「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成13年11月の日乗
★このマッコリはうまかった★
 抱川王家のマッコリ(韓国のどぶろく)である。店内のポスターにそう書いてあった。
 呑んだお店は韓国料理の「茶廊房(サランバン)」である。JR御徒町駅から昭和通りに出て道を渡り、そこから昭和通りを上野に向かって歩いていくと右側にある。ビルの9階にある店で、路上にお店の看板が出ている。
 そのマッコリはまさに王家の酒というのにふさわしい味だった。洗練された品のよさを感じさせる味わいのマッコリである。舌をくすぐる酸味のうまさがなんともいえない。甘みもキレがいい。ようするにうまいのである。
 日本酒同様、マッコリもいろいろな味わいのものがあるということである。このマッコリはおすすめである。
 仕上げのアイスクリームがあるのがいい。これもうまい。
 話は変わって、このサランバンの酒のリストが楽しいのである。韓国の酒は酒銘をあげることなくただ「いろいろあります」と書かれているだけであるが、それよりもむしろ日本酒の方が充実していて、それがちょっとおもしろかったのでついメモしてしまった。
 「宝海」 庵主はこの酒を知らない。どこの酒なのだろうか。
 「大阪屋長兵衛」  大が正しい。
 「一の蔵 無還鑑」  一蔵の無鑑査だと思う。
 「真登 純米吟醸生一本」  真である。
 「狗舞 山廃純米」  狗舞である。
 「越乃かぎろい 千寿」  酒銘の表記は「かぎろ」である。
 「浦露 純米生一本」 浦である。
 「上善如水」 この酒はそのとおりである。
 「黒帯 山廃純米」 これも間違いない。安心して呑める酒である。
と、いい酒を揃えているのにちょっとばかり酒銘が違っているクイズのような楽しいリストなのである。
 最初の「宝海」はもしかしたら「宝寿」とか「宝山」の間違いだったりして。ふと不安になってくるリストでもある。
  《追記》インターネットで検索してわかったのだが、「宝海」は韓国の焼酎(甲類)のようである。そういえば、サランバンの日本酒のリストの下のほうに「真露」(これも韓国の焼酎の銘柄)が書かれていたことを思い出した。「宝海」はアサヒビールが輸入販売しているとのことなので、このリストでは日本酒のところにあったのかもしれない。
●13/11/28

★「GO」★
 久しぶりに映画を見た。行定勲監督の「GO」である。在日韓国人が主人公の映画で、脚本よし、テンポよし、映画としてのセンスよし。入場料金にはずかしくない出来映えだった。原作は金城一紀である。山崎勉が出ている。日本映画といえば山崎勉が出てくるからおもしろくないというご意見もあろうが、この映画の山崎勉はいい。ちゃんと韓国系に見えるのがいい。
 南伸坊が、たしか雑誌の「写真時代」だったと思うが、20人ほどの日本人、韓国人、中国人の顔写真を適当に並べて、1ページ目はその顔写真にすべて日本人の名前をつけ、次のページではその同じ写真に韓国人の名前をつけ、さらに3ページ目には同様に中国人の名前を付けるという実験をやっていたことがある。
 同じ写真なのにそれぞれ日本人に見え、韓国人に見え、中国人に見えるのである。
 この映画の山崎勉は韓国人に見えるのである。
 大河小説を書く時は、何人かの登場人物を殺すことで話が締まるという。ならばこの映画は大河映画である。多くの日本人観客が好もしく思うだろう登場人物のジョンイルの殺し方がうまい。泣けるのだ。ジョンイルは何を主人公に語ろうとしたのか。わからないままいなくなってしまうのだ。
 ヒロインが靴を脱いで道路のセンターラインの上を歩きつづけるというのは映画的な面白さである。遊び方がうまい。
 雨が降る場面がある。映画の上手下手は雨の降らせ方でわかる。雨が降らなきゃ映画でない、というのが庵主の思いである。往年の大映京都撮影所の雨の降らせ方は見事だった。
 ラストシーンで降る雪はCG(コンピューター・グラフィック)なのだろうか。雪の降らせ方がうますぎるからである。便利になったものである。ストーリーがしっかりしていれば何をしようとどうでもいいことだけど。
 円生の落語が流れる場面がある。その録音のきれいなこと。息を感じさせずに声だけを録りきった雑音のない音の美しさ。そして落語のことばのなんて粋なことか。それを在日韓国人の主人公が聞き入っているという設定の妙。落語は洗練された日本語なのである。そういう言葉を嗜んだら日本人になっちゃうよ。
 マッコリを呑みたくなって、映画の帰りに四谷三丁目の妻家屋で買い求める。缶入りのマッコリは大韓民国は京畿道の轄刻堂からの輸入品である。
 ラベルには 「マフコリ」と書かれている。カタカナになれていない外国人には「ガソリン」が読めないという。ソとリとンの区別がつかないというのだ。日本人でもツとシがあやしい人がいる。このラベルはツの字をフと読み間違えたのだろう。
 さてこのマッコリの味であるが、なんとも素朴な味としかいいようがないものだった。精米歩合の低い米で昔からの造りをそのまま今日に伝えるマッカリなのだろう。味にクセがあって、この味はちょっと庵主の好みに合わない。これが本来のマッコリの味だといわれたら、そんなものかなと引き下がらざるをえないが、もっとちがう味わいのマッコリがありそうである。
 そして後日のこと、庵主はちゃんと「うまい」マッコリに出会うことになる。それは王家のマッカリである。
 うまい酒は向こうから庵主のもとにやってくるようになった。そのことをさして人徳、いや酒徳を積んだゆえにと言って悦に入っていてはお酒の神様に十年早いとしかられるかな。
●13/11/26

  ★婚礼の酒★
 ところはホテルニューオータニ幕張である。
 披露宴はシャンパンの乾杯から始まる。
 シャンパン、だと思う。スパークリングワインだったのかもしれないが、庵主には判断がつきかねる。ふだん呑みなれていない故。
 ポン、ポンという音をたててコルクが抜かれる。祝宴のはじまりである。庵主には今日もまたおいしい酒が呑めるぞという祝砲に聞こえる。
 こういう場で酒の能書きを語るのは愚の骨頂である。おめでたい酒なのだ。能書きなんかどうでもいい。お喜びに添える酒である。お酒の酔いにまかせて宴に笑顔を添えることである。
 ただし一流のホテルなのである。出てくる酒はなにも値段の高い酒である必要はないが、うまい酒が選ばれているという安心感を呑ませてくれればいいのである。これがうまい酒の味ですよという水準を示してくれればいい。
 最初のシャンパンがうまかったので庵主はすっかり酔いが回ってしまったのである。口当たりがよかったので、美人の給仕にすすめられるままについ2杯、3杯と重ねてしまった。庵主はそれで定量である。
 で、念のため、幕張のニューオータニはどんな日本酒を呑ませてくれるのか、給仕の女性に聞いてみた。
 「日本酒の銘柄はなんですか」と。
 即答能わず。
 「聞いてまいります」と。
 返事はすぐに戻ってきた。「お酒はキノエネです」とのこと。
 それからがマニアのいけないところである。いたずら心がもたげてきたのだ。いけない、いけない。
 よくパソコンの展示会で、ナレーターコンパニオンを相手にしてやたらとマニアックな質問をする男の子がいるという。ボク、こんなにパソコンにくわしいもね、という見栄である。傍(はた)で聞いていると男の子が馬鹿に見えることだけは間違いない。
 庵主はわきおこる愚かないたずら心を知性と教養で押さえ込んだ。給仕の流れを妨げてはいけないので「キノエネというとキノエネ醤油ですか」とは聞かなかった。「純米酒ですか、本醸造ですか」とまでは聞き返さなかった。
 ホテルの宴会場だからである。これがワインのソムリエを置いているような店でなら、店から日本酒について何にも教えられていない女給仕をからかったことはいうまでもない。庵主は、そういう店の酒の高い売値の中には酒に対する蘊蓄料も含まれていると思っているからである。
 「甲子正宗」は成田の酒々井(しすい)の酒である。結構酒造量は多いはずなのだが、どういうわけか東京では見かけない酒である。
 さすがにニューオータニ幕張だと思った。ちゃんとご当地千葉県の酒を使っているというのがうれしい。
 地方に旅したときに出てきた酒がどこでも呑める酒だったら面白くないのである。庵主が出雲に行ったらホテルの燗酒は「天穏」だった。日田に行った時は「薫長」のこってりした純米酒がでてきた。口に合う合わないは別として、普段呑めない酒とめぐり会えるのがうれしいのである。
 「甲子正宗」と聞いて、「それなら、冷やで一杯お願いします」と所望する。300ミリリットル瓶で出てきた。間違いなく「甲子正宗」である。
 できれば、と庵主は思うのである。一流のホテルでは、日本酒は一口呑んだだけでうまいとわかる酒を呑ませてほしいのである。日本酒の水準を知らない人のために日本酒のうまさを教えてほしいと思うのである。
 サービスも一流を気取るなら、ホテルはまた一国の文化を担っているのだから、出てくる日本酒もうまい酒を用意してほしい。ワインにはソムリエという人件費をかける意欲があるのなら、日本酒も吟味したそれなりの酒を揃えているのが一流ホテルの矜持というものではないだろうか。
 もっとも酒で儲けないとホテルも苦しくてと泣きつかれたのでは困る。それにふさわしいサービスが受けられるという期待があるから相当の宿代を払うのである。それに見合わない酒が出てきたのではちょっとさびしいものがあるのではないだろうか。ホテルがもっている一流の文化に対して金を払っているのだから。洗練された立ち居振る舞いと提供される心地よさに価値を認めてお金を払うのである。
 たとえば、おめでたい宴には、ホテルから末永く幸多かれとお喜びの席にふさわしい「開運」を用意させていただきました、とうまい酒を勧めてほしいのである。うまい「開運」を呑ませてほしいのである(もちろん「開運」でなくてもいい。うまい酒はいくらでもあるのだから)。
 「あれっ、このおいしいお酒はどこで手にはいるの」ということから、うまい日本酒があることを知ってもらうきっかけになるにちがいないと思うからである。
 庵主は、今後はだまっていてもうまい日本酒が出てくるホテルを一流と評価することにする。もっともそこまで気を使っているホテルとなると利用料もかなり高めになりそうである。そうなると庵主とは違う世界の話になるのだが、一流という看板を掲げる以上はそれなりの見識をみせてもらいたいのである。お金を出しても一流品が手にはいらないという国にはしたくない。一流品自体が存在しないというみすぼらしい文化程度に甘んじているというのでは夢がないではないか。共産主義国じゃあるまい。
 さして値段は高くはないのにうまいという日本酒はいくらでもある。そういう酒を探し出すのがホテルのサービスである。それが金を取れるサービスなのである。しかも探すまでもないことなのである。酒屋に聞けばちゃんと教えてくれるのだから。
 逆に、蔵元の方からうまい日本酒を一流のホテルに安定供給してもらうということはできないだろうか。日本酒はちゃんと造ればこんなにおいしいものなのですよと一定の品質を越えているうまい酒をそこそこの値段で提供できる蔵元はないだろうか。
 もっともホテルの方が、酒は客が呑むのだから味はどうでもいい、儲けが多ければいいという認識だったのではうまい酒を造っている蔵元は敬遠することは目に見えているが。「うちの酒はもっと味のわかるお客さんのいるまともなところに回すだけで手一杯ですから」と。
 食い物や飲み物を平気で残すような客も少なくないというから、たしかにいい酒をその程度のお行儀の悪い客に呑ませるのはもったいないとは思う。ならばせめて最初の一杯目だけはうまい酒を、つぎからはどうでもいい酒を呑ませて、うまい酒があるということを印象づけてくれるだけでもいいのだ。すくなくとも、宴席でワインと比べて見劣りする日本酒は出して欲しくない。ワインの酸味に負けないきれのいい味の酒でないと日本酒が甘く感じられるのである。
 いいホテルではうまい日本酒が呑めるということになれば、そのような日本酒があるということを知らなかった人もきっと一度口にしたうまい酒を呑みたくなるはずなのである。求めるはずである。
 うまい酒を求める人の裾野が広がれば庵主はまた多くのおいしい酒を呑むことができるにちがないという極めて利己的な理由からの願いである。
●13/11/21

  ★ことしの「松の司」はうまい★
 「松の司」(まつのつかさ・滋賀県竜王町出身)の黒ラベル。うまい。もうそれだけで何もいうことはない。
 ついでに「醴泉正宗」(れいせんまさむね・岐阜県養老町出身)を一杯。
 庵主がちょいと一杯やるときの酒が「醴泉」である。うますぎる酒はいらない。かといって、口直しの酒を呑みたくなるような物足りない酒は呑みたくない。どんな味かわからない未知の銘柄を呑む冒険もしたくない、といういうときに呑む酒が「醴泉」なのだ。一杯で満足できる酒である。安心の一杯である。「うー、うまい」のやすらぎの一杯である。
 いつもその店が呑ませてくれる「醴泉」は「真咲吟醸」(読めない)なのだと思うが、あえて銘を聞いたことがない。ほかの店で「醴泉」の純米を呑んだら期待はずれの味(期待が高かったということです。まずいというわけではありませんので)だったから、それより上のランクにちがいないことはたしかだ。
 その玉泉堂が、「醴泉」でびっくりした人をさらに驚かすために造った贅沢酒「蘭奢侍」(らんじゃたい)の上をいく酒を醸したというのだから、やっぱり呑んでみたい。好奇心がうずく。
 「蘭奢侍」のイメージから、甘味をたたえてしかも切れのいい味の酒かと予想したが、呑んでみると相当の辛口と感じる酒だった。「蘭奢侍」のうまさは庵主はわかるが、この酒は庵主の好みの幅からはずれる味である。ラベルを見ると+3と書かれている。呑んだ感じでは+7か+8の酒を呑んでいるいるような気がするのである。酒はデーターではわからない。呑んでみないとわからないのである。
 「醴泉正宗」は、庵主には能書きを先に読んでおかないとそのありがたみがわからない酒だった。でもまたべつの機会に呑んでみたい気がする酒である。
●13/11/16

  ★酒は「白雪」★
 「白雪」の純米酒の上撰である。  純米酒といっても、下手な純米酒によくある米くささは いささかもなく、いうならばさらりとしたモダンな味である。その味にはここがダメというところがない。とりたててどこが悪いというところはないのである。そのかわり呑んでいてもちっとも心がはずまないのだ。
 普段庵主が呑んでいる酒とは、また実に雰囲気のちがう奇妙な日本酒を呑んでいるような不思議な感覚に酔いしれたものである。
 悪い酒ではない、と書こうとして筆をためらった。呑んでもちっとも楽しくない酒は、庵主の心の中では「悪い酒」と言い切ってもかまわないのではないかという思いがわいてきたからである。
 繰り返して言えば、味に立体感がない。メリハリがない。酒に気魄が感じられない。呑んでいても面白みがないのである。
 味に欠点といえるような変なところはなく、言葉で書くならば、やわらかくてきれいな味わいの純米酒なのである。ただ一言でいえば、ぜんぜん印象に残らない酒である。
 口直しに「大英勇」(栃木県宇都宮市出身)の雄町の吟醸酒を呑む。「これが酒だ」、と庵主の心に、やっと元気がよみがえってきたのである。
 もちろんこの二つの酒は相撲でいえば平幕と横綱の対比である。対等の酒を比較したものではなく、味わいの違いについての庵主の好みを述べているにすぎない。
 庵主は、かりに赤貧を託つことになって値段の高い酒が呑めなくなったとしても、前者の酒を好んで呑むことはないだろうと思う。只酒だったものだから、つい好奇心から口にしてみたのである。
 酒は味わいで呑むこともあるが、心で呑むこともあるから、呑む情況によっては前者の酒も十分心にしみいることがありうるとは想像できるが、庵主の場合は、酒が呑めない体質なので、体がさしてうまいと思わない酒を無理して呑まないだけのことなのである。
●13/11/14

  ★肩の凝らない酒★
 「東北泉」(とうほくいずみ・山形県遊佐町出身)を呑む。
 (1)大吟醸「佐々木勝雄」山田錦35% +5、
 (2)「瑠璃色の海」雄町45% ±0、
 (3)「山田錦純米」50% +2、
 (4)「特別純米」美山錦50% +2、
 (5)「ちょっとおまち」雄町55% +7、
 (6)大吟醸「佐々木勝雄」鑑評会出品酒 山田錦35% +5、
 (7)「大吟醸雄町」雄町45% +5、と七つの味を味わった。
 庵主が呑みたかったのは「瑠璃色の海」である。
 そして庵主が好きな「東北泉」は、ここにはないが実は本醸造なのである。それが十分うまいのだ。今宵は贅沢をさせてもらった。
 地下5メールから湧いて出るという仕込み水を飲みながら、酒を楽しませてもらう。この水がやわらかい。
 「ちょっとおまち」が+7ということで、辛口に走った味がしたが、ほかは全体的にやわらかい酒質なのが意外だった。
 「瑠璃色の海」はけれんのない味わいですいすいはいる。普段庵主は五勺のグラスで2杯も3杯も呑むことはないのだが、この酒はけっしてうまいというわけでもないのについもう一杯呑んでみたくなる酒だった。こういう酒がこわいのである。ほんとうにうまい酒というのはこういう酒なのだと思う。うまいと感じさせないであきのこない酒である。
 「佐々木勝雄」になるとさすがに値段もいいが味もいい。大吟醸のうまさがずしんと伝わってくる美酒である。少量しか酒を呑めない体質の庵主は、一口目から呑んだという気がするこの手の酒が好みである。高いけど一杯しか呑まないから差し支えないのである。そしてなんといっても「うまい」のがいい。
 「ちょっとおまち」をちょっと手であたためて呑んだら、いま庵主がこだわっている酒の渋みが感じられる。この渋みがおもしろいのである。この酒はちょっと気になる酒である。
 「大吟醸雄町」酸度が1.4と高めでアルコールも18.5%としっかりしているだけあって個性を感じる酒だった。
 ふだんならそんなに呑めない庵主であるが、こうしていくつかのうまい酒を呑ませてもらうと、おいしいのと、おもしろいのでけっこう入るのである。
 いつもならそれぞれ一杯ずつ味見しただけでも酔いがまわってあとから難儀しているのだが、今宵の「東北泉」はいい。15〜16杯は呑んだろうか。庵主にすれば呑み過ぎである。それだけ呑んだら庵主は肩が凝るはずなのだが、今日の酒はそれもなく、かえって肩も爽やかにその店を出たのである。
●13/11/11

   ★やばい★
 「ださい」という言葉がある。その言葉を使うこと自体がダサイのである。語感と意味とがみごとに一致する言葉である。
 「やばい」という言葉も同様にそれを使うのはやばい言葉である。品がないのである。
 それなのに、ではなぜやばいのかというと、庵主はビール造りを体験してしまったからである。
 これまで庵主は知らなかった。ビールをどうやって造るのかを。だからサッポロ、キリン、アサヒ、サントリーのビールの味がビールなのだと思っていたのである。その味の範囲からはみ出たビールを庵主の味覚は受け付けなかった。そういう味のビールを旨いと知覚できなかったのだ。四社にだまされていたとは言わない。ただ呪縛されていたことに気づいたのである。
 ビールを造ってみると、その造りを変えることでいろいろな味わいのビールが造れることがわかったのである。そのことに気づいて、突然、庵主はビールを味わう楽しみに目覚めたのだ。
 庵主にとって、これまでのビールはただ喉を潤すだけの水がわりに飲むアルコール飲料で、ただ飲み口がよければうまいビールだった。日本酒でいえば淡麗辛口の新潟酒だけが酒だと思いこんで好んでいたということに気がついたのである。
 ビールの味を味わう楽しみを知ってしまったのである。いままではどのビールを飲んでも同じような味にしか思えなかったのであるが、その造り方を知って味わうときの基準を手にいれてしまったのだ。違いがわかる男に変わったのである。
 かつて地ビールを飲んだ時に、米ぬかビールの味にならされていた庵主の舌は拒絶反応を起こしたものだ。その味がえぐいと思った。このえぐいという言葉も、思えばえぐい。
 しかし、いまビールの味わい方を知ってしまった以上、市販のラガービールの味がちょうど日本酒の普通酒(例のまずくはないが、ちっともうまくない酒である)を呑んだ時のあじけなさと同じように感じるようになるのではないかと危惧したからである。
 だから、やばいのである。うまい日本酒はいつでも呑めるところをさがすことができるが、うまいビールとなると飲める居酒屋を探すのに苦労しそうだからますますやばいのである。
●13/11/8

★その店は/波瀬正吉で一杯★
  庵主はいま、酒は居酒屋のご主人にまかせることにしている。いい酒を揃えた店ならだまっていてもうまい酒をすすめてくれるからである。まだ呑んだことのない酒を頼むというのもいいが、酒にはうまさがのった飲み頃というのがある。それを知っているのは居酒屋の主人なのである。うまい酒が呑みたいのならご主人のすすめにまかせるにしくはない。
 日本酒のカタログに載っている酒銘は、そういう酒が造られているという情報でしかない。うまいかまずいかはそれを見極めた人に聞くことである。カタログにのっているうまい酒を買ってきても、ラベルは同じであってもやっぱり味がちがうのである。
 ふと入った居酒屋はお酒のリストを見ると庵主の心をわくわくさせる酒が並んでいる。酒銘を一つ一つ目でおうのが楽しいリストである。酒の揃えを見ればその店の格がわかる。ここでいう店の格というのはうまい日本酒に対するこだわりのことである。値段の高い安いのことではない。この店はうまい店であることがわかる。
 店主の日本酒に対する思い入れも生半のものではない。「うまい日本酒を多くの人に知ってもらいたい」という。そのことは庵主の気持ちとともにする思いである。
 まず一杯は「開運」の山田錦55%ひやづめの純米である。なにも言わなかったのに、最初から庵主の好きな波瀬正吉の酒からすすめてくるところがにくい。得たり、というのはこういうことをいうのだろう。
 この酒はほどよい酸味があってじつにきれいな味の純米酒なのである。純米酒がいつもこの水準だとうれしいのだが、多くの純米酒はそうはいかない。庵主がいうところの米くさい酒が少なくないのだ。はっきりいってトキメキのないどんよりした味のものが多いのである。この酒で純米酒の水準をたしかめてほしいと思う。
 と書いて、この酒が造りの量が少ないのでなかなか手にはいらない酒であることに気がついた。いつもこの手のおいしい酒を呑んでいるものだから、だれでも呑めるものと思い込んでこの酒をすすめてしまったのであるが、もしこの酒を呑む機会にめぐまれたのなら、是非呑んでみてほしい、と書き直しておく。
   二杯目は「奥播磨」の「春」。半斗瓶で出てくる奥播磨はなんともいえない苦みを感じる酒である。庵主はいまこのなんともいえない酒の苦みに惹かれているのである。「ちょっと冷えすぎですから、すこし温度をもどしてお呑みください」という。手のひらで三角グラスをあたためて呑む。酒の表情が変わっていくのがわかる。
 その店はうまい日本酒を心から楽しめる店である。店の雰囲気がいい。だからお酒がおいしく呑める店である。
●13/11/4

★名杜氏 溝口直次が醸す幻の美酒★
 その店にいた女の客もそう読んだのである。店内に貼ってあった筆で書かれた達筆な手書文字のことである。
 「みぞぐち・なおじ、って杜氏さんの名前なの」と連れに聞いている。
 女の声を耳にして、溝口直次という杜氏の名前を庵主も聞いたことがなかったので、気になってその張り紙に目をやると、うまい酒をすすめる張り紙にたしかに「溝口直次」と書かれている。
 溝口直次というのはどこの蔵の杜氏さんなのかとその酒銘をみた。
 連れの男はよく文字が読める人だった。「これは、槽口直汲だよ」。ふなくち・じかぐみ、か。よく見ると、なるほどそれは槽口直汲と書かれているのである。
 爾来、庵主は幻の美酒を醸す架空の杜氏さんの名前として溝口直次という名前を使おうと心の中にとってあるのである。
●13/11/3

★贅沢を三杯★
 「醸し人九平次」(かもしびとくへいじ・愛知県名古屋市出身)の別誂純米大吟醸をまず一杯。
 それまでは小結、関脇級の手堅い相撲をとっていた九平次が突然横綱をはった酒である。値段もどんとはるという。一升7千円ときいた。別誂とするだけあってラベルがいつもの九平次と違う。高級感がただようシンプルなデザインで、呑む前から期待が高まる。
 その気魄にふさわしい酒である。日本酒のうまさが堪能できる。
 二杯めは「佐久乃花」(さくのはな・長野県佐久市出身)の山廃純吟無ろ過生原酒。生酒の炭酸が感じられるさわやかなうまさと、その同じ味わいが酒が若いという物足りなさを感じさせる酒だった。長所が同時に短所という不思議な味わいである。もちろん酒の質はいい。美酒になる前の酒を味見している感じがした。時の流れで磨くともっとうまくなりそうな酒である。呑むのが早すぎた。
 「ちびちび」で仕上げ。これは焼酎である。
 この三杯で、庵主は肩にきた。酒を呑みすぎると肩が凝るのである。またちょっと贅沢をしすぎたようである。庵主に贅沢は似合わない。
●13/11/1