原文採録◆立ち読み(2011年3月6日採録)

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◆立ち読み(原文流し込み=体裁未調整)◆

元大鳴戸親方著 八百長 相撲協会一刀両断 まえがき


 日本のマスコミの姿勢に対し、私は以前から疑問を感じていた。 TBSテレビとオウム真理教の坂本弁護士取材インタビューのビデオ問題。 ここにきてようやくビデオをオウム真理教に見せていたことが判明。 結果的にはTBSが嘘八百をつき通していたことになる。TBSを含め、 日本のマスコミの問題ある姿勢は、なにもこの坂本弁護士インタビュー ビデオとオウムに関してだけではない。
 相撲界では日常茶飯事のように、毎場所半分以上の取組が八百長で土俵を賑わせている。それを放送しているHNKのスタッフは、当然相撲界の『八百長』 の実態を知っているはずだ。
 NHKが仮に「相撲はそんなに真剣なものではない。日本の国技としての様式と 形を楽しむもので、勝敗に目くじらをたて、問題にするようなことではない」 こういった了見をもっているならともかく、そうではないのに公共の電波を使って、場所中には夜のスポーツニュースの枠で親方などをゲストに呼び、 その日の取組を真剣に勝ったの負けたのを論じているのはいかがなものか。
 相撲の担当記者たちもしかりだ。協会側になんらかの形で脅しをかけられて いるのか、相撲界で起こっている真実を書こうとしない。これが今の日本の マスコミといわれている集団の実態に思えてならない。国技とまでいわれて いる相撲界にはびこる八百長相撲。
 「果たしてこんなことがあっていいのか」という怒りから、微力ながら日本 相撲協会内部にはびこるひどい実態を、相撲ファンに知ってほしいと思った。
 そんな目的で本書を上梓する気になった。
 相撲ファンのみなさまがこの一冊を読めば、いかに現在の相撲協会内部に 自浄作用がなく、それぞれの親方が私利私欲に走り、力士たちは力士たちで 銭まみれになって八百長相撲を繰り広げているかおわかりいただけると思う。
 本書の内容に関し、相撲協会及び関係者各位に、何らかの疑問がある場合、 私は公の場で、いつでも対面し話し合いに応じる用意がある。
 だんまりを決め込み、嵐が過ぎ去るまで頬かむりを続ける協会関係者。 仮に話し合いの場が裁判所に移ったとしても、私にはそれなりの覚悟がある。
 こうした実態を知っていただくことで、協会が少しでも早く自分たちの していることに気づいて自己批判し、姿勢を正してくれることを期待し、 ここに本書が完成した。

第七章 国民栄誉賞横綱も八百長まみれ
 「親の背中を見て子は育つ」とはよくいったもの。 私の部屋の弟子だった板井が八百長の中盆をしていたのも、師匠の私が 北の富士の優勝や横綱昇進に絡んで、八百長の中盆の一人だったことを 知っていたところから始まったようなものと思っている。 八百長で作り上げられた北の富士の弟子である国民栄誉賞横綱・千代の 富士(九重親方)。彼もまた、同じように八百長の常連だったのだから 困った世界だ。
 千代の富士は国民栄誉賞まで貰っているが、その虚像の国民栄誉賞を 作り上げてきたのは、私の弟子の板井だった。
 千代の富士と言えば、前人未踏の通産1045勝を達成したのをはじめ、 優勝回数は31回と大横綱・大鵬の32回に次ぐ史上第2位、連勝記録も 双葉山の69連勝に次ぐ53連勝を記録するなど、数々の記録を塗り替えて きた大横綱である。
 特にここ一番の優勝決定戦には強く、6回とも制している。しかし、 この横綱 の大記録の陰には、板井と逆鉾という2人の中盆が暗躍して いたことをここで 断言し、暴露する。
 板井が理事会の承認が得られず年寄春日山を襲名できなかったのは、 このことが関係していた。
 横綱千代の富士が国民栄誉賞を受けた時、当時の親方連中の反応は実に 複雑なものだった。中には、「『あいつは注射で塗り固められた横綱だ』 と言って、海部さん(当時の首相)に投書してやりたいよ」と本気で 怒っていた親方もたくさんいた。
 自身のもつ32回の優勝記録にあと1回と迫られた大鵬などは、千代の 富士が八百長で優勝回数を増やし続けると「いい加減にしろ」と、弟子の 巨砲に怒っていたそうだ。
 しかし、そういう大鵬も20回以降は注射で勝ちとった優勝。 そのころの番付上位の関取や引退して親方になった者の大部分は注射力士 だったため、八百長力士を否定することは自分たちのやってきたことを 否定することであり、協会や自分の部屋への影響があるので口をつぐむ しかない。
 二代目若乃花、若嶋津(松ケ根親方)、旭富士(安治川親方)、隆の里 (鳴門親方)、五代目朝潮(若松親方)、北天佑(二十山親方)、琴風 (尾車親方)などみんな、注射にドップリと漬かっていた関取だ。 注射力士で番付を構成していたことになる。
 注射というのは、建前上、どこの部屋でも親方には内緒ということに なっている。私の弟子の板井にしても、いくら注射相撲が決まってもいても、 「今日の一番は売ります」なんてことは言わないし、若衆が 「走ってきます」などとはいわない。
 しかし、土俵を見ればおかしな一番というのはすぐにわかる。いっては こないが、聞けば教えてくれる弟子もいる。
 また橋本さんのようなタニマチには、板井や若い力士が、師匠の私には 言えない本音を言ったりもする。その内容を橋本さんから私が聞くわけ だから、板井たちのやっていることは大抵把握していた。
 いくつかの情報を貰ったことで、さらにナゾだった点もわかった。

■橋本成一郎氏の証言 「板井は『大横綱といわれている人間が一番注射が好きだから 困ったもんだ。海部さんもよく調べてから贈ってもらいたいものだ・・・・・。 政治家の人気取りの手段とはいえ、こういう立派なものは個人戦の種目に 贈るのなら、八百長のないアマチュア世界の人にあげるもので、 絶対にプロにあげるべきものじゃない。贈られる方が迷惑だ』と 自分のことのように怒ってましたね」
 マスコミも含め、千代の富士が八百長で白星を重ねていたことは、 みんなが知っていた。協会の中でも、「八百長で連勝記録を塗り替えるなんて、 双葉山に対する冒涜だ」という声が上がっていた。
 私にもそういう気持ちがあった。千代の富士の53連勝中のことだ。 NHKの相撲中継の解説者として番組内で私は、こんなセリフをいってしまった。 アナウンサーが、「この連勝はいつまで続くんでしょうね」とつまらないことを 聞くものだから、つい、「止めるといってもガチンコの大乃国(芝田山親方) しかいないんだからね・・・・・・・」と生放送にもかかわらず吐き捨てる ように答えてしまった。
 千代の富士からの注射を断ることができるのは、ガチンコの大乃国ぐらい しか思い浮かばないということは、他の親方衆とも話していたので、 ついこのようないい方になってしまったのだ。アナウンサーも私のいわんとする ことがわかったようで、一瞬気まずい空気が流れた。もちろん一般ファンには どういうことなのかわからない。おもしろいのはそれ以降、なぜかNHKから 解説者としてのお呼びがかからなくなってしまったことだ。
 最近のオウムとTBSの関係ではないが、NHKと相撲協会の関係はおかしなものだ。  このように、監視すべきマスコミまでが、臭いものにはフタを しろという姿勢では、八百長撲滅なんてまず不可能だ。
 私も、板井とは相撲の話はもちろん、日常会話もほとんどしなかった。 というより、こちらからはあえてしなかったのだ。師匠として失格だといわれても 仕方ないが、板井が私の現役中のことを知っていたことと、それ以上に板井を 実業団からスカウトするときに、「関取になれるここ一番には、ワシが注射で バックアップしてやる」という口説き文句をいったという経緯が、 後ろめたさとなって最後まで尾を引いていたからだ。
 しかし、こんなことは私が特別ではない。注射で地位を気づいてきた親方なら 同じような口説き文句をいっている。そのため弟子がやっていることがわかっていて も、ハッキリ注意ができないのが実情だ。
 私が親方として板井にしたアドバイスは、「みっともないから、お尻の筋肉の 張りだけは保っておいてくれよ」が精一杯だった。
 注射を覚えると稽古をしなくなる。結果として最初にお尻の筋肉が緩んでしまう。 土俵上で塩を取りに行く姿がテレビで大写しになると、尻だけデレーッとしていまい、 みっともない。そのためにそれだけは守ってほしいと思ったのだ。
 ある時期、私のところの板井や逆鉾が中心となり、若嶋津を横綱にしようという 動きがあった。私は弟子や橋本さんからそのことは聞いて知っていた。私たちが 北の富士を横綱にしようとしたように、自分たちの手で横綱を作ろうとしたのだ。
 なぜそんなことをするのか。それは、横綱になると大関時代より高い金で星を 買い取ってくれる。なぜなら横綱は、負けが込むと引退するしかないからだ。 それを防ぐために、無理をしても星を買うので、注射に走ることになる。
 私がタニマチのところに板井を連れて行こうとしても、板井はまず行こうとしない。 これは十万円や20万円しか祝儀をくれないタニマチのお座敷に行って、 頭なんか下げてられん・・・・・という意味合いを含んでいる。

■橋本成一郎氏の証言 「板井が言っていたのは、横綱・大関に星をひとつ売れば50万円、60万円になる ということ。だから飲み屋街を偉そうに連れ回すタニマチが一人増えるより、 注射をする横綱・大関が一人増えてくれる方が嬉しいということでした。 つまり、自分たちのタニマチは角界の中にいるんだ・・・・・という意味の ことを言ってました。1場所で300万ぐらいになる話をしていましたね」
 板井たちは角界内のタニマチを増やそうとして、若嶋津に目を付けた。あの男は 性格がいい。そこで自分たちのいいなりになってくれると考えたのも無理はない。
 当時板井は、角界の自分のタニマチ的存在であった旭富士と、 ちょっとした行き違いから仲がこじれていたこともあり、若嶋津に目を付けたのだ。
 若嶋津は昭和59年の大阪と名古屋に2回の優勝をしているが、その頃に彼を 横綱にしようという動きが始まった。そういう場合は板井に私が付けていた付け人が 動く。そのため弟子の動きを見ればすぐにその意図がわかった。私自身も注射は さんざん経験してきているから、土俵での相撲を見てもすぐわかるのだ。
 しかし、若嶋津は板井が考えていたほど強くなかったため、結局は失敗に 終わってしまった。

■橋本成一郎氏の証言 「逆鉾が若嶋津に負けることになっていた一番で、逆鉾を吊り上げたとき、 逆鉾に軽く足をかけられたら、そのまま若嶋津が尻餅をついてしまったので 注射崩れになったことがありました。これではダメだというので、 若嶋津を横綱にするのを諦め、再び旭富士に乗り換えたという話を、 板井から聞いたことがあります。」
 若嶋津が優勝した2場所は、いずれも千代の富士が休場している場所だ。 彼は千代の富士にはまったく分が悪く、千代の富士がいる限り、若嶋津は 横綱への道を絶たれたようなもの。その頃の幕内上位は注射力士と いわれている力士ばかりだった。   私たちの現役時代より、さらにガチンコ力士が少なくなっていた。 北の湖は引退直前。千代の富士、隆の里が横綱で、大関が若嶋津、5代目朝潮、 琴風、北天佑。その他の幕内上位には、保志(後北勝海=八角親方)や旭富士、 巨砲といった顔ぶれ。ガチンコといわれていたのは、大乃国や大錦(山科親方) ぐらい。
 金さえあれば星はどうにでもなったのに、若嶋津が横綱を 断念しなければならなかったのは、いかに千代の富士がわがままだったか ということの証明でもある。
 私たちが現役だった頃は、ガチンコ力士でも、脅してここ一番には注射を うけさせることができた。八百長は野放しにされていたから、8勝や9勝 しかあげられない北の富士のような本当は弱い力士でも横綱になれたし、 10回優勝することも可能だった。
 ところが板井たちの時代には、中盆をやっている力士たちはガチンコを 切り崩すほどのパワーを持つことができなくなっていた。そうなると、 ガチンコでもある程度強くないといけない。
 千代の富士が優勝回数を重ねたというのは、「どうせ負けるならあの力士に 売っておいた方が得」と思わせるような強さがあったからだ。板井にしても、 本気でやれば千代の富士と互角で戦えるぐらい強かったはずだ。だからこそ、 注射の中盆として千代の富士を牛耳ることができたのだと思う。
 舛田山が千代の富士の全休明けの昭和58年名古屋場所で、星を売りに行き、 「顔じゃない」と言われて蹴られたことがある。
 舛田山は、休場明けには必ず星を買い漁り、復活優勝を飾る千代の富士の 習性に目を付け、相場が50〜60万といわれていたのを倍近い90万円で自分から 売りに行ったのだ。千代の富士から話が来る前に、自分のところの若い者を 走らせて、買わないかと持ちかけたのである。
 以前注射を断った寺尾を後ろ向きで土俵中央に叩きつけたのをはじめ、自分 に逆らった力士にはめっぽう強いのが千代の富士だ。 「俺に逆らったらどうなるかを見せてやる」 といわんばかりに、手荒い取り口で相手をねじ伏せる。
 ところがその場所は、立会いの一瞬に舛田山の引き落としで負けてしまった。 結局、この場所は2敗となり、隆の里に優勝をさらわれることになってしまった。 親方衆の間でも この話は有名で、ざまあみろという感じで広まっていた。
 私が知る限りでは、千代の富士が買う星の価値は50〜60万円が相場で、 高くても80万円程度。板井の場合だけが安くて30万円だったと聞いている。 これは千代の富士が幕内での星のやり取りを、板井が仕切っていたことへの お礼の意味があったようだ。
 この頃は、注射力士の方が圧倒的に力を持っていた。千代の富士が 53連勝をした当時でも、注射をやらない力士を挙げた方が早いぐらい。 安芸乃島、栃乃和歌、花乃潮、大乃国ぐらいのもの。
 板井が、ガチンコ相撲に固執し、いうことを聞かない大乃国を、包帯を 巻いた張り手で何度もノックアウトした。それに関して当時審判部長を していた九重(北の富士=陣幕親方)が理事長から調べてこいといわれたが、 結局は本人には伝えなかった。  板井が九重のところの横綱(千代の富士)の手先だったというのは、 協会内でも有名な話だったため、私も板井には何も言わなかった。 言ったところで聞く耳を持たないだろうし、反抗されるのが怖かったのだ。
 関取になれば親方はあまり細かいことはいわない。しかしこの場合は、 やはり自分が現役時代に同じような立場で、北の富士の手先として 働いていたことが私の心の中で大きく影響していたことは事実だ。

■橋本成一郎氏の証言 「板井が大乃国に強烈な張り手をかましていたのは、千代の富士の 指示だったようです。最初の1発はたまたまうまく決まって倒れてしまった ようですが、そのあとからは千代の富士から張り手1発につき50万円の金を貰い、 大乃国戦に勝てば祝儀も出たと板井が話してくれたことがあります。 板井は千代の富士との対戦成績が0勝16敗で、完全に軍門に降っていましたが、 大乃国とは8勝8敗で天敵ぶりが評価されていたようです。もちろん序ノ口から 十両までを5場所で通過という最短記録保持者であるという実力に加え、 花乃潮(8勝3敗)や大錦(7勝1敗)などのガチンコに強く、小錦、 霧島などの大物食いが気に入られ、注射の中盆役にピッタリだと 思われていたようです。
 最後は千代の富士とはうまくいかなくなってしまったようです。太刀持ちを しても金をくれないとか言って、その頃から大乃国を張らなくなりましたね。 千代の富士はもともと嫌いな力士だと、板井の方では言っていましたからね」
 大乃国が千代の富士をはじめ、多くの力士からあまりにもイジメられていたのが 気になり、 私は弟子の一人に聞いたことがある。その弟子が言うには 「大乃国は十両時代に注射をやっていたのに、入幕と同時にいい子になって しまったのが、注射力士たちには気に入らないんだ」ということだった。 それで千代の富士が、「大乃国には挨拶するな」と号令を出したりして、 支度部屋でもみんなに無視されるようになった。  
 そのワガママ千代の富士の割りを一番くったのが、元横綱・双羽黒(北尾)だ。 一度も優勝しないまま、不祥事で廃業してプロレスに転向していった不運な 男である。しかし、この男の運命を変えたのも国民栄誉賞横綱・千代の富士 だったはず。
 板井が動くということは、私たちの弟子が動くわけで、その動きというのは ちょっと調べればすぐにわかった。当時はあえて聞かなかったが、後で弟子たちに 聞くと驚くべきことばかりだった。 双羽黒は、昭和59年に入幕してから昭和62年に廃業するまでの20場所で、 何度かあった優勝のチャンスも、千代の富士の貪欲な優勝への執念に よって阻止されてしまった。
 私の部屋の力士から聞いた話だが、当時北尾だった双羽黒は、三役に 上がる頃は千代の富士に連勝するなど、五分に渡り合っていた。しかし そういう力を切り崩すのがうまいのが千代の富士だ。 双羽黒は横綱昇進のかかった場所(昭和61年名古屋場所)で、千代の富士から、 「横綱に昇進させてやるから優勝させてくれ」と持ちかけられた。
 双羽黒がこれを飲んで、成立した本割りでは双羽黒が千代の富士を破り、 14勝1敗で決定戦に持ち込んだが、優勝は計算通り千代の富士 ということになった。

■橋本成一郎氏の証言 「その前の場所(昭和61年夏場所)では千代の富士と2敗同士の相星で 対戦しましたが、その場所では優勝を譲れといってきた千代の富士に対し、 双羽黒が『俺にも優勝させてくれ・・』といって話がもつれ、ガチンコで 対戦したら千代の富士に負けてしまったのです。だから次の場所は 千代の富士のいいなりだったと、板井の付け人が言っていました」
 この場所の後、計画通り双羽黒は横綱に昇進している。その後も 61年九州場所では2敗同士の相星決選で負け。62年初場所では千代の富士に 勝って千秋楽で追いついたが、決定戦で負け。62年の九州場所でも1敗で 全勝の千代の富士と対戦したが負けている。
 これらはすべて千代の富士サイドにうまくいい含められて、板井が動いた 結果のこと。星買い取りの値段は1000万円だったと聞いている。
 千代の富士はとにかく優勝回数を重ねたかった。「20回優勝すれば シコ名で一代年寄を襲名できるから」というのが本人の口癖で、 「うちの横綱はあまり先がないんだから・・・・」という手も 千代の富士サイドがよく使ったと若い者から聞いている。そういう話を聞くたびに、 昔一緒に注射をした仲間だった親方たちと、「まるで大鵬みたいだな。 そういうことをしていると引退してからソッポを向かれるよ」と話したのを 覚えている。
 私たちが現役の頃は、とにかく大鵬が貪欲に優勝回数をかき集めていた。 そのときに割りを食ったのは玉の海だった。当時はるかに力が 上だった玉の海も、同門の先輩の顔ばかり立てているうちに 横綱在位中に死亡してしまった。
 旭富士が2場所連続優勝をして横綱昇進を決めたとき(平成2年名古屋 場所)、板井と逆鉾の指示でうちの若衆がかなり激しく動いた。両国、 久島海、安芸乃島、栃乃和歌ぐらいがガチンコで、残りは全部注射に 走ったという。
 1場所で1500万円は使っていたと、私のところの若衆が 驚いていたこともあった。1番高かったのは千秋楽で、千代の富士に 勝った1番で、2000万円だったと聞いている。
 優勝のかかった一番では、優勝は横綱より大関にとって値打ちがある というのを千代の富士は知っていた。大関は優勝が横綱昇進に直結 していくから、どうしても高く買いにくる。
 
■橋本成一郎氏の証言 「この一番は興味があったので、板井や若衆に細かく聞いて知っています。 板井が、『千代の富士は商売がうまい』と言っていました。旭富士が 連続優勝を飾ったことのきは、旭富士が絶対に買いに来るというのを 見越して、千代の富士が1000万円で先に買いに行ったんです。旭富士は 相手が1000万円でと言っているのに、自分が同じ額というわけには いかない。それで多少の色をつけたところ、千代の富士が 『倍なら転んでやる』というので、結局は2000万円で転んでもらったと 聞いています。金額をいってきたものは値切って、それがダメなら断る。 そして、実力でねじ伏せます。それが損だと思えば、値切りに 応じなければなりません。板井が、『力と金のあるヤツには勝てない』と ボヤいていたことがありました」  

 千代の富士の下では付け人の峰の富士、西の富士、岩の富士というのが 動いていたが、この弟子たちは口がうまかったといわれている。断られても、 「そこをなんとかお願いします。今場所優勝させてくれたら来場所は そっちのもの・・」といっておき、来場所が来たらまた同じセリフをいった ともいう。断ってガチンコで挑んで負けて、次から千代の富士のいいなりに なるというケースもよく聞く。あるいは、同じ部屋の北勝海の星で 場所内に星を返すということで、相手に納得してもらう ということもしていたようだ。

■橋本成一郎氏の証言 「北勝海は注射が嫌いだったといいますが、千代の富士に利用され、 地位が上がっていくに従って、その地位を維持するためには注射を するしかなくなってしまったという話を若衆から聞いたことがあります」
 彼らが私の部屋の若衆に話していたのは、千代の富士は関脇から 大関に上がる時点で、当時出演したコマーシャルで儲けた金を 貯め込んでいたという話だ。祝儀もタニマチから1場所に何百万円も 集まるし、懸賞金も沢山あった。高砂一門はタニマチが派手で、 優勝したときの祝儀が多く、優勝賞金も含めて最低5000万円には なるといわれていた。
 千代の富士の時代になると、注射をするからといって素人に金を 借りたりするようなことはしない。いくらなんでも、北の富士のように 図々しいのは少ない。北の富士は橋本さんのようなタニマチがいて 金を出してもらっていたし、その上注射相撲まで仕切って金を 手に入れていたのだからとんでもないことだ。
 ただ、当時輪島のように、優勝するための資金を暴力団から借りる ような強者がいたことも事実だ。
 昭和53年の名古屋場所。優勝するために資金が必要だということで、 輪島は暴力団から金を借りた。ところがそれを遊興費に使ってしまって 優勝できなかったという、相撲界では有名な事件がある。
 ガチンコでもなんとかなると思っていたわけだが、北の湖が全勝で 突っ走ってしまったために、結局優勝できなかった。
 金を返せとまでは言われなかったが、暴力団からこっぴどくやられた という話は聞いている。そんな事件もあり、橋本さんのような外部の タニマチを巻き込むのは望ましくないということで、だんだん自分たちの 若衆を走らせて、自分で金を準備するようになった。しかし、このような 国民栄誉賞横綱である人物が、注射で現金を巻き上げていたというのは、 まったく困ったことだ。
 板井が橋本さんに、「プロにこのような賞をあげてはいけない」と いった気持ちが理解できるというもの。
 あれだけ優勝に対して貪欲な千代の富士が、大鵬の優勝回数32回に あと1回と迫りながら断念したのは、そういった協会内の空気を察知した からである。大鵬の20回以降の優勝が注射で積み重ねたものだとすれば、 千代の富士の優勝は関脇での初優勝からすべて注射で作られたものだ。
 師匠の北の富士を彷彿させるような戦績である。親を見れば子が わかるというが、私が板井に何も言えなかったように、北の富士も 千代の富士には何も言えなかったのだろう。
 しかし、その千代の富士と北の富士も最後は金のことで決裂した。  
 私たちの前で、いつも北の富がボヤいていた。陣幕と九重との 年寄名跡の交換で、北の富士は部屋ごと大きな金で買い取らせようと したが、千代の富士から、「俺のお陰でここまで大きくなれたんだろう・・」 というようなことまでいわれたといい、北の富士は怒っていた。
 一晩話し合って出た結果が5000万円だったそうだ。平成4年4月に交換した。 北の富士としては横綱(北勝海)付きのつもりだったが、千代の富士の力の お陰で綱をはっていた北勝海は、後ろ盾を失ってしまい平成4年夏場所前に 引退してしまった。陣幕に名義を書換え、九重の名義を 高く売りたかった北の富士は、計算が狂ったことになるが、 安く買い叩いた千代の富士としては計算通りだったのだ。
 北の富士は5000万円のうち3000万円を祝儀で叩き返してやったと 言っていた。その後、陣幕は北勝海が平成5年9月に独立して興した八角部屋に、 九重部屋付きの君ケ濱、谷川、錦戸ら他の親方連中とともに移籍した。
 長年付け人としてがんばってきた峰ノ富士も部屋を去り、結局は 独りぼっちになってしまった国民栄誉賞横綱。
 現在の千代の富士は、大鵬があまりに欲張りすぎて親方連中の人気をなくして 孤立していったのに似ている。
 同じ八百長をしていても、決定戦で3勝5敗(千代の富士は6勝0敗)の北の湖は 人気があって、将来の理事長候補とまでいわれている。
 さらに、最強の外国人力士といわれていた小錦も、この千代の富士の 注射地獄に潰されていった力士の一人。協会の外国人力士排除の動きも手伝って、 不運の大関・小錦は転落の道を歩んで行った

◆リンク先ではもっと先も立ち読みできるが、とりあえずここまで。
      

 



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