呑みの気持ちをくすぐるのである。なんとなく値段が高いのでうまそうに思えるのである。しかも金賞酒なのだからきっとうまい酒にちがいないと信じたくなる金額なのである。少なくてもハズレはないという安心感はある。かりに期待はずれであったとしても、金賞酒を呑んだという話題のネタにはなる。それで十分もとが取れる値段であるところがニクイ。
 ときには「金賞受賞蔵の酒」というラベルが貼られて売られているお酒があるが、それはもちろん鑑評会用の酒ではない。ただの宣伝文句である。それはまずい酒であるとは断定しないが、うまい酒である保証はないということは確かである。美人と同じ町内に住んでいる娘ですといっているようなものである。
 さて、「開運」の金賞受賞酒である。もちろん大吟醸である。一升瓶にはいっている。酵母が明利・静岡とある。庵主は初めてきいた。静岡県で作った酵母なのだろう。香りがよく出る酵母なのだろう。
 まずは呑んでみる。
 まあ、きれい。香りはほんのり吟醸香。華がある。口に含むと舌をくすぐるお酒はまろやかな感触でやわらかくてたおやか。その味わいはたよりないほどしなやか。
 鑑評会酒というのは、味のうまいまずいを競う酒ではない。要求される一定の条件にどれだけ近づけた酒が造れるかという技を競う酒である。
 その一定の条件が上のような酒なのである。過度にならない香りがあって、味わいに厚みはないが、しなだれてくるような感じの酒である。その独特の味わいは、一度呑めばまた呑むまでもない強く印象に残る個性的な、いや不思議な酒なのである。
 この手の酒をうまいといっても間違いではないが、正しくは美しいお酒といったほうがふさわしいようである。ようするに晴れ着の美しさなのである。日常着のよしあしとはちがうということである。
 「開運」の金賞酒は、杜氏の技に冴えを感じさせる出来ばえであった。
 酒は杜氏で選ぶものなのである。


★ちょっと呑み過ぎ★15/8/8のお酒
 どこの蔵の酒だったかさえ思い出せない。純米吟醸「馥露酣」(ふくろかん)を呑む。波瀬正吉杜氏のもとで修行した杜氏が醸していると聞いた。
 初めて呑む酒である。
 風格のあるお酒だった。うまい。
 「開春」無濾過生純米吟醸50%。精米歩合50%を吟醸として出している。すっきりした味である。甘くてまろやかな酒質を厚みを感じる味とすれば、これは厚みが薄い酒である。かといって、よくあるアル添の普通酒のような、なんとなく元気が感じられない酒質とは違う。食中でも呑めるキリッとしたいい酒である。
 「長珍」。これは堂々たるうまい酒である。ちょっとばかり渋みがあって、大吟醸(だったと思うのだが。吟醸だったかもしれない。記憶がはっきりしないのである。)の貫祿をたたえている。まさに大吟醸を呑んでいるようないい感じの酒だった。
 「飛露喜」。キレのいい味は、十分にうまい。
 ちょっと呑み過ぎといったところではない。大吟醸だったか、純米吟醸だったのか、たった四つの酒なのに、呑んだ酒のデーターが思い出せないほどに、そんなことはどうでもいいと思うほどに呑み過ぎてしまった。
 というよりも、呑んだ相手の話がおもしろかったので、ただただお酒のうまさを味わっていたのである。
 思えば、酒はデーターを呑むものではない。その味わいを楽しむものなのだ。今宵は正しいお酒の呑み方をしていたのである。


★日本酒3杯の幸せ★15/8/6のお酒
 暑い。東京は八月にはいってからそれまでの冷夏が一転していつものように蒸し暑い夏になった。
 ただ、7月は全国的に涼しい夏だったことから米の出来に心配が出てきたようである。
 杜氏さんにいわせると、米の出来が悪い年は、その分、気を使ってお酒を造るのでかえっていい酒ができるというが、期待していいものやら。
 いつもなら2杯なのに、今宵は3杯呑んでしまった。
 「伊予賀儀屋」(いよ かぎや)純米吟醸生詰である。松山三井を50%削って造ったお酒である。
 気魄が感じられる酒である。ただ松山三井の限界なのか、せいいっぱいでも田舎娘という感じなのである。山田錦のお嬢様味とはまた一味違う趣がある。
 酒に力がある。その気合のうまさで呑めるいい酒である。
 「十四代 播州愛山」。愛山は「あいやま」と読む。米の名前である。特吟とある。純米大吟醸である。
 なめらかな味わいにできあがっている。
 「以前より味にまるみが出たとは思わない」と聞かれたが、庵主には以前の味が思い出せない。値段のことを考えなければ、これはこれでうまい酒である。
 最後に呑んだのは「東北泉」の金賞受賞酒の「佐々木勝雄」である。
 金賞受賞酒は、たしかに香りがしっかりしている。というより華やかである。酔って呑んでも香りを感じるのである。そのかわり、味はなよなよしている。そういう酒なのである。
 鑑評会のお酒は、旨さを競う酒ではなく、酒造りの技術を競うものだから、それはそれでいいのである。規定の条件にどれだけ近づけられるかという腕試しなのだから。
 その酒をうまいかと問われたら、庵主は一度呑んだら十分と答える。でも一度は呑んでみたいお酒だねと付け加えるのである。
 そのお店の一番小さいグラス3杯のお酒ですっかりいい気持ちになってしまった。
 この酔いごこちを幸せといったら、すごくちっちゃな幸せですねと言われるかもれないが、これらのお酒にめぐり会えた僥倖に庵主は幸せを感じているのである。恵まれていると言い換えてもいい。
 そして、それで今宵は定量なのである。