「むの字屋」の土蔵の中にいます
 
平成12年10月〜12月までの日乗
★燗を極める--酒はおいしく呑みたい★12/12/30
 庵主はいま燗酒にこっている。
 当今の日本酒は吟醸酒が盛んとなって、その酒はものの本によるとおいしく呑むには冷やして呑むのが正しいのだそうだ。だからなのだろうか、ある店で、「本丸」(「十四代」の)をぬる燗にしてくださいといったら、「うちは酒は冷やでのんでもらっています」と容易に応じてくれなかったことがある。「燗ができないのでしたら、大ぶりの碗にお湯をたっぷりいれてもってきてください」といってその中に燗とっくりをいれて温めようかとも思ったものである。
 「本丸」の、あるいは「磯自慢」の本醸造をぬる燗にして口に含んだときにぱあっーと口の中に広がるあの馥郁たる香りと幸せ感にはなんともいえないものがある。うー、酒がうまい、と思う瞬間である。
 酒を呑むのは客なのだから、客の望むように酒を呑ませるのが筋だろうが。
 それはさておき、あたためて日本酒がよりおいしく呑めるのなら、よりおいしくして呑むのが正しい呑み方なのではないのかな、と庵主は思うのだ。



★「花の舞」の熱燗がうまい★12/12/30
 「初亀」を呑んで、庵主は今年の酒の呑み納めとしたあと、庵主の心をひいた酒は「花の舞」の純米酒だった。
 この酒はうまい。「うまい」の水準を超えている庵主おすすめの酒である。酒の能書きを気にしないで心置きなく酒を呑むことを楽しむことができる酒である。というのも値段がいい。このうまい酒が一升瓶で1950円(税別)なのだ。
 冷やで呑んでもいい。庵主は熱燗にして呑んでみた。これがまたうまいのである。庵主の口に合ういい味わいなのである。
 熱い「花の舞」の、湯飲みの口から立ち上がってくる酒のにおいに「ん、いい、いい。品がいい」とうっとり満足を感じながら、酒温をさましながら口に含む。
 燗をした酒の味にくどみがない。さらりと呑める。「花の舞」の燗はうまいと思う。
 庵主は、普段は一升瓶で酒を買うことはない。量が多過ぎて呑みきれないからである。しかしこの「花の舞」はその心配はなかった。燗をつけると、湯飲みいっぱいの酒がさらりと体にはいってしまうからである。もう一杯呑みたいという酒は少ないが、こればかりは一升の酒がもう空になってしまった。



★今年の〆(しめ)はやっぱり「初亀」★12/12/12
 庵主は酒が呑めない。量が呑めない。だからうまい酒を五勺だけ、しかも酔いがまわるまでの十分ぐらいの間に心して味わって呑む。美禄を口にするときめきを堪能する。
 酒はその期待に応えてくれる。うまいのである。絶妙にうまいのである。呑めない庵主がうまいと思うほどに酒は体に、いや心にしみこんでいくのである。
 中途ハンパな量を呑むと庵主は肩に来る。肩が猛烈に凝るのである。だから中途半端には呑まない。普段は五勺しか呑めない。しかし時として酒が酒をよんで庵主の体を心地よくとおりすぎていくことがある。そういうときは不思議にも酔っているはずなのに気持ちは少しも酔っていないのである。そんな気分にひたれることがあることも酒を呑む楽しさのひとつである。
 今年の〆は「初亀」だった。静岡の酒である。大吟醸「滝上秀三」を呑んでこの一年の呑み納めとした。すごい酒である。しかし庵主はそんなことを気にすることなくさらりと呑みほしたのである。日本酒がやっぱりうまいと思いながら。
 


★土曜日に呑む「東北泉」本醸造はうまい★12/11/30
 そば屋にはうまい酒がないといけない。というより、そば屋で呑む酒はうまいというのが蕎麦好きの思い込みなのである。蕎麦と酒を楽しみにして店に入っても、どうでもいい酒を置いているそば屋が多いが、おおっと思わずうなりたくなる蕎麦屋もある。いまどきいくらでもいい酒が手にはいるのだからそば屋にはうまい酒を置いておいてほしいというのが庵主の思いである。
 淡路町で降りて見つけた「はなの蔵」がおおっというそば屋だった。打つ蕎麦にも一家言ある。いい酒を置いてあるそば屋はそれだけで胸がワクワクする。
 まずは「鷹勇」を頼むと売り切れましたとのこと。残念。それなら「東北泉」である。本醸造であることを確かめて注文する。
 うまい。酸味がいい。さらりとはいる。庵主の苦手なアルコールを感じることなく呑める。体調が悪いときに、というより、気分の落ち込んでいるときに酒を呑むと庵主はアルコールを強く感じてそれが苦痛に感じられるのだが、きょうの酒はうまい。
 土曜日の夜にふさわしい酒である。週のはじめの月曜日に呑む酒の味とはまた違ってうまい酒である。



★「真澄」はうまいから呑まないのである★12/11/23
 長野の「真澄」(ますみ)はうまい酒である。「真澄」という酒はないよ、と声がかかりそうだが、車で言えばトヨタはいい感じの自動車であるというときのその製造元で作っている商品を総括した印象ということである。
 伊勢丹デパートの日本酒売場の試飲販売で味見した「真澄」の純米「金寿」は酸味のバランスがとれていておいしかった。小さな試飲用のプラスチックコップの中の少量の酒がさっと喉をとおりすぎていく軽快な味わいである。
 もう一杯、もっといっぱい呑みたかったが、試飲なのでいじきたいない振る舞いはためらわれた。用があって酒瓶を持って歩けないときだったので、その酒銘をしっかり覚えてきた。「金寿」である。四合瓶で1500円。
 「真澄」はうまい酒である。「夢殿」「楽最真」「山花」もうまいが、季節のひやおろし、しぼりたて生酒も呑んでうまいと納得させてくれるいい味わいの酒である。そのうまさを知っているから普段はあえて呑まないのだが、つい試しに呑んでみた「金寿」がうまかったのでこんど買ってみるつもりである。



★酒を呑む流儀★12/11/17
 大映映画「眠狂四郎女地獄」の居酒屋のシーン。
 仕官を願う浪人伊藤雄之助が城下のとある居酒屋で先客に声をかける。
 「どうだ、一緒に一献」
 それにこたえる狂四郎「酒は一人で呑むことにしている」
 「私は一人では呑まないことにしているのよ」と水谷良重。
 また同じ居酒屋で。
 「一緒に呑まぬか」
 浪人の田村高広「せっかくだが、酒は三杯、しかも他人の酒は呑まぬことに決めておる」
 「どうもこの店の客は気障なやつばっかりだな」。
 酒の呑み方に流儀がある。酒が気障に呑めるのはかっこいい。
 庵主は「腹八分目、酒五勺」と。
 「もういっぱい、いかがかな」
 「腹八分目、酒五勺。酒とわたしとはそんな清い仲ゆえに」



★いまどき東京の居酒屋には「酒」はない★12/11/15
 東京の居酒屋には「酒」は置いていない。
 もちろん東京にも、「酒」と称するどこで造られたのか、どんな造りの酒なのかわからない「日本酒」(のようなもの)を呑ませる店はもちろんある。需要があるのだから。それはアルコールの酔いを提供する店である。日本酒のワクワクする楽しさを呑ませる店のことではない。
 東京の居酒屋で、日本酒を気のきいた肴と一緒に呑ませてくれる店は、きちんと銘柄を呑ませてくれるのである。酒の造りの違いによる七変化を楽しませてくれるのである。「酒」という得体のしれないものは扱っていないのだ。そこでは出自の明らかな酒が供される。はっきりいってうまい酒のことである。
 世の中にはまずい「酒」でも呑めるという酒豪がいて、それはそれで豪気といってかまわないが、今東京の酒呑みはまっとうな(この言葉は田中康夫氏が確立した言葉である。独善的な料理用語だが使い道はある)日本酒を求めているのである。まっとうな日本酒が好まれているところに「酒」を持ち込まれて困るのだ。だって庵主はそんな「酒」は呑みたくないも。



★「花の舞」にまたまた惚れる★12/11/12
 うまいのである。期待どおりにうまいのである。しかも口の中で毅然としてうまいのである。それでいてうまさを誇るようないやみがないところが好きだ。呑み手をうならせるような大仰なところがないのがいい。味の表情がやさしいのである。だから心置きなく呑める。心から酒を楽しめるのである。その酒を含んでいるときに感じる幸せな気分はまさに至福のあじわいである。
(「至福」とか「めくるめく」とかは一生に一度しか使えない言葉である。おおげさな言いようなので2度使うと文章が馬鹿に見える。印象が強い言葉なので多用すると書き手の感性のずさんさが見えてしまうからである。その一つを、庵主はその酒で使い果たしてしまったのである。)
 「花の舞」大吟醸生原酒がそれである。
 「花の舞」のうまさは、その純米酒でたっぷりと楽しむことができる。その技は大吟醸でさらに磨きがかかっている。純米酒が「うまい」とするなら、大吟醸はその値段分だけさらに「うまい」のである。
 期待どおりにうまい酒を呑ませてくれる「花の舞」をまたまた惚れ直してしまった。静岡の酒の技に庵主は心底惚れているのである。



★酒を造る人−−「月の輪」の横沢大造氏★12/11/10
 その店には酒造業界の人がよく呑みに来ている。さすが呑み方に風(ふう)がある。
 カウンターにはすでにおいしそうに酒を呑んでいる大人(たいじん)がいた。岩手の紫波町の「月の輪」の横沢大造氏だった。
 手造りの酒と機械で作る酒の違いの話になった。手造り酒は凡打もあるが、特大のホームランが期待できる。しかし機械造りでは標準以上の酒を確実に造ることはできるもののそれ以上の出来を期待することはできない。やはりうまい酒は手造りでしかできない、と。
 ごちゃごちゃ機械を使って造るより杜氏の勘で造ったほうが手っとり早いということでもあるが、機械(コンピューター)を駆使して造る酒も、日進月歩である。下手な手造りよりずっとましな酒が造れるようになることは間違いない。
 手造りにこだわることではなく、人がやる部分と機械に任せていい部分の見極めを間違えないことである。
 横沢氏は、午後九時になるとそれまでおいしそうに呑んでいた酒を、未練ためらいもなく爽やかに切り上げて悠揚と店を辞していった。それは大人の風だった。



★秋は「秋鹿」から始まる★12/10/25
 ひやおろしがデパートの酒売場に出揃っている。どれもがおいしそうである。呑みたいのをぐっとこらえてながめてくる。秋の始まりを酒で知るようになった。庵主、齢五十の秋である。
 笹塚の商店街を歩いていたら気になる酒屋があった。並んでいる日本酒の銘が普通の酒屋のとは明らかに違うのである。いい酒を置いてあることが一目でわかる。
 おっ、「義侠」(ぎきょう)がある。庵主の好みの「醴泉」(れいせん)がある。しかもあこがれの「蘭奢侍」(らんじゃたい)も並んでいるのだから、この店がただものでないことがわるか。
 庵主の目は「秋鹿」(あきしか)にいった。米から自前でつくっているという蔵元である。何種類かの四合瓶がならんでいたが、いちばん値段の安い「無濾過純米生原秋鹿」に決めた。四合瓶で1400円である。
 「秋鹿」は今年から造りをこれまでの二千石から半分以下に減らしたと主人が教えてくれた。お酒をよく知っている酒屋で酒を求めることが美酒への近道である。
 その酒屋は「本間商店」という。



★「秋鹿」その二★12/10/25
 「無濾過純米生原酒秋鹿」と、ラベルには筆字で二行に書かれている。
 「無濾過」である。濾過していないのである。だからうまそうである。ここでうっかりそうかと思ってしまうと結局それがどんな酒なのかわからない。じゃ、濾過というのはどのようにするのかと聞かれたらわからないでしょう。
 「生」なのである。生酒とはどういう酒なのか、たぶん大方の人はよくわからないと思う。生なんだから、生きているのだらかなんとなくうまそうな気がするのである。
 「原酒」である。いい酒に違いないと思うが、原酒って何ときかれても全然見当がつかないのが普通である。
 しかも「秋鹿」である。ほとんどの人は知らない名前の酒である。大阪の酒である。
 庵主はためらわず「秋鹿」生酒を呑む。さすがにうまい。生酒も保管をしっかりしていないと素人が食用米で造った酒とさほど変わらないうすっぺらな味わいになってしまうが、この「秋鹿」にはまだ炭酸味がかすかに残っていて生酒のうまさが口の中に広がるのがわかる。酒がうまいと感じるのはこういう時である。
 秋は「秋鹿」からはじまる。日本酒のうまい季節はこれからである。



★「志太泉」を呑むとうれしくなる★12/10/22
 庵主が通っている酒の学校は「与太呂会」(よたろかい)である。いい酒を呑み、うまい料理をあじわい、手練の呑み手の間にまじってその雰囲気に酔う。
 月一回のペースで開かれる学校の開講日がこの土曜日だった。
 今日の酒は静岡の「志太泉」(しだいずみ)である。いつもなら第一部だけなのだが、今回は出席者が多く第二部もあるという盛況だった。
 庵主の好きな静岡の酒である。その名前はすでに知っていたが、こうして蔵元さんにも来ていただいて、7種類の「志太泉」をじっくり呑み比べるのは初めてである。
 最初の酒がうまかった。山田錦で精米歩合60%の純米生原酒である。庵主が60%の磨きでうまい酒を求めていることは以前書いたことがあるが、この酒はその条件を満たす納得のできるうまい酒である。
 いつもなら、それぞれの酒を一杯ずつしか呑まない庵主がもう一杯とグラスを重ねてしまったほどである。期待どおりの、いや期待以上の酒を最初から出してくる静岡の酒についうれしくなってしまったものである。



★「志太泉」を心ゆたかに呑む★12/10/22
 一つの蔵元の造りの違う酒を呑み比べるてみるとそれぞれの酒の味わいの違いがよく分かる。いい酒を1種類だけ呑んだのではただうまいとしかいいようがないが、呑み比べることでそのうまさの違いがわかるようになる。
 静岡の「志太泉」を7種類呑み比べた。
 @ 純米生原酒 山田錦60%(精米歩合) 日本酒度+2 酸度1.8 
 A 特別本醸造生原酒 五百万石 雄町50% 日本酒度+4.5 酸度1.6〜1.7
 B C純米吟醸生原酒 山田錦50% 日本酒度+1 酸度1.5〜1.6
   酒造年度ちがいで2種類 一つは2年寝かせたもので味がのっててうまかった。
 D 純米大吟醸 槽搾り生原酒 山田錦40% 日本酒度+2.5 酸度1.6 
 E 純米大吟醸 斗瓶取り中汲み 仕込み33号 山田錦40% 日本酒度+3 酸度1.6
 F 純米大吟醸 斗瓶取り中汲み 仕込み18号 山田錦35% 日本酒度+5 酸度1.5
 吟醸、大吟醸はいわずもがな、庵主はアルコール度数19〜20度の純米生原酒のうまさだけですっかりうれしくなってしまったのである。「志太泉」、呑んでいると心が豊かになってくる酒だった。



★重い酒と軽い酒★12/10/21
 「花垣」の純米吟醸を呑む。いい酒である。ときとして「花垣」は香りのよすぎる酒を造るが、この酒はほのかに甘く、味が主役のさらりとしたいい酒だった。
 水を飲むように喉を通りすぎていく。すっとはいるその呑みごこちはいうならば軽い酒といえる。実はいい酒は水よりサラッとしているのである。朝、水を飲もうとしたら喉にひっかかることがある。水は意外と重いのである。ところが、軽い酒だとさらっと喉を過ぎていくことからも酒の方が水より喉にやさしいことがわかる。もっともこのことはただの酒呑みの感想かもしれない。
 一方、重い酒は福島の辰泉酒造の純米大吟醸「京の華」である。ずっしりと重みのある味わいである。それがまたいい感じなのである。力のこもった酒なのだが、それがけっしていやみではない。どっしりと腰のすわった酒を呑む楽しみを体験させてくれる酒である。
 一期一会という言葉は、酒のためにあるのではないと庵主は思う。酒は同じものは二つないのだから呑めるときに呑んでおくことである。



★雄町の「波瀬正吉」★12/10/15
 「波瀬正吉」は庵主が今際のきわに呑む酒と心に決めている酒である。この酒をさいごに呑めたのならこんなに幸せな生涯はないとまで思いつめているほどである。
 雄町の「波瀬正吉」があった。いつもは山田(山田錦のことです)だから、これは珍しい。呑んでみる。
さすがにうまい。やっぱりうまい。雄町でもそのあじわいのうまさは変わることがない。庵主が好む甘さをたたえている美酒である。波瀬杜氏の、期待どおりのうまい酒を醸しだす技には感銘さえ覚える。能登杜氏の醸す酒は庵主にはうまいと思う。
 「早瀬浦」がいい酒を造った。大吟醸である。金賞を受賞したのは初めてのことだという。そのよろこびを一(いつ)にできる美酒である。
 派手な大吟醸でないのがいい。じつに落ち着いた味である。味に深みがあって、いい酒を呑んでいるという充実感がわいてくる。しあわせというのはこのような味わいにつつまれている時間と空間をいうのだろう。居酒屋に、その酒はある。



★「綿屋」純米吟醸★12/10/9
 「綿屋」(わたや)純米吟醸を呑む。米は食用米のササニシキである。ふつうは日本酒は同じ米でも酒造好適米といわれる酒造用の品種の米を使って造られる。山田錦とか五百万石などの粒が大きくて心白(しんぱく)が大きい米を使うのである。しかしこの「綿屋」は食用米で造った酒である。はたしてうまいのか。
 中野の「ぶんぷく」に「綿屋」はあった。うまいという評判にたがわぬ格調のある味わいの酒だった。200ミリリットルで800円だった。
 庵主の好みは甘い酒だから、「綿屋」をあえてうまいとはいわないが、きりりとしまった芯の強い味わいには居住まいを正したくなるような格調の高さがある。
 いい酒である。「ぶんぷく」の酒の保管もすばらしい。酒の旨さがそのまま保たれたまま出てくるので、「綿屋」の実力がひしひしと伝わってくるのでありがたい。酒が本当にうまい。日本酒の旨さはまさに管理のよさであると実感したものである。



★「美田」の豊穣。山廃純米★12/10/6
 福岡の「美田」(びでん)を呑む。曙橋の「十七七」(となしち)である。お店が添えた惹句は、「菊姫」で修行した若杜氏が醸す山廃美酒を召し上がれ、である。
 山廃純米である。酒は陶の片口にいれられて出てきた。乙である。ぐい呑みに注ぐ。酒の色はいい。呑むと米くさい。純米酒のクドミがある。新潟流の淡麗な軽い酒の風になじんでいる舌にはかなりこってりした味の酒である。新潟酒をあえて「モダン」というのなら、この酒は実に気負いのない素朴な味わいにみちた酒である。しかし酸味がたっているのがわかる。このしっかりした酸味が山廃の特徴なのだろう、小気味いい酸味なのである。古くさい味という最初の印象に反して呑み口はいい。
 庵主がうまいとは思う味ではないが、これはこれで一つの味わいだと思う。にわかに酔いがまわってくるとここちよい世界にいざなわれるのがわかる。味が深いのである。庵主が田舎くさいと断じた酒の味がかえって味わいがある。酒に酔っているのかもしれない。心は酔いの世界に遊んでいるのである。  「美田」の豊穣は、思いがけずに庵主を桃泉境にさそってくれたようだ。



★10月の日本酒★12/10/1
 10月1日は日本酒の日である。日本酒がおいしくなる季節だからなのだろう。
 今朝の読売新聞には、2面見開きで焼酎甲類のカラー刷り広告が出ていた。焼酎業界の方がずっと元気がいい、甲類焼酎だけど。日本酒はどうしたのだろう。
 日本酒は、終戦後長い間にわたって三増酒が全盛の時代だったという。その後、呑み手の批判が起こって少しずつまともな酒が造られるようになったころに庵主は日本酒を呑み始めた。当時、純米酒で手にはいるのは「北の誉」の生一本しかなかったものである。
 そのころから吟醸酒が市販されるようになってうまい酒が増えてきた。やがて大吟醸酒がブームとなって、そのうまさはそれまでの三増酒とは次元が違っていたことから、グルメブームと軌を一にしてその味わいがもてはやされるようになったが、それもやがて酒呑みには飽きられて、今はもっと手軽な値段で呑めるうまい酒がいいという雰囲気になってきている。
 庵主のまわりでは、お年を加えた呑み手が翌日に残らないからといって甲類焼酎を飲む人が多くなってきた。庵主には焼酎のうまさがわからないのだが。