「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成15年3月の日々一献
★「月桂冠 大吟醸鑑評会金賞酒」★★15/3/28のお酒
 「月桂冠」が鑑評会の金賞獲りのために心ならずも醸した逸品である。
 さすがにうまい。その狙いどころが、である。
 香りもでてる。過ぎることのない香りがある。吟醸香である。いい酒であることがそれだけでわかる。
 呑んでみると、舌に当たる渋みともいえる味わいがなんともいえない絶妙な味なのである。香りだけの大吟醸ではない。うますぎることなく、期待にそむくことなく、大吟醸の雰囲気を醸しだしている。
 大吟醸といってもいろいろな味わいがあるのだけれど、庵主が呑んでうまいと思う大吟醸は舌に乗せたときにまろやかで麹の味わいが感じられる甘い大吟醸である。が、その手の大吟醸は、どこの蔵が造っても似たような感じの味になるのである。酒も極めれば似かよってくるのだろう。しかし「月桂冠」のこの大吟醸は明らかに他の大吟醸の味わいとは異なる主張を感じるのである。味に個性があるのがいいのだ。うまいと言わせる酒なのである。大手蔵の実力を知るのである。
 はったりのきいた酒であるともいえる。うまいと感じさせたあとはその感動がきれいに抜けていくのだ。口のなかにうまいという印象だけが残るのである。
 五勺程度呑むのならこの酒はうまい。たくさん呑もうというときは、この程度の香りでもいらない。もっと地味な香りでいい。個性立つ味わいもいらない。主張する酒はいらないのである。もっと控えめな味の酒がいい。かといって大手蔵の普通酒といわれる味もそっけもない、悪くはないがうまくもない酒ではつまらない。
 そういう時にほしいのはしっかりした酒なのである。うまいと感じさせる必要はない。うまいと感じる酒はすぐに鼻につくからである。かといって薄っぺらな味わいのアル添酒ではからだが受け付けない。控えめなうまさを秘めているお酒が呑める酒なのである。
 うまいと感じた酒はすぐあきる。まずい酒はからだが受け付けない。うまいのだかまずいのだがよくわからないが、なんとなく呑めてしまう酒というのがある。そういう酒を庵主はいやな酒というのである。
 
★「いま酌んで今うまい天狗舞」(借用)★15/3/25のお酒
 歌人の俵万智氏が「未成年者飲酒禁止法」に抵触する不良少女だったことを告白した衝撃の書、しかも同法を蔑(ないがし)ろにして遵法精神のカケラもない反禁酒一族の中で育ったという少女時代を赤裸々に綴る新刊の「百人一酒」(文芸春秋社刊・1600円税込)に載っていたのが「いま酌んで今うまい天狗舞」である。
 自信作、とあるが、庵主も同感ということでちょっと拝借させていただいた。回文である。竹藪焼けた(タケヤブヤケタ)である。それも日本酒の酒銘を折り込んだ回文である。サラダ記念日の作者だけあって粋な遊びをされる。
 回文といえば庵主が思い浮かべるのは「軽い機敏な子猫何匹いるか」の土屋耕一氏である。その「佐藤池田総理嘘だけいうとさ」には思わず笑ってしまったものである。そしてうなってしまったのである。日本語をこのように軽妙に使いこなせる感覚の持ち主がいるということを目の当たりにして、こと才能に関しては平等という言葉は必要ないと悟ったのである。天から授かった能力を十分に発揮することを才能といい、その人を上手(じょうず)という。そうでないのはただの下手の人である。
 庵主の好きな「冬樹」(キユフ)、いま燗にして呑んでいる「あら玉」(マタラア)、いまわの際に呑む酒と決めている「開運」(ンウイカ)はどれも回文にできそうにないのが残念である。いや、酒銘の前に一つ言葉を置けばなんとかなるかもしれない。こんどお酒を呑んだときに回文で遊んでみようと思う。
 ちなみに庵主が下手を発揮するとこういうことになるのだが、次の数行は読まれない方がよろしいかと思う。現今の日本語の使い手がこの程度の技しかないのかと思うとわが日本語の将来に暗澹たる思いを抱かざるをえなくなること間違いなしだからである。
 「ん、愛(う)い、かわいい、いいわ開運」。こういうのはありかな。
 「熱き湯布院、懇意冬樹ツアー」。意味が通じるようでないようで、こんな感じでもいいのだろうか。やっぱりやめておけばよかったと思うのである。
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補注
 あっても無いに等しい(最初からやる気がないという意味で)アホ法律といえる「未成年者飲酒禁止法」には第一条[未成年者の飲酒禁止]満二十年ニ至ラサル者ハ酒類ヲ飲用スルコトヲ得ス、と書かれているという。また、第二条2項及び3項にはそれぞれ「親権者が未成年者の飲酒を抑制する義務」、「酒類取扱業者が未成年者に対し酒類の販売等を行うことの禁止」と規定されているという。しかし、だれからもまともに相手にされない可哀相な法律なのである。

★親切ラベル★15/3/21のお酒
 これを親切とみるか、よくまあマニアックなこととみるかは別れるところだろうが、あっても一向に差し支えないものなので、庵主にとってはうれしいラベルなのである。
 日本酒の裏ラベルである。そのお酒の詳細なデーターが書かれている。
 思えば、当今の映画の最後に流れるロールタイトルの延々と長いことを、昔の映画の裏方表の簡潔なことに比べてよしとするか、だれもカメラのハレギリをした人の名前まで知りたくないだろうにと一笑に付すか別れるところに似ている。
 映画の最後の長いタイトルなどもう見なくていいやとうっかり席を立つと、近作のゴジラのように本職の女自衛官でもこれだけきれいな敬礼はできないと自衛隊の幹部から絶賛された釈由美子の今年一番美しい敬礼といわれるシーンを見落とすことになるから、タイトルの長いのは悪い面もあるのである。
 その点日本酒の裏ラベルは、映画のように時間を要するものではなく、一瞥ものだからそれを必要としない人にもなんら迷惑がかからないところがいい。データーに興味がない人は、即、栓を抜いてお酒を呑めばいいのである。
 庵主はじっくり裏ラベルを味わってからおもむろに酒をグラスにそそぐ。
 「限定無濾過純米吟醸原酒生酒」とある。
 日本酒度  +3
 酸度    1.5
 アミノ酸度 1.2
 酒母形態  速醸
 使用酵母  901
 原料麹米  美山錦
 原料掛米  美山錦 
 味の甘辛  中辛
 麹製造法  箱麹法
 もろみ日数 28日
 粕歩合   45%
 南部杜氏  藤原菊蔵
 精米歩合  55%
 これだけ詳しい裏ラベルはめずらしい。庵主にとってはこのデーターを読んでいるだけで酔える楽しいラベルなのである。酒を想像する楽しみがある。
 そして、ラベルに込められた気魄にふさわしいお酒をじっくりいただいたのである。
 で、後日、このラベルのデーターを書いたメモが出てきたのでここに書き出したのだが、庵主の字は自分で書いた字が読めないほどの悪筆で、一つだけ再現できなかった項目がある「味の○○○ 淡麗」である。しかも、酒銘を思い出せないのである。前後に呑んだ酒は覚えているのに、肝心のこの酒の名前が浮かんでこないのである。裏ラベルのデーターを書き写すことに気を取られて、酒の名前を覚えていなかった。もっとも杜氏の名前があるから蔵元を探すのには手間はかからないと思っていたが、「dancyu」の最新3月号を読んでいたら藤原菊蔵杜氏が出てくる記事が載っていた。
 酒は埼玉県飯能市の「天覧山」(てんらんざん)である。
 この酒の前に呑んだ「菊の司」(岩手県盛岡市)とあとに呑んだ「二左衛門」(福井県松岡町の黒龍)の間にあって酒品のよさとなめらかな呑みごごちのよさに酒銘を銘記することさえ忘れてただただ酒のうまさを味わっていたのである。うまいとか、まずいとかを超越したいい酒だったから。

★お酒のアイスクリーム麹入り★15/3/13のお酒
 庵主がシャーベットのうまさを知ったのは、浅草にあるレストラン『大宮』で食事をしたときに出てきたシャーベットを口にしたときである。
 それまでシャーベットというのはジュースを氷状にしたアイスクリームもどきだとばかり思っていた。凍ったそれをスプーンで削って食べるものだとばかり思っていた。そういう状態でしかサービスされたことがなかったからである。
 ところが『大宮』のシャーベットは違っていた。とけかける一歩手前、いや二歩手前ぐらいの状態で出てきたのである。フルーツでいえば腐る一歩手前の一番うまいときの状態である。スプーンがすっとはいる固さである。それでいてサクサクとした食感が残っている。口に入れるとすぅーと溶けていくのがここちよい。それがうまいのだ。
 これは液体というのか、それとも固体というべきか、それとも口中にひろがるそのさわやかな香気は気体の変化(へんげ)なのか。そうか、シャーベットはこうやって食べるからうまいのかと納得したのである。お酒もそうだけれど、食い物もおいしいたべどころというものがある。おいしい食べ方を知っているというは智恵なのである。お店にいってその智恵を授かってくるのである。
 いつぞやのお店ではカチンカチンに凍ったシャーベットとやらが出てきて、スプーンを力いっぱいにたてても歯がたたないものだからあせっているお客を見たことがある。早めに注文を出しておけばテーブルに出した時にちょうど食べやすい固さにしてくれたのだろうが、突然思いついたようにシャーベットを頼んだので冷蔵庫から出したシャーベットはスプーン如きでさくっと掬(すく)えるような状態ではなかったのである。シャーベットを召し上がるときは早めのご注文を。
 前振りが長くなってしまったが、お酒のアイスクリームである。固かったのである。「久保田蔵直送麹入り酒のアイスクリーム」というのがフルネームである。酒を呑んでいて、ふと振り向いたら壁にそう書かれた紙が貼ってあったので頼んだのだが、注文が遅過ぎたのである。次回は最初に頼んで、それが柔らかくなってたべごろになるのを呑みながら待とうと思うのだ。

★「〆張鶴」大吟醸金ラベル★15/3/8のお酒
 「〆張鶴」である。ちょっと前にその「月」を呑んで、そのランクの味は庵主の好むところではないと判断したが、さすがにこのレベルになると酒がうまい。
 呑んでも味に厚みがないのでちっともおもしろくない薄口の新潟酒が多い中で、この厚みのある味わいは十分にお酒の面白さを堪能できる出来ばえである。
 この金ラベルは、酔うまでに味の深さを楽しめて、酔いがまわってきてもなおそのお酒が楽しめるといういいお酒である。庵主にとってはそういうような、夢をはせることができるお酒が好きなのである。ただ酔っぱらうだけの酒は苦手である。
 酒は酔っぱらうから面白いんだよ、と先達はしかめ面をするのだが。頭で呑むんじゃない、理屈で呑むんじゃない、からだで楽しむんだよ、酒は、と。
 時に庵主にとってはどうでもいい興味のわかないお酒をごちそうになることがある。庵主はいやしいから、出てきたものは何でも呑む。どうですかと聞かれるから、そんな時は「いい酒ですね」と答える。悪くないという意味でのいいである。さすがにどうでもいいのいいですよとは付け加えない。お酒を知らない人がいいお酒を手にいれることができるわけがないことを知っているからである。お酒をごちそうしてくれるその気持ちがうれしいのである。そんな時は酒の味なんかどうでもいいのである。庵主はそのお気持ちをありがたく味わうのである。
 本当にどうしようもないお酒のときははっきりいうことにしている。「結構なお酒ですね」と。もちろんこの場合の結構は、もう結構の結構である。相手が結構いい酒なんだと誤解する分には庵主は一向にかまわない。
 「〆張鶴」の金ラベルは呑んで楽しいお酒だった。もっともその酒亭で五勺で1100円のお酒だから、お酒に興味のない人にはお勧めはしないが。

★酒粕の売り方★15/3/5のお酒
 日本酒を造ると酒粕が残る。
 簡単にいうと、米と米麹と酵母と水を混ぜてアルコール醗酵させたものが醪(もろみ)で、アルコールと水の中で米が溶けてどろどろになった状態である。その醪を搾った液体部分が日本酒である。残った部分が酒粕となる。
 だから、日本酒を造ると必ず酒粕ができる。しかし、技術の「進歩」にはすさまじいものがあり、酒粕がほとんど出ない手品のような清酒の造り方があると聞く。そういう清酒も日本酒として売られていることがある。うっかりすると見た目が似ているから気がつかないのである。
 塩がそうだった。醤油がそうなのである。いつの間にか造り方が変わっていたのに、見た目がよく似ているからそれを塩だと、醤油だと思って食しているのである。せめて「新塩」とか「新醤油」とか表示してもらえば、そんなものは口にしないのだが、そうはいかないのが食生活のきびしいところである。一人でもそれに妥協してしまう人がいると食生活の水準はその低い方にならってしまうからである。
 酒粕の出ない清酒も「新清酒」とでも表示してもらうといいのだが、そうはいかないのが海千山千の日本酒業界なのである。呑み手もそれに見習わなくてはいけない。ただ現時点ではその手の酒は呑むとまずいというのが大方の評判だから、口にすればわかるようだが、そのうち器用な人がどんどん差し障りのない味に変えていくことだろう。味の基準を変えてしまうという手もあるのだ。
 世にはびこるハンバーガーが最初は食うにたえないジャンクフード(ゴミ食)として大方からは馬鹿にされていたが、いまや、その味が標準になってしまったのである。うまいのだそうだ。子供のころからその味をうまいものとして仕込むのだとマクドナルドハンバーガーの藤田田(ふじた・でん)氏が豪語していると聞く。「うまい」の基準を変えてしまえばまずいものでも結構食えるのである。ちなみに藤田氏は、ほんとうかどうかしらないが、自分では商品のハンバーガーをけっして食わないという話を読んだことがある。たしかに一個59円のハンバーガーは知性があれば口にできない。
 庵主は古い体質(からだが)だからハンバーガーを口にするときは怖いもの見たさで恐る恐るなのだが、それをうまいと感じる基準を持っている食い慣れた人にはうまいものらしい。
 そういえば、日本酒の古酒の味わいをうまいといっていいのかどうか戸惑うのはその基準が確立していないからなのである。基準ができればその基準にそってうまくなるのである。「この味のうまさがわからないのか」と繰り返されると、それをうまいと感じないと悪いような雰囲気が醸成されるのである。だからあの紹興酒のような味わいの日本酒が、「うまい」となる日がこないともかぎらないのある。それをうまいと支持する人が増えれば価値観が変わる。
 庵主のようにまともな日本酒を、しかもうますぎる日本酒を日々口にしている人は少ないはずである。それはちょうど絵画の世界においても名画と称される一級品が普通の家庭にあるわけがないのと同様である。名画は、それを愛でることのできる人だけが享受できる「おいしい」絵なのである。しかも数は少ない。はっきりいって興味のない人には名画があろうがなかろうがどうでもいいことなのである。庵主は多分「モナリザ」を見ることなく死んでいくだろうと思うが、多くの人もまたまともな日本酒を呑まずに死んでいくのである。だから誰もが手に入れることができる普通の酒がうまさの基準になるということなのである。呑んだことのないうまい酒の味を想像できるわけがない。
 村上華岳の「裸婦図」を見たら、他の数多くの、いや多過ぎる裸婦の絵はそのほとんどが見てもつまらない絵(見ているうちに疲れてくる絵のこと)であることがわかるのだが、それを目にしていないと「裸婦図」の美しさを想像できるわけがない。
 運がいいのも才能のうちという評価があるが、出会いがあるということもその人が授かった才能(幸運といったほうがいいか)といっていい。庵主は他の分野ではともかく、お酒に関しては天から才能を授かっているのである。恵まれていると感謝している。ただ、呑めないというのにねぇ。運転免許を持っていない人がどういうわけか次からつぎにいい車を貰うようなものである。
 まずいものでもこれはうまいと思って食せるのはかえって幸せなのかもしれない。庵主のようにまずいと感じていても、食い物に悪いと思ってはっきり「まずい」といえない教養の持ち主だと、実感と教養との間で葛藤が発生してせっかくの食事が楽しめないのである。顔ではうまそうに食わねばならないが、やっぱりまずいものはまずいのである。だからそうはならないように、まずそうな酒には近づかないようにしているのである。
 さて、酒粕だが、蔵元ではその処理に困っているらしい。粕漬けにするとおいしいといってもいまや家庭で漬物を作る人は少なくなった。庵主のように甘酒を作るといってもこれまたそんなに需要があるものではない。そこで酒粕を健康飲料として売るのである。せっかく売るのなら付加価値を付けて売ってくれると買う方はうれしいのだ。ウソでもいいから買ってうれしい商品は買い手を幸せにする社会奉仕なのである。まずい酒は買って呑んでもうれしくないからいけないのである。
 いまは花粉症の盛りである。酒粕にはアレルギーの症状をやわらげる効能があるという。そこを強調して花粉症になったら酒粕で甘酒を作って体を癒しましょうと酒粕を普及するのである。どこかのテレビ局にお金を出してでも「酒粕は花粉症にいいよ」と喧伝する賢い蔵元はないものか。全然効用を発揮しなくても一時的には売れるよ。読売新聞に見開きの広告をドーンと出している「立山」あたりがそんなに宣伝広告費が沢山あるのなら酒粕の有効利用のために啓蒙広告を打ってくれるとうれしい。そうしたら庵主も「立山」を呑んじゃうのだが。
 いま、アミノ酸飲料が売れているという。アミノ酸といえば、日本酒である。日本酒の裏ラベルを見ると、アルコール度17度、日本酒度+5、酸度1.4、アミノ酸度1.1などとちゃんと表示されているではないか。アミノ酸飲料のアミノ酸と日本酒のアミノ酸が同じものなのか違うのか知る由もないが、同じアミノ酸なら人気に乗ってしまえばいいのである。毒ではないのだから買い手が誤解しても問題はないだろう。
 アミノ酸飲料のアミノ酸は味の素が工場で作った商品、一方の日本酒のアミノ酸は蔵元が醸しだした日本の風土が育んだ自然食品である、というのが違いかな。
 健康のために、風土が育んだ日本酒の正しいアミノ酸をとりましょうとさりげなく書いておけばいい。
 度を越さなければ、酒粕と適量の日本酒は健康の元である。ほんとうは呑まなくても変わらないのだけれど、おいしいお酒を呑むとちょっと楽しい。あったかい甘酒を飲むと心がなごむのである。おいしいお酒を呑むとしあわせになれるからである。