「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成14年12月の日々一献
★締めは「初亀」★14/12/20のお酒
 例年12月になると「初亀」を呑むのが恒例となってしまった。その会で「初亀」を呑むと庵主の年内の営業は終了である。今年は14日だった。
 庵主は、この一年間おいしいお酒をいっぱい呑ませていただいたことに感謝して、数多くの美酒にめぐりあえるという幸せを天命と思って甘受しながら、滋味と深い味わいをたたえた心の奥にしみてくるお酒をありがたくいただいたのである。
 「初亀」は静岡県岡部町のお酒である。静岡のお酒は庵主の好みに合う酒が多いのでうれしい。だから静岡の酒と聞くとつい顔がほころんでしまう。
 「富士山」を最初に呑む。これで十分うまい。酒に「うまい」という味わいがあるから酒を呑んだという満足感が満たされる。もっとも精米歩合55%とあるから充分に吟醸酒なのである。うまいのが当然なのだ。庵主が求めている60%でうまい酒という条件をはるかに上回っている酒なのである。
 しかし、そのあと大吟醸「滝上秀三」を呑んで大吟醸三年熟成「亀」を呑んだあとに再び口にしたら富士のお山は日本一というわけにはいかなかった。味の深みにおいて明らかに違いがあることがわかる。比べることでせっかくのしあわせが色褪せてしまったのである。逆に後者の実力を実感したといったほうが正しいのかもしれない。
 吟醸酒のうまさは底が知れないのである。だから日本酒がやめられない。なお、庵主が日本酒と書いているときは吟醸酒のことを念頭において書いているので、手頃な値段で提供されているおなじみの日本酒とはお酒の内容が違っているので混同されないで読んでいただけるとありがたい。
 年が明けると酒造りは佳境にはいる。また(又)おいしいお酒に出会えかと思うと新しい年がまた(亦)まぶしく思えるのである。

★お酒到来★14/12/17のお酒
  お酒を頂戴した。北海道の地酒である。「北海男山」の旭川の高砂酒造が地元の中富良野(なかふらの) 産酒米「ゆきひかり」を使って醸した酒である。
 富良野の方から頂戴した。
 酒は「純米清酒 法螺吹」(ほらふき)である。精米歩合は60%である。庵主の好みの磨きぐあいである。アルコール度数は14〜15度に調整されている。日本酒度は+3。酸度 1.3。原料米は中富良野産の減農薬のゆきひかりである。北海道空知郡(そらちぐん)中富良野町のなかふらの産酒造振興会が企画した酒である。製造年月は02.10.HY。
 裏ラベルのデーターを細かく書き出したのはわが北海道の地元産米を使った地酒だからである。「北海男山」が造った酒だから味は悪くないはずである。はたして酒に「うまい」があるか、期待は高まる。
 と、ここまでは開封前にラベルをみながら書き写しているのである。ただ、酒銘が「法螺吹」(ほらふき)とあるから、期待はここまでかもしれないという一抹の不安があるところが北海道の酒なのである。
 一般的に北海道の酒はおもしろくない味わいなのである。「うまい」と感じさせるものがない。その気合が感じられない酒が多いというのが庵主の実感である。だから逆に中富良野町の気合がこもった美酒になっていることも期待できるだけにこの開封前のワクワクする気持ちをこうして書き記しているのである。
 庵主の常飲酒である秋田の「冬樹」は、まさに地元の産米キヨニシキ(ご飯用の米なのである)を使って醸されたほんとうにおいしい地酒である。北海道にもそういう酒が出現した瞬間に立ち会えるという喜びを味わうことができるのだろうか。
 いざ開封である。

★こんどはノンアルコールの日本酒が出現★14/12/12のお酒
 「黒帯」(くろおび)や「加賀鳶」(かがとび)を造っている石川の福光屋(ふくみつや)がノンアルコールの日本酒を造って12月12日から県内で発売するという。
 ビールからアルコールを除いたら苦いだけの麦汁(むぎじる)でうまくもなんともない。飲んでもおもしろくないといったほうがいいか。
 同様に、日本酒からアルコールを除いたら飲めるのだろうか。と不安を抱きながらも飲んでみたくなるのである。ただの仕込み水だったりして。
 低アル(低アルコール)の日本酒を呑むとその味わいの物足りなさにいつもがっかりするのだが、ノンアルコールとなるとどんな味わいを勧めてくるのか。福光屋はまっとうな酒を造る蔵元だけに飲めないものは出してこないだろうという期待が持てるだけにその技を早く口にしてみたいのである。  代吟醸「宴会気分」と名づけられたその飲料ははたして日本酒の雰囲気をたたえているのだろうか気になるのではないか。
 で、ここなら置いてあるだろうと思ってさっそく銀座の五丁目にある福光屋のアンテナショップに行って聞いてみたところ、12日に入荷する100本はすでに予約で完売ですとのこと。でも21日にまた入荷しますということだったので4本予約してきた。250ml瓶で250円とのことである。
 21日が楽しみ。雑誌の発売日が待ち遠しかった子供の時分の気持ちを思い出したものである。この歳になると何かの発売日とか映画の封切日が待ち遠しいということもなくなっていたただけに久しぶりのワクワク気分である。

★たおやか、といい、かろやか、という「竹林」★14/12/6のお酒
 兵庫県鴨方町出身の「竹林」(ちくりん)という酒がいい。
 純米大吟醸「竹林 たおやか」を呑んだ。最初口にしたとき、どおっていう酒ではない、と思ったのだが、その酒がさらりと喉をすぎていったことで、酒質のよさに気がついたのである。このなにげなく呑める酒というのがすごい。たいがいのいい酒は呑んだときになんらかのメッセージ(気負い)がついてくる。かおりがいい、とか、はじめからあまい、とか、きれいに甘味を切ってあるとか、その美しさを媚びてくるのである。アピールしてくるとカタカナで書いたら無難なのかもしれない。
 「たおやか」はすーっと入る酒なので、これいい酒だなと思ってラベルを見たら、純米大吟醸とあって酒品のよさをあらためて確認したと同時にこの酒がうまいまずいを超越したいい酒であることを知ったのである。
 いつも小さいグラスに一杯で、次が呑めなくなるからちょっとだけしか呑まない庵主のからだが勝手についもう一杯を注いでいたのである。
 大吟醸のラベルを見てから、口の中でお酒をころがしてみたらほんのりメロンの香りを感じたのである。一瞬のその香りはアルコールですぐにかき消されしまったが、あの香りは幻ではない。
 吟醸酒はフルーティな香りがすると書かれた紹介記事をよく目にするが、庵主は吟醸香の香りをいい香りと感じることはあってもそれがフルーツの香りと感じたことはほとんどない。酒にメロンの香りを感じたのは、もう何十年も前のことであるが「麒麟山」のブルーボトルを呑んだときに葡萄の香りを感じて以来のことである。
 「竹林 たおやか」を呑んでいて、本当にうまい酒を呑んでいるという贅沢な気分にひたることができた。
 うまい酒を呑むのがどこがうれしいの、と聞かれても返事に困るが、いい酒を呑んでいると造り手の気持ちが伝わってくるような気がしてうれしいのである。普通酒(業界の人しか知らない専門用語。小さく書きます。ご賢察ください。普通の人はこれを日本酒と思っている。なんたって普通とあればそれが当然まともなものと思うのが世の常識だからである。しかしそれは戦時中以来の代用酒のことなのである。水増しした酒みたいなものである。いやアルコール増ししたというべきか。その存在意義は戦後の学校給食に出てきて飲まされた人がみんな閉口したという脱脂粉乳と同じなのである。戦争が終わったら元に戻さなければならないものだったのだ。ところが大蔵省が税収という欲に目がくらんでその手の模造酒も本物の酒と見做(な)すと酒税法上で容認したことから業界が居直ってしまった名残なのである。正しく書くと欲に目がくらんだのは業界の方で、官僚はしてやったりと一枚上手だったのである。大蔵省は税収源の確保という目的を首尾よく達成したが、業界は目先の利益にとらわれたばっかりに後世まで、といっても現在までだが、その志の低さを嗤われているのだからふんだりけったりなのである。ことのよしあしをいっているのではない。戦後史を述べているのである。模造酒はその場しのぎの際物だから、もともと高い志があって作られている商品ではないのであれこれあげつらうまでもないのである。その辺のことを知らない若い人には、もっとうまいまともな酒があるよ、と教えてやればいいことなのだ。しがないという言葉は「志がない」からきたのかな。こうして現存している普通酒を見るにつけ、庵主はそういうのが好きだから飲むにつけ、目の前にその現物をみていると戦争には負けるものではないとつくづく思うのだ。戦争が終わって数十年後にそのツケが回ってくるのである。いまだにそういったわけの「普通酒」を飲まされているのだから、多くの日本人にとってはあの戦争はまだ終わっていないのである。もっとも、普通酒が存在しているということは実はあの戦争はまだ進行中だからなのだという鋭い見方もあるが、歴史というのは百人いれば百通りの歴史があるものだから、そんなことは酒呑みにとってはどうでもいいことなのである。ただ「酒持ってこい」という希望がみたされればいいのだから酒呑みの心根はしおらしいのである。いやいや存外日本酒業界は大人なのかもしれない。いまはまだ戦争中であることを知っていて、だからこそその気になればいつでもまともな日本酒を造れるにもかかわらず、その状態を暗黙のうちに示すためにあえて臥薪嘗胆ともいうべき模造酒という屈辱をさらしているのかもしれないのである。本当に戦争が終わった暁にはもとのまともな酒を造るぞという思いを秘めて今はじっとたえているのかもしれない。模造酒といい脱脂粉乳といい、食料不足という戦時あるいは終戦時においては、ないよりましという性格のものである。食わねば、呑まねば、人間は生きていかれないからその時はそれらはまちがいではない。家畜の餌を取り上げてでも人間が生きるのが正しい。庵主も給食でその脱脂粉乳とやらを飲んでいたはずだが、学校給食のミルクをまずいと思った記憶がない。父に似て下手物を平気でうまいとしてしまう恵まれた能力が備わっているのである。いやいや真実は乳牛王国の北海道だったからまともな牛乳を飲まされていたからかもしれない。)普通酒は決してまずい酒ではないが、また悪い酒ではないのだが、造り手の顔を感じないことが多い。だから気を置くことなく気軽に呑めるというところが取り柄の酒である。
 庵主は酒の量が多くは呑めないので、せっかく呑むならうまい酒を呑みたいということだけなのである。また、まずい酒はからだが受け付けないという現実があるものだからこればかりはどうしょうもない。正確に書くとそのような酒はもう一口呑みたいとは思わないということである。からだが呑むのを拒むようになるのだ。もう酒に近づくのもいやだという気持ちになってくるのだ。日本酒には庵主が呑める酒とそうでない酒があるという厳然たる事実である。
 酒が呑めないのなら呑まなくてもいいのではないかと思うが、これも駄目である。酒がうまいすぎるからである。
 「竹林」のうまさはこだわりのうまさだと思った。
 酒を上撰、佳撰とすることがある。それは原料の違いである。値段の目安である。「竹林」は酒を「たおやか」といい「かろやか」と呼ぶ。それは造りの違いである。求める味わいの違いである。
 味を求めるから原料米は自家栽培なのである。あるいは品質が管理できる契約栽培米しか使わないという。
 いい米を使ったからといっても造りがよくないと目標どおりのうまい酒ができるとは限らないが、「竹林」はそのこだわりで自分の求める酒を実現してしまうのである。そのこだわりに納得させられてしまううまい酒なのである。

★燗酒やーい★14/12/1のお酒
 寒くなって来た。この季節はさすがにビールを呑んでもうまくない。酒は日本酒に向かう。日本酒も冷えたのを呑んだのでは体が温まらない。燗である。が、ここで困ってしまうのだ。燗をつけてうまい酒というのが意外と見当たらないからである。
 たしかに酒売場にいけば燗酒用と謳った酒はいくつかあるが、それを温めて呑んでもうまくないことが多いのである。
 もともと薄っぺらな味わいの淡麗辛口の酒は温めても無駄である。たしかになめらかに喉元をすぎていくようになるが、うまくないのである。白湯を呑んでいるみたいで味わいがない。
 庵主の手元にある酒を片端から燗をつけてみるが、冷やして呑むのが全盛の中にあっては燗でうまくなる酒がないのである。
 庵主は酒亭では「磯自慢」の本醸造か「十四代」の本丸をぬる燗で呑んでいるのだが、手元にそれらがあるわけがない。しかも五勺で楽しむために呑むときにはそれで十分満足できるのだが、体の芯から温めようとしたらちと物足りないのである。うまい思ったときには五勺の酒はなくなっているからである。体をあたためるにはもっともっとぬくもりがほしい。
 何年か前に、「越乃梅里」の燗上がりを呑んだときに燗酒をうまいと感じて以来、酒を買ってきたらまず燗をつけて味わいを確かめてみるというのが庵主の流儀であるが、なかなか、冷やして呑んだ方がうまい酒の方が多いのである。
 で、いま庵主がうまいと思っている燗酒は「竹林 かろやか」である。温め過ぎてはいけない。ぬる燗よりちょっと熱めにつけると味わいがぐっとふくらむ。まるでホット牛乳を飲んでいるように、酒がふっくら、まろやかになり、まさに醍醐といっていい味わいになるのである。滋味である。美味である。この酒は、だからあっという間になくなってしまって、またまた、うまい燗酒やーい、と叫んでいるところである。

★急信・三つの贅沢★14/12/2のお酒
  庵主には三つの贅沢がある。
 一つは大方の日本人がそういうおいしいお酒があるということにまだ気がついていない本当にうまい日本酒を掴み取りのように呑みまくっているということ。
 庵主のような未熟者がこんなにいいお酒を呑んでもいいのだろうかと、いつも忸怩たる思いでありがたく頂戴しているのである。身に不相応の美酒に恵まれていることに感謝しながらも、これはやっぱり贅沢なことだといつも感じているのである。その贅沢におぼれているのである。
 二つ目の贅沢が今日の急信である。残りの日にちが少ないから、とり急ぎお知らせする次第。
 レビューである。劇団未来劇場が毎年この時に師走を飾る「シャンテ ラ レビュー」が12月8日までの公演なのである。
 秘密倶楽部鬼子母神(池袋駅から歩いても二十分ぐらい)で、ひそかにきらびやかに行なわれている恒例のこのレビューは、あでやかに踊る素敵なダンサーを目と鼻の先で見ることができるというまるで夢の中に迷いこんだかのような甘美な世界に心ときめく豪華絢爛なレビューである。それは目の贅沢、食の贅沢である。
 食の贅沢というのは、もちろんワインのサービスがあるのと(赤ワインがうまかった)、なんといっても知る人ぞ知る美食家である里吉シェフ手作りの料理を口にすることができる唯一の機会だからである。このチャンスを逃してはいけない。今ならこの贅沢をたっぷり味わうことができる。
 劇団未来劇場のホームページはこちらです。開演は平日午後7時、土曜・日曜は5時と8時の二回公演。ただし席数が50しかないので早いもの勝ちである。
 そして、庵主の三つ目の贅沢はここでは書かない。ちょっと気がひけることだからである。それは悦楽を伴った贅沢なのである。
 レビューを見たあと寒風の中を帰って来た。体が冷える。この時分はやはり燗酒である。近くのバーに立ち寄ってラム酒の熱燗を飲んで体をあたためる。
 身も心もあたたまる。目の贅沢、食の贅沢、そして心の贅沢。レビューを見ると心がはなやぐ。

★ノンアルコールビール★14/12/1のお酒
 サントリーがノンアルコールビールの全面広告を打っていた。人を酔わせて楽(ルビは「くる」)しませようとするのか、絶対酔わせまいとするのかわからない会社である。節操がないと思ってはいけない。発想が柔軟な会社なのである。ソニーみたい。で、その「ファインブリュー」である。ノンアルコールとはいってもビールを作ってアルコール度数を下げるわけだから「 0.5%のアルコール分は含む」とある。税法上はアルコール度数1%未満の飲料は酒とはいわないから、これは水代わりである。
 作り手の善意に反して、これは考え用によっては子供用ビールである。もっとも子供が麦汁のような苦い味を好むわけがないから、実際はまだビールになじんでいない人を酒の世界にさそいこむ誘致飲料(呼び水)といえないこともない。にがいと思っていたビールもけっこう飲めるのだから一つ本物のビールを口にしてみようかとビール入門のきっかけになりかねない。ま、売れないだろうからその心配はないのだが。うまいビールをあえて不味くした商品を買ってつまらないからである。特殊需要だからである。販売店がもうからない商品の運命は考えるまでもない。商品は流通だからである。商品を買っているのではない。実は流通に乗っているだれもが儲かる製品を買っているのである。流通からうとんじられる製品は手に入らないくなるというわけである。
 庵主は酒を飲むとすぐ顔に出るたちなので、昼間の飲酒はできない。顔に出ない人と昼食をするときに、かれらはビールを平気で頼むのに、庵主にはそれに替わる飲み物がなくていつも物足りないものを感じているのである。だから名のあるレストランならノンアルコールビールは置いておいてほしいというのが庵主の思いである。
 ところが、そのノンアルコールビールというのがまずいものの代名詞なのである。うまくないという次元ではなく、あきらかに不味いのである。水のほうがうまいのだからやりきれない代物である。という情況にあって、あの(イミテーション作りにかけては天才的な能力を発揮するあの。そして製品がまずければ宣伝でうまくすればいいという逆転の発想がお見事のあの)サントリーが、代用ビールである発泡酒の成功の勢いに乗ってこんどはうまいノンアルコールビールを作った(宣伝文句による)というのだから期待がもてるのである。
 で、広告が出た当日、酒屋にいったら物がはいっていなかった。
 むかしアサヒの「Z」というビールがあった。庵主は気に入っていたが、人気がなくていつのまにか消えてしまった。サントリーの生ビールもよかったが、これも今は飲む機会がない。おなじくサントリー時代の「バドワイザー」の生ビールがあっさりしていてうまかったのだが、これもサントリーが手を引いてから飲むことができなくなってしまった。庵主のご贔屓ビールは全滅なのである。もっとも今は地ビールしか口にしないから、量産ビールは社交でして飲まないのて、もうどうでもいいことなのだが。
 昼間は酒を呑めない庵主としてはこんどのサントリーのノンアルコールビールに注目しているのである。またまずいノンアルコールビールだったどうしょうという一抹の不安をいだきながら。