「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成14年2月の日々一献
★香水★14/2/28のお酒
 庵主はかつて香水教室に通ったことがある。
 香水はそうでもしなければ知ることのできない世界である。香りの原料である香料を見たことのある人はほとんどいないだろう。
 香料は化粧品のみならず、飲料の香り付けにいたるまで今は必要以上に使われている。ポテトチップスや煙草の味わいも香料によるところが大きい。
 いまデパートの香りの売場にいくと気分がわるくなるほどの「いい匂い」が充満している。
 庵主が得たいい香水の条件はつぎの三点だった。
  一に、匂わないこと。
 二に、匂いの切れがいいこと。
 三に、匂いのもちがいいこと、の三条件である。
 そして、ある調香師がいっていた「男は香水をつけるものではない」という考えに同感するにいたったのである。とはいえ、香水売場であたらしい香りをためすときの心のときめきはいまでも変わらない。香りには沈んでいた気分を一瞬にして爽やかな心持ちに変えてしまう力がある。ときには香りにひたるのも気分転換になる。俺はお洒落をしているぞという気持ちになるではないか。他人にまでにおったら迷惑であるが。
 静岡県由比町出身「正雪」(しょうせつ)の備前雄町 純米大吟醸を呑んでみる。かおりがよく出ている。いまの庵主はこの強いかおりをよしとしない。うるさいと思うのである。まずいと言っているわけではないのでお間違えのないよう。もし出会えたなら呑まないと損をする酒である。庵主は、以前、この酒を呑んで心からうまいと感じたと書いたような記憶がある。同じ酒をいまは別の観点から味わっているのである。
 奈良県吉野町出身「八咫烏」(やたがらす)の瓶囲い大吟醸も呑んでみた。うまい。かおりもこの程度でいい。といっても十分すぎるぐらいの香りがある。大吟醸のまろやかな味わいが楽しめる庵主好みの大吟醸である。この手の味わいの酒を五勺というのが庵主の酒なのである。
 酒のにおいはないとさびしい。かといって、あればあったでかおりはいらないよ、と酒呑みの気分はいい加減である。
 香水にならって、庵主が達したうまい酒の三条件は、
 一に香りがつよくないこと。子供向けの果物の香料が鼻につく飲料を飲むわけでないのだから。
 二に酒の切れがいいこと。口にふくむとうまい、あまい、舌に感触が心地よい酒が庵主は好きである。その味わいが喉元をすうーっと通りすぎていく酒がいい。ただ余韻だけが残る酒がいい。
 三にうまさが持続すること。酒を呑んだあとに今日はうまい酒を呑んだという充実感と贅沢感と生きている喜びを感じさせてくれる酒であること。
 この三つである。
 まともな酒ならこの三条件を備えているので、庵主が酒に求める要件ではなく、いい酒がもっている三つの特徴といったほうがいいかもしれない。
 日本酒には造り手のこころが感じられる酒と、そうでない酒の二通りがあるということなのである。食い物に食事(人間の食い物)とエサ(ジャンクフード)があるように。
 そういえば、香水教室で最初に香水の定義を聞かれて答えられなかったことを思い出した。酒の定義は如何。
 (注)ジャンクフードとは、人間が食わなければゴミでしかないひどい食い物のこと。それでも食うとけっこう食えるのだから始末におえない代物である。

★「武甲正宗」ワンカップ★14/2/25のお酒
 三増酒(さんぞうしゅ)という20世紀の遺物が21世紀になっても現存しているというのが可笑しい。ほほえましい。
 先取的な酒呑みがあれだけ声高に指弾している酒なのに、これだけ米が有り余るようになったというのに、生活水準が上がってグルメ指向の時代だというのに、貧乏の代名詞みたいな酒がなくならないというところがいいのである。日本人の貧しさの一面をしみじみと実感しながら呑む酒なのである。
 庵主、秩父の温泉に遊ぶ。地元にいったら地酒である。
 売店の冷蔵庫の中には「秩父錦」のワンカップと「武甲正宗」のワンカップがあった。馴染みのない方を買う、同じ銘柄ならランクの高い酒を買うという原則にしたがって、「武甲正宗」である。
 温泉帰りの電車の中で、さっそく蓋をあける。
 「カップブコー 武州秩父 清酒 武甲 小蔵造り」である。
 原材料名 米・米こうじ・醸造アルコール・糖類
 アルコール分 15.0度以上 16.0度未満
 180ml詰、の酒である。製造年月日の表示はない。
 うれしいことに三増酒である。庵主はそれを孫悟空ということは前に書いた。
 三増酒なのでまずいのかというと、そうでもないのである。乙なのである。大手メーカーの、不味いわけではないが旨くもないという不思議な日本酒(あれは酒なのだろうかと思うことがある。庵主が呑んでいる日本酒には はっきり杜氏の思いがこもっているのが 感じられるのである。だからうまいのだ。酒に込められた気持ちを味わうのである。その気持ちがおいしいのである。 一方、酒と称して売られている大手メーカーの日本酒というのは はなから心のこもっていない酒である。米から造ったアルコール飲料といったほうが適切ではないか思われる代物である。造り手の心意気が伝わってくるまともな日本酒を呑んでほしい、と庵主はつねづね思っているのである)よりは ずっとましである。大手メーカーの造る日本酒は、水で言えば、あれは蒸留水ではないのか。その味は、人間にはたえられない純粋という名の無味乾燥なのである。庵主はそれは呑めない。
 カップブコーは、器量はともかく気立てのいい娘といったところである。心になじんでくる酒だった。旅先で呑んだ酒だったからもしれない。

★狼狽の酒★14/2/23のお酒
 「600K 墨廼江 大吟醸40%」。
 ラベルがモダンと粋がミックスされた不思議なデザインで、なんとなく好奇心をそそられる。厚手の和紙に600Kは銀箔の活字の書体、墨廼江は墨痕鮮やかな筆文字である。いかにもラベルにも金をかけたという大吟醸酒である。
 ラベルにある600Kとは600キロリットルの小仕込みの酒という意味である。
 うまい。庵主が好きな まったりと あまい大吟醸である。最初のひと口からうまい酒である。漫画「美味しんぼ」が世に広めたまったりという味わいがどんなものだかよくわからないが、なんとなくおいしそうな表現なのでここで使わせていただいた。
 酒がまろやかなのである。口に含んだときに酒に厚みを感じる酒なのである。まったりとした味わいの酒なのである。
 「墨廼江」(すみのえ)の酒名は以前から知っていた。庵主が初めて呑んだ「墨廼江」は思っていた以上にうまかい酒だったから以来一目置く銘柄となっている。
 今度の「墨廼江」も期待に違(たが)わぬうまい酒である。いや期待どおりにうまい酒である。いつも期待にこたえてくれる酒ならこれはいい酒である。
 つぎに「天遊琳 特別純米55%」。
 この「天遊琳」(てんゆうりん)は美酒である。酒質がやわらかいので、ちょっとこころもとない味に感じたのは「墨廼江」のあとに呑んだからである。
 佐藤さんは、酒を出す順番を間違えないように。
 いやいや、いつもは一番小さいグラスでただ一杯の酒しか呑まない庵主が、突然「次」を求めたものだから出す酒を間違えたのである。マスターの狼狽をさそってしまったようだ。
 今日は内輪ネタになってしまった。

★いま時分の居酒屋は★14/2/19のお酒
 いまの時分は、身も心もすくむような凛としたこの寒さが酒の味を引き締めていちだんと日本酒の味わいが冴える季節である。だから困るのである。
 酒場に立ち寄ってもコートを掛けておく場所がない店が多いからである。
 かといって、家賃の高そうなお店に、酒を呑まないコートのためにスペースを用意しておけと声高に言うわけにもいかない。そんなことを言ったら、見返りに酒の値段がいっそう高くなること必定である。体をあっためようとしたはいった居酒屋で懐が寒くなったのではかなわない。とはいえ庵主はコートを丸めて卓の下のわずかな隙間の棚との間に押し込むことはしたくないのである。コートがかわいそう。だからこの時分の居酒屋に立ち寄るのが嫌なのである。冷やして呑んでも、燗をつけても、日本酒がうまい季節だというのに、コートにいらないしわがよるのではないかと気になって酒を楽しんでいられないからである。
 銀座で隠れ家を自称する酒亭「G」には、店の入り口のそばに客が自分の大切なコートを掛けられるようにハンガーを何本も用意した棚が設えてある。客は勝手にコートを掛けるのである。ちゃんとハンガーに掛けられたコートは型崩れすることなく、呑んでいる間によけいなしわもなくなって、帰りには気分よく着て帰ることができるのがいい。
 客にはおべんちゃらを言いいながら、連れてきた子供をぞんざいに扱われたら店の品位が透けて見えるというものである。酒場に子供を連れていく人はいないにしてもだ。
 この時分、庵主が酒亭を訪れるときは、そのハンガーの善し悪しを見て店を値踏みしているのである。多くの場合は、コートの扱いが気になって酒が楽しめない、今はほんとうに嫌な季節である。

★愕然の「白雪」★14/2/18のお酒
 「白雪」の上撰本醸造を呑む機会があった。そこはかとなく上品な感じがする白い壜にはいっている。美しい商品なのである、その酒は。ラベルには大きな字で「生」とある。小さく生貯蔵酒と書いてある。そんな小手先の技を難ずる気持ちはさらさらない。
 ただ呑んでみるとなんとなく味が頼りないのである。ラベルの表示を見ると、なんとアルコール度数12度〜13度とある。普通は15度から16度ぐらいだからそれから比べるとかなり度数が低い酒なのである。
 度数を1度や2度下げても原価はさほど変わらないと思われるから、12度〜13度という設計はこの酒の主張なのだと思うが、うまくもない酒を造るというのがこの酒の主張なのだろうかと皮肉りたくなるような志が感じられないさびしい酒である。
 庵主はくわしいことは知らないが、度数を下げると税金が安くなるのかもしれない。そこで度数を下げることで値段を安くして提供しようというのが目的なのかもしれない。15度や16度で出しても大してうまい酒ではないのだから、味で奉仕することははなからあきらめて、値段で奉仕しようという商品なのかもしれない。
 もっとも12〜13度まで度数を下げるということは、それだけ水を加えて増量できるということだから、原価はかなり変わってくるのかもしれない。ただどれぐらい儲かるかを計算する気にはなれないだけのことである。
 いずれにせよ、選んで、指名して呑む酒ではない。
 懐にやさしい安い酒があるからこれを呑もうと決めて、折り悪く出てきた酒がこの酒だったという酒である。
 こういう味わいのない、アルコールを呑んでいるような平べったい味の酒を呑むと、ほんとうに人生が悲しくなる。呑んでいて悲しくなることが目的の酒なのかもしれない。ある通夜で呑んだ酒だからである。

 念のため。「白雪」なる酒を貶(けな)すような記載が何度か登場したが、けっして「白雪」をばかにしているわけではないので誤解のないように。たまたま庵主の好みに合わないその手の酒の実例を挙げようとしたときに、庵主の前に「白雪」があることが多いということなのである。「月桂冠」でも「大関」でも、その手の酒はどれも似たりよったりの味だろうと思われる。「白雪」だけが飛び抜けて個性的な酒を造っているということはないだろう。「白雪」は振り向くとなぜかそこに居る庵主のお友達なのである。
 かてて加えて。庵主が生貯蔵酒の本醸造「白雪」を理解できない原因として、庵主は「冬樹」とか、今呑んでいる「南 特別純米 無濾過生」のようにアルコール度数18〜19度の酒を呑むと充実感を感じるたちなので、12〜13度の酒というのは理解の範疇を越えているということもある。
 酒は好みです。庵主はただ自分の好みを語っているだけだから、庵主の好みに合っている人には合点がいくだろうが、好みの異なる人にはそういう好みの人もいると読み流していただきたい。

★予約をできない質(たち)で★14/2/14のお酒
 岩本一宏著『焼き鳥「門扇」、一代限り』(前掲)を読んでいて苦笑した。
 予約の章である。
 わかるのである。予約をしてお店を訪れないとうまいものを食えないということは。重々承知しているのである。しかし、庵主はその予約というのが苦手なのである。だからそういう店を訪れることがないので美食にはうといのである。
 酒亭もまた予約なしで入るのは損をすること必定である。ただ、お酒だけはちゃんと保管されているからうまい酒は呑ませてもらうことができる。
 予約して行けばその美酒にふさわしいうまい肴を用意しておいてもらえるものを、その至福を放棄するおろかな行為である、飛び込みの客は。
 それは知っているのである。ただ、一週間も前からこんどの金曜日には天ぷらを食うぞとか、何か月か後の何日にはフランス料理を食いに行くぞとかいった忍耐と持久力が庵主にはないのである。
 忍耐力がないといえば、庵主はいつも、朝方は今日は酒を呑まないだろうと思っているのであるが、夜になるとなぜかおいしい酒を呑んでいるのが常である。
 それに「当日キャンセル(取り消し)は犯罪行為」であると諫(いさめ)められると、庵主は腰がひけてしまうのだ。その日まで生きているかどうか保証できないって。
 その「本」を読みたいのは今なのである。一週間後の午後7時に読むぞと予約して読む「本」なんて、気の抜けたビールを飲むようなものだ。だいたい一週間後にその「本」を読んでも面白いだろうか。「本」はいま、読みたいと思ったときに読むのがおいしいのである。
 酒もまた、今呑みたいのである。予約して呑むほど大仰でないのがいい。ふと立ち寄りたいのである。
 世の中に、ちゃんと人生を予約してそのとおりに生きていける人がいるというのはすごいことだ庵主は感心するのである。
 きちんと予約して人生を送ることができる人は、死ぬときもまたきちんと火葬場に予約を入れるのだろう。律儀なことである。
 で、他人の様を笑った恥ずかしさをごまかすために、もう一杯。こういうときに酒があると便利である。

★ああ、電気くさい★14/2/12のお酒
  これは庵主の感覚である。ただの思い込みといわれればそれまでのことである。
 デジタルカメラで撮った写真の画質には、今のところ、「電気くさい」としかいいようのない軽さを感じてならない。画質に深みがないのである。一目見て、あほらしいと思ってしまう。そのうち、よくなるだろうけど。
 CDの音がどうにも「電気くさい」のである。これは楽音ではないと感じるのは、そのヒステリックなまでの音のよさによる。水清ければ魚棲(す)まずというが、音良すぎれば癒しなしといったところか。音も良すぎると心に訴えてこないのである。ああ、うるさい。そのうち、録音技術者がなんとかしてくれるだろうけど。
 電気で焼いた焼き鳥を食べても、なぜ庵主の体がうまいと思わなかったのかというと「電気くさい」というのが原因だったと知ったのである。
 岩本一宏著『焼き鳥「門扇」、一代限り』(講談社刊・1600円税別)を読んでいて焼き鳥は備長炭(びんちょうたん)で焼かないとうまくないという件に触れて明解したのである。
 その点、日本酒は電気くさい酒がないのだけは救われているのである。
 
★ただそれだけのこと★14/2/11のお酒
 庵主が呑む日本酒というのは「うまい」酒のことなのである。
 大手メーカー(そこそこの品質の商品をだれもが買えるように安い価格で提供してくれるということではありがたいと感謝しながらも、その味におもしろみがないということで、所詮最低の必要性を満たすための商品作りであるという意味で、質より量の酒造りであるということからメーカーと書く)が造っている酒ではない。
 大手メーカーの酒は商品としてきれいに造られた酒である。酒には違いないが呑んで味わいを楽しむという酒ではない。造っている目的が違うからである。
 だから庵主が酒を好むといっても、メーカー製の日本酒を送っていただいても困るというのはそういうことなのである。その手の酒は庵主が好む酒の範疇ではないからである。人に物を送るということは難しいと思う。物を送られてみてあらためて思う。
 車でいえば、クラウンクラスの高級車を好んでいる人に、軽自動車を出してきても喜ばれないのと同じである。
 酔うために酒を呑む人もいるが、庵主は味わうために酒を呑んでいるのである。だから量はいらない。庵主は冗談で言っているのではなく、本当に日に五勺しか呑まないのである。味わって呑むのである。いや盃の上にそよぐ風を楽しむといったほうがいい。  生ビールならコップで一杯だけ。それ以上は飲めない。ジョッキで出てくると半分は飲みきれない。だからグラスで生ビールを少しだけ呑ませてくれる店は庵主にとって好ましい店である。
 歳のせいだろうか、最近は食事の量も多くは食べられなくなってきた。ラジオを聞いていたら永六輔が「歳をとったら食べすぎないことです」と言っていたから、庵主の体は栄養を摂るにも量から質への転換期にはいったのだろう。少なく摂るから旨いものを食べたい、呑みたいのである。
 ただそれだけのことである。さあ、またうまい酒をごちそうになろう。
 今夜の酒は高知県安田町出身の「南 特別純米 無濾過」(松山三井・精米歩合60%)である。静かに味わう。 

★ああ夢醸★14/2/7のお酒
 こういう同音の語呂あわせをオヤジギャグというのだそうだ。うまくその場面に決まったときには結構笑える場合もあるのだが、多くは頭の固さを披露するだけにとどまるようである。
 本篇の題名もまた後者である。庵主の頭の固さの証左にほかならない。だから庵主はいつもいいお酒を呑んでもっとやわからい頭にしたいと願っているのである。
 庵主の創造力を如実に示すエピソードを一つ。
 小学校の時分、図工の時間に粘土細工があった。そのとき庵主が粘土で作ったものは何だったとお思いでしょうか。
 キャラメルとその箱である。粘土をよくこねてただ四角くしただけ。小さい四角の固まりはキャラメルである。大きい四角の固まりはキャラメルが入っていた箱である。ほかの子は粘土で動物とか戦車とかを器用に作っていたときに当時の庵主が思案に思案を重ねて作った作品がそれなのである。驚異的な創造力に驚嘆されたことでしょう。しかしキャラメルにはちゃんと包装紙の折り目が、箱にはキャラメルの箱のデザインが刻まれていたことを付け加えておかなければならない。
 さあ、いいお酒を呑もう。酒は石川県辰口町の「夢醸」(むじょう)である。
 蔵元は若い。といっても三十を過ぎたぐらいである。その蔵元が杜氏として酒を造っている。いま、若い杜氏さんが醸したうまい酒が次々に登場している。「飛露喜」(ひろき)とか「辻善兵衛」(つじ ぜんべえ)とか「鳳凰美田」(ほうおう びでん)など、呑んで楽しい酒が多い。「夢醸」もまたそのような気になる酒の一つである。
 「夢醸」の特徴は山廃による酒造りである。うまい酒を造りたいという主張である。それを極み純米といい、極み山廃といい、極み本醸造と呼んでいる。
 山廃というのも庵主にはよくわからない酒で、山卸しを廃止しても酒が造れるのなら、それまで山卸しをしていたのはいったい何のためだったのだろうかと疑問が湧いてきて、やっぱりその違いがわからないのである。
 で、山廃で造る酒はうまいのかというと、これまたいろいろあって山廃だからうまい酒とはいかないのは他の造り方と同様である。
 「夢醸」の山廃本醸造は、庵主が味が焼けていると表現する味である。こってりしている味で、ちょっとクセのある味わいなのである。
 それをうまいというか、庵主のように一昔前の味わいと感じるかは好みによるのだろう。
 「夢醸」の11BY(=平成11年醸造)の純米無濾過の生酒はうまかった。この味ならいける。ふだんは量を呑まない庵主がつい二杯、三杯と杯を重ねてしまったのである。それはうまいというよりも、うますぎるゆえに体がその酒を催促してやまなかったのである。
 うまいとは書いたが、うまいという言い方は正しくない。11BYは庵主がいう「うまい」という酒ではない。そのような気負いを感じさせない酒なのだが、やっぱりうまいのである。だから体がよろこんで求めたのである。そういうほんとうにうまい酒だった。
 本数はそれほどないという。うまい酒は呑んだ人の勝ちである。いやそういう酒にめぐり会えた人は幸せな人なのである。「夢醸」の蔵元で庵主は幸せをもらって帰ってきたのである。

★喉につかえる★14/2/5のお酒
 庵主はこの歳になってようやく食べ物の好き嫌いがなくなった。紫蘇のにおいがだめだった。タラコ、いくら、数の子と魚の卵がだめだった。芋焼酎がだめだった。茅台酒がだめだった。いまはどんな酒でも口にいれて味わうことができるようになった。
 と思っていたのだが、やっぱり口にあわない酒は喉につかえるのである。
 「白鶴」の生貯蔵酒である。けっして悪い酒ではないのだが、頭の中ではそう判断しているのだが、しかしからだがそれを拒んでしまうのだからしかたがない。
 酒を呑もうとして体に苦痛を覚えたのはきっと今日は体力が落ちていたのだろう。からだが受け付けない酒を理性で呑みこもうという気力がわいてこなかった。
 酒も絵と同じである。気魄のこもっていない酒はいくらきれいでも庵主の体がよしとしないのである。
 画廊を訪れるときれいな絵がいっぱいある。上手な絵なのである。しかしその絵から伝わってくる感動(=「うまい」)がないものがほとんどである。そういう絵は見るとかえって疲れるだけである。
 日本酒もきれいな酒はいっぱいある。しかし「うまい」がない酒は呑んでもおもしろくないのである。むなしいのである。
 庵主の体は、こと日本酒に関してはうまいものしか受け付けない贅沢な体質に変わってしまったことを知るのである。
 気力がみなぎっているときは、まずいものでもまずい酒でも平気で口にできるが、からだが弱っているときは、まずいものはからだが受け付けないのである。それもまた歳をとったせいである。

★「越乃寒梅」★14/2/1のお酒
 やはり「越乃寒梅」なのである。
 その店では「越乃寒梅」と「久保田」だけはいつも置いておくという。日本酒は数多くの銘柄があるから、キリン・サッポロ・アサヒ・サントリーとだれもが銘柄を知っている酒と違うので、酒銘にうといお客さんが来たときによく知られているそれらの酒を置いておかないとお客がまず一杯のお酒を決めるときに難儀するからだという。
 たしかにその手の店では、菊正宗とか大関といったメーカーが造った日本酒は置いてないのだから、聞いたことのない酒銘を見てもどれを頼んでいいのかわかるわけがない。そういうときに「越乃寒梅」があるとお客はほっとするのである。その酒の名前は知っている、と。しかも幻の酒があるのだからこの店はいい店にちがいないと安堵するのである。
 「越乃寒梅」のすごいところはその知名度である。庵主は一瞥するだけで呑むことのない酒ではあるが、美酒の代名詞として多くの人がその酒銘を知っている。幻の酒として思い込んでいる人もいる。酒を呑まない人でさえも聞いたことのある酒銘なのである。
 「越乃寒梅」は日本酒の大スターなのである。「久保田」とか「十四代」がそれにつづくスターといえようか。
 スターがいることがその業界の人気の証である。スターは業界の支えなのである。たとえば馬券を買わない人でさえ知っている競争馬がいるときは競馬業界も景気がいいのである。じみな業界というのはスターがいないのである。
 「越乃寒梅」は、庵主は呑まないといったが、悪い酒だと言っているのではない。「越乃寒梅」は三増酒全盛のときに燦然と輝いていたすごい酒なのである。うまい酒を求めていた酒呑みがそれを奪いあったものだから、なかなか実物を手に入れることができなかったことからいつしか幻の酒といわれるようになったのである。
 いまもはったりのないその酒のよさは変わっていない。ただ周りの酒が三増酒から、数多くの吟醸酒や大吟醸酒に変わってきたので相対的にその地位が下がっただけのことなのである。いまはつぎつぎと庵主の気になるあたらしい酒がでてくるものだから、とても「越乃寒梅」を呑むまでに至らないということなのである。
 新潟酒がその酒に右へならえをして一世を風靡したことで「越乃寒梅」の名声は一時日本酒の模範とされていたが、当今の日本酒は数多くの味わいの酒が醸されるようになって選択の幅が広がったから「越乃寒梅」はそれを目指す酒ではなく、いくつもの酒の味わいの中から選んで呑む酒の一つとなっている。
 この酒の不幸は、あまりにも人気があるために多少値段が高くても売れるということから、東京の酒屋などではときとしてプレミアム(割増金)を付けて売られているということである。ほんとうは一升瓶で2500円の酒を5000円とか10000円で居酒屋で売られていることがあるということだ。だから、そういう酒を呑んだ知らない人は「越乃寒梅ってこんな高いのにそんなにおいしくないね」と思うことになる。
 車でいえば、軽自動車を高級車並みの値段で買わされたようなものなのである。酒の責任ではないのに不当に低く評価されることがある人気の酒なのである。人気もすぎたるは及ばざるがごとしである。かわいそう。
 そこで越乃寒梅の甘酒である。石本酒造(新潟市の「越乃寒梅」の蔵元)が甘酒を作っているわけではない。作ったのは新潟市の三條屋である。越乃寒梅の酒粕を使った「あま酒」である。
 「越乃寒梅」のご利益を庵主はおいしくいただいたのである。ここまで書くと、庵主は実は酒呑みではなくて、酒粕をうまいと思う酒粕マニアなのだということがわかるのである。ほんとうはアルコールが好きなのではなく、酒にただよっている酒の心が好きなのである。その文化に親しんでいるのである。
 平成11年8月25日の日乗に引かせていただいた宮崎康平さんの心境に達したのである。
 歳をとるとそれまで理解できなかった心を知ることができるようになる。肉体の衰えとひきかえに深い心のあじわいをさずかるのである。それを庵主は酒に教えてもらうのである。