「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成13年9月の日乗
★「仙亀」山田錦80%★
  埼玉県蓮田市出身の「仙亀」(せんかめ)の生酒である。「神亀」が山田錦を使って精米歩合80%で造った酒という話題の酒である。
  普通の酒でも精米歩合は70%以下なのだから、80%という精米歩合は商用に造る酒としては異常に糠が少ないのである。
 庵主がこの酒のことを聞いてから、実物に出会うまでに1年有余の時間を要した。
 つい最近買い求めたその瓶の製造年月は「2000.5.」と打たれている。シールが貼ってあって、「壜詰時を製造年月としてありますがマイナス10度の低温熟成(一〜三年間)をし、飲み頃を待って出荷しております。」とある。
  酒販店で1年間冷蔵庫にあったこの瓶は、瓶に詰められるまでさらに何年間かの眠りについていたのである。話題になってから出会うまでに時間がかかるわけだ。
 さて、味であるが、封を切ったときの香りは蔵元にお邪魔した時のあの蔵のかおりがする。麹のかおりというのか、庵主が好きな酒粕のにおいである。うまい酒の風(ふう)がただよっている。口にする。ああ、山田がもったいないと思う。山田錦である。もっと磨けば美人の酒ができるのに、なにも80%でやめることはなかったろうに、というのが第一印象。悪い酒ではない。しかしもったいない米の使い方をしているという印象はまぬがれなかったのであるが。
 秋である。「仙亀」を燗につけてみて驚いた。いやーあ、馥郁。味に立体感が出る。米の酒のおもしろさがぱあっと広がってうまいこと。上品な酒を燗にすると呑む方も気持ちがしゃちこばってしまうが、この酒は呑んでいて楽しい。酒が口の中ではじける燗が楽しい酒なのである。
  もう一杯と思って瓶を見たらもう四合瓶が空になっていた。久しぶりにうまい燗酒と出会ったのである。
●13/9/28

★「神亀」「郷の誉」「富久錦」そして福光屋★
 石川県金沢市の福光屋(ふくみつや)といえば、「黒帯」である、「加賀鳶」である。ちょっと気になる酒を造っている蔵元である。「百々登勢」(ももとせ)という古酒を呑んだことがある。
 その福光屋が埼玉の「神亀」、茨城の「郷の誉」、兵庫の「富久錦」に続くという。
 英断である。呑斉先生が喜んでいる。
 リンクのページから呑斉先生の「つぶやき」を訪ねていただくとその英断が記されています。2001年9月20日のつぶやきをごらんください。
 リンク先のホットニュースのご紹介でした。
 酒銘は、「神亀」(しんかめ)、「郷の誉」(さとのほまれ)、「富久錦」(ふくにしき)、「黒帯」(くろおび)、「加賀鳶」(かがとび)と、つい呑んでみたくなる酒ばかりです。
●13/9/26

★酒屋は美術館である★
  日本酒を造る人がいる。蔵元である。家元といい、版元といい、元がつく生業にはなんとなく世間を斜に構えて見ているような、そのことで人の心をひきつけるあやしい魅力がただよっているのがいい。
  その酒を販売する人がいる。酒販店である。酒販店という用語は読んで字のごとく明確ではあるが、なんとなく法律用語のようでいけない。馬券を法律用語では勝馬投票券という。馬券なら買ってみたくなるが、勝馬投票券などといわれるとそんな堅苦しい手続きなんかしたくないと思ってしまう。語感の違いである。そういうわけで、庵主はこれからは酒販店を酒屋という。
 酒屋で酒を求める呑み手もいるが、酒は酒場で呑むのがうまい。うまい酒を供するいい主人がいる。ちょっとした肴がうまい。そして酒を呑むという場の雰囲気がいいのである。酒だけ呑むのを1とすると、酒場で呑む酒は2となり3となるのである。せっかく酒を呑むのならおいしく呑みたいではないか。
 酒場には立ち飲み屋から、赤のれん、焼鳥屋、日本酒バー、割烹、料亭といろいろな場があるが、庵主はそれらを総称して今後はただ居酒屋と書く。
  そして酒は呑み手のおなかに納まって呑み手の体と心を満たしてくれるのである。
  さて酒屋の話である。酒屋の冷蔵庫の中に並んでいる酒をながめるのが楽しい。カメラ屋のショーウィンドに並んでいるレンズやカメラをみつめながらうっとりしている男たちの気持ちがわかる。ただいくらいいレンズやカメラを買ってもいい写真は撮れないが、いい酒はその酒を呑むだけで心がゆたかになるという即効性があるのが違いである。
 先週の土曜日に初めて味のマチダヤに行ってきた。「仙亀」(せんかめ)との出会いがあった。
 今日は三ツ矢酒店に行ってきた。こちらも訪ねるのは初めてである。買い求めたのは宮城県石巻市出身の「墨廼江」(すみのえ)のひやおろしである。
 うまい地酒を扱っている酒屋の冷蔵庫の中は庵主にとっては宝の山である。カタログなどで見知っているだけの酒が数多く目の前に並んでいる。それらの瓶をながめているだけでおもしろい。その一本一本がいとおしく思える。こうして錚々たる酒をながめていると庵主はうっとりしてしまうのである。場数を踏んで少しは酒が見えるようになり、その酒の旨さがある程度思いえがけるようになったからである。
  「天保正一」の四合瓶があった。「中三郎」も四合瓶があるとは知らなかった。「正雪」もある。見る酒、見る酒、どれもが庵主に「呑んで」とささやきかけてくるのでいけない。「もちろん呑ませてもらうよ」と心の中でこたえる。
 とはいえその酒を買うことはない。庵主は酒が呑めないのである。量が呑めないから買ってきても呑みきれないのでもったいない。呑むのはもっぱら居酒屋である。小さなグラスでちょっとだけその美禄を味わうことを楽しみにしている。いつそのおいしい酒に出会えるのかという期待に胸をワクワクさせながら日々をおくっているのである。
  庵主にとって酒屋は美術館のようなものである。そこにはいい絵が揃っている。しかし買うことはできない。芸術品を見て楽しむところなのである。いい酒を見ているだけでも庵主の心は満たされるのがわかる。造り手とその酒を集めてきた売り手の心がひしひしと伝わってくるからである。その心意気に元気づけられるのである。
 しかもその気になればそれらの酒はお金を出せば手に入るのである。ありがたい時代になったものだと思う。幸せな人には気づかないのだろうが、不幸せを感じている人がそれを見たらきっと恨みに思っているのだろうということは想像にかたくない。
 恨みを持つ方にまわった時に、その思いをうまく解放することができるようになることを修養というのだろう。後向きの思いを長くいだきつづけていることは体によくない。いい酒を呑んでいるとそんな恨みさえもいやされるのだから美酒はありがたい。
  ところで、この「むの字屋」を読まれて、庵主のことを本当に酒が好きなんですねと誤解される人がいる。たしかに「酒」は好きではあるが、呑んで酔うことが好きなわけではないのである。体が酒を受け付けないもので。ビールはコップで半分、日本酒はせいぜい五勺が適量である。調子に乗って一合の酒を呑んだ分には覿面に肩凝りが始まる。
  また、庵主は酒呑みに違いないと勘違いされてありがたいことに酒をいっぱい贈ってくださる方がいらっしゃるが、そんなわけで送っていただいた酒はほとんどの場合、礼状のために一口味わったあとは入浴剤として使わせてもらっているのである。いただいてから半年も1年もおいた酒を呑むよりも、居酒屋でよく保管された酒を呑むほうがずっとおいしいからこれはいたしかたないことである。おかげさまで、ときには大吟醸風呂といった本当に贅沢なお風呂にいれさせてもらっている。そのお風呂の気持ちのいいことはこの上ない幸せである。バチがあたりそう。
 とはいえ、うまい酒をいただいたときには四合瓶がすぐ空になるのだから体は正直である。
●13/9/24

★敬老の日に呑む酒は★
 「琵琶の長寿」の大吟醸。
 「福千歳」の「長寿」の大吟醸。
 「富久長」の純米吟醸「百壽平成」。
  それに「養命酒」を加えて、日本酒売場には長寿にいざなう酒がコーナーをかまえて並んでいた。「養命酒」を吟醸酒といっしょに並べるという着想に感心した。なんとなく笑いがこみあげてくるものを感じませんか。
 売場の担当者が長生きにちなんだ名前の酒はないかと探したあげく、これこそ本当に健康にいい酒だと気がついてついでに並べたようなおかしさが そこはかとなく ただよっているのである。酒を見て笑ってしまったのは初めてである。
 でもひょっとすると、ロングセラー(長寿命商品)の酒ということで長寿にかけて並べたものかもしれない。だとするとこの選択はわかる人にはわかるなかなかの含蓄がある品揃えなのである。
 いやいや、なにも日本酒にこだわることはないである。お客さんが気に入ってくれる品を揃えることが商売なのである。お客さんに選ぶ楽しみを与えるのが商売なのだから。
 「養命酒」の値段が1000ミリリットルで2200円だということを知った。一升で3960円である。日本酒でその値段なら相当の酒が買える値段である。ちなみに昨日呑んだ「扶桑鶴」の純米大吟醸が一升4000円である。「養命酒」は純米大吟醸酒に匹敵する高級な酒なのである。日本の誇るリキュールの名品である。
  「養命酒」といえば、庵主の父親が健康のために愛用していたことから、幼少の庵主も「体にいいからお前も飲め」とあの小さいプラスチックのグラスでよく飲ませてもらったこと覚えている。「養命酒」は甘くておいしい酒だと思って飲んでいたものだ。「養命酒」はあんがい庵主が初めて飲んだ酒だったかもしれない。
  いまでは、庵主は薬用酒よりももっと体にいい吟醸酒を普段から口にしているから「養命酒」のお世話になることはないが、こうして今もなお広く愛飲されている酒はめずらしいのではないか。
 「越乃寒梅」を知らない人でも「養命酒」の名前は知っているはずである。単一銘柄ではひょっとして日本で一番飲まれている酒かもしれない。いや、やっぱり酒呑みに愛される月桂冠とか大関の普通酒にはかなわないか。
●13/9/21

★「香露」の大吟醸★
 山口県岩国市出身の「雁木」(がんぎ)大吟醸、金賞受賞酒を呑む。この酒は知らなかった。初めて呑む。庵主の知らないうまい酒にめぐり会えると心がはずむ。うまい酒を造る人がここにもいるという安心感と世の中は広いという未知の希望を感じるからである。
  味は甘くこってりしている。まさに大吟醸のうまさをたたえた酒である。庵主好みの、最初の一口からうまいと感じる酒である。しかも金賞酒、ただ甘いだけではない、酸味が感じられる。庵主の場合、酒は酸味がないと呑み続けられない。体が受け付けなくなるのである。さいわいうまい酒というのは、ちょうど音楽のベース音のように、また香水の保香剤のようにその味わいを支えている酸味がしっかりしているのである。香りも過度になる寸前でとまっている。芸を感じる呑んでいて楽しい酒である。
  島根県益田市出身「扶桑鶴」純米大吟醸。甘みはない。では辛口の味なのかというとそうではない。うまいのである。純米酒はこれだけきれいな味を造れるのである。普通の純米酒を呑むといかにも純米酒という感じの重い味の酒に出会うことがある。その味の重さに庵主は古臭いという印象を受けるのである。「扶桑鶴」の大吟醸はさすがに味が洗練されている。
 庵主は純米酒の基準をこのランクの酒においているものだから、多くの純米酒が米くさい酒に思えるのである。庵主がいう米くさい味というのは、酒の生きがよくないからなんとなく重い感じがする味で、しかも磨きが足りないせいか香りもいまひとつはなやかさがなく、なんとなく昔風の趣がただよう洗練されていない味のことである。しかし現にそれとは全然違うこのようなきれいな味わいの純米酒があるのだから、古風な味を引き継いでいるそれらの純米酒はよくいえば伝統的な酒造りをたたえる酒、庵主にとってはやっぱり口に合わない酒なのである。
  熊本県熊本市出身の「香露」の大吟醸。酸味がしっかり感じられる。そのことでこの酒が強く印象に残る。しかもその酸味がまたうまい。酒質は格調の高さをたたえてる。まさに9号酵母の味をよく引き出した酒である(と、うっかり書いたが、庵主は9号酵母の酒をききわけられません。こういうのを筆が踊るというのだろう)。味がきれい。
 せんだって呑んだ「香露」は吟醸酒だったのか、こってりと米くさい味でがっかりしたものである。「香露」はこの程度の酒だったのかと。しかしこの大吟醸はすごい。呑ませるものがある。いや一度は呑んでおきたい酒である。酸味が少し強いのではないかとも思うが、それがまた呑みやすさの要素になっている。刺身と一緒に呑んでもこれなら負けないなと思う呑みごたえのある酒であった。一杯の酒でたっぷりと楽しむことができるのはうれしい酒である。
  名酒列伝に連なる酒であることは間違いない。
●13/9/18

★恐ろしい話★
 日本酒のことである。なかでも大吟醸と呼ばれる酒にはそれだけで十分に「うまい」と体を納得させる味わいがある。しかもその酒は精神的にも贅沢品に親しんだときと同じように心からの満足感を与えてくれるのである。酒だけで一つの世界が完成しているのである。
 ワインの紹介記事を読んでいると、よくワインはそれにふさわしい料理に合わせて飲むことが文化というものであると書かれているが、本当のところはワインだけでは精神的な満足感が味わえないから料理という補助が必要なのではないか。
 うまい日本酒を呑むと酒だけで心からの満足感にひたることができる。一方ワインというのはそれだけでは十分に「うまい」を引き出せない酒なのではないかと庵主はいま疑っているところである。ワインをほとんど飲むことのない庵主の仮説なので違っていたら庵主の経験不足ということである。この点についてはご自身で確認をしてほしい。
 深い味わいの日本酒を呑んでいると、そのうまさを引き立てる料理を添えることは無理なのではないかという恐ろしい思いにとらわれることがある。甘辛のないほとんど中庸の味といっていい刺身でさえ、大吟醸酒を呑みながら口にすると酒のうまさが損なわれるのがわかる。料理が酒を汚(よご)すのである。と、これはいいすぎ。酒だけ呑んでいた方がうまいと思うである。
 酒呑みに言わせると塩をなめながら呑む酒がうまいということだが、それはけっしてうまい肴を食べることができない人のやせがまんなどではなく、本当に酒をうまく呑むためには塩がいちばんふさわしいのかもしれない。
 酒がうまく呑める料理を求めるよりは、逆に料理に合わせて酒を選ぶほうが楽ではないかと庵主は思う。しかし庵主は今はうまい酒が呑みたいのである。
 大吟醸酒のうまさを引き立てる料理を用意できる料理人というのは相当の感覚(センス)のよさを持ち合わせている才人か、常識的な組み合わせにこだわることのない大胆な芸術家であろう。前者は従来の味覚を踏襲してそのうまさを究める人、後者は伝統的な味覚の基準を越えて新しいうまさをつくり出す人である。才人の冴えか芸術家の直感にめぐり会えたら幸せである。
 日本酒はそれ自体がうますぎるのである。だから日本料理はかわいそう。もっとも一緒に呑む日本酒がまずかったら料理はもっと不幸なのであるが。
●13/9/16

★久しぶりに酒を呑んだら頭がクラクラする★
  ここ二、三日続けて酒を呑まなかった。久しぶりに一合の酒を呑んだら頭がクラクラしたものである。クラクラきたのは疲れていたせいかもしれない。しかも空腹で呑んだものだから酔いのまわりが早かったのかもしれない。
  二、三日ぶりのことなのに久しぶりというのはなんとなくおかしい気もするが、アルコールを飲まない日が二日なり三日なり続くことは最近では珍しいことなので、ふたたび酒を口にしたときの感覚はまさに久しぶりの酒という感じがしたのである。酒を満たした盃を前にしてなつかしいという思いさえわいてきたのである。
 酒は「苗加屋」(のうかや)の斗瓶取り大吟醸。富山の「若鶴」である。
 甘味はない。辛口の造りである。だから庵主はうまいとは思わない。しかし味に深みを感じる。大人のあじわいといおうか。酒質のよさは感じるも好みの酒ではない。庵主にとってはもういちど呑みたいと思う酒ではない。ただ記憶にはとどめておく。
 クラクラきたのにはもう一つの理由(わけ)もある。
 たまたまその酒を一緒に呑んでいた女の子がこの酒の味わいを的確に表現したのを聞いて愕然としてしまったのである。
  大吟醸の大看板を掲げたこの酒を含みながら、庵主はこれまでに呑んだ幾十、幾百の酒の味わいを思い出しつつこの酒の位置を定めようとしていたところに、日本酒はめったに呑むことのない女の子が、うまい日本酒をほとんど呑んだことがないだろうに、庵主がようやくたどりついた評価とほぼ違わない感想を口にしたのである。
 庵主の十数年にわたる酒呑みの蓄積はいったい何だったのだろうかと思うと頭がクラクラしたのである。
 酒を評価することなく、ただその酒が庵主の口に合うか否かを語ってきただけでよかったと思ったものである。
  ●13/9/14

★発泡にごり酒を一杯★
 重陽である。菊の節句とあるから「菊姫」でも呑もうかとも思ったが、きょうは軽い酒に目がいってしまった。
 「あわわ」(愛知の中埜酒造の醸す酒)である。「富士山の天然水使用 自然発泡 米だけの酒 酸味のきいた爽やかなお酒」である。アルコール分6%のにごり酒である。口あたりがいい。炭酸がここちよい。いわゆる「うまい」酒ではない。そんな大仰な酒ではない。爽やかを楽しむ酒である。
 「肉料理にぴったり」とあるが、韓国料理の焼き肉屋で出てくるなんとかというどぶろく風の酒に似ている味わいの酒だから、おすすめの呑み方はけっこういけるかもしれない。
 軽いアルコールが食欲をそそる。そしてさっぱりした口当たりなので、口の中の焼き肉のにおいをさらりと流してくれる。酸味がいい。だからまた焼き肉を口にすると、焼き肉のうまさがふたたび口の中にあふれるのである。焼き肉を何倍にもおいしく食べることができるというなかなかの酒である。
 庵主はこのところ酒を呑んでいないので、6%のアルコールでもすっかり酔っぱらってしまった。それもそう、口当たりがいいので300ミリリットル一瓶を空けてしまったものだから、庵主には十分呑み過ぎなのである。
 330ミリリットルで330円の酒である。
●13/9/9

★酒を呑まない月★
   九月は酒を呑まない月になりそうだ。9月1日は桐生市にあるきのこ会館で開かれた「吟遊楽酒の会」を楽しみにしていたのに仕事がはいって呑みにいけなかった。
  この会は、喜楽長、初亀をはじめとして庵主が好きな蔵元がそろう年に一度の絶対外せない魅力的な酒会だというのに。
  9日の志太泉を呑む会は、庵主が所属する写真クラブの撮影会とぶつかってしまった。
 そのうえ、今月は本を買い込んだものだから、酒にまわす金がないのである。
  と、呑斉先生は「福乃友」の「春うさぎ」がうまくて四合瓶をぺろりと空にしてしまったと書いているし、六本木にあるぼったくりおでん屋(と常連の女性客が言っている)Rからは「梅の宿」の古酒を用意して待っていますと酒呑みの心をくすぐる案内状を送ってくるしで、誘惑は少なくないのである。
  一方、八丁堀にある鉄砲洲稲荷神社では毎月の断酒の会がつづいている。同志の団結と魂の励まし合いで酒を断とうという断酒新生会がこの9月には第513回を数える。
  世の中には庵主のように酒の話を肴にして酒を楽しんで呑んでいる人がいる。理屈で酒を呑む酒が呑めない人たちである。ところが反対に、酒が恨みの人たちがいる。酒を呑めるのが身の不幸。酒を絶つことに苦労している人たちが少なくないということである。本人だけのことなら自業自得といって笑っていられるが、はっきりいって周りの人たちがその酒呑みに迷惑しているのである。
  たしかに酒を連日呑んでいると依存性が出てくるのがわかる。アルコールが呑みたいというより、酒を呑むという儀式を終えないと一日が終わったという気がしないなんとなくものさみしい気持ちにかられるのである。依存症というのは人間の性(さが)なのかもしれない。人間はさみしさには弱い。だから呑みたくないのに、さみしさに負けて惰性で酒を呑みつづけていることがある。そうなると肝臓の休まる時がなくなる。
 肝臓は寡黙だから耐えられるだけ耐えるのだが、ある日その限界を越えた時には体はとりかえしのつかない状態になっているということなのである。
  若い時の暴飲を誇る酒豪の、年取って酒に弱くなってきたときのあわれは見るに忍びないものがある。肉体の衰えをあわれに思うのではない。酒にもてあそばれた人生の末路をそこに見るからである。
 「我慢」は人から強いられると性格がいじけてしまう。逆に自分から「我慢」をすることで時々呑む酒がうまくなるというのは我慢の善用である。
  さて、庵主、今月は酒を呑まずにすごせるか。酒をしばらくやめる前に「福乃友」の「春うさぎ」をさがしてこよう。それを呑んだらしばらく酒をおくことにする。
  まさか、それが実行できるとは思ってはいないのだが。うまい酒が多すぎるのである。
  文章が乱調なのは酒が切れたせいか。
●13/9/5

★第一升、第一杯★
  円浄寺鳳水(えんじょうじ・ほうすい)氏の著作「百歳まで美酒を 健康飲酒のススメ」は京都の本である。東京では大阪や京都の出版社の本を大阪本とか京都ものとかよんでいる。東京の出版社の本は手慣れているいるから商品としてみるとたしかにスマートなのである。企画といい編集の冴えといいやっぱり東京の出版社は一歩進んでいるといえる。なかには泥くさい出版社もあるから一概にはいえないのだが。
  酒の本である。第一章が第一升とある。その次の見出しは第一杯である。粋である。京都の版元は乙な本を出すから隅におけないのである。
  全94ページの小さな本である。この程度(ページ数がですよ)の本なら庵主は立ち読みで全部読めてしまうのだが、本の雰囲気になぜか捨てがたい魅力がある。自分のものにしてゆっくり味わいたいという気にさせる本なのである。
  酒戒のその四によると、「七日につき二日続けて休み、かつ、三日続けて呑むべからず。」。当然、一週間に二日間は続けて休めと読むと、じゃ残りの五日間は呑んでいいのかと考えるのが酒呑みの浅はかなところである。三日続けて呑むべからずとしっかり忠告してくれる。
  酒戒の五は「肴は、多塩・多脂を避け、野菜・海草・豆類を摂るべし」。
 なるほど、庵主は素直だから、酒を呑んでいい日は月・木・金としようと決意するのである。土・日は呑まないですませる日とするが、成り行きで。
  第二升、第二杯の「現在日本の食生活」は日本の食生活がいかに劣化してきたかの指摘である。庵主一人うまい酒を呑んでいる場合でないことがわかる。
  酒戒の十「酒をつくりたる人々に畏敬の念をもってあじわうべし」。同感である。酒に込められた造り手の思いを味わうことが「うまい」のである。
 本の発行元ウインかもがわ。発売元かもがわ出版。952円税別である。
●13/9/1