「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成14年7月の日々一献
★五反田で一軒★14/7/28のお酒
 青森の「地吹雪」。知らない。大阪の「浪花正宗」。庵主は知らない。奈良の「神名備」。聞いたこともない。高知の「赤野」。これも知らない。
 初めて見る銘柄なので大丈夫かと心配になるが、おなじ酒祭りには「義侠」「喜楽長」「醴泉」「醸し人九平次」「飛露喜」「美丈夫」が名を連ねているのだから、庵主がいまだ知らない酒とはいっても、それらの酒は見識をもって選ばれた酒だということがわかるから十分に期待できるのである。
 五反田にある「おまつり本舗」である。こういう酒祭りをながめているとつぎつぎと思いがわきたっていつまで見ていてもみあきることがない。
 庵主などはこの酒祭りを肴に酒が呑めてしまうほどである。これほど胸をワクワクさせてくる酒祭りは珍しい。
 「赤野 伊太郎」(純米)を呑む。夏の暑さでからだが疲れていたのだろう。その前に呑んだ「銀河高原ビール」の生がきいたものか、一杯のビールですっかり酔っぱらってしまっていたのである。
 「赤野」はいい酒である。酸味も絶妙で呑める酒である。ところが理性では「赤野」のうまさを認めながらも、からだがそれ以上のアルコールを受け付けないのである。暑い夏の疲れがこうして現れたのである。「赤野」は酔いが回っていてもうまいことが分かる酒なのだから、やっぱこの酒祭りの酒は気になるのである。通うことになりそうである。
 酒祭り(さかまつり)=当庵では酒のメニューのことをそうよんでいます。

★桐生で二つの贅沢★14/7/28のお酒
 群馬県桐生市で贅沢をしてきた。しかも二つも。
 一つは年一回、ホテルきのこの森で開催される遊吟楽酒の会である。日本酒のうまさを堪能してきた。
  「南部美人」「月の輪」「東北泉」「奥羽自慢」「渡舟・大平海」「開運」「諏訪泉」「開春」「酔鯨」「繁桝」と集まった10蔵元の酒銘を見るとこの酒会がなみなみならないものであることがわかる。贅沢の極みにひたれる酒会である。
 酒の呑めない庵主が、しこたま呑んで、すっかり酔って、美酔の一夜をすごしたのである。
 桐生にはもう一つの贅沢がある。大川美術館である。集められた一点一点の絵の香りが高い。酒でいえば、吟醸酒、大吟醸酒級の絵をあじわうことができる。描かれてからもう何年もたっているというのに絵の前に立つと絵が生きているのがわかる。絵のおもしろさを存分に楽しむことができる。
 最初にさりがけなく掛けられている一点、藤島武二の小品からして吟醸香をただよわせている。あとは作品に酔うだけである。いや見ているだけでここちよく酔いしれるといったほうがいい。
 松本竣介の「街」を見る。山口長男の「階」。長谷川潔の裸婦デッサンの線は肌感まで感じられるなまめかしさがあってぞくぞくとくる。
 藤島武二の水彩の婦人画がいい。日本女性のやさしさと品性の高さが感じられる母親像である。その雰囲気がなんともいえない。見ていてほっとする。ところが、なのである。その絵はがきが売られているのだが、残念なことに絵はがきからは絵の香気が伝わってこないのである。紙の選択を間違えたものか、印刷の版の選び方を誤ったものか、気の抜けたビールのような絵はがきがそこにあった。その二つは似て非なるものであった。本物を見たことがないと、その絵はがきが絵だと思ってしまう。しかし元の絵のほうはいまなお香気をはなっていて人を引きつけてやまないのである。本物と複製の違いを知るにはもってこいの事例である。
 酒も絵も本物にふれないとそのすばらしさを会得できないという点では似たところがある。しかも求めないと出会えないという点でも相通じるものがある。いずれも心に訴えかけてくる感懐が気持ちよい。もっとも共にいいものに出会えればの話であるが。

★「発酵」はないでしょうに★14/7/26のお酒
 拉致をら致と表記するのは不埒なことである。あるいは賄ろと書かれたら賄賂と読めないのだ。つい、まかないと読みかけて、あっ騙されたと気づいて読み直すである。その手の表記を文化事業であると標榜する自称一流新聞社が平然とやっているので困惑してしまう。日本語に対する破壊行為だね。こんな難しい字は読者には読めないでしょう、と読者を馬鹿にしているとしか思えないのである。その程度の漢字なら庵主でさえ読めるというのに。ひょっとすると記者の漢字能力に合わせたものかもしれない。そうであるなら新聞社はもっと漢字がわかる記者を採用して読みやすい表記をしてほしいと思うのだ。もっとも庵主が講読している一流新聞は、一面のトップ記事にサッカーの勝った負けたが載るような読者本位の実は読者に迎合して自分の主張というものがない新聞なのだからその水準は推して知るべしである。
 さらにぶったまげるのは、例えば日蝕を一流新聞は日食と書くのである。蝕むと食うでは意味が全然違うのだ。音が同じだったらどんな漢字を使ってもかまわないという先取的な表記法である。この考え方にはついて行けない。朝卑新聞とか読瓜新聞と書いてもいいみたいである。音(おん)が似ていればいいというのだから。
 発酵と書かれているのを読んで、一見なんのことか理解できなかった。どうやら醗酵のことらしいとわかったのは前後の文脈からである。
 そこまで略するのだったら、発孝と書いた方がずっと楽ではないか。もっとも発孝で作られた酒ってなんとなくまずそうなのがいけない。
 それよりなにより、いまどきの新聞記事はワープロで作っているのだろうから、醗酵でも発酵でも発孝でも書く(打つ)手間は変わらないのである。ならば、正しく漢字を使ってほしいと要求しても現場ではなんら負担になることはないではないか。
 庵主の常用酒である「冬樹」を醸してくれる一星蔵元は、呑み手に宛てた手紙にはちゃんと手書きで醗酵と書いている。それだけでも「冬樹」がいい酒だということが窺えるのである。もっとも醗酵と書いたからといって必ずしもうまい酒ができるものではないということはいうもまでもないが。
 近著の上原浩氏の「いざ、純米酒」も表記は発酵になっている。版元がダイヤモンド社だから、一流新聞社に敬を表して校正の段階で右へならえをしてるものと思われる。庵主が版元なら、著者が手書原稿で発酵と書いて来ても、だまって醗酵と直してしまうけど。「そのほうがお酒ときちんと向かい合って真面目に造っているという感じがでるでしょう」。
 その本には「蒸きょう」と書かれた見出しがあるのだが、「きょう」の字は庵主には想像すらできなかったのである。口には出さないが、そこまでやったら欠陥商品といってもいいのではないかと庵主は密かに思うのである。この場合は漢字で表記してふりがなを付けるのが正しい。

★「松の司」の1999★14/7/22のお酒
 「松の司」(まつのつかさ・滋賀県の竜王町出身)純米大吟醸の1999年もの。東条町の山田錦で熊本酵母。
 3年寝かせたその味わいは一見たよりないが、じっくり味わっていると「充実」という言葉がうかびあがってくる。
 酒のうまさには、一つに香りのはなやかさがあり、二つにはあまくこってりした舌ざわりの厚みがあり、三つには充実した味わいからくる満足感がある。
 「松の司」純米大吟醸1999は、一見華やかさはないが、味が深いのである。三つ目のうまさなのである。若い酒のような軽やかさはすでにない。かといって老ねた酒のクセのある押しつけがましさは出ていない。だからうっかり呑んでしまうと、なんとなくすうーっとはいってしまう酒である。印象に残らない酒なのである。その酒が実はすごい酒なのである。
 「松の司」の1999だと最初に聞いて呑むから謹んで呑むのである。そして初めはその味わいの絶妙なふくらみに舌がとまどい、やがてその味のゆたかさに気がつくのである。この酒はうまいとハタと得心するのである。今、いい酒を呑んでいる、という充実感に満たされるのである。
 酒の味わいにひけらかすことのない秘めた趣がある。酒のおもしろを知るのである。
 「松の司」2002純米大吟醸の黒ラベルもあわせて呑んでみる。こちらの方は酵母が金沢酵母である。熊本酵母とは味がちょっとちがうのがわかる。この酒だけ呑んだのなら、そのちがいの面白さはわからない。こうして呑み比べることでそれが実感できるのである。酒はお店のすすめにまかせて、微妙な違いの大いなる味わいの妙を楽しむのがいい。

★日本酒フェスティバル★14/7/20のお酒
 日本酒フェスティバル2002は武蔵小山にある酒縁川島が主催する試飲会である。今年で2回目という。意欲的な酒を醸している60の蔵元が五反田のゆうぽうとに会して7月20日に開催された。
 南部美人、由利正宗、出羽桜、開春、天狗舞、千代の園、西の関、獺祭、等々。さらに七田(天山)、鳳凰美田、愛宕の松、雲乃井、千代むすび、竹林、亀泉と気になる銘柄が数多く参加している。
 まさに垂涎(すいぜん)の試飲会である。
 だが、庵主はうれしくない。どの一蔵を選んでも、それだけで一夜を心豊かにすごせる酒ばかりなのである。うまい酒を目の前にして呑みきれない、といううらみが先にたつ。
 だから、水芭蕉とか、尾瀬の雪どけとか、東力士とか、黒牛とか、天鷹とか、一度は呑んだことのある銘柄は呑みたい気持ちを押さに押さえて、まだ呑んだことのない酒だけにしぼらなくてはならない。
 山形の「あら玉」がきれいだった。その味わいに洗練された気品を感じた。改良信交、亀の尾と米違いの酒にも落ち着いたうまさがある。いずれも大吟醸。いままで知らなかったお酒にめぐり会って、それがうまいときのうれしさはなんともいえない。
 最初に立ち寄った「あら玉」ですっかり満足してしまった。酒のうまさに酔ってしまった。
 千葉の「木戸泉」のAFS(アフス)の1975は、口に含むと珠となって舌の上をころがって喉元をとおりすぎていく。キレのいい古酒である。二十数年をへてもその酒が秘めている気はなお枯れていない。昔描かれた名画がいま見てもその香気が高いのと同じである。「達磨正宗」の古酒とはまた違った趣で庵主の心をくすぐってくれた。
 佐賀の「鍋島」の特別本醸造がいい。庵主は既に酔っぱらっているというのにさらりとはいる酒である。からだはその酒を拒まないのである。「じつはこの酒、マイナス8なんです」と蔵元が言っていたが、よくできた酒に+(日本酒度が+の酒はいわゆる辛口といわれる)も−(甘口とされる)もないのである。うまいのだから。もっともしらふで呑んだら甘いのかもしれない。
 このフェスティバルは、各蔵元の仕込み水が数多く並んでいるのが庵主にはうれしい。蒸し暑い外から会場に飛び込んだ庵主はまず一通り仕込み水を飲ませてもらった。それから蔵元を回ろうとして結局いくつかの蔵元のお酒を頂戴しただけですっかり出来上がってしまったのである。
 とはいえ最後に呑んだ「志太泉」の13BYの大吟醸はやっぱりうまかった。もう呑めない。

★博多で一献★14/7/14のお酒
 博多はいま祇園山笠が佳境である。ふと、その祭りを見たくなって、ついでに香椎宮にぶらりと行ってみたくなって初めて博多の地を踏んだ。
 博多は国際都市である。街中(まちなか)の表示板には英語と韓国語と中国語が併記されている。東京なら、その三か国語で表示されているのは秋葉原ぐらいである。
 往時から、この当たりは朝鮮、中国(支那)に近いことから、それらの人々が多々住んでいた先進的な地域なのである。
 追い山笠が行なわれる櫛田神社の表参道にあるラーメン屋で呑んだ瓶ビールが思いがけずうまかった。新九州工場で作ったとラベルで標榜するサッポロビールである。「水郷日田の森の水ビール」とある。すっきりと味がしまっていたように感じたのは水のせいなのか。あるいは保管がいい状態で店に届いたせいかだったのかはわからないが、キレのいい味わいに満足した。
 で、その店にあった酒が「南方熊楠」(みなかた・くまぐす)という酒。和歌山の「世界一統」が造っている酒である。本醸造で、わるくはない。さらりとはいるクセのない酒だった。
 福岡にはいい日本酒があるというのに、なんでまた和歌山の酒なのかと尋ねたら、店の名前にちなんでとのこと。
 福岡の酒は「繁桝」をはじめとしていい酒が多いですよねというと、いや福岡の酒はそれほどでもないと庵主の印象とは評価が異なる。もっとも庵主は東京に出て来たその蔵元の最高級の酒しか呑んだことがないので、その印象で語っているのだが、ご当地の人は普通酒クラスの酒のことを言っているので話がかみ合っていないということが明白な会話であった。焼酎ならもっと安く飲めるのである。
 実は、お酒の話が弾んで、その一杯を遠路はるばる来られた客人ということでサービスしてもらったのである。櫛田神社で御朱印をいただいた時も冷たい麦茶を頂戴した。飛行機賃は高かったけど、博多は客扱いがなれているようである。

★さらりとはいる★14/7/11のお酒
  長野の酒「横笛 本醸造 生貯蔵酒」がいい。なにがいいのかというと、酒がさらりとはいるのである。
 大分の「角の井」の本醸造がそうだった。新潟の「良寛」がそうである。静岡の「正雪」純米吟醸にもそういう酒があった。酒と思って口に含むと、アルコールを感じさせることなく、まるで水を飲むみたいに喉元を通りすぎていくのだ。酒なのに水みたいな呑み口なのである。
 ちょっと喉を潤したい、しかし水ではものたりない、かといってしっかり酒を呑むほどの余裕もない、という情況で少しだけ体を喜ばせたいというときにこの酒はいいのだ。
 うまい酒はつい口の中でその旨さを楽しんでしまう。不味い酒は喉につかえる。うまい酒もまずい酒も、口の中での滞在時間が長くなるのだ。しかし、この「横笛」はするりと口の中を通りすぎていく。じつになめらかに体にはいっていく。だからまずい酒ではない。かといってうまさをことさら強調する自己顕示過剰な酒ではない。呑み手に媚びてくる酒ではないのでなんとも頼りない感じの酒なのだが、じつはしっかり酒のうまさを秘めている酒なのである。

★「花薫光」純米大吟醸生酒五年熟成★14/7/9のお酒
 これだけ強烈な個性があると一度呑んだらその味わいをまず忘れることがない。だからあえて二度呑むことはない。「郷乃誉」(さとのほまれ)の「花薫光」(かくんこう)である。なんといってもお値段が高いので二度呑むには懐がきびしい酒なのである。
 さすが、ほぼ一合で3600円である。普通、この値段で酒を呑む気になれますか。それだけのお金を出せば十分にうますぎる大吟醸が一升瓶でいくらでも手にはいるのですから。でも、庵主は平気で呑む気になります。もっとも「すいません、その半分の量で、一番小さいグラスで一杯だけいただけませんか」と、ちょっとだけ味見をさせていだくのである。
 で、その味はというと、純米でどうしてこんなに香り高い酒が造れるのだろうかと不思議でならない強烈な匂いは、なんとなく中国酒の「茅台酒」(まおたいちゅう)のにおいに似ている。そして味の深みは味わうのにふさわしい馥郁たる実力を秘めている。小グラス一杯でいい。香りが強いから二杯はいらない。
 「〆張鶴」大吟醸金ラベル。
 「花薫光」のあとにこの酒を呑むのが間違っている。呑む順番が逆なのである。だから「花薫光」の香りに幻惑されて、その味は実に頼りなく感じるのである。
 とはいえ、その酒質のよさはよくわかる。「花薫光」のあとでもそのよさがわかるということはかなりの酒であることは間違いない。しかし、やっぱり呑む順番を間違えてしまったのである。

★ロン カサバ センテナリオ★14/7/6のお酒
 「ロン カサパ センテナリオ」23年物。ラム酒である。これがうまい。これが甘い。その甘さはいうなればせつない甘さである。そのせつなさがうまい。庵主好みのうまい酒である。一言でいえばセクシーな味わいの酒である。口の中で悦楽の極みを楽しめる。
 ラム酒は庵主の風邪薬である。もちろんラム酒を飲んだからといって風邪が治るわけがない。でもそれを薬と信じて飲むのである。要するにラムを飲んですみやかに体をやすませるのである。あとはじっと回復を待つのみ。
 今夜は風邪をひいているわけではないので、予防薬として一杯だけ。
 「ロン カサパ センテナリオ」の23年物を飲んでいると、「達磨正宗」の昭和五十四年の古酒が浮かんでくる。酒の味わいは、種類が違っていても時の流れを窮めるとやがて同じような風格をたたえた世界に到達するようである。
 酒の味わいに長い時間の蓄積が感じられる。時間は見ることはできないが、味わうことでその存在を感じることができる。酒の味わいは時の味わいと変わっていくのである。「そちも健吾であったか。余も健吾であるぞ」とお互いの長命と邂逅を喜ぶのである。

★「開運」★14/7/2のお酒
 東武百貨店池袋店の日本酒売場。
 「開運」の勢ぞろいである。祝酒 本醸造690円、祝酒 純米1250円、純米吟醸1560円、大吟醸3500円、純米大吟醸3700円、波瀬正吉4500円、といずれも四合瓶で並んでいる。一升瓶で3000円の吟醸もあった。土井酒造が引っ越してきたみたいである。
 この揃えを目にしたら、もし庵主が呑めるなら、「ここからここまで」と全部ほしいほどである。がしかし庵主は量が呑めない。買ってきても呑みきれない。だからお酒はお店で呑むのを常としている。
 その陳列の棚の反対側には、「山法師」が限定特別本醸造、純米、吟醸、純米吟醸と4種類が並んでいる。このお酒の揃え方も気になる。ニクい酒売場である。
 加えて、横の棚では「小さい蔵元の隠れた地酒」特集をやっている。「菊の井」(青森)、「豊能梅」(高知)、「錦の誉」(山口)、「弥右衛門酒」(福島)、と、たしかに珍しい銘柄が並んでいる。なかなかやるね。
 しかも売場の隣のカウンター酒亭「楽」では、デパートの開店時間である朝10時からおいしいお酒を呑むことができる。昼間からうまい酒が呑める店はここだけと紹介している雑誌があったがそのとおりである。酔えればいい酒を朝から呑める店はいくらでもあるけど、うまい酒が朝からとなったらここだけである。
 今週の酒として、「酔鯨」大吟醸、「朝日山」大吟醸、「波瀬正吉」(もちろん「開運」の大吟醸)などをとりあげている。
 朝10時の美酒というのもいいな、と思うのは一歩また一歩と本格的飲兵衛の境地に近づいているのかもしれない。

★「関矢健二の酒工房」開設十周年記念の酒★14/7/1のお酒
 東武百貨店池袋店に関矢健二の酒工房がある。関矢氏が企画した日本酒を販売している売場である。日本酒プロデューサーとして名を馳せる関矢氏の酒はここで求めることができる。
 その酒工房が売場を開設して十周年を迎えたという。それを記念する酒がいくつか並んでいた。
 そのうちの一つ、純米大吟醸「雫酒」を呑ませてもらう。
 九州「萬代」の小値賀杜氏・古川新一郎杜氏が醸した逸品である。
 うまいか。うまいとは言わない。庵主は好みの酒をうまいという。だから、うまい酒でないと言ってもそれをまずい酒だといっているわけではない。また酒質の悪い酒だと貶しているものではない。ただ庵主の口に合わないというだけのことである。
 関矢氏が造る酒は、食と一緒に呑むことができる、やや辛口のキレのいい酒である。一方、庵主の好みの酒は、酒だけで呑んでもおいしい甘い酒である。少し呑んだだけでも満足してしまうようなまろやかな味わいの酒なのである。その手の酒は二杯目は呑めない。あきてしまうからである。その点、関矢氏の造る酒は盃を重ねてもあきがこない酒なのである。酒といってもめざすところの違いである。よしあしではなく、違いなのである。
 「雫酒」はいい酒である。格調の高さを感じる。品がいい酒を口にする悦びがある。まさに関矢氏の酒である。この酒に、関矢氏の思いを味わうのである。