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世の中で起こっている数多くの出来事の中からいくつかの事実を集めてきて一つの傾向やそこに通底している性向を見いだすことを編集という。
目障りな部分を全て切り捨てて、見た目が綺麗な部分だけを集めてきて一つの主張や傾向に誘導する編集技術のことは宣伝という。 それは一面の真実なのであるが、世の中は原因ではなく、それによって起こされた現象で動いているから、見た目を真実としても実用上は問題ないのである。 庵主は、世の中の構造は一枚の紙のように裏表で成り立っていると見ているから、それは真実の片面だということである。 宣伝は美しい方の一面である。編集の技は裏面を暴き出すときに威力を発揮する。 本当は、映画のセットのように、裏面の汚い部分を見ない方がいい気持になれるのであるが、裏面で何が起こっているかを知ることは面白いのである。好奇心が疼くところである。 普段は目にはいってこないその部分を見通すのが編集の技である。 集められた一つひとつの事実がすでにだれもが知っていることであったとしても、それを編集することによって何が起こっているのかという真実が浮かび上がってくるのである。 その一つを上に掲げておいた。 こうして並べてあると、現在の日本の教育がけっして国民の資質の向上を目指しているのではなく、その逆に劣化させることが目的だということがありありと見えてくるのである。 その正体は、すでに利権を手に入れた人達が自分達の既得利権を守ろうとするあがきなのである。 自分だけお利口でも、周りにいる人が馬鹿ばかりだとしたら、どこが面白いのだろうかということである。それはきっとつまらない世界だと庵主は思うから、その手の考え方をする人には馴染めないのである。 とくに教育課程審議会の会長だったとある三浦朱門氏はたしか、曽野綾子氏の夫で二人ともちゃきちゃきのキリスト教徒だと思ったが、一神教徒の教養の限界を見る思いがする。一神教の人は他人を支配したがる傾向が強いようである。志が低いのである。もし教徒でなかったとしたら、日本のインテリの限界だと言い換えれば間違いはないだろう。 その程度の精神しか持ち合わせていない人が現在の日本を指導しているということである。残念なことである。 若い人達は食い物にされているということに気付くべきなのだが、思えば歴史はいつもそうだったのである。 早く気がつかないと、いつまでも食われっばなしだということである。 |