「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成13年6月の日乗
★本年(平成13年)前半を送る晦日の酒★
 今日は酒を呑むまいと思っていたが、昼間、汗をかきながら赤坂のアクトシアターにたどり着いたら開演前に少し時間があったのでつい生ビールを飲んでしまった。暑い日だった。喉が渇いていたのである。プラスチックのコップには「CABALET」と印刷されている。今日の演し物である。
 庵主が好きなミュージカルである。その音の世界が好きだ。なんとも頽廃的な、そしてなんとも駘蕩的な音色が庵主の心をひきつける。酒を呑んでいる時の気分となんとなく通じる気分がある。不良気分だね。映画も作られたので、フィルムがジャンク処分されるまでは毎年、上映されている劇場をみつけては見にいったものだ。今回は舞台である。
 生の楽器の音はやわらかくていい。いま流行りのCDのデジタル音というのがよくないのである。庵主の耳には音がきれい過ぎてかえって耳触りに感じるのである。この録音は本物の音とちょっと違うなと思っていたから、そのことを確めてみたくなったといういうこともある。
 音も酒と同じで、その場の雰囲気でよくもなったり悪く感じたりするものではあるのでそれほど気にすることもないのだろうが、おいしい水と称して蒸留水をだされたら、それをうまい水と思う人いますか。デジタル音がいいというはその手の機械を作っているメーカーの宣伝文句なのではないだろうか。
 来日公演とかで入場料金は高かったが、歌のうまさを堪能することができた。
 夜、うまい生ビールが飲みたくなった。新宿紀伊国屋地下にあるカポネで生ビールを頼んだ。庵主はいつもはここで「醴泉」を呑む。その一杯で酔っぱらってしまうから生ビールをここで飲んだことがなかった。
 カポネの生ビールはうまい生だった。炭酸が生き生きしている。生ビールは店によってうまいまずいが極端に違うものなので、当たりの店にあうと今日はいい一日だったという充実感がわいてくるのである。
●13/6/30

★酒の味はその場かぎりの幻★
 呑んだ酒の話を書くことは、公演が終わった後の劇評を書くようなむなしさと阿呆らしさを感じるのだが、いいものに出会った時にはいずれもその感動をしたためておきたいという衝動にかられるという点では似たようなところがある。
 だいたい庵主が呑んだ酒と同じ酒を読者が呑めるわけがないのだから、庵主の感想を自分で確かめることができないので庵主の感想を読んでも何の役にもたたないことは明白である。しかもその酒を褒めるも貶すも庵主のきまぐれにしかすぎないのでますますいけない。ゆめゆめ庵主の書いたことを鵜呑みにして人にその酒を語ることだけはやめたほうがいい。恥をかくことになること請け合いである。
 日本酒については、大手の蔵元ならできるだけ平均した酒を作る技術にたけているのだろうが、庵主が好む蔵の酒は全力をつくして造った酒が多いので再現性がないのである。要するに同じものを再び造ることができないのである。それが工業製品と日本酒の違いである。
  たまたま庵主が呑んだ酒と同じラベルの酒が手に入ったとしても、それが同じ酒であるという保証はない。タンクが違う、保管が違うで異なる味の酒である場合が往々にしてあるのだ。酒の味はその場限りのものと思っているのが正しいのかもしれない。
  だから酒場でうまい酒がはいりましたよといわれたら、とにかく呑んでみることである。それがうまかったら幸運にめぐりあえたということなのである。いい酒にめぐりあえるのは人徳であると思えるようになれば酒がいとしくなる。いや、酒とそんなふうに親しくなった自分がいとしくなるのである。いい酒を呑むことで生きていることの自信がわいてくるのである。
●13/6/26

★喧騒の居酒屋にて★
 新宿の繁華街にある日本酒の揃えがいい居酒屋である。
 酒名帳に「豊の秋」とか「南部美人」がさりげなくはいっているから、ただ有名な酒を集めただけの店とは違うちょっと技のある店であることがうかがえる。しかしである。
 平日の夜の店内は活気があるというのか、酒に酔う前にお客衆の喧騒に酔ってしまう。はっきりいって落ち着かない。
 その夜は、とある事情があって「浦霞」が呑みたかったのである。エクストラ大吟醸を呑む。60mlグラスで750円だった。高い酒なのだろう。
 揚げ出し茄子を注文したら、時間がかかるということで、これは気持ちですといってその間枝豆を出してくれた。
 せんだっての居酒屋でも、野菜の天ぷらを頼んだところ、お待たせして申し訳ありませんといって柚子こんにゃくを出してくれた。ここも新宿にある酒の揃えがいい店である。同様に平日の夜のことで、喧騒の中で呑む酒は気が散ってゆっくり味わえないことがわかった。酒は実は心で呑んでいるのだということを実感した夜だった。
 ●13/6/21

★三銘柄セットは気はずかしい★
 日本酒の三銘柄セットというのがある。三種類の日本酒が60ml入りのグラスにはいって出てくるサービスのことである。いい日本酒を揃えている居酒屋でそういう呑ませ方をさせてくれる店がある。お試しセットとか利き酒セットといって供する店もある。同時に味のちがう酒を呑み比べることができるから、酒の味の違いを覚えるには都合がいい。
  しかしである。この呑み方は呑んでいてはずかしいものがある。お子さまランチじゃあるまいし、目を喜ばすだけの皿数だけを並べて喜々としているのはなんとなく気恥ずかしい。
  いくつかの酒を並べて呑み比べるというのはなんとなくみみっちい感じがするのである。
  でも、「明鏡止水」の三銘柄セットがあったので呑んでしまった。「純米吟醸」、「酒門特選純米吟醸」、「酒門純米無濾過生原酒垂水」の三種類の酒が出てきた。
  「純米吟醸」は旨い。腰がある。アルコールが立っている。この酒を一口呑んですっかり満足してしまった。
 「酒門特選純米吟醸」はやわらかい。「秋鹿」の「一九九九・二 十九」の味のやわらかいあたりをたたえたことがある。そのやわらかさとはちょっと違う。腰がないというやわらかさである。味に頼りがない。「一九九九・二 十九」のやわらかさの品のよさがこの酒を呑んでいっそう明確になった。といっても「明鏡止水」が悪い酒だといっているのではない。最初からこの酒が出てきたら十分たのしめる酒なのである。
  物事は比べるとよくわかる。
  「酒門純米無濾過生原酒垂水」は無濾過の色合いがいい。かすかに黄色みがかっている。この酒は美酒である。うまいさけである。
  「明鏡止水」のうまさにあらためて満足した三銘柄セットだった。
 ●13/6/19

★その店は/正一合の矜持★
   その店は一合徳利が袴をはいて出てくる。日本酒は「久寿玉」(くすだま)だけである。「久寿玉」だけというのがいい。これが「月桂冠」とか「白鶴」とか「大関」だけというのだったらなんとなく心もとない。酒を注文する意欲がわいてこない。
 日本酒は「王禄」だけを置いてある餃子屋があった。初めて「王禄」を呑んだ店である。後日、それが白石秋雄杜氏の醸す酒と知って改めてその酒のよさを思い出したものである。
 蛇の目の猪口は、小さい方から45ml、90ml、180ml入りだという。ちなみに日本酒グラスは、小さい方から60ml、120ml、180ml入りだという。
 こういう公式酒器で酒が出てくる店はうれしい。その正々堂々が美しいのである。
  酒の量をちびるな、というのが庵主の思いである。もっとも客が酒を呑み過ぎないようにとすこし少なめの容器で酒を供するという心配りもわからないではないが。酒呑みは意地がきたないからやたらと量を求めるので、そんな酒の呑み方は体にいけないよというやさしい配慮を感じないわけでもないが、庵主のように酒は日々に五勺と心している者にとってはどれだけ酒がはいっているのかわからない器はいじわるとしか思えない。酒の量をごまかしているな、としか思えないのだ。そう思うよね、ご同輩。
 その店の徳利には45mlに心持ちたりない猪口でちょうど4杯の酒が入っていた。その矜持に庵主はきもちよく酔いしれたのである。
 その酒がどのように作られているかは受け手には知る術がない。庵主には酒を呑んでもどれだけアル添してあるか判別することができないので本当のところはわからないがアルコールを混ぜた純米酒があると聞く。それを呑むなら甲類焼酎を飲んだほうがいいのではないかと思えるような味もそっけもない超辛口の酒がある、そんな酒をうまいといえるのか。
 うまい日本酒を呑むということは、その酒がまっとうに作られたまともな酒だと判断してすすめてくれる酒場の主人を信用するということなのである。そこにあるのは信用だけなのだ。だからきちんと量を供してくれる人には、この人ならうまい酒を出してくれそうだと全幅の信頼をおいてしまうのである。信じて呑めば酒はうまい(とはいってもからだが受け付けない酒があることも経験的事実ですが)。人間の感覚などはそんなものである。日本酒は保管のしっかりした店で、信用を重んじる人が供してくれる酒がうまいのである。安心してそのうまさを楽しむことができるということである。
 「久寿玉」は酸味があっていい燗酒だった。
 そこまで言っては大人気(おとなげ)ないのでやってはいけないのだろうが、飲み屋で1合とか2合とか表示された徳利にそれ以下の量しか酒がはいっていなかったら、大声(たいせい)で「客をなめるんじゃないよ」と活を入れたくなるのが庵主の酒癖の悪いところである。商売は誇りをもってまじめにやってほしい。ここは日本なのだから。
 ●13/6/14

★大吟醸「千代の園」生酒の5年★
 日本酒を1年ほど常温で置いておくと紹興酒のような味が出てくる。日本酒業界が最近なんとか売り出そうとがんばっている熟成酒とか古酒とか呼ばれている何年も寝かせた日本酒は、その大方が味は紹興酒に似ている。庵主はそんな日本酒を高い金を出して買うのなら、紹興酒を買ってきて飲んだほうがずっといいのではないかと思ってしまう。古酒というのはうまいのかね。
 さて「千代の園」の大吟醸生酒の5年ものである。平成8年の醸造である。味がグレていない。庵主は日本酒に紹興酒のにおいが出ることをグレるという。
 5年も寝かせれば紹興酒のような味が出てきそうなものだがこの酒は違う。新酒といってもわからないほどの味を保っている。
 もちろん5年も寝かせておくと、かすかにひね香というのか、新酒にはない渋さが感じられるのだが、それだって5年ものですよという前振りがあるからであって、黙って呑めば新酒といわれてもわからないほどである。
 臈たけた美人を見る思いがする酒である。味に、新酒にはないなんともいえない含みがある。その味は、新酒とは違う、また古酒とも違う、まさに味がのっているというにふさわしい美味なのである。よく保管された日本酒の味わいに酒の深さを知るのである。
  ●13/6/12

★「千代の園」余談★
 もう何年も前のことである。「千代の園」のエクセルを買って、中にはいっていたハガキを蔵元に送ったら、その年の暮れから「屠蘇散」が送られてくるようになった。
 熊本の消印が押してあるその手紙を受け取ると、もうじきお正月だなと心せわしない中でなにかほっとするものがあった。庵主の生まれは北海道だから、南国の九州から手紙をもらうということだけでもうれしかった。
 庵主は物をもらうのが苦手である。はっきりいって閉口している。陋屋に寓居しているから、物をもらっても置くところがないのである。いただけるなら、商品券とか消耗品がいい。それと酒を送ってこないでほしい。つい呑んでしまうから。
 でも「千代の園」からの1年に一度のたよりは、この贈りものだけはうれしかった。それともう一つうれしい贈り物があったが、それはまた別の機会に書こう。
 何年かすると、その便りもたえてしまったが、そういえば、爾来酒の浮気はげしく、百貨店で「千代の園」のエクセルを目にしてもつい買い求めることがなかったのである。一度うまいと知ったらその酒はおいておいてまだ呑んだことのない酒を呑みたいというのが、恥ずかしながらマニアの性なのである。
 ●13/7/6

★疲れているときは焼酎でないと体がいやされない★
 庵主が今週はしきりに焼酎を飲んだのは、からだが疲れていたからである。仕事が忙しくなって体の疲れよりも心の疲れがどっと出たのである。
 日本酒をじっくり味わっている心の余裕がなかった。なによりも酔いにまかせて、まずは疲れを忘れたかった。そういう時には焼酎の酔いがここちよい。
 日本酒は心をゆたかにしてくれる酒である。心に余裕があるときに呑むとその味わいが心にしみる。しみじみと杜氏の技を感じてそのうまさに納得する。美酒には職人芸を堪能することの快感がある。ああ日本人に生まれてきてよかった、という思いにつつまれて幸せを感じるのである。
 しかしからだが疲れているときにはその日本酒が心に重い。体が本格的に疲れているときは焼酎のキレのいい酔いがここちよい。体の疲れがほぐれていくのがわかる。体が軽くなるのである。心もそれにつられてなごんでいく。酒を飲む喜びがそこにある。
 最近、東京の焼酎の揃えがよくなった。まだ飲んだことのない焼酎を飲む楽しみが酒場に満ちあふれている。焼酎ブームというのとはちょっと違う。いまはじめてまともな焼酎の出現を目のあたりにしているという感じがする。ちょうど日本酒に吟醸酒が出現したときのように。
●13/6/9

★日本酒は味わう。焼酎は酔いを楽しむ★
 今日も焼酎である。うまいからではない。酔いが心地よいからである。
 焼酎に、日本酒のような味わいの深さを求めても詮方ない。庵主は日本酒の味の違いはわかるが、芋焼酎の味の違いはわからない。どれを飲んでも同じ味としか思えないのである。競馬をやっている人は馬の顔の区別がつくのだろうが、庵主にはその区別がつかないように、その世界に深くふれないとわからないものがあるということである。
 庵主は焼酎を飲むときは日本酒を忘れることにしている。
 日本酒がその味わいの多様性を楽しむ酒だとするのなら、焼酎はその酔いごこちを楽しむ酒である。庵主は今こころゆくまでその酔いにまかせている。
 今日飲んだ焼酎は「月の中」(つきんなか)と「萬膳」(ばんぜん)。いずれも芋焼酎である。味は浅いが、酔いはふくよかである。酔いがこころをなごませてくれる。
●13/6/8

★焼酎を飲む日★
 焼酎がうまい。
 庵主は、昔の焼酎を知らないから、うまくなったとは書けない。日本酒の味わいの深さにふれてしまった庵主にとって、焼酎の、もちろん乙類焼酎のことですよ、焼酎の立体感のない味わいがなじめないのである。まずい、といっているのではなく、なじめないといっているのだから誤解のなきよう。
 しかし、どんな酒でもいい酒はうまいのだ。そもそも焼酎を日本酒と同じ感覚で比べるのが間違っていることもわかっている。相撲と野球を比べてどっちが面白いかを論じても無意味である。それと同じように日本酒と焼酎を比べることはできない。世界が違うのだから。
 「富乃宝山」(とみのほうざん)を飲む。生(き)で飲む。香りを楽しむ。同じ蔵の「吉兆宝山」(きっちょう・ほうざん)をお湯割りで飲む。
 それがうまいのである。うまいというと語弊がある。いいのである。その雰囲気がなんとも気持ちいいのである。焼酎とこんなふうに心を交わしたのは初めてである。今、焼酎が面白い。
●13/6/7

★いい酒でないと心が満たされない★
 絵の善し悪しは心が乾いているときにその絵を見るとよくわかる。よしあしというよりも見る人のこころに訴えてくるものがある絵とぜんぜん感じるものがないうすっぺらな絵との違いがわかるといったほうがいいかもしれない。
  心が疲れているときに絵を見るとその絵がもっている力がよくわかるのである。心に何かが伝わってくる絵が庵主はいい絵だと思う。感動もなければ、逆に嫌悪も感じないきれいな絵を見ていると、そういう時にはかえって疲れが増すだけである。いい絵には心の渇きをみたしてくれるものがある。
 酒もそうである。こころがだるい時がある。疲労感というのだろうか、こころが芯から疲れたと感じる時がある。そんな時にはまずい酒は呑めない。からだが受け付けないのだ。
 いい酒は疲れている心にしみいってくる。そういう酒はしっとりとうまいのである。庵主は、心身ともに元気な時はこれ幸いと「今日は体調がいいからまずい酒でも飲んでみるか」と思うことがある。しかし疲れている時はいい酒でないと心が満たされないのである。
●13/6/5

★そこに宝の山がある★
 笹塚の駅を降りて甲州街道に出て新宿方向に向かって歩くと歩道橋がある。その歩道橋の横にはなぜか横断歩道があって、そこを反対側に渡って新宿方向に歩くと10号通り商店街が見えてくる。その商店街の通りにはいってしばしぶらぶら歩くと左側にその酒販店がある。本間商店である。
 火入れした「秋鹿」の火入れ酒があるかと思って寄ってみたのである。「秋鹿」はいろいろ種類があったがすべて生酒で火入れしたものはなかった。
 義侠が揃っている。奥播磨、蘭奢侍、開運、醴泉と庵主の好む酒が並んでいるのは見ていて楽しい、しばしうっとりする。これを庵主は宝の山という。この酒揃えを一瞥して「ろくな酒がありませんね」といった大手蔵のセールスマンがいたと聞いて、店のご主人と大笑いになった。
 目がいったのは「いなば鶴」の強力、菩提モト(ワープロにないモト。酉へんに元)の「鷹長」(たかちょう)である。買わないけど。
 「神亀」と「るみ子の酒」の組み合わせで、その頑固な造りの酒を呑んでみようかとも思ったが、一転、「秋鹿」の一九九九年二月搾り2年もの生酒をあがなった。その味わいについては別項にて。
●13/6/3

★晦日になると酒が呼ぶ★
 月末である。酒が呑みたいわけではない。しかし晦日である。ひと月のけじめがあってもいいと思う。
 蒸し暑い日だった。一汗かいたのでさっぱりした酒が呑みたかった。その店で、さっぱりした酒をと注文すると出てきたのは「秋鹿」である。銘は見なかった。マスターは「シャンパンのような酒ですよ」といってすすめてくれたが、まさにそのとおりで、栓を抜くときに勢いよくポンッといういい音がした。まだたっぷり炭酸が生きているのである。ということは味に期待ができる酒ではないということでもある。
 生酒を、正確には、若いだけの生酒を庵主は「うまい」とはいわない。それはそれでおいしい酒なのだけれども、しかしその手の酒はどの酒を呑んでもみんな同じような味わいなのである。はっきりいって素人が飯米で作った酒でも似たような味がするのだ。
 だから、「秋鹿」のこの酒もうまいまずいをいう酒ではなく、その口当たりのさわやかさを楽しむ酒なのである。マスターがそれをシャンパンのような酒というのは言いえて妙。
●13/6/1

★いちずの酒★
 酒は一つの銘柄しか呑まない人がいる。「俺は親父の代から剣菱だ」とか「酒はキクマサに限る」という一本筋の通った酒呑みである。  そういう人に、もっとうまい酒がありますよと教えても、「高い酒は口に合わない」といって、いつものキクマサを呑みながらただ笑っているだけである。
 一方、庵主はそれができない。一本筋の通った酒呑みにはなれない。
 酒は芸術品であると思って、その味わいの深さと幅の広さに幻惑されて、日々異なる酒を呑み歩いているのである。
 いうならば節操のない酒呑みである。それを恥ずかしいと思うことがないわけではないが、しかしいろいろな日本酒の味わいの違いにふれることもまた楽しくてたまらないのである。
 酒は口に合う酒が一本あればそれで十分なのだと思う。庵主には「冬樹」の生酒と純米の「花の舞」がある。いろいろな酒を呑んでも、結局はその酒に戻ってくる。それが自分にとってうまいのだから。
 それなのに、ついもっとうまい酒があるのではないかと思って彷徨うのは浮気心と同じだと苦笑しているのである。
●13/5/31

★その店は/呑みたい酒がいつもある★
 庵主は泣ける映画が大好きである。高倉健の、いや監督降旗康男の「ホタル」を見て大いに涙をこぼしたら、突然「義侠」を呑みたくなった。映画が酒を求めたのである。映画の中に出てきた「さつま白波」でなく、庵主は日本酒である。「義侠」ならその店にはそろっているだろうと当たりをつけて雨の降る中を訪ね求めた。
 「慶」(よろこび)があった。それで庵主の意は満たされた。しかもカタログ銘柄の「妙」(たへ)もある。カタログ銘柄とは写真では見ることはあるが、実物をなかなか目にすることのできない酒のことである。
 「慶」は純米大吟醸の3年もの、「妙」は5年ものと聞く。舌にしっとり広がる渋さがあるので寝かせた酒であることがわかる。。ひね香りといえないこともない味わいがかすかに感じられる。しかし崩れてはいない。一つの味わいなのである。
 その店の酒銘帳には、菊姫の黒吟、初亀の出品酒、義侠の妙、酒一筋の赤磐雄町、龍力の秋津が一杯3500円で並んでいる。黒龍の仁左(にざ。仁左衛門のこと)でさえかすむ酒揃えである。飛露喜が十両の値段で出ている。まさに東京である。
 「獅子の里」の仕込水、と書くとどこの店かわかっちゃうか。
●13/5/30

★酒を呑まない日々★
 酒を呑まない日々は幸せな日々である。なんといっても人生の持ち時間が増える。酒を呑むと、ちょいと一杯のつもりが気がつくとあっと言う間に終電車になってしまうのである。天から与えられた人生の持ち時間を酒なんぞを呑んで勝手に短縮する行為は、自殺で残りの持ち時間を投げ出してしまうことと同じなのではないか。もっとも前者は旅立ちの時点を天(あなた)任せという無責任な生き方ではあるのに対して、後者には自分で決めるという潔さがあるといえないこともないが。ふつうの人はそんな潔さがないけれど。
 さらに酒を呑まないとその分の金がたまる。蔵がたつ。ということはまずないか。
 酒を控えると体にいい。酒を呑まないとどうも調子が悪いというのは心理的な錯覚である。酒を一杯だけでやめられる人がいるだろうか。蓄積された酒は確実に体に負担をかけているのである。いつの日にか、突然、体はその負担にたえられなくなる。
 そして、たまに呑む酒の、日をおいてふたたび酒を口にしたときの酒のうまさよ。酒を呑まない日々は、酒をいっそうおいしく呑むための幸せな日々なのである。
●13/5/27

★純米酒の風格★
 京都「澤屋まつもと」の純米酒。庵主の好みの味ではないが、きりりとした味わいである。いい酒であることがわかる。たぶん、庵主のような酒の呑めない酒呑みではなく、酒がいっぱい呑める酒呑みには呑みやすい酒なのではないかと思う。キレがいい、呑み手にこびるところがない大人(これはおとなとよむ)の風格がある。もちろん下手な純米酒に出るクドミはない。しかし庵主は好まない。酒の量がのめない庵主にとっては、少量でうまいと感じることのできる甘い酒が好みだからである。
 岩手の「月の輪」の純米酒も、「まつもと」同様の味わいで呑ませる酒である。喉元をすうっと流れていくきれいな酒である。
 たまたま酒リスト(というのか、酒のメニューというのか、お品書きに相当する和語はなんというのだろうか)の中から選んだ純米酒が二つとも風格のあるいい酒であった。好みの酒ではなかったが、いい酒にめぐりあえた日はうれしい。いい酒を呑んでいるという満足感がなんともいえないのである。
 赤坂一ツ木通りを246から入って、右手を見ながらしばらく歩くとその居酒屋「梓川」がある。「萬繕」(まんぜん)をちょっとだけ飲ませてくれたのがまたうれしい。
●13/5/21

★「女城主」は呑んで楽しい酒である★
  むの字屋の掲示板はほとんど書き込みがないので助かる。そして書き込みがあったときの情報は精度が高いのでありがたい。口コミの酒情報は確実性が高い。
  岐阜の「女城主」という酒を知っていますか。見たことがありますか。その酒がうまいという情報が寄せられたのである。
  庵主は「うまい酒」があると聞くと、一度口にしたくなる。しかし東京に現物があるのだろうか。かといって蔵元に注文することはしたくない。それは本屋に行ってこんな本はありますかと聞くようなものだ。それは本読みの邪道である。ところがちゃんとあったのである。有楽町の交通会館の中にある「むらからまちから館」の酒売場の冷蔵庫の中に並んでいた。純米吟醸「女城主」である。
  酒の色はうっすらと琥珀色。その色合いからして酒呑みの心をくすぐる。
  うまい。さりげなくうまいのである。あまい。ほんのりとあまいのである。そしてキレがいい。のどをすうーっと流れていく。こういう酒はこわい。楽しく呑めるから呑み過ぎてしまうである。そう気づいていながら庵主は「女城主」をつい呑み過ぎてしまったのである。
●13/5/19

★酒が向こうからやってくる★
 「琵琶の長寿」を確かめてみたいと思っていた。銀座の吟醸酒家「G」(銀座だからGとしたまでで店名のイニシャルではない。渋谷にある店なら「S」である)に行ったら「琵琶の長寿」の大吟醸醸がちゃんとあるのである。
  またある日はたまたま六本木の「R」に寄ってみた。酒は「波瀬正吉」が最初から出てきた。無濾過生酒「波瀬正吉」である。今年の「開運」は絶好調であるという。さすがにうまい。うまいというより、そんなことなど「波瀬正吉」に関しては当たり前のことなので、日本酒の品のよさを心から楽しめるのが「波瀬正吉」を呑む喜びなのである。だから庵主は好きなのだ「波瀬正吉」が。いいものを口にしているというくつろぎの時間とからだがその旨さにうっとりしてしまう快感がなんともうれしいのである。 いい酒は喜びなのである。
 必要な本はむこうから飛び込んでくるものである。ふと目をやった棚に求めていた本が並んでいることが少なくない。 酒もまた必要な酒は探さなくても庵主のもとに飛び込んでくるようになった。そのことで庵主はすでに酒の世界にどっぷりとつかっていることを自覚したのである。
●13/5/18

★小休止★
 庵主が普段呑む酒は生酒の「冬樹」と「花の舞」の純米酒。気分がふさぐ時に呑むのが「天保正一」と「松の司」。ハレの日に呑むのが「波瀬正吉」である。それを呑まずに死ぬのは日本人としては不幸としか思えない日本酒が綺羅星のごとくある中で、結局ここに書いたような酒が庵主の好みだとわかったのである。いろいろな酒場で数多くの酒を呑ませてもらってわかったのである。
 ある日、「十四代」の「龍月」を呑み、その後で「辻善兵衛」の純米を呑んで、うまい酒は一通り呑んだという思いをいだいたのが小休止してもいいなと思ったきっかけである。
 日本酒は「うまい」ということがわかった。体が「うまい」を実感した。そのトキメキを何度も体験したものである。
 酒は、うまいものを造ろうという意欲があれば、その気迫に応えていい酒ができることがわかった。文は人なりという言葉があるが、酒もまた人なりだということがわかった。杜氏の腕と技に庵主はしこたま酔いしれたのである。酒、心やさしい文化。
●13/5/15

★「醸し人九平次」はシャンパンの味わい★
 うまい酒を呑むと庵主のからだはホッとする。まずい酒を呑むとからだが拒絶反応をおこすようになった。美酒はからだにやさしいのである。
 今、庵主の体はちょっと不調の淵 にあるので酒を控えた日々を送っているのだが、今夜呑んだ「醸し人九平次」はからだが納得してしまった。また一つうまい日本酒とめぐり会ったのである。酒名は「かもしびと くへいじ」と読む。名古屋の酒である。
 「十四代」の高木顕統氏が醸す酒が一世を風靡しているが、同様にいま注目されているのが「醸し人九平次」である。醸し人は久野九平治(くの・くへいじ)氏である。
 五百万石、雄町、山田錦で醸した生酒を何種類か呑ませてもらった。炭酸がきいていて実に楽しい酒なのである。もちろん「うまい」。酒は「うまい」がなければ庵主は呑めない。一升2200円の本醸造五百万石で十分うまいのである。しっかり管理された生酒のうまさを満喫した。それはシャンパンのような炭酸がここちよい酒だった。得体の知れないシャンパンよりも、祝宴ではこういう酒で乾杯したらまさに祝着至極だろうなと思ったものである。
●13/5/12