「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成15年6月の日々一献
★こういう贅沢をすると罰があたる思ってしまう★15/6/25のお酒
 だめなのである。庵主はご飯を残すことができない。六十年配の男が茶碗にご飯粒をつけたまま食事を終えるのを見ると行儀が悪いと思ってしまう。食べきれないのなら、最初から食べられるだけよそってもらえばいいのだ。その程度の判断力もないのかとその男の器量を見限りたくなる。身なりもりっぱなそこそこの教養を感じさせる男なのに、どういう躾けを受けてきたのだろうかとと哀れを催すのである。
 でも、本当はわかっているのである。歳をとってくると量がたべられなくということを。これぐらいなら食べられると思った量が食べきれないのである。幼少の躾けに則って、一粒の米でももったいないと思っていても、その一粒を食べてしまうと体に負担がかかってしまう。消化がよくない。いつまでも胃がもたれるのである。その不快感は耐えられない。だから残してはいけないと思っていても残さざるを得ないのである。歳をとるとそれがわかる。
 食欲は観念である。空腹は頭で感じるものだから、実際に体が食べられる以上に食えるように思ってしまうのである。しかし肉体は現実である。胃腑は観念通りには機能してくれないのである。それに体自体が若い頃ほどの栄養を必要としなくなっているのだろう。本人はいくつになっても若いつもりでいるかもしれないが、はっきりいって老境なのだから。老いてなお健啖という人がいるが、あれは体が壊れているといっていい。一でいいところを二も三も摂取するというのは自分の体が無駄に作られているということにほかならない。人の二倍も三倍もうんこをしてどうするのと思いたくなる。
 貧乏育ちのせいか、庵主はどうにも華美とか贅沢というのが性に合わない。もったないなという思いと、にぎやか過ぎてなんとなく落ち着かないからである。豊かさにかえって目がくらむのである。東照宮的な装飾を見るとどっと疲れを感じてしまう。
 一皿で十分お腹がいっぱいになるのに、いたずらに皿数を増やすのは旅館の宴会料理のようで食材がもったいないという思いの方が先に立ってしまう。
 料理には見る楽しみもあるから、時には皿数の多さに食べる楽しみを見出すのも一興だが、庵主の場合はつい一度にいくつもの料理を食べてしまうのは惜しいと感じてしまうのである。一つ一つの食材をじっくり味わって食べたいと思う。
 その点、お酒はただ米から造る酒である。じっくり味わえるのがいい。そして味わいの違いを楽しめるほどにいろいろなお酒があるので、天の恵みともいえるその味わいの深さに目が開かれるとやめられなくなるのである。
 その酒の会のパーティーには、60銘柄からの大吟醸、吟醸、特別純米の酒瓶が並んでいた。壮観である。いうならば、昔、日本の映画会社が全盛のときによく作られたオールスター映画を見ているような華やかさがただよっている。その雰囲気だけで酔ってしまう。
 鉄砲撃ちは、遠くの獲物を狙ったときに当たったという手応えを感じるというが、庵主もまたその酒瓶を見るとその酒のオーラの多寡を感じるのである。長年の経験の蓄積による人間の勘というのは侮れない。オーラを強く感じた酒に吸いよせられるのである。
 並んでいる一本一本に主張が感じられる美酒ばかりだった。一つ一つの瓶を見ているだけで庵主の想像がふくらむ。呑み手に語りかけてくるお酒ばかりなのである。
 そういうおいしそうなお酒を目の前にして、「あー、また贅沢をしてしまった」と、半分うれしくもあり、半分罰(ばち)があたるのではないかという身のすくむようなありがたさを感じていた。

★人気の日本酒★15/6/20のお酒
 あくまでも人気についてだけ書く。
 60銘柄前後の全国の錚々たるお酒が並んでいる中で、集まってきた呑み手はいろいろなお酒を呑み込んでいるかなりヒネタ呑み手であるという状況で、瓶が空になったのは「磯自慢 純米大吟醸」と「十四代 龍の落とし子」との2銘柄だけだった。
 人気、はそうだったというご報告である。
 ちなみに、庵主が好きな「冬樹」を醸す「福乃友」の「純米大吟醸」があったし、「開運」の大吟醸「波瀬正吉」も並んでいたのである。

★「笹一」に口をつけなかった理由★15/6/18のお酒
 紀伊国屋ホールで芝居を見る前の腹ごしらえに飛び込んだ天麩羅屋で、天麩羅があがる前に一口味わってみようと思って御酒を頼んだ。
 いくつかある銘柄の中から一番安い「笹一」の吟醸を注文した。べつに安いからそれに決めたわけではない。値段が一番安いということでメニューの一番上に書かれていたこともあるが、「笹一」という酒がこの店でしか呑むことができないからである。だから呑みたかったのである。
 コップが升をはいて出てくる。庵主は外側に酒がたれているコップでお酒を呑むのが嫌いだから、お酒を注ぐときに注文を入れたのである。「コップに八分目でいいですよ」と。ところが年配の女性の給仕さんは気前よくコップからお酒をあふれさせてしまった。
 「あー、やっちゃった」と思ったときには、酒はコップの縁からあふれて塗りの升の中にこぼれていた。
 客が少なくていいといっているのにそれを無視して大量の酒を注ぐというのはけっしてサービスではない。それですっかりへそをまげてしまったのである。
 その酒には手をつけずに天麩羅だけを食って店を出てきた。屁理屈をつけるなら、どうせこんなに呑みきれないのである。呑める量だけ呑んで残した酒は捨てるしかない。口をつけなければ、いま四合瓶から注いだばかりのお酒だからお店で使うこともできるというものである。
 もし、お店の人からお酒に手をつけなかったことを聞かれたときのために用意しておいた返事はこうである。
 「湯のみでいえば糸底が、コップでいえば底が濡れている器で飲物を飲むのがにがてなものですから。口をつけていませんので、料理酒にでもご利用ください」
 その必要はなかったが。

★本を2冊★15/6/11のお酒
 庵主、時に本を読む。本を二冊買ってきた。
 一冊は「野蛮なクルマ社会」(杉田聡著・北斗出版社1995年刊・1785円税込)。もう一冊は「たばこを吸わせろ 」(プレスプラン編集部編・サンクチュアリ出版2002年刊・1680円税込)である。
 共通点はともに、有害な煙をまき散らすメイワク商品を論じているということ。その煙はおそらく花粉症とか各種アレルギーの原因となっていることはまちがないだろう。そのプラス面とマイナス面を考量して、マイナス面はお医者さんの有力な儲け源となっていることから目をつぶり、プラスのほうだけを強調して販売されているという、いずれも税収につながるということから野放し状態で跋扈している商品である。
 それが少数者だけの楽しみだったのなら我慢の限度内であるが、いうならば貴族の趣味であるが、量が拡大したことで車も煙草も殺人産業となってしまった。アメリカにはもう一つ、銃器会社という殺人産業があるがそれは幸いなことに日本にはない。アメリカは銃がないとその存続が維持できない人工国家である。銃の必要がない日本に生まれたことを庵主は幸せと思っている。しなくてもいい心配で心をわずらわされることがないということである。
 自分がたまたまその立場にならなかったということで、運悪くその立場に立たされた人がとった行動を非難する人がいる。自分がそのような状況に直面したときに非難した行動をとらないでいられたという人ならその非難も当たってはいるだろうが、案外観念的な正義を口にして自分はそのような間違ったことをしない人間だと自己満足していることが多いのである。自己欺瞞といってもいい。そういう間違った行動をちゃんと非難できる私は正しい人間だという思い違いである。これだけ読んでも何を言っているかわからないだろうが具体的には次のようなことである。
 この前の戦争で戦闘に従事した兵隊さんの蛮行を非難する人がいる。人殺しが好きで兵隊になったという人が興にまかせてやったというのならその性癖を非難する余地はあるが、徴兵でもっていかれた市井の人の戦闘時の行為を非難できる人がいるのだろうかということである。戦闘で戦友が敵の弾でバタバタ倒れているというときに敵を恨まないでいられる人がいるとしたら、そっちの方が異常である。そういう状況に追いやられた兵隊さんの蛮行を非難することは想像力が欠如しているとしか思えないのである。だから、庵主は兵隊さんの行為は平時にやったら悪いとさるれことであったとしても、それを平時の論理で非難するのはやっぱりおかしいと思うのである。平時でないという状況を前提にしない善悪論は論じる人の考え方が粗雑なことを証明しているだけである。だって状況が違うときにそうでないときの判断基準に合わないからと言って非難されても対応ができないからである。
 私はこれまで間違いをおかしてこなかったという人も、たまたまそのような状況に立ち会わなかったということだけで恥をかかないでいることが多いのである。長生きすれぱ恥多し、とはその人がいろいろな経験をしたことの勲章である。
 惚けて寝たきりの親の首を、看護疲れと心労から心なしも締めてしまったという老齢の子供を、親殺しということで非難することは簡単だが、その立場になったときにあんたはそれを考えないでいられるかい、ということなのである。自分にはできないことを前面に押し出して他人を非難する正義などは聞いているとつまらないのである。
 ちょうどまずい酒が呑んでみてもちっともつまらないと同じである。つまらないということで、中身がないということがわかるのである。
 少量なら許されることでも、事例が多くなると有害になるものがある。薬がそうだろう。薬は体に毒である。その毒を少量使うことで治療に役立てているのである。多くなったら体を損なう。車も煙草もそれに似ている。
 車を「鋼鉄のアヘン」というのは著者の杉田聡氏である。その表現はうまい。「走る棺桶」よりずっといい。車は中毒者がやたらと多いということとそれを提供する業者の数と経済力が大きいので、黒いものでも白で通ってしまうのが現実である。
 こと車に関しては大人が一方的に子供の生存権を脅かす強者の論理であると指摘する視点を庵主はにがい思いをしながら読んでいるのである。実は最近運転免許をとったものだから。
 いっぽう煙草はそのままがアヘンみたいなものである。
 覚醒剤は興奮させる麻薬、阿片は働くことがいやになる麻薬である。世界の大方は体が寛ぐ薬(やく)が主流だというのに、日本人はなぜか働くことが好きだから同じ麻薬でも体に元気が漲る覚醒剤が好まれるという笑い話を読んだことがある。
 昨今のアメリカに始まった煙草規制は世界制覇を目指して、わが日本にも押し寄せている。禁酒法を本当にやってしまったあのアメリカの思潮である。気ちがい沙汰という言葉がぴったりくる。
 それが流行なのである。あとから振り返って見ればはずかしいことでも流行の最中にはそれがかっこういいのである。いまは喫煙有害論がカッコイイのである。向かうところ敵なしである。
 その流行がお酒の世界に波及しないことを願って、あわれな喫煙者(ニコチン依存症患者)の最後のあがきをいま前轍として学習しているところである。
 人間って進歩しているのかなあ、と思うのである。物は豊かで、心貧しく、見栄は大きく、志は小さく、一人さびしく、いつも心が満たされない。それが人間の幸せだったのだろうか、と。
 かといってまた貧乏に戻るのもかったるいしなあ。今は、必要以上には求めないということで心の節制をはかるというのが心の安らぎになるのではないかと思っている。

★お酒は論じても詮ないことで★15/6/4のお酒
 庵主がお酒といったときは日本酒のことである。
 いつも思っているのは、呑んだお酒のよしあしだのをどうのこうのと書いているのだが、それ自体はなんの役にも立たないということである。
 庵主が日頃口にしている日本酒は、そのほとんどが造られている本数が少ないお酒である。ここでうまかったと書かれている酒をさがしてみても、そのお酒とめぐり会えることはまずむずかしいと思われる。うまいお酒は出会ったときに呑んでしまった方が勝ちである。そういう商品なのだ、お酒というのは。
 ではなぜお酒を語るのかというと、そのお酒に込められた気合を伝えているのである。庵主が呑んだ酒と同じ酒を呑むことはできないにしても、造り手の意気込みを感じたお酒なら、同じ造り手が造った酒なら十分に期待に応えてくれる酒であるということを知っているからである。
 庵主は、こういういい酒をいつも呑んでいるぞと自慢しているわけではなく、こういう神気のこもったお酒があるぞと伝えることで造り手の意欲と技を讃えているのである。
 一つはうまい酒を造ってくれた造り手に対する感謝の気持ちからであり、いま一つはそういういい酒が探せばあるぞという酒呑みに対する情報提供なのである。
 情報提供と難しく書いたが、要するに口コミのことである。庵主が確認したお酒のうまさをお知らせしているのである。