「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成13年5月の日乗
★いちずの酒★13/5/31
 酒は一つの銘柄しか呑まない人がいる。「俺は親父の代から剣菱だ」とか「酒はキクマサに限る」という一本筋の通った酒呑みである。  そういう人に、もっとうまい酒がありますよと教えても、「高い酒は口に合わない」といって、いつものキクマサを呑みながらただ笑っているだけである。
 一方、庵主はそれができない。一本筋の通った酒呑みにはなれない。
 酒は芸術品であると思って、その味わいの深さと幅の広さに幻惑されて、日々異なる酒を呑み歩いているのである。
 いうならば節操のない酒呑みである。それを恥ずかしいと思うことがないわけではないが、しかしいろいろな日本酒の味わいの違いにふれることもまた楽しくてたまらないのである。
 酒は口に合う酒が一本あればそれで十分なのだと思う。庵主には「冬樹」の生酒と純米の「花の舞」がある。いろいろな酒を呑んでも、結局はその酒に戻ってくる。それが自分にとってうまいのだから。
 それなのに、ついもっとうまい酒があるのではないかと思って彷徨うのは浮気心と同じだと苦笑しているのである。


★その店は/呑みたい酒がいつもある★13/5/30
 庵主は泣ける映画が大好きである。高倉健の、いや監督降旗康男の「ホタル」を見て大いに涙をこぼしたら、突然「義侠」を呑みたくなった。映画が酒を求めたのである。映画の中に出てきた「さつま白波」でなく、庵主は日本酒である。「義侠」ならその店にはそろっているだろうと当たりをつけて雨の降る中を訪ね求めた。
 「慶」(よろこび)があった。それで庵主の意は満たされた。しかもカタログ銘柄の「妙」(たへ)もある。カタログ銘柄とは写真では見ることはあるが、実物をなかなか目にすることのできない酒のことである。
 「慶」は純米大吟醸の3年もの、「妙」は5年ものと聞く。舌にしっとり広がる渋さがあるので寝かせた酒であることがわかる。。ひね香りといえないこともない味わいがかすかに感じられる。しかし崩れてはいない。一つの味わいなのである。
 その店の酒銘帳には、菊姫の黒吟、初亀の出品酒、義侠の妙、酒一筋の赤磐雄町、龍力の秋津が一杯3500円で並んでいる。黒龍の仁左(にざ。仁左衛門のこと)でさえかすむ酒揃えである。飛露喜が十両の値段で出ている。まさに東京である。
 「獅子の里」の仕込水、と書くとどこの店かわかっちゃうか。


★酒を呑まない日々★13/5/27
 酒を呑まない日々は幸せな日々である。なんといっても人生の持ち時間が増える。酒を呑むと、ちょいと一杯のつもりが気がつくとあっと言う間に終電車になってしまうのである。天から与えられた人生の持ち時間を酒なんぞを呑んで勝手に短縮する行為は、自殺で残りの持ち時間を投げ出してしまうことと同じなのではないか。もっとも前者は旅立ちの時点を天(あなた)任せという無責任な生き方ではあるのに対して、後者には自分で決めるという潔さがあるといえないこともないが。ふつうの人はそんな潔さがないけれど。
 さらに酒を呑まないとその分の金がたまる。蔵がたつ。ということはまずないか。
 酒を控えると体にいい。酒を呑まないとどうも調子が悪いというのは心理的な錯覚である。酒を一杯だけでやめられる人がいるだろうか。蓄積された酒は確実に体に負担をかけているのである。いつの日にか、突然、体はその負担にたえられなくなる。
 そして、たまに呑む酒の、日をおいてふたたび酒を口にしたときの酒のうまさよ。酒を呑まない日々は、酒をいっそうおいしく呑むための幸せな日々なのである。


★純米酒の風格★13/5/21
 京都「澤屋まつもと」の純米酒。庵主の好みの味ではないが、きりりとした味わいである。いい酒であることがわかる。たぶん、庵主のような酒の呑めない酒呑みではなく、酒がいっぱい呑める酒呑みには呑みやすい酒なのではないかと思う。キレがいい、呑み手にこびるところがない大人(これはおとなとよむ)の風格がある。もちろん下手な純米酒に出るクドミはない。しかし庵主は好まない。酒の量がのめない庵主にとっては、少量でうまいと感じることのできる甘い酒が好みだからである。
 岩手の「月の輪」の純米酒も、「まつもと」同様の味わいで呑ませる酒である。喉元をすうっと流れていくきれいな酒である。
 たまたま酒リスト(というのか、酒のメニューというのか、お品書きに相当する和語はなんというのだろうか)の中から選んだ純米酒が二つとも風格のあるいい酒であった。好みではないが、いい酒にめぐりあえた日はうれしい。いい酒を呑んでいるという満足感がなんともいえないのである。
 赤坂一ツ木通りを246から入って、右手を見ながらしばらく歩くとその居酒屋「梓川」がある。「萬繕」(まんぜん)をちょっとだけ飲ませてくれたのがまたうれしい。


★「女城主」は呑んで楽しい酒である★13/5/19
  むの字屋の掲示板はほとんど書き込みがないので助かる。そして書き込みがあったときの情報は精度が高いのでありがたい。口コミの酒情報は確実性が高い。
  岐阜の「女城主」という酒を知っていますか。見たことがありますか。その酒がうまいという情報が寄せられたのである。
  庵主は「うまい酒」があると聞くと、一度口にしたくなる。しかし東京に現物があるのだろうか。かといって蔵元に注文することはしたくない。それは本屋に行ってこんな本はありますかと聞くようなものだ。それは本読みの邪道である。ところがちゃんとあったのである。有楽町の交通会館の中にある「むらからまちから館」の酒売場の冷蔵庫の中に並んでいた。純米吟醸「女城主」である。
  酒の色はうっすらと琥珀色。その色合いからして酒呑みの心をくすぐる。
  うまい。さりげなくうまいのである。あまい。ほんのりとあまいのである。そしてキレがいい。のどをすうーっと流れていく。こういう酒はこわい。楽しく呑めるから呑み過ぎてしまうである。そう気づいていながら庵主は「女城主」をつい呑み過ぎてしまったのである。


★酒が向こうからやってくる★13/5/18
 「琵琶の長寿」を確かめてみたいと思っていた。銀座の吟醸酒家「G」(銀座だからGとしたまでで店名のイニシャルではない。渋谷にある店なら「S」である)に行ったら「琵琶の長寿」の大吟醸醸がちゃんとあるのである。
  またある日はたまたま六本木の「R」に寄ってみた。酒は「波瀬正吉」が最初から出てきた。無濾過生酒「波瀬正吉」である。今年の「開運」は絶好調であるという。さすがにうまい。うまいというより、そんなことなど「波瀬正吉」に関しては当たり前のことなので、日本酒の品のよさを心から楽しめるのが「波瀬正吉」を呑む喜びなのである。だから庵主は好きなのだ「波瀬正吉」が。いいものを口にしているというくつろぎの時間とからだがその旨さにうっとりしてしまう快感がなんともうれしいのである。 いい酒は喜びなのである。
 必要な本はむこうから飛び込んでくるものである。ふと目をやった棚に求めていた本が並んでいることが少なくない。 酒もまた必要な酒は探さなくても庵主のもとに飛び込んでくるようになった。そのことで庵主はすでに酒の世界にどっぷりとつかっていることを自覚したのである。


★小休止★13/5/15
 庵主が普段呑む酒は生酒の「冬樹」と「花の舞」の純米酒。気分がふさぐ時に呑むのが「天保正一」と「松の司」。ハレの日に呑むのが「波瀬正吉」である。それを呑まずに死ぬのは日本人としては不幸としか思えない日本酒が綺羅星のごとくある中で、結局ここに書いたような酒が庵主の好みだとわかったのである。いろいろな酒場で数多くの酒を呑ませてもらってわかったのである。
 ある日、「十四代」の「龍月」を呑み、その後で「辻善兵衛」の純米を呑んで、うまい酒は一通り呑んだという思いをいだいたのが小休止してもいいなと思ったきっかけである。
 日本酒は「うまい」ということがわかった。体が「うまい」を実感した。そのトキメキを何度も体験したものである。
 酒は、うまいものを造ろうという意欲があれば、その気迫に応えていい酒ができることがわかった。文は人なりという言葉があるが、酒もまた人なりだということがわかった。杜氏の腕と技に庵主はしこたま酔いしれたのである。酒、心やさしい文化。


★「醸し人九平次」はシャンパンの味わい★13/5/12
 うまい酒を呑むと庵主のからだはホッとする。まずい酒を呑むとからだが拒絶反応をおこすようになった。美酒はからだにやさしいのである。
 今、庵主の体はちょっと不調の淵 にあるので酒を控えた日々を送っているのだが、今夜呑んだ「醸し人九平次」はからだが納得してしまった。また一つうまい日本酒とめぐり会ったのである。酒名は「かもしびと くへいじ」と読む。名古屋の酒である。
 「十四代」の高木顕統氏が醸す酒が一世を風靡しているが、同様にいま注目されているのが「醸し人九平次」である。醸し人は久野九平治(くの・くへいじ)氏である。
 五百万石、雄町、山田錦で醸した生酒を何種類か呑ませてもらった。炭酸がきいていて実に楽しい酒なのである。もちろん「うまい」。酒は「うまい」がなければ庵主は呑めない。一升2200円の本醸造五百万石で十分うまいのである。しっかり管理された生酒のうまさを満喫した。それはシャンパンのような炭酸がここちよい酒だった。得体の知れないシャンパンよりも、祝宴ではこういう酒で乾杯したらまさに祝着至極だろうなと思ったものである。


★波長の合わない酒がある★13/5/13
 いい酒なのである。ただ、どういうわけか、庵主と波長が合わないのである。
 一つは「繁桝」。一つは「琵琶の長寿」である。
 福岡の「繁桝」はいい酒である。それはわかるが、庵主はどうもそのよさに共鳴できないのである。その理由はわからない。
 「琵琶の長寿」は滋賀の酒である。同じ滋賀の酒である「喜楽長」と「松の司」は庵主が好む酒である。滋賀の酒は甘いものが好まれるというが、それなら「琵琶の長寿」もまた庵主の好みに合っているに違いないと期待して呑むと、なんとなく波長が合わないのである。
 いい酒なのに、まずいとは思わない酒なのに、うまいとは感じない酒というのがあるのである。べつにその酒でいやな思いをしたということもないから、これは多分になんらかの原因があっての心情的なものか、あるいは庵主の体質に触るものがあるのか、それとも人の好き嫌いと同じようなものが酒に対してもあるのかなあと頭をかしげているのである。


★それは、なにを選択するか、ということなのである★13/5/6
 その人がどんな酒を呑むかは、その人が何を選択するのかということなのである。どんな酒を好むかということなのである。だから庵主がすすめるうまい酒こそが正しい日本酒だといっているのではない。庵主がうまいと思ういい日本酒がありましたよといっているのである。庵主がうまいと思う酒を呑んだ体験記をしるしているだけなのである。
 はじめて海外旅行をするときにご当地のガイドブックを読んでイメージを浮かべるように、おいしい日本酒を呑みたいと思ったときに、いまどんなうまい日本酒が出回っているのか、そしてどこで呑むことができるのか、の参考にしてもらえればいいのであって、酒を呑むのはその人なのだから、その好みまで庵主は知る由もない。
 紙パックにはいった安い酒がある。2リットルで1000円前後で売られているものもある。そういうアルコール飲料を酒として買う人がたくさんいるということである。
 庵主は酒は値段の高低では呑まない。うまいか、まずいかで呑む。もちろんうまい日本酒を庵主は好むのである。歳をとると味の浅い酒では物足りなくなるからである。


★葬儀の酒(起)★13/5/5
 葬式があった。庵主にとっては、通夜のお清めに出る日本酒が「普通酒」と呼ばれている日本酒を呑む唯一の機会である。
 はっきりいって、日本酒の種類が普通酒と呼ばれるものしかなかったらとしたら庵主は日本酒を口にすることはなかっただろう。呑んでも「うまい」とは思えない飲み物だからである。しかも酔っぱらうのだから。
 しかし、吟醸酒というそれらとは次元の異なる日本酒があることを知って色めきたった。酒が「うまい」のである。一口呑むと、味に奥行きがあるというのか、歳とともに感動を忘れかけていた味覚が突然はげしくゆさぶられて、あたかも感涙をこぼすときのようにしみじみと生きていることの喜びを実感させてくれるのである。
 日本酒は大人の(というより歳とった人というべかき)の老獪な味覚を満足させてやまない。しかも「うまい」という満足感と、いやうますぎるという天の恵みに、そして酒を醸した杜氏の技と気迫に感謝の気持ちをいだいて酒のうまさに酔いしれるのである。
 吟醸酒は、アルコールで酔うのではない、酒のうまさに酔うのである。


★葬儀の酒(承)★13/5/5
 葬式があった。庵主の祖母が九十七歳の天寿を全うした。葬儀は北海道の北広島市にある真宗の寺院で行なわれた。明治がまたひとつなくなった。またひとつさみしくなった。
 葬式にはごく普通の日本酒が出てくる。通夜の酒は楽しむために呑む酒ではない、お清めなのだからそうそういい酒が出てくることはない。葬儀社が仕切っているからそんなに高い酒が出てるくるわけがない。しかし値段が安くてもうまい酒を造っている蔵元があるから庵主はその意外性に出会うことを期待するのである。
 「加茂鶴」の上等酒である。ラベルにちゃんと上等酒と書いてある。しかしごく普通の酒である。うまいとは思えないが、まずいともいえない。物足りないのである。そういう個性のない酒を口にすると呑んでいてうら悲しい思いにさそわれるものがある。そう、葬式の酒なのである。「若戎」の「義左右衛門」がある。ラベルが洒落ている。悪い酒ではない。でも「うまい」がない。味に華がないのである。惜しい。古式仕込みの「百樂」は「秋田晴」の酒である。生もとなのかすっきりした味ではあるがこれも「うまい」がない。キレもいいけど味もないのがさびしい。


★葬儀の酒(転)★13/5/5
 「菊水」の四段仕込みもあった。これはいわゆる甘口の酒である。日本酒度がマイナスの酒である。この甘口は庵主は好まない。庵主が好むのは日本酒度がプラスで、その味に「うまい」が感じられる酒なのである。庵主はその手の酒を甘口といっている。旨口と書いてあまくちと読んでもらうのがいいかもしれない。甘口の酒といえば通常は日本酒度がマイナスの酒をいうからである。でもプラスでも甘い酒があるのだ。その酒が「うまい」のである。
 日本酒度をマイナスにした甘口の酒には独特の甘みがあるのだが、その甘味はあえていえばえぐい甘さなのである。
 葬儀では思わぬ発見がある。坊さんの読経の声のいいこと。駅員のアナウンスの美声と双璧である。庵主は読経を聞きながら眠るのが大好きである。そして今度の葬儀で庵主は意外なことを知らされることになったのである。
 北海道では葬儀委員長が故人の経歴や人となりを紹介するが、その中で祖母は富山県で生まれて3歳のときに家族で北海道に移ってきたというのである。それを聞いて庵主にはハタと思いあたることがあった。


★葬儀の酒(結)★13/5/5
 庵主には富山人の血が流れていることになる。
 以前から、庵主は能登杜氏の造る酒がうまいと書いているが、そのことは庵主の血によるものなのではないだろうかとは思いいたったのである。
 しかも、まえに父方の祖母が亡くなったときに、祖母が石川県の出身であると初めて聞いたことを思い出した。
 庵主は北海道生まれである。北海道人は明治のはじめに内地から渡ってきた人たちの子孫である。北海道人といっても起源は内地なのだからその出身地の体質や気風を血のつながりで受け継いでいるわけである。
 北海道には偽家系図を造る風がないので、3代以前の出自などだれも気にしていないから庵主のように何処からやってきたのかも知らない人が多い。どうせ内地で食いっぱぐれて、新天地を求めて渡ってきた人たちばかりなのだから、境遇は同じようなものなので家柄を自慢しようにも底がわれているからである。
 とにもかくにも能登杜氏の造る酒が庵主にはいちばん波長が合うのである。うまいと体が納得するのである。


★付記★13/5/5
 真宗連合はすごい。剃髪しないその坊さん見て商売気がないご宗派だ思っていたが、しかし、葬儀のあった寺が真宗で、そこに貼られていた真宗連合のポスターに書かれていた主張が明確な反米思想なのである。いいことである。今のアメリカは間違っているのだから。なおここでいう反米の米国とは、世界の行動基準は俺たちが決めると意気込んでいるあのアメリカ国籍の一部の迷惑な人たちのことである。
 真宗連合の主張は明確である。「わたしたちはいのちの私物化に反対します」と。これはすごい。臓器売買は生命に対する冒涜であるという主張であると庵主は理解した。死んだ人の臓器は自由に使っていいというのは、ひどい話である。その臓器が使えるのはそこに命が生きているからなのであって、死んだ臓器は役にたたないのだから、それははっきりいってちょっとまずいのではないかと庵主は思料するのだ。
 アメリカ医学とそれに与するお医者さんは臓器の有効利用を進めるのである。
 坊さんは葬儀が増えると儲かるし、医者は患者がふえれるば儲かるからな、と考えるのが庵主の性格の悪いところである。いい酒を呑んでいてもそれは直らない。


★五月の三日の冷えた夜には生酒をぬる燗で一杯★13/5/3
 5月3日である。憲法記念日という。この日から戦後の日本の歴史が始まったのかと思うと心が痛む。本当のことが言えない時代が始まったのである。そのことを天も嘆いているのだろうか、今日は朝から雨が降っていた。気温が低い。午後になって雨があがっても気温はあがらなかった。こんな日は身も心も寒くなってしまう。戦争には負けるものではないと戦後五十数年を経た今になって気づくのである。この前の戦争にも隠された歴史があるのだろうと思うと、歴史というのはしょせん99%の嘘と1%の誤りからなるフィクション(=思い込み)なのだと思ってしまう。書き手の都合のいい歴史書などではなく、本当のことを知りたいと思いませんか。
 夜は「花の舞」の純米のしぼりたてをぬる燗にして呑んだ。かなり前に封を切った生酒が残っていた。アルコール度数が19度と高いせいなのか、さいわい味はくずれていない。「うまさ」が残っている。燗酒がからだにしみていく。心がほっとあたたまったのがわかる。ようやく気持ちがよくなったところである。
 5月の肌寒い夜の思い酒である。