「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成13年7月の日乗
★その店は/おしぼりの美学★
 その店にはいっての最初の楽しみはおしぼりにある。そのおしぼりがあまりにも気持ちがよいので、ときにはそのおしぼりに会いたいために通うことがあるほどである。
 手にここちよいそのおしぼりは少しおおぶりなだけである。おしぼりはちまちましたサイズでは貧相である。サービスのつもりがかえって店の品格をそこなうだけである。いい酒を呑むときにはゆたかな気持ちになるおしぼりを出してほしい。
 夏だからといって冷たいおしぼりはいけない。あたたかいおしぼりでなくてはならない。そして香料がついているようなことがあってはならない。
 その店のおしぼりはタオル地がふっくらしているのである。他の凡百のおしぼりとの違いはほんのわずかの違いなのだが、わずかな違いが大きな違いなのである。
 酒もそうである。美酒と普通酒の違いも気にしない人にはわずかな違いである。ところがその違いがわかるようなったら、そのわずかな違いが格段の違いであることを知って一人ほほえむのである。
 さあ、酒が出てくる。そのおしぼりでゆたかな気持ちになったあとの酒に心がくつろぐ。もちろんいい酒を揃えた店である。なにが出てきても酒がうまい。
 いい酒をゆったりと楽しめる店なのである。
●13/7/28

★酒の揃えとは★
 「神亀」
 「開運」
 「満寿泉」
 「秋鹿」
 「奥播磨」
 どうです、お酒が呑みたくなってきたでしょう。
 さらに、
 「志太泉」
 「義侠」
 「竹鶴」
 「鳳凰美田」とつづくのですから、これを呑まずにおらりょうか、という気持ちになってきませんか。このような酒の集め方を、庵主は酒の「揃え」とよんでいます。集められた酒になんとなく一貫した主張が感じられるから。要するにうまい酒を見つけてきたという矜持が感じられるということです。
酒の並べとは
 「北海男山」 
 「一の蔵」
 「高清水」
 「浦霞」
 「一人娘」
 「越乃景虎」
 「真澄」
 「小鼓」
 「梅錦」
 「酔鯨」
 「立山」
 「美少年」
 と、一目置く酒がいっぱい並んでいる。こういう酒リストはしかし、居酒屋のご主人が集めたというより、なんとなく酒問屋からこれはいい酒ですよとすすめられて並べた酒のように見えるのである。だから庵主はこういうのを「酒が並んでいる」と書く。店主にその酒を呑んでみましたかと聞いてみたくなるではないか。
 ただ評判のいい酒を並べただけに見えるのである。これを無難な酒といったら庵主のマニア度がわかってしまうか。もっともそれぞれの酒のいいランクの酒は、これは一度は呑んでみたいすごい酒が揃っている。でもこのリストで出てくる酒はその蔵元の無難な酒としか思えないのである。
 問屋の都合で酒は呑めない、それでは面白くないと庵主は思うのである。
   酒を呑ませることを商売にしている人には、ぜひ自分の舌でその酒の味を確かめてほしいというのが庵主のささやかな願いである。大手の酒が安く入るので儲かるというのなら、それと同じ値段でずっとおいしい酒が手にはいるのだから、お客にも味で儲けさせてくれるように頑張ってほしいのだ。いやいや、マニアに堕してしまった庵主を楽しませてくれる酒を呑ませてほしいという図々しいお願いなのである。
酒のリストに春が来る
 「田酒」とか「東北泉」とか「能代」とか「東一」が加わると酒のリストに「おおっ」が加わる。小さいグラスでいいから一口ずつでも呑んでみたいと思う酒である。
 さらに「飛露喜」とか「鳳凰美田」とか「辻善兵衛」が加わるとそのリストに対する敬意が違ってくる。酒の揃えを感じるようになる。
 久保田、十四代はあってもいいが、それは銘酒、あえて呑まなくてもその味は知っているのである。ならばまだ出会ったことのない酒を求めるのは呑み手の心情というものだろう。越乃寒梅、八海山はいらないだろう。他の店で呑めばいいのだから。
  「乾坤一」とか「王禄」とか「鷹勇」があるとご主人の見識を感じるものがある。黙って呑んでうまい酒なのだから。能書きなしで呑める酒が一番偉い。
 「松の司」とか「喜楽長」とか庵主好みの酒銘がちゃんとはいっている酒リストはうれしい。安心して酒が呑めるのがいい。
 「開運」「磯自慢」「初亀」と静岡の酒が揃っていると庵主はうっとりとしてしまう。「正雪」の大吟醸まで揃っていると庵主はその酒リストを見ながら落涙してしまうだろう。庵主は静岡の酒が好きだからゆえ。
 酒の揃えのいい酒リストを見ると庵主はそれだけで酔ってしまうのである。
●13/7/27

★矢来町あたり★
 牛込郵便局は庵主の寓居から中途半端に遠いところにある。だから、郵便局から呼び出しがかかると旅する思いで出かけていくのである。
 神楽坂の駅で降りて、建物が倉庫のように見える新潮社の本館・別館を左右に見て郵便局へと向かう。牛込北町の交差点を右に曲がろうとすると、ちょっと待てとばかりに角の左手にますます酒の揃えがよくなった酒の店「T」がある。箪笥町にあるから店名は「T」である。
 この店の日本酒の揃えは魅力的である。いや悪魔的でさえある。全部呑みたくなるような酒の揃えなのである。呑めない庵主を殺さんばかりの酒の揃えなのである。その揃えは別の機会にご紹介したい。日本酒を呑ませる揃えとはこういうのをいうのである。
 酒は「帰山」の参番にする。初めて聞く酒銘である。ワイングラスに、いっぱいに注ごうとするのを制して半分だけにしてもらう。  色はうっすらと黄色みをおびていて、いっけん白葡萄酒を出されたみたい。
 グラスを近づけると、酒が焼けているにおいがする。昨日の菊姫の大吟醸を思い出して、この酒呑めるかなと危惧の念が浮かんだ。普通呑んではじめて感じるものなのにそのにおいを感じるというのは尋常ではない。
 口に含んでみる。ところが、いいのである。酸味があって、この暑いさなかに体が「うまい」と叫んでいるのがわかる。たしかに酒は焼けているのだが、それをさっぱりした酸味がじょうずにおおっていて気にならないのだ。酒は酸味だと実感する。
 薫りの酒は一杯であきるが、酸味をうまく出した酒はついつい呑めるのである。庵主が呑める酒は酸味のうまい酒だったのだと、「参番」を呑んで、いまはたと気がついたのである。
●13/7/26

★土用丑の日、吟の蔵★
 暑い、暑い、暑い。今年の夏はまったく暑い。汗がふきでてくる。喉がかわくのでむやみに水を飲むものだから食欲がおちてくる。体がこの暑さに疲れきっているものか、お腹が減っていても物を食いたいという気持ちがわいてこないのである。
 で、夜になると、とりあえずはうまい酒を呑んで食欲を呼び戻そうとついいい酒を呑んでしまう。お金のかかる季節である。
 土用丑の日である。うなぎもいいが、まずはいい酒をということで吟の蔵(銀座7丁目店)で呑むことにした。
 酒は「正雪」の大吟醸から呑み始める。渋味がある。味が深い。庵主も年をとって酒の渋みが趣と感じられるようになってきた。酒が「うまい」と感じる時である。年はとってみるものである。
 そのあとは吟の蔵のおまかせにすることにした。
 「菊姫」の大吟醸が出てきた。BY11だという。しかし酒が焼けている。この味なら大吟醸のラベルを貼るまでもない。「菊姫」の大吟醸といえばそれなりの期待をするからである。
 「十四代」生酒。龍のおとし子。米はと尋ねたら「龍のおとし子です」。初めて耳にする米である。あいかわず香りが高い。つけ香じゃないよね、と心配したくなるほどである。一番小さいグラスで味わう分にはなんら差しつかえはないのだけれど。
 「うちだけの酒をぜひ味わってみてください」とのお勧めでその「電光石火」を最後に呑ませてもらった。「パイナップルのような香りがするお酒です」とのことで、たしかにパインのような香りがする。それは「花薫光」の薫りに似ている。こういう気負った酒が庵主は大好きである。もっとも1杯だけしか呑まないけれど。やはりどこか力がはいっていると呑んでて疲れるのである。とくに体が疲れている夏場に呑むには。
 おしぼりは冷たかったが、吟の蔵はその接遇がここちよい店である。つかずはなれずで、適度な緊張感が感じられるから気持ちがよい。それでいてくつろいで呑めるから酒がうまい。しかし4杯の酒は庵主の酒量を越えて両肩にずっしりと凝りが襲ってきたのである。
●13/7/25

★酒に似て非なるもの★
 今年の東京の夏は「暑いねえ」が朝晩の挨拶になるほど連日の暑い日がつづいている。
 昼飯ではいった食堂で「ちょっとクーラーの冷えが弱いのでお使いください」とうちわが出てきた。その心遣いがうれしい。本来ならこの暑さの中で、昼食時にクーラーがきいていないというのがちょっとサービスに欠けることなのだが、それはおいておくとして、そのうちわというのが今時のプラスチック製の骨に紙を張ったものなのである。うちわは竹の骨でなければ。
 扇いでみるとやはり骨が固い。だから風がぎこちないのである。固いから手が疲れる。扇ぐほどにかえって汗をかく不思議なうちわである。
 竹の骨のうちわとたしかに形は似ているが、それは似て非なるものだった。
 庵主が使っているうちわは、もちろん竹の骨である。そして紙を張ったものではない。繭を張ったうちわである。竹の骨を、蚕がはいっているケースの中に入れておくと繭を張るのである。このうちわは風がやわらかい。扇ぐと風に風情がある。 なんでも似ているからいいというものではない、ということである。
 酒も、アルコールが主成分だからといって、原料用のアルコールを混ぜ合わせたものをこれは酒だといわれても、それはやっぱり似て非なるものなのである。似て非なるものは疲れるのである。
 似非日本酒を非難する人の気持ちが、今日の固い団扇に出会って得心がいった。なるほどそういうことだったのかと。
●13/7/24

★おしながき、はないのか★
 提供できる料理名を書いたものを「おしながき」という。お品書きである。メニューのことである。
 ところが、提供できる日本酒の酒銘を書いたものをいう日本語がないのである。だから「日本酒のリスト」を見せてくださいとか、「酒のメニュー」ありますかということになる。
 庵主はこれがくやしい。
 酒の揃えはその店の主張であり、技の見せ所なのである。「どうだ、お客、おれのとこの日本酒の揃えはどれもうまそうだろう。そんじょそこらの店にある酒とはうまさが違うんだよ。酒の揃えは日本人の教養よ」といったお店の意気を見せてほしいのである。酒の揃えを楽しませてほしいのである。
 その意気込みを、酒の揃えを見せるリストのことをいう日本語がないのである。
 もっとも、これまではいくつもの酒銘を揃えて客に供するということがなかったからそのような言葉の必要がなかったということなのである。
 それを思うと、これまでの日本人はどんな酒の呑み方をしてきたのだろうかと、ふと心寒くなるのである。でもやっと二十一世紀になって、日本酒を楽しんで呑める時代になったということである。
 「酒銘帳」「酒銘表」「酒のしおり」「酒遊び」「酒選」「酒の扉」「酔々表」「酒案内」と庵主もいろいろ考えているのだがなかなかいい言葉が思いつかない。  ただ「御酒」と書いただけが一番奥ゆかしいかもしれない。開くとおもわず顔がほころぶような酒銘が並んでいたらそれだけでうれしくなってしまう。
 筆文字のひらがなで書かれた「おしながき」には味わいがある。それに匹敵することばがほしい。「さけしるべ」とかいったことばがほしいと思うのである。
●13/7/22

★浦霞の大吟醸、8年★
 庵主の写真の師匠から「うまい酒があるから呑みに来い」とのありがたい電話があった。
 写真撮影をした居酒屋からもらった酒で「この酒はうちにある一番いい酒だ」といっていたとのこと。
 「うらかすみ」の大吟醸の1升瓶だった。製造年1993年。8年ものである。
 師匠は飲むのが好きだが酒にはこだわらない。庵主は、量は呑めないのに酒質にはこだわるマニアである。もう一人の客人がいた。その人はデザイナーである。話を聞くとその酒歴がすごい。幻の酒をいろいろ呑んできた猛者である。すごい人が身近にいた。
 冷蔵庫から出してきた「うらかすみ」の栓を抜く。まず一杯。
   グレてない。保管がいいのがわかる。同じ蔵元のエクストラ浦霞とは次元の違う酒である。呑み比べるまでもない酒だった。
 この手の酒を「うまい」とかうまくないということさえ不要である。ことばなんかいらない。日頃五勺程度の酒を呑んだだけで酔いが両肩の凝りになって出てくる庵主が、この酒は三合強を呑んでもなお酔心地よく、いささかの乱れも感じなかったのである。
 デザイナー氏はただ「この酒は悪くない酒だ」という。酒道(そんなものあるのかな)を究めようとしているわけではないが、庵主の未熟を感じたものである。
●13/7/20

★やっぱりうまい呑斉先生の酒★
 銀座の旭屋書店に寄ったら棚を一瞥しただけでその本の背表紙が目にとびこんできた。
  呑斉先生の新刊「銘礼賛」(高瀬 斉著・日本出版社・1500円)である。庵主に縁のある本との出会いはいつもそうである。本が向こうから声をかけてくれるのだ。
 うれしいことに日本酒もそうなってきた。うまい酒が「呑みにきて」と庵主を呼んでくれるのである。しばらくご無沙汰している店に顔を出すときまっていい酒がある。
 呑斉先生が著すところの日本酒のカタログ本のすごいところは、この本でとりあげている酒は全部呑んでいるな、と思われるその信頼感にある。酒の味わい方に一貫性があるから信用できる。
 酒のカタログ本は蔵元からデーターをもらって、有能なライターが手慣れた紹介文章を書いて、○○御大監修で一丁上がりである。もちろんいまどのような日本酒が造られているかを知るためにはその手のカタログ本はありがたい。
 でも酒の味の悪口を書けない本なので、ラベルのデザインだけがいい酒なのか、中身もしっかりしていていい酒なのかはわからない。瓶だけほめていたら中身はちょっと、と解釈すればいいのかもしれない。うまいか、まずいか、は買って呑めというわけである。
 本書の144ページにはすごいことが書かれている。へえーっ、そのような酒もあるのかという、庵主などはぜひぜひ呑んでみたい酒のことである。存外うまかったりして。
 立脚点がしっかりしているので安心して読める日本酒の本である。ただし副作用がある。こんなおいしい紹介をされたら、また日本酒が、しかもうまい日本酒が呑みたくなってくるのである。
 1年は365日しかないのだから、年間365本のうまい酒があれば庵主は酒に困らない。当分は困らないと見た。しかし、
 「しかし、」の先は「銘礼賛」を読んでいただきたい。
●13/7/19

★鮨屋の酒★
 生まれて初めて鮨屋にはいった。ドキドキする。この手の店はいくらお勘定をとられるのだろうか。ワクワクする。鮨ってそんなにうまいものなのだろうか。そして酒はたしかなものをおいているのだろうか。
 「酒は一種類だけです。うちは七賢のぎんからです」
 「酒はいろいろと探しましたよ。むかし山梨の蔵元で純というおいしい酒がありましてね。蔵元の代が代わったらそんな儲からない酒を造るのをやめてしまってもう呑めなくなってしまった。それから全国の酒を呑みあるきました」「酒だけでうまい酒は鮨には合わない。鮨をたべながら呑める酒ということになるとそのバランスがあるから酒選びには苦労しました」「これならと気にいった酒が山梨の酒でした。水がいいのでしょうかね」「七賢でした。このぎんからはうちのためだけの仕込みでやってもらっています」「どうですか、味は」
 たしか「七賢」は庵主が苦手な越後杜氏の蔵である。だからさらっとしたあたりさわりのないきれいな酒かなと思って口にしたら、味はしっかりしていた。味に厚みがある。たしかに「うまい」という酒ではない。同時に鮨にはこの味でいいのだろうか、という思いも残る。いや、この酒が鮨に合わないというとではなく、生魚とこの酒の組み合わせが庵主にとってうまいかということなのである。
 他人がなんといおうとも、庵主がうまいと思う酒が一番なのである。もっと鮨に合う酒がありそうな気がした。もっとも庵主はあまり生肉、生野菜、生魚は食しないので再び鮨を口にしながら酒を呑む機会は少ないだろうから、それを検証することもないだろうと思うけど。
 この蛸は塩で召し上がってくださいとか、あらかじめ醤油(煮ツメということを後から知った)を鮨ネタにつけて出てくる握りなど、すべては初めてのことばかりで心トキメク楽しいひとときであった。
 なぜか付け台の隅に「グラッパ」の瓶が置かれていた銀座の地下の鮨屋である。
●13/7/18

★「会州一」の大吟醸★
 その串焼き屋の一押しの酒である。店長が会津で見つけてきた酒だという。都内ではうちの店だけ、という能書きにつられて、つい入ってしまった。
 「会州一の大吟醸」を頼む。
 さあどんな酒が出てくるか、胸がワクワクする一瞬である。
 塗りの升をはいたグラスが出てくる。グラスの容量は90ml、升にあふれさせて合わせて一合というところか。
 例によって庵主はグラスに八分目にしてもらう。ほんとうにこれだけでいいのと若い店員がとまどっているのがわかる。お酒はたっぷりサービスするように言われているのだろう。
 さて。一口。期待は大きい。
 が、特徴のない大吟醸だった。悪くはない。でも、うまいわけでもない。とくに心に残るところがない。
 この味で、東京で大吟醸の看板を下げるのはちょっと厳しいのではないかと思った。同じ蔵の純米酒などの方がうまいのかもしれない。次回に確かめてみる必要がある。
 「国士無双」の本醸造が目についたので、そのさらっとした味わいを呑んでみたくなって頼んでみた。
 この酒も庵主のイメージと違っていた。思っていたよりうますぎるのである。味に厚みがあって、こんなにいい酒だったのかと感心してしまった。たぶん酒の管理がいいので酒の味をあますところなく楽しむことができたのだろう。あっ、「国士無双」は北海道の酒です。
 以前「南」の本醸造を初めて呑んだ時に感じたそのふくよかな厚みのある味わいを思い出したものである。この前呑んだ「国士」の本醸造はもっとさらっとしていたと思っていたのだが。心に描いていたイメージよりうますぎるのも逆の期待外れといったところである。酒呑みの注文のうるさいこと。
 このお店は串焼きで出てきた芋がうまい。じゃがいもがうまい店は得難い。それだけで庵主はうれしくなってしまった。
●13/7/17

★三つの喜び★
 7月14日のことである。
 庵主にとってうれしいことが三つあった。
 一つはほしかった版画を手に入れたこと。岩谷徹(いわや・とおる)の銅版画「月の光」をやっと己の手の内にすることができたのである。うれしい。
 一生懸命お金をためてやっと画廊から引き取ってきたのである。この版画には力がこもっている。力作の「力」ではなく、作者の命から滲み出た生命力なのである。力むことなく彫られた版から漂ってくる力に庵主は心がひかれたのである。この版画を見たいと思いませんか。むの字屋の土蔵で見ることができます。よろしかったらどうぞ。
 二つ目は生まれてはじめてシャツを仕立てたこと。そのシャツができあがってきた。庵主は既製服でほとんど間に合う体形だったので、これまで体に合わせて服を仕立てるという喜びを知らないで生きてきた。ぴったり体に合っているシャツの過不足のない節度のある心地よい緊張感が、着ていて気持ちがいいのである。
 要するに既製服が合わない体形になってきたというである。とはいえ体に合ったシャツの着ごこちは快感そのものである。ほんとうに気持ちいい。
 そして夜は「窓の梅」を呑む会があった。これは楽しみである。というより幸せの極みである、いい酒を呑ませてもらうことは。
 「窓の梅」を7種類も呑ませてもらった。この日はすっかり陶酔させてもらった。お酒がおいしい。
●13/7/14

★日本酒に淫するということ★
 もののささいな違いがわかるということは一つの能力で、それはすばらしいことなのだけれど、それゆえにその人が他の凡百よりも優れているというわけではない。  たまたま何かの世界でその能力を発揮できるようになった人が、そのような能力がない人を見下すのは大きな勘違いだといいたいのである。
 日本酒の味の微妙な違いがわかる人が、酒の善し悪しをそのささいな違いを唯一の 尺度として判断することは間違いであるといいたいのである。
 酒の味のわずかな違いがわかることで俺は偉いんだとか、酒を知っているとか思う状態を「酒に淫している」と庵主はいう。でも、酒のささいな違いがわかるようになるとそれをしゃべりたくてしょうがなくなるのだが、興味のない人にはただ煩(うるさい)いだけであることはいうまでもない。
   酒の味の違いがわかるということは、酒を楽しむにはいいことであるが、それだけが酒の楽しみ方ではないということも心しておかなければならない。
 「どうだ、お前らにはこの酒のよさがわかるまい」といった思いをいだくようになったらまさに淫しているという以外にいいようがないではないか。
 この音質がいいとか悪いとか口角泡とばしてぜんぜん音楽をきいていないオーディオマニアみたい、といったらその恥ずかしさがわかるよね。
  酒の素養とは時に応じて、場に応じて上手に酒を呑めるということなのである。紙箱(紙パック)にはいった日本酒でもおいしく呑めるのが達人というものでしょう。
  ●13/7/13

★呑めない酒が呑める店★
  大吟醸酒、である。
  限定酒、である。
  梅の宿、である。
  純米原酒(たしかそうだと思った)である。
  全国新酒鑑評会金賞受賞酒、である。
  南部杜氏高橋幹夫、である。
 こういう酒はまず呑めない。まずめぐり会えない。たまたまその店が日頃から梅の宿と懇意にしているから回ってきたのだろう。
 そして庵主もその店と日頃から懇意にしているから呑むことができたのである。というのは嘘で、庵主はその店では年に2回しか顔をださない「藪入り客」(盆と正月の2回だけ)。たまたま何か月かぶりに寄ったらその酒が鎮座していたのである。それをめざとく見つけたのである。ちょっと酒を知ってるといい思いをする実例。
 さて味は。
 梅の宿である。限定酒である。南部杜氏高橋幹夫の酒である。
 貫祿十分の酒である。深い味わいをたたえた酒である。うまいまずいを言わせないありがたい酒であった。
●13/7/12

★意外の女流画家★
 銀座には数多くの画廊があり、街を歩くと個展や展覧会の看板が目につく。
 日本酒の数はたくさんあるが、呑みたいと思う酒は数少ないように、絵も、数多くの作品が描かれているがなかなか心ひかれる絵は少ない。
 並木通りを歩いていたら、個展の看板に気になる絵があった。心に感じるものがある看板を見たら会場に入ってみることにしている。見るだけは、ただ、だから。その会場はエレベータのない6階にあった。
 会場には作家が詰めていた。女流画家である。作家の解説つきで絵を見るのは銀座ならではの贅沢である。しかもその作品が予感どおりいい絵だった。絶品は黒い画面の絵である。その黒が漆黒でしかも味わい深い黒なのである。久しぶりに美しい黒を見ることができた。魅力的な黒はなかなか見ることができないものだけに、この黒はすばらしかった。黒い絵だから重い感じがするようだがしかしこの絵の気分は軽やかなのである。画家の力を感じた。絵が気持ちいいのである。
 で、酒の話になったら「私、昔、小鼓にいました」ということから話がはずんだ。
 作家の名前は荻野美穂子さんである。
●13/7/9

★サマーバレンタイン七夕とは「開華」の竹皮酒★
 七月七日は七夕。
 酒売場に洒落た酒があった。
   「サマーバレンタインデー七夕」という札をさげた小さな瓶の酒である。
 そうか、七夕は「サマーバレンタインデー」なのか。商売人が新しいイベントデー(世間に物を買わせる日)をつくりだしたことを知った。日本酒でそのことを知ったのはうれしい。酒造業界もがんばっているということだから。
 おしゃれな酒は栃木の「開華」の大吟醸である。「竹皮」というのが酒銘である。竹の皮に包まれたその瓶は300ml瓶。で、値段が2000円。一升12000円である。おいおい大丈夫かいと心配になってくる。
 こういう企画酒というのは、一般的にはずばぬけていい酒というのがないからそう思ったのである。
 もしそれが値段にふさわしい酒だったら、今年の七夕はすばらしい七夕になるのだが。
 能書き大好きの庵主としては「買って呑んでみようかな」。
●13/7/7

★その店は/「竹鶴」の山田に酔う★
 その店は最寄りの駅からたっぷり歩いたところにある。早稲田の俊秀や碩学がよくきている。お客さんの顔つきがちがうのである。それと話題が違うのである。だまって聞いていると酒の肴になる。
 マスターは、漫画の「美味しんぼ」に出てくる海原雄山に似ている。どっしりとカウンターの中でかまえている。
 店内に掲げられた酒銘を見ると、これを呑まずにおらりょうかと思う酒が並んでいる。一つ一つに味がある酒なのである。「竹鶴」があった。
 「竹鶴を」というと「山田と雄町があります」とくる。不意をつかれたが、まずはお嬢さん米の山田錦から呑んでみようと思った。だって山田錦で造った酒はみんな美人ぞろいだから。
 一合の酒がガラスの徳利にはいって出てくる。そろいの猪口である。
 「竹鶴」の山田は、白ワインのような酸味が感じられるじつに口当たりのいい味である。さらっとはいっていく呑みやすい酒だった。
 一合の酒を呑んで店を出ると、店の前に置かれた縁台でおいしそうに煙草を喫っている美女がいた。さきほど席をあけて店から出て行った客である。「ここで少し涼んで一服してまた店にもどってまた呑むの。日本酒ってほんとにおいしい」。
 帰りの駅までは遠いが、庵主にはぶらぶら歩きながら、酔いをさますにはちょうどいい距離である。美酒の酔いはほんとうに心地よい。美女の酔いまでもらっちゃった。
●13/7/6

★大爆笑篇★
 ある割烹のホームページを見ていたら、その料理人の日記に「お任せの日本酒」という話があって、それを読んで大笑いしてしまいました。あんまりおかしかったので引用させてもらうことにしました。爆笑のお福分けです。
 いい料理にはいい器を使いたい、そしてその横にいい酒を添えたいと思うのは正常な美意識を持った料理人ならあたりまえのことだと思います。
 お客さんという立場の庵主がそう思っているのですから、料理人がそう考えていないとしたら悲しいですよね。大衆食堂ならそんな期待はしないのですから。
 そして、この美意識というのがときとして悪さをするのですがそれについては別の機会に語ることにしましょう。
 その割烹の心熱い料理人と若い女性のお客さんとの会話が絶妙なのです。
 あらかじめお断りしておきますが、この会話で大笑いするとあとが大変です。この会話が笑えるということはすでにかなり日本酒に淫しているということなのですから、笑ったあとからそのことに気がついてゾッとされても庵主は知りませんのであしからず。まずは笑ってから。
 その料理人は日本酒の味わいを広く知り過ぎていることから、広範な経験に基づく真摯なサービス精神がお客の日本酒水準とあわないときには傍で聞いていると爆笑をさそう会話となることがあるのです。
 そういう会話を日記の話題にとりあげながら、うちにはいい日本酒がありますのでぜひ美味しい酒を味わってみてくださいとさりげなくもっていくところが商売のうまいところなのです。実際に、すすめ上手の料理人がいると料理と酒がいっそうおいしくいただけるのは経験的事実ですが。
 若い女性客が相手の話ではだれも客がわるいとは思わないでしょう。料理人が悪役です。だから安心して笑えます。かえってこの話を読むと日本酒というのはそういうものなのかという新しい視野が開けてきます。
 その引用。
 お客は若い女性客。連れの男性はそれほど飲まないけれど知識がありそうなので、その料理人は日本酒の注文があっても予算をあまり気にしないで美味しい物をと思って女性客にとっておきの酒をすすめたときの会話です。

で、
試していただこうと
志太泉「高橋貞實」(限定120本)・・・「あまーーーい」(高橋杜氏ゴメンナサイ)
うーーーん、じゃぁと
明鏡止水「純米大吟醸斗瓶」
八海山大吟醸・・・・・・・・・・・・・・「好みとちょっと違います」
黒龍「仁左衛門」・・・・・・・・・・・・「うーーーん あんまりぃぃ」(新村杜氏ゴメンナサイ)
奥播磨「還暦」・・・・・・・・・・・・・「やっぱり あんまりぃぃぃ」

「仁左衛門や還暦あたりを比べるのは、たとえばエルメスとグッチのどちらが好きかみたいな物なのですが・・・これまででお召し上がりになったものでお好きな日本酒は?」と伺うと。

「万寿とかぁぁぁ」って

反省します。
修行が全然足りません、私。

やっぱり「万寿」置かないと料理屋やっていけないでしょうか?

(誤解がないように申し上げますが、万寿はとてもいいお酒です)

 引用ここまで。
 どうですか。若い女性客の表情がいきいきしているでしょう。料理人はそこまでちゃんとお客を見ているということです。こわいことです。しかも奥播磨の還暦は庵主も呑んだことがない。この女性客はほんに幸せ者です。うらやましい。
 この会話をしめくくっている料理人の一行が庵主にはまたまたおかしいのです。
 料理人が「誤解がないように申し上げますが、万寿はとてもいいお酒です」という言わずもがなのくだりを読むと、庵主はためらわず「いい酒」の前に「値段の」が省略されているのに違いないと、うがった読み方をしてしまうからこの会話がますます笑えるのです。
 老獪な落語家に思いっきり笑わせられた上にだめ押しの笑いをぶつけられたようなようなものです。おなかの皮がよじれます。料理人もお人が悪い(これが美意識のなせる悪さの一例なのですが)。もっともこういう読み方をするので庵主はひねくれ者といわれるのですが、料理人の言葉を素直に受け止めるのが大人というものだと思います。
 とはいえ、ある時、庵主は大人の女の人から「むの字屋さんって、いい人ね」とやんわり言われたことがあり、そのとき庵主は「いい人」の前に「どうでも」が暗に省略されていることをしっかり感知していたことがあるものですからついそのことを思い出してしまったのです。
 庵主は、ネクタイを褒められると、本人に褒めるところがないからしょうがなくネクタイを褒めているんだなと思ってしまう。素直にほめられておけばいいものを、そのように感じてしまう感性はやっぱりひねているというしかないのでしょう。そのような感受性をさして、人間の言葉づかいに対して天性の鋭い洞察力をもっているといっても褒め言葉にもなりませんから。
 その料理人が板前日記としてつづるもっとおもしろい話はリンクページ(本日新設しました)からホームページを訪問するとお読みになれます。そしてその割烹の日本酒のリストをぜひご覧ください。それを読んでいるだけでうまい日本酒が呑みたくなってきます。
 そしてきっと浜松に行きたくなります。
●13/7/4