「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成14年11月の日々一献
★どぶろく★14/11/28のお酒
 どぶろくは酒造法では造ってはならないとある。家で簡単にできる酒なのに、である。ためしに造ってみると存外うまいのである。はっきりいって、へたな生酒よりうまいことがある。造り方を書いた本は本屋で手に入る。
 庵主が、にごり酒とか、おりがらみとか、活性清酒などを好まないのも自分でつくったほうがうまいものに高い銭を払ってまで呑みたくないという理由からである。もちろん、まともに造られた清酒に比べるとその気品において、風格において、味の深みにおいて、所詮、野におけれんげ草であるが、自分で造った酒はなんといってもかわいいのである。その分だけ一段とうまいのである。
 造ってはならないどぶろくにも例外があって、古来伝統的に行なわれている神社のお祭りでは製造が許されている。
 小網神社の祭礼がその一つである。さっそくお賽銭をあげて一杯頂戴してくる。
 甘い酒を好む庵主にとってはうまいのである。ただ、神社では商売で呑ませてくれるわけではないから、プラスチック製の小さいコップにほんの一杯だけなので、飽きるまでの量がないから、よけいうまく感じるのである。
 食べ物でも呑み物でももう少しほしいというところでやめておくのが一番うまいのだが、酒は駄目である。それができない。うまそうな酒が並んでいると、すでに適量とわかっていてもつい呑みすぎてしまうのである。
 呑みすぎて明らかに体が酒を受け付けなくなっているのを自覚しているのに、ここでこの酒を呑んでおかないと次の機会がないぞと言い聞かせて、ついつい意地きたなく呑みすぎてしまうということは庵主においても避けられないのである。上手に酒が呑めないのである。そして、呑み過ぎた時には庵主はいつも肩にくる。肩が激しく凝ってその痛みに耐えるのである。自虐的な酒なのである。だから庵主は手元にトクホン(サロンパスより少し安いから)を切らしたことがない。

★その店は/日曜日にうまい酒が呑める★14/11/24のお酒
 大方の吟醸酒亭は日曜・祭日は休みである。が、ときに、日曜日にいいことがあってぜひともうまい酒が呑みたい時がある。そんなときにはこの店しかない。
 酉の市の前夜祭の日曜日に立ち寄った。花園神社の隣にある店である。
 まず一杯は大吟醸「常きげん 吟醸王國」である。
 「杜氏が農口さんに替わって造った大吟醸です。さらりとした酒ですよ」とは主人のことば。
 まさにそのとおりのさらりとした酒である。そのさらりの味わいが、似て非なる軽い酒とは違って厚みがあるからうまいのである。そのうまさを、庵主は技がある酒という。口の中でころがせているとそのうまさからこの酒にめぐりあえた喜びがわいてくる。酒に心をいやす力がある。酒にたっぷりの気が含まれているからである。
 醸し人は「農口尚彦と七人の蔵人」と裏ラベルにかかれている。白雪姫みたい。
 つぎの酒は大吟醸「福の宮 雫酒」である。新銘柄の「夢醸」がヒットしている蔵の昔からの酒銘の大吟醸である。
 「夢醸」は山廃の魅力を謳って山廃ファンにその出現を喜ばせているが、庵主の舌にはちと重い。山廃特有の、乳酸に起因するあの手のにおいが好みでないからである。
 この「福の宮」の大吟醸の味はその傾向とはちがって堂々たる大吟醸である。いささかのクセもない。少し寝かせているので味わいはしっかりしている。かすかな渋みにも大吟醸の貫祿を感じさせる呑みごたえのある酒である。
 こういう酒を呑むと庵主はやっぱり「うまい」と感じるのである。まず体が満足するのである。そのあとに追いかけて心が寛ぐのである。
 締めの一杯は「琵琶の長寿」の大吟醸だった。「最近の琵琶の長寿は変わった」というは主人の声。
 「琵琶の長寿」と「繁桝」と「綾菊」はどういうわけか庵主と波長が合わない酒である。いい酒だとは思うのだが、それはわかるのだが、「うまい」という気にならない、心が納得しない酒なのである。
 ジョージルーカスの映画とデビットリーンの映画がなんとなく波長が合わないようなものである。それが好みだといってしまえばそれまでだが、原因は今はわからない。
 が、この「琵琶の長寿」はうまかった。呑んだあとにかすかに残る渋みは、「福の宮」の渋みよりやや強い。庵主はその渋みをよしとする。苦みでなく、渋みである。その渋みに味わいがあるのである。「もう少し寝かせるとその渋みがもっとまろやかになってうまい酒になるねえ」とは主人の感想である。
 オオセト(酒米の名前)のせいなのか「綾菊」もまたなぜかうまいという感情がわいてこない酒であるが、波長のあわない酒であるが、しかし、あるときその袋しぼりの酒があって、それを呑んだときには、ただ素直にうまいと感じてしまったのである。酒のうまさは理屈ではなく、感じるものなのである。
 さて、「繁桝」に感じちゃうのはいつの日のことか。それでまた気になって「繁桝」を見ると呑んでみたくなる。
 酒を呑む理由はなんとでも付くということである。

★「瑞冠」という食中酒を知る★14/11/22のお酒
 広島県甲奴町(こうぬちょう)出身の「瑞冠」(ずいかん)に出会う。広島といっても瀬戸内の側ではなく山寄りにある蔵元で、仕込みの水も日本海に流れ込む水系の水である。300石の蔵だという。小さい蔵元なのである。
 亀の尾サミットの会長をしている蔵である。亀の尾(かめのお)という酒米があって、長く酒造には使われていなかった米であるが、近年復活して今は全国で40蔵がその米で酒を醸しているという。年一回その蔵元が集まってお祭りを開いているという。
 その亀の尾で造った大吟醸と、3年物の大吟醸と、純米吟醸を呑んでみた。
 いい酒である。庵主のいう「うまい」酒とはちがう。庵主のいう「うまい」とは、甘い酒〈日本酒度はプラスで口にふくんだときに甘く感じる酒〉で、まったりとした酒〈味に厚みのある酒〉で、舌の上でころがるような張りのある酒質の酒〈酸味がきれいで切れのいい酒〉をいうからである。
 「瑞冠」の特徴は、その控えめなおいしさにある。食中酒としてふさわしい酒である。食中酒といえば、庵主はまず「酔鯨」をあげるが、この「瑞冠」も食事をしながら呑んでおいしい酒である。料理がうまくなる。酒の表情が生き生きしてくる。
 庵主が好む酒は実はうますぎる酒なのである。だから、酒だけで呑めてしまう。というより肴がいらない酒なのである。肴の力を借りなくても酒の旨さが堪能できるできるからである。
 庵主は酒を呑みながらめしを食わない。めしはめし、酒は酒である。でもときとして食事をしながら酒を呑みたいということもあるが、そういうときにはこの「瑞冠」である。
 でもやっぱりうまい酒だけをじっくり呑みたい。酒の肴というのはまずかった昔の酒をなんとかして旨く呑もうというの古人の智恵なのではないか。庵主の呑んでいる酒は、やっぱり旨すぎるから料理にはそぐわないのである。正しくは、庵主が呑んでいる吟醸酒とこれまでの日本酒を同列に論じるには無理があるということなのである。バターとマーガリンは似ているけど今は同列に論じる人はいないように。マーガリンも以前には人造バターと称して売られていたことがあるのである。一時は同じ物の格違いと思われていたのである。
 「むの字屋」は実は吟醸酒を楽しんでいる庵なのである。

★その店は/酒はうまけりゃいい★14/11/20のお酒
 その店は最寄りの駅を降りてしばらく歩き道が少し寂しくなったあたりにある。
 うまい酒を呑ませてくれる店だとものの本にあったので、わざわざ電車賃をかけて訪ねていったのである。
 酒を頼むと、一杯780円から1100円までとあって、酒銘は書かれてない。
 お店に任せて出てくる酒を呑んでみた。
 出て来た一升瓶はきれいにラベルが剥がされた瓶である。だからどんな酒がはいっているのか酒銘を知ることはできない。
 日本酒グラスに注がれた酒を口にしてみる。
 うまい。文句なしにうまい。この旨さは本物だ。庵主が納得できるうまさである。要するに「うまい」のだ。しかも過不足なくうまい。大吟醸によくある必要以上に旨い酒ではない。しかし十分にうまい。また丁寧に造られているのはわかるがいま一つ味にふくらみがない酒とも違う。味が生き生きしているのである。
 思えば、うまい酒というは味が生きている酒なのである。生き生きしている酒なのである。その酒が持っているエネルギー(気といったほうがいいのかもしれない)が高いからその酒の勢いが呑んだときにうまいと感じるのである。
 いい酒だったには違いないが、呑む時点ではエネルギーが抜けてしまっている酒をありがたく呑んでいることも少なくないのではないかと思う。もともと気が乏しい酒だった場合もあるし、酒亭で栓を抜いてから時間があって時とともに気がとんでしまったという場合もあるだろう。いうなれば当初は新鮮だった野菜を日がたって生気が抜けてしまった状態で食べているようなものである。なんとなくうまいと感じない酒の主因は気の抜けたものを呑んでいるからなのではないか。
 二杯目の酒は『藤』(既出)で呑む「御代栄」の味に似ていた。こってりめの醇酒である。いや熟成の味を感じたので、聞いてみると2年目の酒だと言っていたから熟酒に入ると言ってもいいかもしれない。芳醇旨口の酒である。
 そのほのかな甘味をたたえた、まろやかで舌に重みを感じる味わいは、麹のかおりが残っていることもあって実においしい。こういう酒こそ米のうまみをしっかり残した本当の酒だと思わせる甘露なお酒である。甘露という言葉はこのような酒にふさわしい言葉である。庵主好みの酒なのである。うれしくなっちゃう。
 この酒はすっぴん(化粧していない素顔のこと)の酒ではない。きちんと化粧した酒なのである。庵主がこれまで呑んで物足りないと思っていた酒は、化粧をしていない生(き)のままの酒だったのだ。素肌の美しさだけの酒だったのだとこの酒を呑んでいて思う。素肌の美しさだけでは、その魅力に限界があることはよくご存じですよね、ご同輩。
 酔いを楽しむ人もいる。辛口がいいという人もいる。こうして麹の香りに酒のうまさを求める人がいる。美味い酒が、いや庵主が呑める酒がここにはある。
 酒は酒銘じゃない。うまけりゃいいというお店である。しかも期待以上の美味い酒をだまっていても出してくれるお店である。
 ご主人の選択と庵主の好みが一致した幸福な出会いであった。

★偏(かたよ)る★14/11/13のお酒
 読書傾向が偏っているのである。読んだ本をみたらどういうわけかみんな同じ版元の本なのである。よく言えば一貫しているのである。要するに一つの世界から出られないのである。
 それが草思社である。そして洋泉社なのである。
 庵主は本屋では書名で本を選ばない。書き手の名前しか見ない。その人の語り口が読みたいのである。その語り口に酔いたいのである。たとえば谷沢永一とあったら手に取らない。以前どこかに「評論家はその発言に責任を持たなくてもいい。警世を発することに意義がある」というようなことを書いていた。書いたものに責任がないという書き手の本なら読むまでもないと見限ったからである。
 庵主は小学館の学習雑誌で育ったものだから長らく講談社物が読めなかった。肌が合わなかったのである。戦後民主主義の申し子だったのである。みんな仲良くというだれかに都合のいい遮眼帯をつけられていた。大人の言うことを良く聞く素直な良い子だったのである。だから大日本雄弁会講談社の皇室崇拝国体護持日本万歳というわが国の伝統精神を取り込むことができなかった。わが国の「伝統」とはいっても、その内実はせいぜい明治政府が作りあげたものだろうからつい最近作られたものなのであるが。
 出版社の文化というのは子供心に知らないうちに浸透しているものである。庵主は小学館の「少年サンデー」の世界になじんでいたものだから、講談社の「少年マガジン」の漫画には長いことなじめなかったものである。
 で、またまた手にした本が洋泉社の本だった。呑斉先生こと高瀬斉(たかせ・ひとし)氏の「ツウになるための日本酒毒本」である。
 買った本の版元をあとから見てまた同じだったかとわかると、出版社にからかわれているみたいで苦笑する。観音様の手のひらの中で躍っている孫悟空のようなものである。あたかも、庵主がうまいと思って呑んだ酒の杜氏がみんな能登杜氏だったのを知って苦笑するときの思いと同じである。
 「日本酒毒本」はもちろん「読本」のもじりである。本当のことを言うということは毒なのである。真実はおうおうにして人を傷つけるからである。今生きている人の心を傷つけてまで全(まっと)うさせなければならない真実などはないといっていい。真実に目をつぶれるところが人間の偉いところである。しかし呑斉先生はその毒を買って出たのである。おいしいお酒が呑みたいばっかりに。でも呑斉先生の毒は酒呑みにはうまい毒なのである。体によくないとはいっても、多少の毒は実はぴピリリとうまいからである。そのスリルがうまいのである。
 日本酒業界では、アルコールをジャブジャブ混ぜた酒を本醸造と呼んでいる。これおかしいとは思いませんか。
 醤油とか味噌とか酢とかで本醸造とあったら、昔ながらの本来の作り方をしたまっとうな商品であると思うのがふつうであろう。少なくともそれらの実態を知らない庵主はそう思う。ところが日本酒はその本醸造がニセモノなのだからやりきれない。はっきりいって買い手の錯覚を前提にした詐欺表示なのである。
 この上手(うわて)をいく頭のいい業界がある。ダイヤモンドである。「これはAランクの石(ダイヤのこと)です」と言われたらそれが一番いいランクの石と思うのが普通だろう。まさかその上にAAがあるとは気がつかない。さらにAAAという石があるのだという。すなわち価値のない屑石(買う時は無闇に高いけど二束三文の価値ほどもないダイヤモンドのこと)をAランクと称して知らない人にさも高級そうに思い込ませて売りつけるたちの悪いテクニックである。こういうのを庵主は詐欺表示という。日本酒でいえば三増酒にきれいな包装紙をまとわせてバカ高い値段で売るようなものである。だまされて買う方が悪いといえば言えないこともないが、日本は人を疑うという面倒なことはしたくないという合理的な社会だから、そういうことを考える人がいるということ自体がうざったいのである。悪いとはいわないが、目障りなのである。
 そういえば、ムーディーズのランキングもそのようないかがわしい表示をしているので笑わせてもらえる。あの手の人たちが考えることは業界を問わず似たようなことを考えるものらしい。
 「読本」はドクホンとも読むが、トクホンとも読む。庵主は「日本酒徳本」を書きたいと思っている。この本はいつもおいしい日本酒を呑ませてもらっていることに対するささやかなお礼の気持ちなのである。

★東急本店の酒売場に気魄あり★14/11/7のお酒
 ぶらりと立ち寄ったや東急百貨店本店の日本酒売場の酒の揃えに力が入っている。
 ひやおろしの季節である。庵主のいちばんいやな季節である。量が呑めないというのに売場に並べられて「ひやおろし」のラベルが貼られたお酒がみんなおいしそうにみえるからである。呑めるものなら全部呑みたいという誘惑と戦わなければならないからである。
 その冷蔵ショーケースに集められたひやおろしの揃えがいい。ワクワクする揃えなのである。ずらりと並べられた酒がすごい。
 「雪の茅舎」(ゆきのぼうしゃ)がさりげなく置いてあるのに目がいく。おおっ。
 山廃純米の「加賀鳶」(かがとび)がある。
 「豊の秋」(とよのあき)。しぶい。
 さらに「酒一筋」(さけひとすじ)を押さえている。
 ちゃんと「澤の井」(さわのい)もある。東京の地酒である。
 「刈穂」(かりほ)は酒銘を「刈穂 ひやおろし」として、たすきラベルに「爽秋旨口」と貼ってある。
 「初孫」(はつまご)のたすきラベルは「生モト[酉+元] 秋あがり」である。
 「月の桂 琥珀光」(つきのかつら こはくこう)がある。
 きわめつけは「富久長」の「秋櫻」(コスモス)。「富久長」(ふくちょう)といえば杜氏は今田美穂さん。なんとなく気になるでしょう。
 このとおり、「よく知ってらっしゃる、酒呑みの弱みを」といった酒の集め方ではないか。
 どれにしようかな、と迷うのではなく、どれから呑もうかなと悩んでしまうような心がはずむ楽しいお酒が並んでいる。酒の揃えに売場の気魄を感じるのである。

★年上の酒★14/11/3のお酒
 カルバドスの1945を飲む機会があった。銘柄失念。
 カルバドスというのはアップルブランデーである。リンゴから造ったブランデーと聞くとなんとなくリンゴのような爽やかさな味わいを思い浮かべて美味しそうに思えるが、ブランデーであるからアルコール度数40度のスピリッツ(蒸留酒)である。そんな甘いものではない。強烈な酒である。でもそれがまたうまいのだからいけない。
 強度のアルコール飲料を常用すると体にいいわけがないではないか。とはいってもねぇ。
 1945年生まれの酒だというからそれは明らかに庵主より年上である。ずっと年上である。敬して口にさせていただいた。慎んで吟味させていただいた。老幼序あり。
 ワイン飲みの碩学によると、これはリンゴが採れた年が1945年、すなわち日本では終戦の年なのだという。これはノルマンディーで仕込まれたのだという。ということはあのノルマンディー作戦の激戦中に戦をものともせずにひたすらうまいカルバドスを造っていた人がいたということなのである。今となってはなんともありがたいことである。もっとも日本でもその前後に生まれた人がたくさんいるから、洋の東西を問わず、戦争なんかに関係なく、たゆみない仕込みこそは人間の営為なのである。
 1945年に樽に詰められたカルバドスは永くその樽の中で眠っていたという。今手にしている瓶に詰め替えられたのは最近のことだと碩学はいう。それでラベルもきれいなんだ。
 数十年の熟成を経たアルコールは、その豊かな香りとともに時の流れを味わうという贅沢な気分にひたらせてくれる。そんな贅沢を口にする歓びに遊ばせてくれる。
 この香りをアトマイザー(霧吹き)に詰めてオーデコロンとして使ってもいいなと思ったものである。渋くて、艶やかな、そして歳月の深みを感じさせる馥郁たる香りだったから。そう思いついて瓶を見たら一緒に飲んでいた美女たちがもうみんな飲み干してしまったあとだったのである。

★「木戸泉」の「ニューAFS」は古酒の名品である★14/11/3のお酒
 古酒といえば「達磨正宗」である。その「昭和54年」のうまさを味わって庵主の古酒に対する見方が一変してしまったことは以前に書いたことがある。
 そして「木戸泉」もまた古酒の蓄積では目をはなせない蔵元である。池袋の東武百貨店酒売場で「木戸泉」の特集をやっていた。
 小瓶に入れられた古酒が、二十年ものから始まって、十九年、十八年とつづき、一年前の酒までずらっと並んでいる。
 古酒でないふつうの酒を試飲させてもらったがそちらの方はとくに印象は残らなかった。
 1975の「AFS」(アフス)が熟成酒の趣が出ていた。日本酒の熟成酒というと紹興酒のようなにおいになるのだが、この「1975」は紹興酒のにおいには似てはいるがそれとは別の味わいになっている。おもしろいとは思ったが買ってまで呑む酒ではない。庵主は古酒にのめり込むほどにはなっていないからである。
 しかし、次に「ニューAFS」を呑ませてもらったときにはビックリしてしまった。度肝を抜かれてしまったと書いたらその酒の風格に失礼な表現であろうが、その味わいのすばらしさに、いや酒そのものの旨さにすっかり魅入られてしまったのである。古酒というくくりからは突出した味わいになっている。酒の種類を問わず本当にうまい酒がたたえている酒そのものの究極の味わいを感じたのである。この酒は「うまい」などというのではなく、「凄い」のである。同じ「AFS」とはいっても明らかにそれらとは異なる次元に達している味わいになっている。これなら買ってもいいと思った刹那、しかし庵主にはその四合瓶で数千円の持ち合わせがなかったのである。いつもないのだが。
 その充実した味わいに圧倒されて、その味の迫力に呆然としながら心残りを引きずりながらも売場を後にしたのである。逆にいえば、一杯でこれだけの強い印象を与えてくれた酒はもう忘れることがないだろうから、あえて買うまでもないといえる。そう思って振り切って帰ってきたのである。
 そういえば「月桂冠」の古酒も市販はされていないがうまいのがしっかり保存されていると聞いたことがある。以前「月桂冠」の古酒「ジパング」を呑んだときにその実力の一端を見た思いがしたものである。
 いま日本酒はおいしい古酒がひそかにじっくりその日を待って静かに熟成を重ねているのである。